濫觴(らんしょう)

 この言葉の意味は、「物事の始まり。物事の起こり。起源」といったものである。
 「濫」は「あふれる」、「觴」は「杯(さかずき)」の意。揚子江のような大河でも、その源は杯(觴)にあふれるほどの、つまりはささやかな水であるという意。
 「孔子曰ハク、昔者、江ハ岷山ヨリ出ヅ。ソノ始メテ出ヅルヤ、ソノ源ハ以テ觴ニ濫ルル可シ。」(『荀子・子道』)が出典。

 この NEWSLETTER [濫觴]は、英国国際教育研究所で学ぶ皆さんへのささやかな、けれども真摯なメッセージとなって、教育や学問の世界での新しい宇宙を創造しようとする皆さんの磁場となるように創刊されたものです。
 既成の価値観に踊らされる事なく、一杯の水を、清く澄んだ水を、皆さんとともに、照れることなく、汲み続けていこうと思っています。

(図師照幸)



No.194 優しい時間 夢の途中(81)

優しい時間 夢の途中(81)


 花が見たい。春先ならば、むろん水仙だ。北へ行く列車の中でぼくは、ふと、そう思った。その〈ふと〉は、まさしく脈絡のないところに浮かんできた純然たる、ふと、である。そして、季節はもう秋になろうとしている。

 シートに取り付けられた大きなテーブルには、もう残り少なくなったハーフサイズの赤ワインとプラスチックのグラス、年季の入った革製のカバーをかぶせた文庫本、それに金縁の眼鏡がのっている。そうだ、最近気に入って愛用しているコクヨのペンシルと消しゴムも。ペンシルの芯は1.3mmの極太である。
 列車はスコットランドに向かっている。
 疲れたな、と思ったぼくは、黒い手提げ鞄に必要なのか不必要なのかよくわからないものを放り込むと、ロンドン・ユーストン駅の窓口でエディンバラ行きの切符を買った。夏の終わりの土曜の夕方である。
 駅構内の店で飲み物を買うと、ためらうことなく列車に飛び乗った。幸い空(す)いていた。

 車窓から眺める景色は睡魔を運んできて、ぼくはすぐに眠った。深い闇の奥に引きずり込まれるように、しかし目覚めて腕時計を見るとほんの10分ほどしか経っていなかった。
 鞄から文庫本を出し、グラスにワインを半分ほど注いで、読み始める。するとまた、眠くなるのだ。腕を組み、背もたれに寄りかかってウトウトする。浅い眠りだ。けれども、ぼくは夢の中で泣いていた。

 少年のぼくは泣いていた。
 ぼくはいつからぼくなのだろう、と少年はずっと考えている。
 どうしてぼくは、自分の目からしかものが見えないのだろう。ぼくが感じたり、思ったり、考えたりすることはすべて、ぼくという人間の中で生まれ、様々な形に変わり、時にそれは暴れまわり、疲れて横たわり、完結する。それが不思議でならない。
 ぼくが〈生きる〉ということにはどのような意味があるのだろうか。
 少年は父親と母親を心から尊敬し、その両親の大きな愛に抱かれながら育つ。兄姉も優しく、みんな豊かな知性を持っていた。けれども、母が、父が死に、兄が死んだ。大切な、かけがえのない人たちが次々と消えていった。それらの人たちは、いったい何のためにいたのか。ぼくの人生の一時期に存在した者たちは、一時期のためにだけ配置された風景にすぎないのだろうか。

 いつのまにか通路を挟んだ反対側の座席に、赤子を抱いた女性がいる。生後6か月ぐらいだろうか、つぶらな瞳の女の子だ。女性とよく似ていて、とても可愛い。白い、手編みと思われる柔らかそうな毛糸の服を着ている。
 赤子と目が合う。微笑む。微笑む自分をぼくは見ている。見えないのだが、確かに見ている。
 赤子はじっとぼくを見つめている。女性が気付く。ぼくを見る。ぼくは微笑む。女性も微笑む。
 視線を外し、のどかな外の風景を眺める。

 鞄からノートを出して、ペンシルで三角形を描く。いくつもの円を交差させて、一つため息をつく。
 数多くの牛が見える。
 運河が見え、細長いボートがのんびりと動いている。

 どうしても、どうしても逃れることのできないまなざしが、ぼくを捉える。
随分生きたようだが、それほどでもないような気もする。面白いことに、平均寿命というものから計算すると、これからそれほどの時間が残っているわけではない。その残っている時間と同じ時間で、ぼくは何もしてこなかったではないか。
 平均寿命? ああ、ぼくには関係のない数値だった。
 さて、エディンバラに着いたらどうしようか。そうだね、その程度にしか、ぼくは先々のことを考えずに生きてきたのだった。いや、その時々にはもっともらしい理屈、時には論理というものがあったようにも思う。けれども、いずれにしても大したものではなかったのだ。
 いつだったか、ホテルを予約しないでエディンバラに着いたことがあった。寒い冬だ。タクシーに乗り込むと、「一番いいホテルまで」といって連れて行ってもらった。大変な額の宿泊代を払わされたが、ホテルの名前さえ覚えていない。
 いや、一晩中歩き回って、朝一番でロンドンに戻ろう。列車の中の優しい時間をすぐにもう一度味わいたい。ぼんやりとした眠りの中で、少しだけお酒を飲みながら、人を愛そうとする時間を静かに過ごしたい。



No.193 教育原論 安らぎと違和感と 夢の途中(80)

教育原論 安らぎと違和感と 夢の途中(80)


  6月後半から7月にかけて日本に出張した。
 暑い。夏の日本はできるだけ避けたいと思っているのだが、様々なスケジュールの調整からこうなった。もっとも、ぼくが仕事を終え、7月の始めにロンドンに戻ったあとの日本は、暑い、とかいった生易しい気象ではなく、豪雨と酷暑に喘いでいる。数多くの亡くなられた人たちのことや、被害に遭われた人たちのことを思うと、たまらなくなる。日本という国の季節や風景が、間違いなく変化しているように感じる。変化しているというのではなく、破壊されてきているというべきかもしれない。

 わずか2週間の出張ではあったが、仕事の合間に懐かしい友人や教え子たちと会うことができた。
 70代後半の友人夫妻は、昔と変わらず優しかった。今も若者相手に教鞭をとりながら、研究も続けている。さらには、平和運動にも精力的に打ち込んでいる。
 50代前半の教え子たちは、それぞれが所属する組織の中で、必死で生きている。もがき苦しんでもいるのだろうが、会うことができた者たちのまなざしはみんな、素直で、真面目で、そして柔らかかった。
 30代や40代の教え子たちも、会っている5、6時間の間、あれもこれも話したい、聞いてほしいというように、自分の取り組んでいる教育について熱っぽく語り、聞かせてくれた。「どんなにまわりがおかしくても、負けずに、教育のあるべき姿に打ち込みます」と宣言するそのことばに、油断すると涙が出そうになって困った。
 70、80代の詩人たちも、ぼくを囲んでくれた。優れた詩作品を発表し続ける詩人たちのまなざしは鋭く、かつ優しい。
 愛すべき者たちに囲まれながら、幸せだなあと感謝しながら、もっともっと頑張らねばと自分を叱咤した。日本の初夏の暑さがぼくを励ましたのだ。

 ロンドンに戻り、研究所に出勤する朝の電車の中で、あるネット記事を読んだ。

 7月14日、新幹線のグリーン車に乗車中にツイッターを更新。
 前の席のクソ野郎がおれが寛いでいるのにもかかわらず一々「席を倒していいですか?とか聞いてきやがる。ウゼエ。勝手に倒せや。そうやって何でもかんでも保険かけようとすんなボケ(堀江貴文・ホリエモン・45)

 後ろの席の人に迷惑をかけてはいけないと声をかけたことで、このように罵倒されなければならないとはどういうことなのだろうか。この堀江貴文なる人物についてはいろいろな話題となった男であるから、名前ぐらいは知っていた。この男のこの発言にぼくは、正直言って憤りを覚えた。この男のことばの汚さは、このように公けにさらされるべきものではないと感じた。ツイッターなるものは、「読んでくれ」というものだろうから、きっと誇らしげに書いているのだろう。
 このような言葉を操る男をテレビやラジオ、雑誌等は面白おかしく持ち上げる。調子に乗ったこの愚かな男がさらに暴走する。それにつられて一緒に走り出す者たちが少なからずいるのだそうだ。同じような言葉遣いをすることがカッコイイとでも思うのだろうか。
 いや、この男に限らない。同じ日のネット記事には大阪府知事、大阪市長を歴任し、今またタレントとしてテレビ等に出ている橋本徹という男のツイッターの同種のことばづかいが載っていた。彼の罪はもっと重く、公職にある当時も、この種の恥ずかしい言葉遣いをさも誇らしげにばらまいていたのである。しかも彼は、大阪府や、大阪市の教育改革を政治活動のPRの柱の一つに謳いあげていたのである。
 メディアの罪も重い。この、チンピラともいえる男どもの、チンピラ風のことばづかいを商品として垂れ流しているのである。なぜ商品になるかと言えば、この男たちが、知事や市長、IT資産家という、社会的地位を持っているからである。つまり、そのような者たちが、チンピラ風のことばづかいをするのが面白いからである。
 しかし、大衆も気づかなければならない。この男たちがチンピラ風のことばづかいをしているのではないことに。この男たちはただの、そして純粋なチンピラなのである。そのことに気づけば、朝であろうが、昼、夜であろうが、チンピラのことばを敢えてありがたくテレビで聞こうとは思わないだろう。ただのチンピラが、テレビで話しているだけなのだから。
 そして、これらの種類の男たちを遣うメディアの連中もまた、あるいはもっといやしい種類の人間たちなのである。
 驚くことに、このホリエモンなる男がこの度、「高校」を創設し、若者の教育に関わることにしたと報じられている。

 喘ぐ自然の中で、安らぎと違和感を覚えている。



No.192 教育原論 父と子 夢の途中(79)

教育原論 父と子 夢の途中(79)


 およそ35年も前の教え子の息子が訪ねてきた。教え子というのは日本で教鞭をとっていた頃の教え子である。その若者は日本のある国立大学の歯学部に在籍しているという。柔道をやっているとかで、がっしりとした体格の好青年である。むろん初めて会うのだが、人のよさそうな表情に教え子の面影を見る。
 「先生、息子を先生に会わせたかったんです。会ってもらえませんか」というメールが届いたのだったが、これまでも昔の教え子の娘や息子たちが時折、ロンドンのぼくを訪ねて来ていた。
 その度にぼくは、〈懐かしさ〉を覚えるのだ。教え子たちの子どもを通して、かつての自分に再会するような〈ときめき〉を覚えるのだ。だから、子どもたちにとってはあまり興味がないであろう昔話を、ぼくはワインを飲みながら長々と話すことになる。

