青いまなざしを
創立32年の朝

英国国際教育研究所
所長 図師照幸

 ここ数日、ロンドンの空は青い。毎日見つめる樹木は確かに、若々しい緑葉を身にまとい始めた。コロナ禍で、瞬く間に一年が過ぎた。昨年の2月末からずっと、家に籠った。この一年の間に、知人が死に、家族の何人かがベッドに伏した。ぼくは、だからといってむろん、何もできない。
 研究所は満32歳、振り返ると不覚にも涙があふれる。未熟な者の、自己陶酔の涙だ。けれども、〈ああ、楽しかったなあ〉〈うれしかったなあ〉といった思い出は、苦しく、悲しい思い出に負けないほどあるように思う。

 最近、ある有名なフランス料理のシェフの番組をよく視る。ぼくより一歳若い彼は、日本を代表するシェフで、数多くの世界的な賞を受賞している。彼のレストランにはかつて、一度だけ行ったことがあったが、その人物については全く知らなかった。その一流のシェフが、家庭でできる料理を伝授するという番組だ。番組というのかな、自分で作った映像をYouTubeに載せているのだ。丸々と太り、年老いた彼は、決して面白くない冗談をはにかみながら放ち、どこにでもあるスーパーから買ってきたどこにでもある材料を使って、瞬く間にさまざまな料理を仕上げていく。時々、料理を皿からこぼしたりもしながら。中卒の彼は素材の入った袋の漢字が読めなくて困った表情も浮かべる。あたたかく、柔らかな空気が流れる。
 彼は北海道の貧しい漁村に生まれ、高校に行きたかったのだが、家が貧しかったので札幌の米屋さんに住み込んで夜間の料理学校に通う。食べ物屋さんに就職すれば食べていくことはできるだろうと考えたのだ。しかしながら、この料理との出会いが彼の人生を変えることになる。彼は見学で訪れた札幌グランドホテルの厨房に隠れ、何とか雇ってくれと直談判する。グランドホテルの料理が最高だと聞いた彼は、最高のものと出会いたいと願ったのだ。懸命に修業を積んだ彼が耳にしたのは、東京の帝国ホテルにこそ料理の神様がいるということだった。神様に会いたいと思った彼は、グランドホテルを辞めて、帝国ホテルのレストランに何とか、下働きで潜り込む。何年もの間、皿洗いや鍋磨きをした彼はしかし、もう駄目だと思い、帝国を去ろうと決意する。去る前に、帝国のすべてのレストランの鍋磨きを自分にやらせて欲しいと頼み込み、それを終えたら故郷の漁村に帰ろうと思うのだった。鍋磨きに打ち込むある日、帝国の神様がスイスに行って修行をして来いと勧める。そのあと、フランスのミシュランの星を誇る数々の有名店で修業を積んだ彼は、何年かののちに帰国する。すぐに自分の店を立ち上げ、自分でなければできないフランス料理を追求する。      
 その頃の、つまり若いころの、独立して自分の店を持ったころの映像をつい最近、視た。彼は瘦せていて、ギラギラした、挑むようなまなざしを周りに向けていた。始めたばかりのレストランの厨房で彼は、スタッフを怒鳴りちらし、苛立っていた。
 ぼくは、殴られたような衝撃を受けた。そうなのだと思った。その夜ぼくは、いつまでも寝つかれなかった。

 ぼくはぼくの道を歩もう。教育のあるべき姿を少しずつでも求めて歩こう。32年前のぼくは、深夜零時のビッグベンを見ながら、たった一人で武者震いをしていたではないか。今もなお詩を書き続けているぼくは、その世界と教育の世界を無理やり分けて呼吸する必要などなかったのだ。友はいる。宝物のような教え子たちもいる。恥ずかしい未熟さはそのまま、さらけ出すしかない。深夜徘徊した朔太郎のように、風景の中で静かな呼吸をした道造のように、あるいは、狂人のまなざしを持った中也のように。

 32周年を迎える今、支えとなってくれたすべての人に、心からの〈ありがとう〉を。

(2021.04.03)


注 目 イ ベ ン ト

2021.3.5
ネットで視聴!日本語教師養成課程講座説明・公開講義
公開講義・ことばのセミナー「教えるための言語分析の視点」
開催日程・お申込みはこちら
2020.8.20
表面張力 ― ことばと教育から現代社会を考える<第3回>
8月15日(土) 対談 教育の現在
ゲスト:浪本勝年立正大学名誉教授/日本教育政策学会元会長 x ホスト:図師照幸英国国際教育研究所所長
Youtubeでご覧いただけます。
2020.4.20
表面張力 ― ことばと教育から現代社会を考える<第2回>
4月17日(金) 対談 小学校英語教育と言語習得
ゲスト:若林茂則中央大学教授 x ホスト:図師照幸英国国際教育研究所所長
Youtubeでご覧いただけます。
2020.4.10
表面張力 ― ことばと教育から現代社会を考える<第1回>
(ロンドンと世界をつなぐオンライン・フォーラム)
4月7日(火) 対談 コロナウイルスと教育①
ゲスト:若林茂則中央大学教授 x ホスト:図師照幸英国国際教育研究所所長
Youtubeでご覧いただけます。