 その頃、ぼくは長髪だった。今はもう、わずかな時間ですべての髪の毛の数を数えることができるのではないかという荒廃ぶりであるが。長身のぼくはさらに背が高く見えるほどに痩せていた。痩せてはいたが、しっかりと筋肉を身にまとい、腕相撲や100メートル走ではだれにも負けないぞと片っ端から戦いを挑んだり、ジャンプ力を誇ってみせたりもした。
 ユリイカや現代詩手帖といった月刊の詩誌を愛読し、近現代の詩人たちの詩集を分析的に読み込んだ。群像や文学界といった文芸誌を読むと、この新人作家は芥川賞を、あるいは直木賞を取るだろうと予測してみせ、それがその通りとなっても、関心はもう新たな作家の作品に向かっていた。
 権威といわれる学者、研究者たちの論文を実感が持てるかどうか、納得できるかどうか、自分のことばに置き換えながら読んでいった。名前の大きさに比してつまらないなあと思ったり、論理の明快さに感動したり。
 ボーナスのほとんどは本代に消えた。わずかばかりの印税収入も浴びるほど飲んでいた酒代に飛んで行った。

 そして、教え子たちとの出会いである。ぼくは彼らを徹底的に愛した。今思い出しても素直に、瞼が熱くなるほどに。
 おそらくぼくは、彼らとの出会いによって、教育のあるべき姿について考えるようになったのではないかと思う。
むろん、未熟で、稚拙で、独りよがりで、傲慢で、この種のことばをいくら並べても足りないほどに、ぼくは情けない青年だった。力のなさを認識しながら、それを補い、成長させようとする努力の姿勢も十分ではなかった。けれども自分自身は、必死で努力していると思っていたのだ、その時は。
 彼らはしかし、みずみずしいまなざしで、まっすぐにぼくと向き合った。そうなのだ。彼らはぼくを〈先生〉と呼んだ。〈ぼくたちはあなたを先生と呼び、あなたをじっと見つめます〉と、〈さあ、ぼくたちに教えてください。ぼくたちは何のために学ぶのですか。ぼくたちは何を学んだらいいのですか〉と彼らは毎日、ぼくに語り掛けた。ぼくはその時、何を彼らに教えようとしたのだろうか。

 訪ねてきた青年は、不思議なほどにぼくのことを知っていた。自分の父親の友人たちのことも詳しく知っていた。幼い頃からくりかえし、くりかえし、話を聞いていたんです、と彼は笑った。
 父親がわが子に、自分が子どもや青年であった頃のことを話し聞かせる風景は何とも幸せである。先生や友達のことを話すときの父親はとってもうれしそうなんです、と青年は言う。そして、とても誇らしげなんです、とも言う。
ぼくはワインのグラスを手にとって、口に持って行かずにテーブルに置く。もう一度グラスを手に取ると、しかしやっぱり飲まずにテーブルに戻す。
 急に降り出した雨が、激しく窓ガラスをたたく。窓の外には、小走りに走っていく男や女の姿が見える。今、目に映ったばかりの彼らの服装の色が思い出せない。
 ぼくの40年ほどの教師生活は、いつ終わるのだろう。
 ぼくの父は結局、死ぬまで教育者だった。ぼくが幼い頃から父は、教育者としての生きざまをぼくに見せ続けた。生活のすべてが、〈先生〉だった。ぼくはその父の姿を誇りに思って生きてきた。
 ぼくは、いつか〈先生〉を卒業するのだろうか。
大学の教員をしている息子がある日、ぼくに送ってくれたEmailをプリントアウトして、ぼくは小さな布袋に入れてお守りとしていつも持っている。ぼくがある日曜日の午後、突然倒れて、救急車で大学病院に運ばれたとき、彼が送ってくれたものだ。
 ……I just wanted to say that your health and happiness are the most important things for all of us. The biggest worry in my life is your health. Even before Sunday, I had been worrying a lot about it. In fact, I worry about it every day. Remember that we all need you to be well so we can share our lives with you. And my son needs his Jiji to play with and learn from many, many more years to come! ……

 青年はぼくとの写真を撮ると、FBで日本の父親に送った。


No.191 続・29年目の春 まなざし 夢の途中(78)

続・29年目の春 まなざし 夢の途中(78)


 四国のある国立大学で講演をした時のことだ。講演を終え、その大学の副学長が、大きな会場に集まった学生たちや教授たちの前でお礼のことばを言ってくれた。彼は言った、「図師先生が書かれているものをいろいろと読むと、たびたび〈まなざし〉ということばが登場する。先生が大切にされていることばであることがわかる」と。講演に先立ち、ぼくの大量の拙い文章を読み込んでくれた彼に驚くとともに、頬の赤らむのを覚えた。
 確かにそうだな、と思う。このことばを用いるときぼくは、その文脈の中で、違和感を覚えることはない。ことばに違和感を持つといつまでも気になってしまうぼくは、話しことばの際も話しながら自分のことば遣いをモニターしながら話すようになっている。
 いつからこのことばを遣うようになったのだろうか。おそらく自分の考えを文章によって書き表したり、人前で講演のような形で話すようになったりしてからではないか。つまり、ものを見つめるということのあり方について生意気に発言するようになってからではないか。
 けれどもそれは、ぼく自分の〈まなざし〉について述べたものではない。こうでなければならないと発言するぼくは、自分自身に向ける〈まなざし〉には気持ちの悪いほどの甘さがある。いや、ぼくの〈まなざし〉自体が厳しく問われなければならないのだ。

 29歳になった研究所は、純粋に教育の可能性を追い求めてきた。研究所が誕生した時から今に至るまでを思い返すと、目頭が熱くなる。既存の価値観や権威、権力といったものに屈することなく、研究所は胸を張って走ってきた。
 ことばの教育がどのように位置づけられなければならないかと真剣に考えた。朝も昼も夜も、考え続けた。歩きながら、電車の中で。サンドイッチを頬張りながら、酒を飲みながら。
 ことばの教育を担う教師はどうでなければならないか。外国語を学ぶとは何か。教えるとはどういうことか。
 日本の大学教授や臨床心理士たちで作る研究会から頼まれて不登校の子どもたちを預かったものの、その子どもたちがホームステイ先に帰って来ず、夜中の1時や2時に研究所にスタッフを集めてみんなで対策を考えた。
 「自分も他の学生たちと同じように外国に行ってみたい」と希望する全盲の大学生を受け入れた。語学留学をどこも受け入れてくれないと相談を受けたのだ。
 学校におけるいじめ問題にも取り組んだ。ロンドン大学のピーター・スミス教授に基調講演をしてもらい、国際シンポジウムを開催した。日本からも大学教授たちが参加した。
 心を病んだ学生が英国の警察や病院の世話になった。日本ですでに発症しており、親によって外国に捨てられた青年だった。ぼくたちは、深夜に走り回った。
 日本の政府関係の機関が何のために外国に存在しているのかという疑問をぼくたちは強く感じた。「何もしないのがいいんです。何かして失敗すると今後に響きますから」と平気で言う役人にぼくたちは背を向けた。「違法とはわかっているが、娘を学生として入国させてくれないか」と厚顔にも相談してくる高級官僚もいた。そういった者たちに、周りの弱い者たちはひたすら頭を下げて取り入ろうとした。権力にすり寄った。公僕たる者たちは実は村社会の代官であったのだ。経験した数々の事例は昨今の劣化しつつある日本社会をさもありなんと悲しい確信に導く。
 日本の大学がはたして高等教育機関としての確かな教育理念を持っているのかという疑いもぼくたちはたびたび持った。大学の教員の中には、学生の教育にはまったく情熱を持っていない者たちも少なくなかった。自分の学生を、若者を馬鹿にしていた。
 けれども、未開発諸国、発展途上国の子どもたちの教育に携わりたいと入学してくる若者も少しずつ表れ始めた。劣悪な環境の中で、現地の子どもたちにあたたかいまなざしを向ける卒業生もいるのだ。
 銀行で働く青年が、いろいろな経験を積んだ後は自分の故郷に戻って、海外の人たちをたくさん招き入れて、もう一度新しい日本を作る仕事がしたいと語ることもあった。そのために研究所で学びたいと入学してきた。
 社会人として長い間働き、一つの区切りをつけた人が、新たな生を求めて歩み始める姿にはたびたび出会った。生きるということは何だろうと静かに考えながら、柔らかな表情に包まれたその人のまなざしは光を放っていた。

 ぼくはもう一度、自分の顔を鏡に映してみよう。ぼくは、研究所は、はるか遠くの青い空を見つめているか。そのまなざしは、曇りなく、輝いているか。
 負けてはいないか。教育のあるべき姿を求めようとしているか。新しく、豊かな可能性を信じているか。
 これまでは助走にすぎない。まだまだ、「夢の途中」なのだ。

No.190 29年目の春 はじけても、もう一度 夢の途中(77)

29年目の春 はじけても、もう一度 夢の途中(77)

 日本にいるころ、行きつけの酒場があった。和製英語で言うならばスタンドバーという種類の、10人ぐらいしか入れない、カウンターだけの小さな店だ。だからいつもいっぱいで、けれども店に顔を出すと、他のお客さんを追い出しても、何とか入れてくれるのだった。名を「ダック」といった。
 ぼくなんかよりずっと年上のママさんがいて、同じくらいの年齢の女性がいて、ぼくと同じくらいの年齢の若い女性もいた。つまり3人いたのだ。カウンターの中に3人も入れば身動きができないぐらいの狭さだった。
 ぼくはたいてい、教員仲間と、つまりは男2、3人で通った。たまに、女性スタッフが加わることもあった。客はみんな常連で、ぼくより若い人は見かけなかった。ぼくよりみんな、ずっと年上だった。
 通い始めたころはカラオケなどというものはなく、みんな大いに語り合うのだった。けれども、職場の愚痴をこぼす人はあまりいなかった。そういえばいったい何を話していたのだろう。
 ある晩、公務員をしている人が、「実は、頼みがある」と真剣な面持ちで話し始めた。「娘を嫁にもらってくれないか」というのである。彼はいろいろとぼくが会ったこともない娘の長所を並べ立てた。ママが慌てて言う、「先生はもう結婚されているのよ」と。
 一番若かったぼくだったが、いろいろな人たちの様々な相談を受けた。的確なアドヴァイスなどできなかったが、じっくりと時間をかけて話を聞くことはできた。
 しばらくすると、カラオケがその店にも出現した。今のような画面に歌詞や動画が現れるといったものではなく、伴奏だけが流れるのである。分厚い歌詞カードを見ながら歌う極めて原始的なものだ。年配の人たちはみんなうまかった。むろん、ほとんどは演歌である。テレビをほとんど見なかったぼくは、彼らが歌うのを聞いて流行りの歌を知るのだった。軍歌を歌う人も何人かいた。
 ぼくは、10年近くもそこに通った。
 そのバーが主催して、日曜日にお花見に行ったこともあった。ぼくは子どもたちを連れて行ったのだったが、バーの女性や、常連さんの奥さんやお嬢さんたちが幼い子どもの面倒を見てくれた。
 店が閉まるまで飲んだ時は、ママが家までタクシーで送ってくれた。タクシーの中で彼女は時々、いろいろな悩みを口にした。ああ、懸命に生きているんだなあ、とぼくは、あまりに未熟な自分を叱咤した。
 みんな優しかった。どうしてだったのだろう。ぼくが店に顔を出すと、「あ、先生、ここ、ここ、ここにおいでよ」と時には自分の座っていた席を譲って、自分は立ったまま飲もうとしたり。
 そんなみんなが「先生、みんなで何かやろうよ」と言い出した。「じゃあ、ぼくが脚本を書くから、みんなでお芝居をやろう」と提案した。みんな驚いた。大変な歓声が上がった。
 芝居の題名は「シャボン玉、飛んだ」と決めた。

   シャボン玉飛んだ  屋根まで飛んだ
   屋根まで飛んで  こわれて消えた
   風 風 吹くな シャボン玉飛ばそ

   シャボン玉消えた 飛ばずに消えた
   生まれてすぐに こわれて消えた
   風 風 吹くな シャボン玉飛ばそ

 野口雨情作詞・中山晋平作曲の童謡である。この歌が好きだった。けれども、それはできなかった。ぼくが英国に行くことになったからである。みんな寂しそうだった。ダックで開かれた送別会の夜、「シャボン玉、やりたかったなあ」と彼らは言った。
 10年前、つまり日本を離れて20年が経ったころだ。店を訪ねたぼくは、大きくなって、きれいになったダックに戸惑った。もちろんスタッフも、ママも変わっていた。時が流れたんだなあ、とぼくが静かにカウンターでウイスキーを飲んでいるとドアが開き、年老いた女性が現れた。
 「先生、お帰りなさい」
 昔のダックのママだった。今のママが、電話をかけたのだという。どうしてわかったのだろう。ぼくは名乗ってはいない。今のママが引き継ぐときに写真を渡し、この人が店に来たら電話をしてくれと頼んでいたのだという。20代の青年の頃の写真でよくわかったものだと驚きながら、小さくなったママを抱きしめた。
 椅子に腰かけ、ぼくは年老いた彼女と静かにウイスキーを飲んだ。「シャボン玉、やりたかったねえ。みんなずっとその話をしながら先生の思い出話をしていたんだよ」と彼女は言った。
 そうなのだ。
 はじけたシャボン玉を、もう一度飛ばさなければ、と思う。もう一度、青い空に向けて、シャボン玉を飛ばそう。
 研究所はこの4月に29歳になる。来年は30歳だ。まだまだ若い。これまでは助走にすぎない。まだ、「夢の途中」なのだ。

No.189 教育原論Ⅰ 教師(9) 夢の途中(76)

教育原論Ⅰ 教師(9) 夢の途中(76)


 2月に日本に出張し、東京、福岡、大阪と移動した。大阪で仕事を終えたある日の夕刻、3人の友人と会った。ぼくのホテルのすぐそばにホテルを取って、わざわざ東京からやってきてくれた東京学芸大学教授のM先生、同じくホテルを取ってやってきてくれた広島・尾道市立大学教授のH先生、それに数日前の東京にも会いにきてくれた高知大学名誉教授で、今は京都大学で教えているW先生である。

 数日前にアメリカ出張から帰ったばかりのM先生が、教員の労働状況の改善について話し始める。日本での最近の話題である。教育行政や学校制度が専門の彼の表情は穏やかだが、その論の展開は鋭い。
 たしかに、日本の学校の先生たちはとても忙しい。授業(教科指導)だけをしていればいいわけではない。特に小学校や中学校の先生たちの一日は大変である。子どもが学校にいる間のすべてに関わり、加えて、家庭やそのほかの空間における子どもの生活にもいろいろと関わらなくてはならない。
 要求の際立つ保護者のことを、ある教育評論家は「モンスターペアレント」と名付け、テレビドラマになるほどに話題となった。親が子どものことに必死になるのは当たり前であり、それをこのことばでひとくくりにカテゴライズするのは乱暴な話であるが、度の過ぎる親たちが多くなったのはたしかである。さらに、その親たちの顔色をうかがうような教育委員会の存在が、この問題を大きくし、複雑化させ、つまりは現場の教員を困憊させた。
 クラブ活動等の指導も、教員の時間を奪っている。運動関係の顧問や監督、コーチになると、土曜や日曜日も、あるいは夏休みなどの長期休暇も休むことができなくなる。もともと体育系の教員ならともかく、たまたま割り当てられた教員にとっては物理的にも、精神的にも負担が大きい。
 一般の会社などの、他の社会とは大きく異なった空間で、教員たちは常に、全力疾走が強いられている。
 そこで、労働条件を見直そうという機運である。このことはぜひ取り組むべきだと強く思う。強く思うのだが、労働時間が厳密に規定され、その他の時間は一切解放されるというのは、たとえば一般の会社員のような、あるいは役所の公務員のような、とたとえたほうがよいのかもしれないが、教員の仕事を、そのような仕事として本当に位置づけることができるのだろうか、とぼくは懐疑的だ。
 一日の仕事を、ある時間が来たらさっさと引き出しの中にしまって帰宅するというようなことは、教員には難しいのではないか。古いといわれるかもしれないが、教員の勤務時間の規定や厳密化というものは実際的にそぐわないのではないかと思っている。朝の教員同士の打ち合わせ、朝礼のようなものを済ませたら、教員に時間の管理と仕事への取り組み方は任せてもいいように思う。
 可能であれば、日によっては早く帰宅して自宅で教材研究等に取り組むのもいいだろう。どうしても学校に残ってやりたいことがあれば、夜の10時や11時になってもいいのではないか。気になる児童や生徒、学生と、あるいは保護者と、土曜や日曜日に語り合うのもいいし、夏休みの3週間や一月を海外で過ごすのもいいだろう。途中、学校を抜け出して、美術館に足を運び絵画を鑑賞してくるのもいい。
 もし、先生が学校にいない時に子どもたちに何かあったらどうするのか、といった心配も当然あるだろう。そのために、教員数を増やすのである。少なくとも今の2倍の教員で、教育現場を受け持つのだ。つまり、一つのクラスに二人や三人を配置する。 
 とても経済的に成り立たない、非現実的だ、という嘲笑が聞こえてきそうだが、そうだろうか。現在の日本の国の予算は適切に組まれているだろうか。とても必要とは思われない兵器を、実は防衛については何もわからない素人大臣が、米国から大量に購入したり、いわゆる箱モノと言われる贅沢な建築物を次々と建築たりして、結果的にあるいは意図的に、限られた者たちに富を集中させているではないか。真摯に見直せば十分に教育の改善に税金の配分ができるだろう。首相はたびたび外国を訪れ、まるで自分のお金のように大盤振る舞いして、その結果、それらの国から大歓迎をされる自分に酔っているではないか。
 まずは、教師と児童、生徒、学生が向き合うその場を豊かにしなければならない。まずは、教師に豊かな感性と優れた知性を持たせることだ。教科書の代わりにタブレットを持たせ、スマートボードなる電子黒板を配置する前に、子どもたちを見つめる教師の豊かなまなざしを教室に置くのだ。
 優れた教師を養成するのがまず、重要なのである。
 先生と呼ばれる信頼できる人間が、全身で、ぼくを見ている。私の明日を一緒に考えようとしてくれている。子どもたちが、そう感じる空間を創出するために、政治は、教育行政は何をしなければならないかとまず、考えてみなければならない。


No.188 教育原論Ⅰ 教師(8) 夢の途中(75)

教育原論Ⅰ 教師(8) 夢の途中(75)


 幼いころ、ぼくは泣き虫だった。いや、実際はそうではなかったと思うのだが、「てるてるぼうず、てるぼうず」という囃子(はやし)で、からかわれた覚えがある。ぼくの名前が「てるゆき」だからそう囃したのだろう。「あした、天気にしておくれ」と続き、雨が降っているから(泣いているから)早く止んでおくれよ、というのである。なかなかうまい揶揄(からか)いかたである。いじめられていたわけではない。だれもが、なんらかのこの種の遊びの対象とは少なからずなっていた。
 今は本当に、涙もろい。小説を読んでいても、ドラマを見ていても、すぐに涙があふれてしまうのだ。必死で生きている人の姿を描いたものや優しい心が描かれたものに触れると心が動き、単純な話であってもつい、涙があふれる。そういったフィクションの世界だけでなく、シリアやソマリアなどの国の難民の苦悩をテレビの映像で見ると、嗚咽(おえつ)してしまいそうになることもある。学生の卒業式のあいさつのことばを聞いていても、油断すると危ない。歳を取るとだれでもそうなるのかもしれないが。
 できるだけ優しい人間になりたいと、よく思う。毎朝のように電車の中で決意するのだが、帰りの電車の中ではひとり、自分を責めている。むろん、この優しさの意味は、若い時に比べると少しは変化し、成長したようにも思う。いや、そのようになれたというのではなく、なりたい姿の表情が変わってきたと思うのだ。優しくありたいといっても、どのようなかたちが優しさなのか。
 ぼくは今、優しさとは大切な人を抱きしめる力だと思っている。この「抱きしめる」とは、実に難しい。抱きしめるためには当然ながら、その人を心から愛さなければならない。この「愛する」ということがまた、難しいのだ。何を青臭いことを言っているんだ、老人のくせしてと笑われそうだが、おそらく誰もが、よくわからないのではないか。
 いつだったか、日本に出張した際、日本の大学の教授たちと卒業生(教え子)たちが、10数人集まってくれた。居酒屋で談笑するうちに、ぼくの目の前に座っていた女性の卒業生が「早く結婚したいなあ」と言い出した。「それは不純だね」とぼくが言う。「どうしてですか」とむきになる卒業生に、「結婚というのは間違いなく不純だとぼくは思うんだ。だって、一種の契約を結ぶんだよね、愛している人と。自分の愛情に自信があるのなら、そういった契約などでお互いを縛り合う必要などないんじゃないかな。さあ始めようというときに、〈念のための契約〉を結ぶなんておかしくないか?」「永遠の愛を誓うんだからいいじゃないですか」
 「永遠の愛は契約によって保障されなければならないものなのだろうか。そんなものは必要なかったんだよ、昔は。社会というものが進歩するようになってね、いろいろな規則のようなものでお互いを縛り合っていくことになる」
 これはつまらぬ論争のための論争にすぎぬ、もう止めようと話しながら思っていると、隣に座っていたやはり女性の大学教授が「図師先生のおっしゃる通りですよ。まったくその通りです」と力強く頷いた。
 ぼくの言っていることは今も正論だとは思う。けれども、いつも正しいことが良いことであるとは限らない。幼い頃から理屈っぽかったぼくのことを母は、随分心配していたようだ。この子は論理というもののために息苦しい人生を送るのではないかと。学生運動が盛んな時期には特に心配していたようだ。
 ぼくの長男と次男にはそれぞれパートナーと子どもがいて、幸せに暮らしている。二人とも結婚はしないと宣言している。結婚という形式にとらわれたくないというのである。これから先どのような生き方をしていくのか、もちろんぼくにはわからないが、幸せのかたちがいろいろあってもいいではないかとは思うのだ。 
 教師論にこの話題を取り上げたのは、先生という人たちが児童や生徒、学生といった者たちに向き合うとき、もちろん専門とする知識や技術が優れていなければならないのは当然であるが、人間が人間と向き合って学ぶ場において、教える人間と学ぶ人間との、言わば〈生きる〉ということについての捉え方というものの闘いのようなものがあるように思うのだ。闘いは、幼い幼児においてさえ意識されている。この保母さんの疲れたまなざしは何なのだろうか、この先生はどうしてあの子に対してだけ優しくて私には優しくしてくれないのか、この教授の大切にしているものはいったい何だというのか、そんなに数字が大切なのか、そんなに有名な会社に就職することが誇らしいことなのか、ボーイフレンドが工事現場で働いていてはいけないのか。こういった闘いはもちろん、友達間や、親子の間でも繰り広げられる。そのほとんどは無言で、愛想笑いなどを浮かべながら。
 教師には、できるならば青空を思いきり突き抜けるぐらいの自由なまなざしがほしいと、ぼくは思う。既成の様々な束縛から解き放たれているような、こんな人が世の中にいたらちょっと困るけど、でもとても楽しくなるような、そういった伸びやかさがほしいと思う。そうでなければ、うんと背伸びしようとする、学ぼうとする者たちを抱きしめることはできないのだ。