N e w s & I n f o r m a t i o n

2021.4.3
英国国際教育研究所は4月3日に創立32周年を迎えました。これからも心を込めた一歩を踏みしめながら歩んでいきます。
2021.3.30
オンラインコース実施中 英国内外からの受講が可能です。

Certificate課程週二回コース 2021年4月21日開講

●日本語教育実習コース(こどもに教える日本語)

学習者は英国の中高生

A日程 2021年4月17日~6月12日 毎週土曜日(9日間)

B日程 2021年6月19日~8月14日 毎週土曜日(9日間)

LinkIcon日本語教育実習コース(young learners対象)

Certificate課程週二回コース 2021年6月28日開講

2021年4月9日開講(毎週金曜日)

2021年5月6日開講(毎週木曜日)

2021年4月6日~9日

2021.2.14
2021年夏期集中コース
児童英語教師Certificate課程 8月9日~28日

日本で児童英語教育に携わっている先生方を対象としたセミナー

8月2日~6日

日本語教師のための英語 8月2日~27日
2021.2.14

自宅にてマイペースで学習

毎月1日または15日からスタート

活 動 一 覧



London College of Education, Graduate School(LCE-GS)

日本語教師養成課程・児童英語教師養成課程を開講しています。



London Language Centre

英国政府国際文化交流機関The British Council認定の英語講座、外国語としての日本語講座を開講しています。



こどもの未来研究室

教育の原点ともいうべき子どもたちの教育について研究や実践活動を行っています。



日本語教育協議会
日英の教育と文化に関する研究協議会

言語学・言語教育や国際教育等に関する研究団体・学会の本部です。



国際教育講演会
国際教育シンポジウム

国際教育に関する講演会を英国及び日本で開催しています。



国際言語教育賞(伊藤克敏賞)

言語教育の世界で地道に活動し、その実績を挙げている個人・団体を対象としています。



英国の公的試験センター

英国の統一試験であるGCSEやGCE-Aレベルを実施する国の公的試験センターです。



英国留学サポートセンター

大学、小・中・高校、専門学校、語学学校等への留学をサポートします。



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連載コラム


図師照幸の日本語を歩く298
左党

送別会は続いている。吉田先生とハイタニ教授が東京を去るのである。とびきりの善人で、心優しいみんなは、情に厚い者たちでもある。短足組の組長、下やんがポツリ、「あ、あの、なんだな、やっぱり、……」。奥さんの前では絶対的に愛妻家であるNくんが、「ええ、そりゃあ、……」。日本一の保育園の園長の大くんも、「…ッス」。そうなのだ、みんななんとなくさみしいのだ。そして、その言葉を口にするのが照れ臭い。「そ、それにしてもだなあ、こんなにみんな大酒呑みとはだなあ」と吉田先生。「ええ、左党結集、といったところでしょうか」とハイタニ教授。「みんな知ってると思うけれども、あのロンドンの先生の吞みかたといったらものすごかったんだぞ。開店したばかりの小さな小料理屋さんで店にあるすべてのビールを飲み干し、それから店を変えてウイスキーを一人で一本空け、そのあと気分を変えようとワイン屋に行き数本空けるといった具合で、一緒に飲むとあくる日は間違いなく激しい二日酔いで……」と吉田先生が懐かしそうに話す。「英国の先生宅を訪ねた向井先生という、ロンドンの先生にとって大切な友人が、日曜日は朝からワインのボトルが空くというので、一緒に行っていた奥さんが、こんな人と付き合っていて大丈夫か、うちの夫はと心配されたそうだよ」と下やん。「Mよ(Nが正しいのだけれど)、おまえだって、先生には鍛えられただろ?」と吉田先生。「いやあ、そりゃあ、ぼくの親があの先生のもとでは肝臓がボロボロになるんじゃないかと心配して、近くの神社にお参りをしていたようです」「いや先生も結構あくる日、お酒が残っていることもあって、授業にやって来て、<今日は自習>といって、教壇の椅子に腰かけて、バケツをトイレから持ってこさせて、ゲーッと吐いて、それをぼく、トイレに捨てに行かされたこと、ありました」とハイタニ教授。「いやいや、もっとすごいのがだな、……」話はどんどん過激になる。ロンドンの先生はそういったことはもちろんなく、極めて静かに嗜むほどしかお酒は飲まない。それにしても、この左党のすさまじい呑みかたはいつまで続くのだろうか。*左党=「(酒杯は左手に持つからとも、また鉱山で、左を鑿(のみ)手、右を鎚(つち)手というのに起こるともいう)酒を好み飲む」人たちのこと(広辞苑)。(2021.4.11)


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