No.187 教育原論Ⅰ 教師(7) 夢の途中(74)

教育原論Ⅰ 教師(7) 夢の途中(74)

 少年院で行われた成人式のレポートを読んだ。認定特定非営利活動法人育て上げネット理事長の工藤啓さんの文章である。少年院とは「家庭裁判所から保護処分として送致されたものを収容するための施設」をいい、2015年6月施行の現行少年院法(新法)によれば、4種類に区分して、概ね12歳から26歳までの者を収容し、社会生活に適応させるための矯正教育を行う。念のために言えば、少年刑務所などとはその定義が全く異なる(参考:Wikipedia)。
 社会に適応できず、様々な問題を起こし、いろいろな人に迷惑をかけた若者たちがそこで暮らしている。迷惑をかけられ、危害を被った人たちにとっては、許せぬ存在に違いない。けれども、その者たちの立ち直る可能性を信じて設けられている機関である。
 ぼくには加害者と被害者の気持ちを理解する力などむろん、ない。ただ、ぼくたちの生きている社会が、若者の幼い過ちを何とか受け止めてやろうとする姿勢を持っていることには、拙い感傷なのかもしれないが、きっとそうだろうが、被害者から見れば許せないに違いないが、ホッとするのだ。ぼくが被害者であれば、おそらく許せないだろうと、自分の身勝手さは自覚している。
 その少年院にも成人する若者たちがいる。その者たちのために、成人式が催される。彼らは「背筋を伸ばして座っている。スマホを眺める者も私語をする者もいない」。一人ずつ壇上に立ち、深いお辞儀をして、1、2分程度のあいさつをする。「贖罪」「後悔」「反省」「謝罪」といったことばが、「自覚」「仁徳」「感謝」「健全」「責任」などということばにつながれる。「親孝行します」「幸せにします」「もう二度と悲しませません」という彼らのことばを聞く参列した親たちは、涙を流し、天井を見上げる。
 家族から新成人に書かれた手紙が代読される。「親の事情でつらい思いをさせてごめんね。あなたが生まれてきてくれて良かった。かわいいあなたがいてくれて本当に良かった。自分の可能性を信じて、あきらめないでいてほしい。母はずっと、あなたの味方です」などと書かれている。新成人も親たちも鼻をすすり、嗚咽する。
 だが、新成人の数に比して、参列している親たち家族の数は明らかに少ない。少年たちの非行や罪の背後には、複雑な家庭事情と社会背景がある。
 かつて成人式は1月15日だった。今日は14日だから、ちょっと前までは明日が成人式かと思いながら、ぼくはこの工藤さんのレポートを読む。日曜の朝、緩くなった涙腺に慌てる。
 人間は決して強くない。たびたび躓いては転ぶ。擦り傷程度の痛みならば、照れ笑いでごまかすことだってできるだろう。けれども、生きる間ずっと背負わなければならない傷を抱えながら若者は、確かに明日を見つめることができるのだろうか。

 新しい年を迎えた。1月1日の朝は特別である。今日が昨日につながっていることは承知しながらも、正月の朝は新しい空気に満ち溢れていなければならない。昨日までのそれと明らかに異なっていなければならない。
 教師はおそらく、この朝の、新鮮な空気を常に感じることのできる人間でなければならないと思う。つまり、児童や生徒、学生たちと向き合うとき、彼らが体や顔のところどころに漂わせている昨日までの〈失敗〉を一旦、引き出しの中にきれいに整理してしまいこみ、全く新しい紙と鉛筆を渡してやりたい。
 さあ、この新しい紙に、君の明日を書いてごらん。いやいや、昨日までのことは気にしなくてもいいから、思い切り明日のことを考えてみようじゃないか。うん、明日食べたいものを書いたっていいさ、会いたい人の名前を書くのだっていい、そうとも、行きたいところについて調べてね、そうそう、どうやったら行けるかなと考えてみる、うん、うん、そりゃあお金がかかるかもしれないなあ、でもお金のことはちょっとの間忘れてさ、なんとかなるさって、そうそう楽天的にね、えッ、お月さまのところに行きたいって、そうだなあ、遠いなあ、行けるといいなあ、お月さまのところに行って何をしたいの、あ、そうなのか、お月さまに立って、地球を見たいのか、すてきだねえ、そうだよ、行ったことのある人だっているんだから、ほんとだよ、そして帰ってきたんだ、ぼくたちの星に。君は? お母さんの脚を治してあげたいって? そうか、左の脚が不自由なのか、お医者さんになるのか、いいねえ、でも大変なんだぞ、お医者さんって。わかってるって?
 たくさん勉強するんだ。あなたは? そうですか、こどものころいじめたともだちに謝ってまわりたいんですか、そうですか、そうですか。ええ、次はあなたですよ、順番からいっても、寂しそうな人の背中をいつまでもさすっていてあげたいって、うーん、あなたには寂しそうな人がわかるんですね。最後に、あなたです。病室のベッドに横たわって周りのみんなに迷惑ばかり掛けているので何にもできないけれど、残された時間、できるだけ微笑んでいたいんです。
 ぼくたちは新しい空気を思いっきり吸い込むことができる。



No.186 もう一度 夢の途中(73)

もう一度 夢の途中(73)

 師走というのは、確かに他の月とは違う。2、3倍の勢いで駆け抜けていく。そのことは、時間というものが実は、一見冷たい厳格性を持っているかのように思われるが、極めて主観的な基準としてわれわれ人間社会に存在していることの証である。
 何を馬鹿なことをと笑われるかもしれないが、科学というものはつまり、そういった曖昧で、我儘な感性に支配されている。写真よりも似顔絵の方が〈その人〉を描くことができ、ピカソのキュビズムが具象を超えて迫力ある真実を表現するのもそういうことだ。心のありようで、見ているものの形や色、質感や体温や味が異なるのである。

 しばらくすると、2017年が死に、2018年が生まれる。時は繰り返されることはない。同じ季節や時がやってくることは決してない。時は、生まれた瞬間に死んでいくのだ。〈今〉は瞬時に〈過去〉になる。

 2018年をぼくは、本当に全く新しい思いで迎えたいと思っている。教育の世界で呼吸をして、およそ40年が過ぎた。新年からの数年間でぼくは、時間をかけて、いろいろなことを、可能性も含めて丁寧に整理してみたいと思っている。数多くの人たちとの出会いについても、そのほとんどが詫びることから始めなければならないが、心からのお礼の挨拶をしたい。

 ぼくは今、大量の段ボールで埋まった倉庫を少しずつ片付けている。遅々として進まず、その意味では困っているが、ぼくにとっては貴重なものがたくさん出てきて、それらを手に取り、様々な思い出をかみしめている。不覚にも涙が手の甲に落ちたりもする。ぼくが中学生の頃の成績通知表なども見つかった。数十年も前に定期購読をしていた岩波書店の月刊誌「文学」に突然、ぼくの名前を見つけた時の驚きや喜びも、暗い倉庫の中で蘇った。如何に未熟であったかがよくわかる古い写真の中の自分の表情に、いまさらながら赤面する。
 過去を振り返ることが今のぼくにとってどのような意味を持つのか、新たな意欲や勇気を与えてくれるのか。
そういったものを見つめながらぼくは、数多くの人たちに支えられてきた自分の幸運に、素直に感謝する。そうなのだ、ぼくは素直になることができるようにはなったのだと思う。若かったぼくは特に、自分よりずっと歳を取った先輩たちにかわいがっても らった。我儘や生意気を大きな笑顔で受け止めてもらった。こんなことがしたいと言えば、周りの誰かがすぐにお膳立てを整えてくれた。ぼくはすべての中心にいて、やりたいようにやらせてもらった。自分には才能や力があるのだとイイ気になっていた。けれども、それらのほとんどは、数多くの人たちによって見えないところで半ば成し遂げられており、光の当たるところにぼくが座っていただけのことであった。

 ぼくはもう一度始めようと思うのだ。60代半ばとなったぼくでなければできない新しい一歩を踏み出そうと思っている。まだまだぼくは、十分すぎるほど若いのだから。
 小説「虹の岬」で谷崎賞などを受賞した詩人の辻井喬さん(本名、堤清二。セゾングループ創始者。2013年 11月25日、86歳で没)と東京の本郷で、ワインを飲みながら数時間語り合った。その時70代の彼はぼくに、「ぼくはこれから、こんなことに挑戦しようと思っている」と夢を語って聞かせてくれた。ぼくは心が震えるのを感じた。
数多くの世界に意欲的に挑戦し、活躍を続ける世界的実業家、ヴァージングループ代表のリチャード・ブランソン卿もまた、彼の自宅にぼくを招いて、はるか遠くをじっと見据えながら、夢を語った。ぼくより数歳年上の彼は、ぼくの肩を抱き、教育の世界は君がやるんだと、ロンドンの大きなホテルでたくさんの聴衆を前にして言ってくれた。思い出すだけで、ぼくは自分の無力に恥ずかしくなる。

 心静かに新年を迎えよう。たぎるような情熱を抱きながら。それを恥ずかしいと思うことなく、照れたりしないで、ぼくはもう一度、新たな一歩を踏み出そうと思う。
 そうなのだ、ぼくたちは何度でも始めることができる。どこからやってきて、どこにいくのかがわからないぼくたちは、さらにいつからぼくはぼくになったのかさえ分からないぼくたちは、しかしながら、今を生きることはできる。今につながる明日を見つめようとすることはできる。明日を見つめる今を大切にすることはできるのだ。
 新年は、もう一度始めようと決意するためにあるのである。できれば、さわやかで、あたたかい、確かな一歩を踏み出したいと、強く思っている。(今回は、「教育原論」は休んだ。次号から再開の予定である)

No.185 教育原論Ⅰ 教師(6) 夢の途中(72)

教育原論Ⅰ 教師(6) 夢の途中(72)

 英国は冬時間になった。朝はなかなか明るくならず、夕刻は暗くなるのが早くなった。だからと言って、一日が短くなるわけではない。明るい時間が短くなる代わりに、暗く思索を強いる時間は長くなる。
 帰りの電車の中でぼくは、窓に映る自分の顔を見つめながら、深いため息をつく。小学生のころから、逃れることのできない〈自分〉というもののまなざしに息苦しさを覚えていたように思う。それから逃れようとしてぼくは時に、呼吸することを止めようとした。虚ろな現実が、真実を語る文学や音楽や絵画の世界に冷たく否定されていることをぼくは、はるか昔から識っていた。そうなのだ。ぼくが今、呼吸しているこの時空は虚構にすぎない。

 教育論や教師論などと仰々しい言い回しで書き続けているたとえばこの拙文も、大学生や教師たちに講演といった形で語ることばも、それを終えた数分後にはぼくを打ちのめそうとして襲いかかってくる。つまりぼくは、生きようとして実は、自らの精神に致命的な攻撃を繰り返しているのだ、極めて自虐的に。
 ぼくに教育を語る資格があるのだろうか。ぼくは〈先生〉と呼ばれるべき人間なのか。そういった思いに車窓に映るぼくはいつも、震えているではないか。

 ぼくが尊敬してきた〈先生〉たちはどのように、自分というものと向き合ってきたのだろうか。
 例えば、父である。
 父が父として、そしてまた教育者として優れていたということをぼくは疑わない。ぼくが物心ついた幼い頃から父を慕ったいろいろな教師たちが我が家には集まり、ぼくの目の前で教育論を闘わしていた様はぼくの原体験と言っていい。碁を打ちながらぼくが通っていた学校の教頭先生に教育について語る父の姿はたまらなくカッコよかった。静かなことばには力があった。そしてそれこそがぼくの父であった。教育者として偉大な彼は、故に父であった。
 父と交わした会話はいつも、世界平和についてであり、自衛隊の法的根拠であり、自然環境保護であり、人としてどう生きるかといった一般論であり、彼が育てていた庭の植物の学名であった。 
 ぼくは父の弱さを知らない。父の悩みを聞いたことはない。彼は死ぬときでさえ、「これでお別れだね」と、ぼくにはそう静かに一言言っただけだった。
 彼は何を吸って、何を吐いていたのだろう。ぼくのように、弱いため息をついたりはしなかったのか。いや、それを確かめようとは思わない。そのことに意味を見出したりはしないだろうから。

 ぼくの仕事は教育である。人が生きるということと仕事とがどのような関係で位置付けられるのかという問いを、ぼくはぼく自身に向けたことはかつて一度もない。娘が最近、「パパはリタイアしたら何をするの」と聞いたが、「パパはリタイアしないんだよ。ずっと仕事を続けるんだよ。パパは生活やお金のためにだけお仕事をしているのではないから」と答えた。うん、そのことばに、嘘はない。だが、自分の未熟な今を見つめると、ため息をつく以外にできることがないのだ。

 教師とは何だろう、先生って何なんだ、ということを書こうとしたこの拙文においてぼくは、とりとめのないことを書き続けている。それでいいとも半ば開き直ってもいる。
 少しだけ教育に必死になって打ち込んできた人間が、随分歳を取ってもなお、立ち尽くしているということを文字に残すのはそれほど悪いことではあるまい。
 ぼくもまた、ぼくの子どもたちと話すトピックは、「学ぶとはどういうことか」とか、「これからの人類にとって何が大切なのか」とか、「仕事の意味」とか、「戦争と平和」とか、そういったことばかりであって、子どもたちが話題にすることもまた、そのようなものなのだ。それはどうやらおかしいことらしく、先日日本に行った際に一緒に酒を飲んだ友人の大学教授があきれていた。きっとそうなのだろう。そういったことはやや珍しいのだろう。
 だが、ぼくは思うのだ。教師であることが、おそらく父親であることを支えているのかもしれないと。あるいは、父親であるために教師でありたいと思っているのかもしれない。そして、そういったことはどうでもいいことであるようにも、やはりとても大切なことであるようにも思えるのだ。
 ぼくはため息を、少し深くため息をつく。それは決して美しい風景ではない。ただ、そうしているうちはまだ、ぼくは逃げ出したりはしないのだ。〈先生〉でありたいと願うぼくは、しかしながら車窓に映った顔を見ながら、冬を感じさせる寒さの中で、必死で、そう必死で、自分に語り掛けるのだ。逃れることのできない自分に向かって、未熟なままでは情けないではないか、と。




No.184 教育原論Ⅰ 教師(5) 夢の途中(71)

教育原論Ⅰ 教師(5) 夢の途中(71)


 カズオ・イシグロが今年のノーベル文学賞に選ばれた。随分前から候補になっており、いつかは受賞するのだろうと思っていた。両親は日本人だったから彼も元々は日本人である。九州の長崎で生まれ、6歳の時に父親の仕事の都合で英国にやってきた。
 イシグロはそれからずっと、英国の教育を受けて育つ。その彼が初めて英国に移り住んだ時のことをぼくは、自分の子どもたちと重ね合わせて想うのだ。ぼくの子どもたちは数日後に6歳になる長男、年子(としご)の4歳の次男、2歳の長女の三人だった。つまり、全くイシグロと同じ境遇で彼らは英国で暮らし始めた。
 英国で数年暮らし始めたある日、ぼくは長男が英語で書いた作文を読むことになる。
 「ぼくは悲しかった。どうしてぼくたちは友だちやおじいちゃん、おばあちゃんたちと別れて、イギリスという国に行かなければならないのだろう。ぼくの弟は飛行機に乗る前に泣いた、〈いやだッ〉と大声で叫んだ。妹は両手で顔を覆った。ぼくも泣きたかった。でも、ぼくはお兄ちゃんだ。ぼくが泣くと、パパやママはきっと困るだろう。ぼくは必死で我慢した」
 英語ということばの存在も全く知らなかった子どもたちは、英国に着くとすぐ、今まで日本人を受け入れたことがない現地の学校に放り込まれた。何か月もの間彼らは、ことばを使うことのできない、クラスメートが何を言っているのかが理解できない学校生活を送ることになる。
 子どもたちを受け入れてくれた学校の先生たちのことを考える。大変だっただろうなあと思う。子どもたちもつらかったと思うが、休むことなく、学校に通う。
 子どもたちは日本にいるときは、家の近くの私立幼稚園に通っていた。つい先日、その頃の、幼稚園と保護者との間の「連絡帳」が出てきた。次男の連絡帳に、その頃の担任の先生がコメントしている。
 「今月は大分欠席が少なくなりましたが、まだ他のお子さんと比べると多いです。この前、朝の時間に、〈みんなでお歌を歌いましょう。何の歌がいいですか〉と訊くと、陽くん(次男)が手を挙げて、〈お帰りの歌〉と言いました。悲しかったです」
 つい笑ったが、先生は大変だっただろうと思う。そういえば、ぼくも小学校の1、2年生の頃の3学期は概ね不登校を繰り返した。2学期が終わり、冬休みになり、クリスマスやお正月といった楽しいイベントがあって、こたつの上にはミカンがあった。わざわざ寒い道を歩いて学校に通うことは億劫だった。いじめられていたわけでもなく、学校の先生たちのことも好きだったし、ぼくはクラスのリーダーだったし、成績もよかった。が、少し疲れていた。ぼくが休んでも、教育者の父も、そして母も怒らなかった。学校の先生もそうだった。家でぼくは父親が買ってきてくれる本ばかり読んでいた。
 学校には毎日きちんと行くのがいいのだろう。けれども、なぜいいのかと訊ねられたら、どのように応えたらよいのだろうか。
 ぼくはたっぷりの愛情で両親や家族に愛され、学校の先生たちにも抱きしめられていた。〈甘え〉や〈甘やかし〉といった言葉で片付けられるかもしれないが、父は厳しい人であったし、先生方にも尊敬の念を抱いていた。矛盾しているように思われるかもしれないが、子どもだって疲れるのだ。それを周りの大人たちが抱きしめてくれた、そう思うのだ。ぼくは次第に学校を休むことはなくなった。
 ぼくの幸運は、周りの大人たちの、学校の先生たちの大きさに包まれていたことだ。ぼくの子どもたちは英国で、のびのびと呼吸を始める。ことばの障壁は10か月足らずでなくなり、しばらくすると長男にも次男にもたくさんの友達ができた。何よりうれしかったのは、友達の喜びを自分のことのように喜ぶことができる〈知性〉を手に入れていったことである。人の不幸をひそかに喜んだり、人の幸福を妬んだり、ひがんだりするような醜さとは無縁だった。このことがぼくにはたまらない喜びだった。
 イシグロはどのようにこの英国に溶け込んでいったのだろうか。どのような苦労をしただろうか。周りの大人たちは彼にどのように向き合ったのだろうか。いつか機会があれば訊いてみたいと思う。
 先生をはじめとした知的な大人のあたたかさや大きさは、たとえば学科の成績では表せない子どもの成長に大きな力を与えることだろう。だから、ぼくたち、教育の世界で呼吸する者は、自らの〈知性のありか〉について、〈知性のかたち〉について、もう一度考えてみる必要があるだろう。自分の専門とする領域においても、知識や分析力・研究力、教育力などといったものがすべて、確かで豊かな人間性に支えられているものでなければ、つまりは意味を持たないのだと認識しなくてはならない。
 ところで、「将来自分は大統領になりたい」と、研究所の教育実習が行われる女子校の生徒だったイシグロの娘は、習ったばかりの日本語表現を使ってそう言った。残念なことに、英国は大統領制ではないので彼女はなることができない。(続く)



No.183 教育原論Ⅰ 教師(4) 夢の途中(70)

教育原論Ⅰ 教師(4) 夢の途中(70)


 先生の右手の親指と人差し指、それに中指のペンだこ辺りから、それらはいつも、真っ赤だった。赤インクで染まっていた。
 佐土原泰恵先生(漢字に間違いがあるかもしれない)は、ぼくが小学5年生の時の担任だった。

 ぼくが通った小学校は丘の上の城跡にできた学校で、大きな石垣に囲まれたすばらしい環境だった。山田洋次監督の映画「フーテンの寅さん」の舞台になったこともある。ポーツマス条約の小村寿太郎を産んだ城下町は美しく、その小学校と中学校の子どもたちはみんな、登下校ですれ違う人に、町の人にも観光客にも、「おはようございます」「こんにちは」ときちんと挨拶をする。そのことを、その市に招かれて講演(小村寿太郎記念講演)をした折に市長さんに話すと、「私たちの誇りです。全国の教育に関する協議会で表彰されました」とのことだった。

 その小学校の6年間、ご指導をいただいた担任の先生方もその他の先生方もみんな素晴らしい先生方であったが、ぼくの記憶の中で、佐土原先生の赤く染まった指は特に印象に残っている。
 先生に提出した作文や日記にはいつも、先生から赤いインクで書き込まれたコメントがびっしりと埋まっていた。今のように30数名の児童数ではなく、50名近くの児童の担任だったのではないか。毎日のように出される課題に、閉口した覚えはぼくにはない。けれども、先生はおそらく、寝る時間を削って毎晩、子どもたちの拙い作文に赤いインクで書き込んでいったのだろう。
 何歳だったのだろうか、その頃の先生は。20代の半ばから後半だったのだろうか。お子さんがいたようにも記憶しているが、定かではない。とにかく先生は懸命に、ぼくたちの教育に打ち込んでいた。その必死さが、ぼくには赤く染まった指とともに思い出される。きっと、多くのものを犠牲にしながら、本当に全力で教育というものに生きておられた。
 だからぼくは、安心して、先生の創る豊かな「子どもの世界」で呼吸することができた。つまり、確かに小学生の時間を過ごすことができたように思うのだ。
 子どもたちが先生というものに望むのは、いったい何だろうか。ぼくは「成長を続ける大人の姿」ではないかと思っている。先生が完璧な人間であってほしいとは思わない。優れた人であってほしいとは思うが、「優れた人」が完璧な人であるとは思わないのだ。先生も悩むに違いない、躓(つまず)くに違いない、失敗することだってあるだろう、と小学校の高学年ぐらいになれば思うのだ。けれどもそれをごまかしたり、うやむやにしたりはしないで、真摯に、まっすぐにそれらを乗り越えようと努力している姿に、つまりは成長を続けている人の姿に、ぼくたちは「先生」ということばを冠したいのだ。すごいなあ、と思うのだ。
 佐土原先生にどのような悩みや苦しみがあったのかはもちろんぼくは知らない。しかし、先生の指の赤い色にぼくは、素直に頭(こうべ)を垂れなければならない尊さを感じていたのだった。
 教員の労働時間等について、日本では今、もう少し改善しなければ、といったことが話し合われているようだ。その通りだと思う。先生たちの仕事はとても厳しい。勤務時間はあって無いに等しい。特に小学校の先生や、保育園や幼稚園の先生たちは過酷な労働に耐えている。
 かつて、学力低下が話題になった際、メディアに乗ってスター的な存在になった東京大学・大学院の教授が講演をした後、「週休二日にしたのは先生たちが楽をしたいからではないか。だから学力が低下したのだ」という会場の経済人からの指摘を受けて、「その通りです」と愛敬を振りまいた。ぼくはその発言に反論し、その有名教授を論破した。
 「もともと週何時間といった基準に、学力と結び付けた科学的根拠はなく、また、土曜日に時間が生まれたからと言って先生たちが遊び惚けているわけではなく、意識的な先生たちは研鑽に励み、あるいは、遊んだからと言って、そのことが悪いわけではなく、とにかく詰め込めといった発想で教育を語ってはいけない」と。
 先生という仕事は、それほどたやすく時間で区切ることはできない。勤務時間以外で授業研究や教材分析、その他の幅広く深い基礎研究など、あるいは児童、生徒、学生といった個人の、つまりは一人ひとりの人間とじっくりと向き合う必要もある。教育が相手にしているものは人間なのだ。だから、勤務時間をしっかりと区切れば労働条件は整ったなどとはゆめゆめ思わないで欲しい。「冗談じゃないぞ」と一蹴したくなるのだ。
 教師もまた、自分の未熟さを知れば、型通りの勤務時間などに身を委ねてはおられないだろう。眠る時間を惜しんで本を読み、教案を作り、授業を振り返り、子どもたちの一人一人の顔を思い浮かべ、自分の未熟さに一人赤面し、鳥肌を立て、嗚呼と叫び、地団太を踏み、たとえば指先を真っ赤に染め続ける努力を重ねていかねばならぬのだ。(続く)



No.182 教育原論Ⅰ 教師(3) 夢の途中(69)

教育原論Ⅰ 教師(3) 夢の途中(69)


 松井博文と向井均はぼくより10歳年上である。二人とも英語の先生である。松井さんが産経新聞を愛読し、向井さんは朝日を読む。向井さんが反核に動けば、松井さんは米国からの自立を主張し、自衛隊を軍として整備すべきだと主張する。つまり、この二人はその主義主張、思想信条が全く異なるのである。
 年の離れた二人とは、けれども、よく一緒に時間を過ごした。酒をよく飲んだということだ。このまったく対立する二人は、ぼくがいるとなぜか一緒にいるのだ。だが、二人だけで飲みに行ったりはしない。
 松井さんは文学論や哲学論を闘わせることを好んだ。それに政治的立場が絡むのである。酒が入ると多弁になる。向井さんはじっと静かに話を聞く。自分の考えと違うことを松井さんが言ったりすると、露骨に嫌な顔はするのだが、ことばにはしない。その表情を見て、松井さんは気分を害し、もっときつい口調で語り始める。ぼくは概ね松井さんの考えに真っ向から反論する。すると向井さんは、そうだ、そうだという顔をしながら頷く。松井さんの考えに与することもあるのだが、そういった場合は向井さんは悲しい表情を浮かべる。
 この二人と一緒に飲む酒には独特の味があった。その味を実は、ぼくは楽しんでいた。ぼくはこの二人が大好きだったし、尊敬もしていた。年は10歳も離れていたが、結局ぼくが一番偉そうな態度を取っていた。この二人には歳の差を感じたことがないのだ。
 だから、激しくケンカしたこともある。激しい論争をしたまま別れ、家に帰ると、松井さんから追いかけての電話がかかり、また延々と電話で論争したこともある。
 二人はことごとく対照的だったが、二人とも静かで落ち着いた雰囲気を漂わせており、そういう意味では似てもいた。そして二人ともよく勉強をしていた。
 さらに二人とも、生徒の教育に誠実だった。決して目立たなかったが、生徒の一人一人を大切に、丁寧に指導、教育していた。生徒たちは安心感を持って、信頼感を持って、指導を受けていたに違いない。
 ぼくは穴だらけの未熟な教師であったが、この二人には綻びはなかった。ぼくの子どもの受け持ちがこの二人であったなら、安心して任せることができたに違いない。
 けれども、松井さんも向井さんも、そして前号で書いた吉田和彦も、完璧な教師であったわけではない。100人の教員会議の際はできるだけ議長席から遠いところに座り、会議にはほとんど参加せず、それぞれ好きな本を読んで過ごしていた。ほとんどの議題に興味がなかったのだった。これはやはり良くなかったなあと今は反省する。生徒の教育に関する様々な議題について、やはりよく考えて、意見などを述べるべきであった。
 こういった具合だから、ぼくたちはいわゆる出世競争には全く興味がなかった。中には主任や、部長、あるいは教頭、校長を目指し、一所懸命に多数派工作をする先生もいないわけではなかった。けれども、こういう思いを抱いていた先生たちを揶揄することもいいことではない。自分の思った教育をしようとして偉くなろうというのは責められるべきではないのだ。
 松井さんも詩を書いていた。ある夜、ぼくはある大学の教授と二人で飲んでいた。詩の同人誌を主宰する老教授である。ぼくの友人に松井という男がいて、真面目な詩を書き続けているのがいるのですが、同人に加えてくれませんかと頼むと、うん、図師さんがいいというならいいよと快諾してくれた。それから松井さんを呼び出して紹介した。この老教授は大きな世界をゆったりとした心で抱きしめている詩人だったが、ほとんどその時、松井さんには話しかけなかった。しばらくしてこの教授は死んだ。もう30年以上前の話である。今、松井さんはその同人誌の中心的な存在になっているようで、ヒロシマを題材にした詩なんか書くべきではないなどと、反核や平和運動をしている者たちを攻撃しているようだ。ぼくがいたら、激しい口論になっているだろう。最近の彼の詩を読むと、孤独なのだ。頑固なのはほほえましいのだが、なんだか一人ぽっちなのだ。
 向井さんは反核や平和運動をしながら、そして様々な病と闘いながら、静かに活動している。日本語教育や平和教育の研究、フルート演奏の練習と多趣味の彼は、二人の可愛い娘を嫁がせて、孫のおじいちゃんも真面目にこなしている。かつて、ぼくの夜の徘徊に付き合って大酒を飲んでいた彼は今、家で焼酎をちびちびやっているのだそうだ。
 彼は、ぼくが英国に渡る際のぼくの大量の書籍の荷造りを一人でやってくれた。ぼくが外で飲んでいるときも我が家にやってきてコツコツと荷造りをしてくれたのだ。
 二人に共通する真面目さは、現代のまるでほとんどの人間がパフォーマンスの中で踊っている気持ちの悪い世の中で、ああこういう人が「先生」と呼ばれる人なのだと感じさせる清涼感がある。右も左も信念があればいい。ぼくにとって、親友であり、まさに信頼し、尊敬する先輩教師であった。(続く)




No.181 教育原論Ⅰ 教師(2) 夢の途中(68)

教育原論Ⅰ 教師(2) 夢の途中(68)

 この「教師論」においてはしばらく、抽象的な理屈を振りかざすのではなく、ぼくがかつて出会った「先生」について書いていこうと思う。その具体的な姿に、「先生」と呼ばれる人がどのような〈力〉を持っていなければならないかがおのずと見えてくるのではないかと考えるからだ。
 ぼくは40年余りの教育者としての生活の中で、数多くの先生に出会った。そしてまた、ぼくの幼い頃からの学校生活の中で、学ぶ者として、教えていただいた先生たちとも印象深い出会いがあった。

 まずは、吉田和彦のことを書きたいと思う。
 彼は大学を卒業すると、ぼくが一時期勤めていた私立中・高等学校(男子進学校)の国語教師として着任した。彼は後輩として、ぼくのところに挨拶にやってきて、すぐにぼくたちは意気投合した。
 彼は新任教師の歓迎会で、長谷川きよし/野坂昭如の「黒の舟歌」を歌った。偶然だが、実はぼくも歓迎会の際、同じ歌を歌ったのだった。
 彼にはいつも、毎日きちんとお風呂に入っているのだろうかと思わせる独特の匂いがした。髪はぼさぼさで、フケが浮いていた。かけているメガネのレンズは、それでちゃんと見えるのかというぐらいに汚れていた。声は大きく、唇は大きな明太子を上下に二つくっつけたような迫力があった。その口からは時折、よだれが垂れた。それを彼は、数日は着続けているワイシャツの袖で拭った。20代の彼のお腹は貫禄たっぷりにせり出していた。  
 ぼくたちは、それからは毎晩のように一緒に飲んだ。彼は自分の仕事が終わると、ぼくのいる図書研究室にやってきた。ぼくの仕事の区切りがつくと、当たり前のように居酒屋に繰り出し、教育論を激しく闘わせながら、苦しくなるほど食べ、飲んだ。あるときは、開店したばかりの小料理店のビールを「もう1本もありません」と言わせるまで、すべて飲み干した。それからさらに夜の街に繰り出すのだった。行きつけのスタンド・バーをはしごし、それぞれの店でウイスキーのボトルを瞬く間に空にした。多くの場合、最後は雑炊屋さんに立ち寄り、雑炊を食べた。雑炊ができる前に彼はカウンターに突っ伏して眠った。ぼくは一人でビールを注文し、お店のおじさんやおばさんと話をしていた。
 ぼくたちは教材分析について、たとえば教えようとする小説や詩について、細かいことまで分析しあった。教授法については、お互いなんとか自分でないとできない独自の方法はないかと考えた。生徒の一人一人についてもとことん話し合った。
 ぼくはしかし、いつも吉田和彦を論破した。徹底的に論理的に冷たく叩きのめした。もはや立ち上がることができないのではないかというほどに、ぼくは責めた。その程度しか考えられないのか、それで教師と言えるのかと。時に彼は泣いた。
 ぼくがさまざまな学会や研究大会で研究発表をする度に彼は、年休を取って当たり前のように同行した。ぼくの発表資料の入った段ボールの箱をいつも運んでくれた。ぼくは主催者の用意してくれたホテルに泊まり、彼は自費でカプセルホテルに泊まった。大会当日は発表者や役員等には弁当が配られたが、彼にはなかったのでぼくがこっそり一つ余計にもらってきて彼に渡した。
 ぼくはしかし、彼が好きだった。好きなだけではない、尊敬もしていた。立派な先生だと心から思っていた。けれども、日本で一緒にいるときにはいつも、冷たく、厳しく、言語分析や教授法の未熟さを責め続けた。
 彼の心の中にはいつも受け持っている生徒たちがいた。明日の授業を考えていた。彼の心やまなざしは、少しでも納得のいく授業をしたいんだと、地団太踏む子どものように純粋な思いであふれていた。ズボンからはみ出していたのはワイシャツだけではなかった。常人が推し量ることのできない、教育に対する情熱と真摯さがあふれていた。ぼくなど敵わない立派な先生だった。
 長い歳月が過ぎ、ある時、日本のある地方都市でぼくが講演をする会場に、彼は突然現れた。その夜、ぼくたちは久し振りにゆっくり飲んだ。もう、狂ったような飲み方はお互いできなかった。そしてようやくぼくは、彼に言うことができた。「君は素晴らしい先生だよ。ぼくは君のことを尊敬していた」
 彼は泣いた。
 彼はその時勤めていた学校でのことをいろいろと話してくれた。「ぼくは自分の信じる教育をやろうと思っているんです。それができなければ、くびになってもいいと思っています」
 「相変わらず馬鹿だな、お前は。お前のような先生が辞める必要なんてないんだ。生徒たちがかわいそうだろッ。辞めろと言われても、俺は絶対辞めないと言うんだよ。そして、今までのようにいい教育をするんだよ。それが、お前らしくて、格好良くて、……」ここまで言うと、もう言葉が出てこなくなってしまった。ぼくも彼も、ただ静かに酒を飲んだ。
 何度拭っても、ぼくたちの涙はあふれた。(続く)






No.180 教育原論Ⅰ 教師(1) 夢の途中(67)

教育原論Ⅰ 教師(1) 夢の途中(67)

 学校には学ぼうとする児童や生徒、学生がいる。そして、彼らを教える教師、先生がいる。もう一度、その教師や先生と呼ばれる人たちについて考えてみたい。もう一度というのは、このコラムでは、何度もすでに書いているからだ。それでもいい。この「教育原論」を書き始めたのは、今のうちに教育について自分の考えていることを整理してみようと思ったからだ。この、今のうちに、という言い方は適切ではないかもしれないが、いつまでも文章を綴るという行為ができるわけでもあるまいと、休日にふと、庭の芝生の上で戯れる狐のカップルを見ながらそう思ったのだ。現に、この「濫觴」を書き始めた初期のころは30分もかけずにどんどん書き上げることができた。一気に書けたのである。怒りや喜びといった強い思いがあったのだ。その思いがたちまちのうちに言葉を連ねさせた。けれども今、その勢いがなくなっている。どうしてだろうか。疲れが蓄積しているということもあるだろうが、疲れだけではないようにも思う。そうだな、それがいったい何なのかといったことも考えながら、筆を進めていくことにする。

 ぼくはずっと、先生である。教育以外の仕事をしたことがない。だから、ほぼ40年間、先生と呼ばれながら生きてきた。学生時代にほんの少しだけしたアルバイトも、家庭教師と塾や予備校の講師である。「せんせー」と呼ばれることに違和感はない。まったくない。むしろ「所長」や「さん」付けで呼ばれると、時にドキッとしてしまうことさえある。
 父も先生だった。母は結婚するまで先生だったらしい。子どものころ、先生というのは父だった。周囲の人たちは父のことを常に先生と呼んだ。物心ついた時にはそうだった。そして我が家にはいろいろな学校のたくさんの先生たちが集まった。6人兄姉の末っ子であるぼくは、どの人が親せきの人で、どの人がただの先生なのかがよくわからなかった。それらの先生たちは我が家によく泊まった。何日もいる人もいた。毎日やって来る先生もいた。彼らはお酒を飲みながら、母の手料理を食べながら、よく議論した。すべて、教育論だった。激しい論争が、怒鳴り合うような議論が終わると、立ち上がって、踊りながら歌を歌った。覚えているのは「リンゴの唄」であり、「麦と兵隊」や「侍ニッポン」である。正確には表記が違うかもしれないが。いや、これらの歌は父が歌っていた歌であり、他の先生の歌は何も思い出せない。軍歌も歌っていた先生たちはしかし、戦争を否定し、平和を尊んだ。
 父は戦争中も先生だったのだ。戦前も、戦後も。
 肩を組みながら、怒鳴るように大声で歌う先生たちは、泣いていたのか。いや、なぜ泣いていたと思うのか。ぼくには彼ら先生たちが、必死で戦後の教育に打ち込んでいたことがわかるような気がする。敗戦で大きく変わった価値観にもまれながら彼らは、論争しながら自らの教育力を磨いていた。先生たちの中には殴り合う人だっていたのだ。目撃したぼくは、その夜、怖くて眠れなかった。
 ぼくはあの先生たちが好きだ。もしタイムスリップすることができれば、教師となったぼくも仲間に入れてもらい、語り合いたい。たくさんのお酒を飲み、肩を組んで歌いたい。たくましい知性にもまれたい。
 みんな男だったが、母はそこに座っていた。優しいだけの母は、しかしそうではなかった。柔らかい笑みは絶やすことはなかったが、二日酔いで苦しむ若い青年教師に、朝の食事を用意しながら、優しい言葉で諭した。だから、母は先生たちから尊敬されていた。よくあれだけ大量の料理を準備できたものだと、今になって思う。それも毎日のように。
 そういえば、母も歌うことがあった。父が「歌え」とねだるのだ。言葉そのものは命令だが、実はお願いしていた。家内はうまいんだ、と父は自慢した。歌い終わると、きれいな声だろうと、また自慢した。唱歌や島倉千代子の歌だった。
 みんな大きかった。大人というのはこんなにもすごいのか、とぼくは思った。先生と呼ばれる人たちはこんなにも優しく、強く、そして知的なのかと圧倒されていた。むろん、その時のぼくには、知的であるということがよくわからなかったのだが、そのよくわからないものが実は大きな意味を持っているように思えたのだった。

 先生、ということばに誇りを持っている。先生と呼ばれることを卑下する教師が嫌いだ。教師という仕事を何となくやっている人間も嫌いだ。なりたくてなったわけではないなどと格好つける教師を認めない。そういう者たちは辞めればいい、辞めるべきなのだ。学ぼうとする児童や生徒、学生に申し訳ないではないか。
 学校ということばにはロマンがある。自分の明日を信じて、自分を成長させようとして学ぶために集うところだ。学べば自分は新しい明日を迎えることができると信じる者たちが集まるのだ。その学習者の明日に関わろうとする教師もまた、成長を続けながら、明日を信じなければならない。(続く)



No.179 教育原論Ⅰ 学校(5) 夢の途中(66)

教育原論Ⅰ 学校(5) 夢の途中(66)

 日本では、小学校新設に関するスキャンダルで持ちきりだ。教育理念を始め、様々な問題を抱えた学校開設の利権等に政治家が関わっているのではないかというのである。
 ぼくにはむろん、その詳細はわからないが、子どもたちが学ぶ場が大人たちのいかがわしさによって汚されなければいいがと願うばかりだ。子どもたちに関する社会的問題の発端や責任はすべて、いつも、大人にある。

 学校は、学習者(児童・生徒・学生)と指導者(先生)とが向き合う場である。目指すべき教育目標・学習目標に沿った学ぶべきもの(教育内容・学習内容)があり、そのための教材や教具を用いて教え、学ぶことになる。
 それらを一貫して支えるものが教育理念と呼ばれるものであるが、今回の騒ぎで取り上げられたものに教育勅語がある。この教育勅語、今、ぼくの手元にある。神社に行くと、ところによってはおみくじなどと一緒に売っているのだが、一度読んでみるといいだろう。この稿ではこのことに深入りしようとは思わないが、部分的にはなかなかいいことが書いてあるではないかと思う人もいるだろうし、最後までその言わんとすることに気づかぬ人もいるのかもしれない。要するに親や友達などを大切にする立派な人間になって、もしも国家の一大事ともなった時には、まずは国家のために何もかも投げ出して尽力せよと、朕(明治天皇)が臣民(天皇に仕える身の国民)に教え、諭している文章である。この教育勅語とは戦後、国会決議で明確に縁を切ったはずであるが、その考え方が一部勢力によって復権しようとしているのである。
 一人の人間を生きるぼくたちは、何より命を大切にしたい。自分の命と同じように、愛する者たちの命を守りたい。愛する者につながるすべての人たちを大切にしたい。その思いを国や民族、宗教や思想によって限定したり差別したりはしたくない。
 この地球にはきっと、いろいろな人たちがいる。例えばぼくの住むロンドンのバスに乗ってみるとわかるが、肌の色は様々であり、聞こえてくる言葉もいろいろだ。きっと信じる宗教も異なっていることだろうし、食べているものだって、食べ方だって違うだろう。
 学校に行きたくない不登校の子どもたちもいれば、行きたくてもいけない国の子どもたちだってたくさんいる。昨夜は、BBCのニュースでソマリアやその周辺の子どもたちが餓死していく映像を流していた。ぬぐっても、ぬぐっても涙がわいてくるのだ。
 最も大きな教育理念とすべきは、「幸せ」について考える力をつけようということである。学校は、保育園も幼稚園も、小学校も中学校も高校も、大学も専門学校も、あらゆる学校の目指すべきものは、「幸せって何だろう」と考えることであり、考えようとすることであり、そのためにどんなことをすればよいのかといろいろな知識やものの考え方を身につけていこうとすることである。自分だけの幸せではなく、自分の周りにいる人たちの、周りにいないけれども地球のいろいろなところに生きている人たちの、本当にみんなの幸せについて考えようとする力をつけていくのが、学校というところがまずは目指そうとすべきものでなければならない。
 想像する力が必要なのだ。
 だから、学校というところではいつも、夢や理想を自分の言葉で語り、語り合いたい。論争をし、より豊かな想像する力を身につけていくのである。
 有名小学校や中学校に行くための勉強や、有名高校や大学に合格するための受験勉強の全てをぼくは否定しない。目指す学校がとびきりの教育内容を持っているならば、それもいいではないか。薄っぺらい知識や思考を検証することなく暗記していこうとするような勉強をすれば合格できるような学校は大したことはない、二流や三流の学校なのだ。
 けれども、たとえば中学生には中学生のころにしか感じられない世界がある。小学生にもその頃でなければ見えないものがあり、大学生だって、そうなのだ。受験のために、そういった感性を犠牲にしなければ学べないものは絶対に存在しない。それは間違っているのだ。そういった犠牲のもとに学んだものは、幸せについて考える力や想像する力を滅ぼしていく。
 学校は自ら自身の質を確かめていく必要があろう。一流大学というその根拠があの、高校の貧弱な学習内容から割り出された偏差値であることに恥ずかしさを覚える必要があるだろう。大学教育のクオリティが高いかどうか、大学教員は自省してみる必要がある。大学内の政治力の闘いに興じている教員が少なからずいる実態は、恥ずかしいほど醜悪である。
 問うてみよう。たとえば、大学教員であるあなたは、学生に何を、何のために、どのように授けようとするのか、と。鏡に映った自分の顔が、マジックミラーのそれのように歪んではいないかと。保育園だって、小学校だって、同じなのだ。
 学校はもっと尊く、そこにあるのだ。(続く)



No.178 教育原論Ⅰ 学校(4) 夢の途中(65)

教育原論Ⅰ 学校(4) 夢の途中(65)

 新年を迎えたと思ったら、もうひと月が過ぎた。始業の日、今年は3日に書初めをした。子どものころからのぼくの習慣だ。いつからか、研究所のスタッフにも付き合ってもらっている。そのことはぼくの秘かな喜びでもある。
 ぼくは小学校に入る前から、書道の個人指導を受けていた。「トウゲせんせい」が書道の先生だった。大きな筆で思いっきり書くことを教わった。硬筆の先生は母だった。母が作ってくれた手作りの練習用紙にぼくは、母に抱かれるように文字を書いていった。書初めは父が習慣として教えてくれた。正月を迎え、清新な空気を吸いながら墨を磨った。和服姿の父は静かに、ぼくに話しかけることもしないで墨を磨った。ぼくも背筋を伸ばし、ゆっくりと墨の匂いを嗅ぎながら黙々と墨を磨った。新年はいつも、そうやって始まるのだった。

 「破戒」という映画(DVD)を今日(1月29日・日曜日)の午後、観た。被差別部落に生まれた小学校教師の苦悩を描いた、島崎藤村の名作文学の映画化である。市川崑監督、市川雷蔵主演、芥川也寸志音楽の豪華キャスティングによる1962年公開のモノクロ作品である。何年も前に購入していたものだったが、気持ちが沈むのを恐れて観ることができなかったのだ。
 いわゆる同和教育という部落差別に関する教育と出会ったのは大学生になってからだった。被差別部落というものの存在も、同和教育ということばも、恥ずかしいことにそれまでぼくは知らなかった。「破戒」や「砂の器」を読み、「橋のない川」を観てぼくは、人間の愚かさや醜さに怒り、あるいは怖さを覚えた。大人になり、教育者となってからぼくは、その差別に苦しむ人たちに出会った。社会に未だ、気持悪く息づく根拠のない差別を知った。
 この映画を観ながらぼくは、涙を流した。差別を恐れ苦しむ小学校教師の苦悩に対してではなく、絶望にのたうち回るその教師を教え子たちが救う場面にである。教師の「自分は部落出身者だ」という切実な告白を聞く小学生たちの流す涙にである。そしてそのことを子どもから聞いた親が、学校を去るその教師を見送る子どもに託すゆで卵という餞別にである。家に帰った子どもはどのように親にそのことを伝えたのだろう。子どものことばを親はまっすぐに受け止めたに違いないのだ。だからこそその母親は、村を去っていく教師への餞(はなむけ)をこしらえたのである。
 そう思うと、真摯な教育の力を感じた。あきらめてはいけないと思った。ぼくたちは変わることができるのだ、成長することができるのだと強く思った。根拠のない、醜い差別意識を取り払い、お互いを理解し合うことができるのだと思ったのだ。そのことを、子どもたちは〈学校〉という空間で学んだのだった。

 世界で最も大きな国の指導者が、その国を守るためにという理屈で、異なった宗教や民族を締め出そうと躍起になっている。人権がいともたやすく侵されていく。他の国の指導者や知性ある者たちは厳しく非難し、多くの一般大衆が抗議に立ち上がっている。そんな中で、日本国の指導者は暴君ともいえる大国の指導者にすり寄っていこうとしている。その様は醜く、海外に住む日本人にとって屈辱以外の何ものでもない。「日本人はどうして彼のような人間を大切にしようとするのだ。日本はどうして、あの国の間違いを正そうとしないのだ。防衛のためか。経済、すなわちお金もうけのためか」。海外の知性はそういったまなざしをぼくたちに向けてくる。日本に住む国民はどう思っているのだろう。
 なぜだろう。
 なぜはっきりと、「いけない」と言えないのだろう。
 なぜ醜く、へつらうのだ。

 幸せになりたいと願わぬ者は、一人としていないだろう。そして自分の幸せも、自分以外の者たちとのかかわりの中で作られていくものだということを、たとえ幼い子どもであったとしても知っているはずだ。他の人たちも幸せでなければ、自分も決して幸せにはなれないのだ。
 そして、みんなで、みんなの幸せについて考えるところが〈学校〉なのだ。映画「学校」の中で夜間中学教師を演じる西田敏行に、山田洋次監督はそう言わせている。
 「世の中はそんなに単純ではない。現実はもっと厳しいんだ」と十分に世の中というものを知ったという顔をした大人たちが言う。
 ぼくは思うのだ。単純でいいではないかと。みんなで幸せになろうと。苦しんでいる人がいたら、何とかして助けてあげよう。寂しそうにしている人がいたら友達になってあげよう。いいことがあった人がいたら一緒に喜ぼう。
 ぼくたちが桜の咲く頃に新1年生として大きなランドセルを背負って向かった学校はまぶしくて、立派で、ドキドキするような希望と期待にあふれていたではないか。もっと堂々と幸せについて考えてみようではないか。(続く)




No.177 教育原論Ⅰ 学校(3) 夢の途中(64)

教育原論Ⅰ 学校(3) 夢の途中(64)

 ぼくはおよそ40年もの間、教育の世界で呼吸してきた。〈学生〉ということばや〈学校〉ということばがとても好きなのだ。これらのことばには夢があり、明日へのあこがれがある。
自分という人間の成長を信じて、人は学ぼうとする。学べば自分は変わることができるのだ、成長することができるのだ、と思って学舎(まなびや)に足を向ける。明日を信じる者たちが集まるところが学校というところなのである。それは素晴らしい空間ではないか。
保育所や幼稚園、小・中・高校、大学や専門学校、あらゆる学校には明日を見つめようとする者たちが集まるのである。

 日本の子どもたちは、ほとんど無意識に小学校に行き、中学校に行き、そしてある者たちは高校や大学へと進学する。しかしながら、なぜ学校に行くのかといった意識はほとんどないと言っていいだろう。学校で学ぶということが自分にとってどんな意味を持つかといったことはあまり考えたりはしない。いい大学を卒業して大きな会社に就職するために、といったような、その種の目的意識は、あるいは強くある。
 けれども、世界には学校に行きたくても行けない子どもたちがたくさんいる。シリアの難民やソマリアの子どもたちは生きることそのものと向き合っており、学校という世界はまさしく夢の存在に違いない。

 マララ・ユスフザイは、1997年にパキスタン北部のスンニ派の家庭に生まれる。今年20歳になる女性である。幼い頃彼女は、医者になりたかったようだ。父親は女子学校の経営をしていた。
 2007年に武装勢力パキスタン・ターリバーン運動(TTP)は一家の住む地域の行政を掌握すると恐怖政治を開始した。特に女性に対しては教育を受ける権利を奪っただけでなく、教育を受けようとしたり推進しようとしたりする者の命を優先的に狙うようになった。
 積極的に女性の教育の重要性を説くとともに、平和・人権運動を展開するようになったマララはTTPから命を狙われる存在となる。2012年10月9日、通っていた中学校から帰宅するためスクールバスに乗っていたところを複数の男が銃撃する。頭部と首に計2発の銃弾を受け、一緒にいた2人の女子生徒と共に負傷した。TTPは「女が教育を受ける事は許し難い罪であり、死に値する」と正当性を主張して徹底抗戦の構えを示した。
 彼女は、治療と身の安全確保のため、英国バーミンガムの病院へ移送される。そして、外科手術により奇跡的に回復する。
同年7月12日、国際連合本部で演説し、銃弾では自身の行動は止められないとして教育の重要性を訴えた。
 ぼくは日本でたびたび、いろいろな人たちを対象として講演するが、その際何度か、彼女のことを語った。ある時は大学生に、ある時は教員たちに。日本の若者たちはその内容に目を見張った。教員たちは知っている者は肯き、初めて聞く者たちはその悲惨さに唸った。けれども概ね、そのことは知られていなかった。
 マララは言うのだ、「1人の子ども、1人の教師、1冊の本、そして1本のペン、それで世界を変えられます。教育こそがただ一つの解決策です。エデュケーション・ファースト(教育を第一に)」。(Wikipediaを一部参考にした)

 〈学ぶ〉には力が必要だ。それにはまず、大人がその環境を用意しなければならない。大人が用意しなければならない環境とは、受験競争に勝つためのそれではない。愛すべき子どもたちが、本当に幸せになるためにはどのようなことを見つめ、考えなければならないかという、そういう清新な空気に満たされた環境だ。それは〈幸せ〉とは何かというところから出発する。そのことには、たとえば親や教師たちもまた、立ち止まざるをえないだろう。
 力というのは〈勇気〉のことである。たとえば親は、わが子を本当に幸せにしたいと思うことだ。今、ぼくたち大人が定義している幸せがニセモノであることを、ぼくたちはすでに知っているではないか。にもかかわらず、ぼくたちは既成の〈幸せのようなもの〉を子どもたちに押し付けようとしているのだ。そうすることは楽だからである。その結果子どもたちは、少しゆがんだ笑顔や、喜びを、すなわち〈幸せのようなもの〉を、それが実は決して〈幸せ〉ではないとうすうす気付きながら親や教師などの大人の前で、そのニセモノを必死で、本当に必死で求めようとしていくのだ。
 これは、犯罪である。大人社会の、どうしようもなく醜い犯罪なのだ。その犯罪が、〈学校〉という舞台で展開していく。いじめも、不登校も、不良行為も、みんな大人が産み出したものではないか。政治家たちの下品で、教養など微塵も感じさせない攻撃的な言動を見よ。メディアの情報を、ことさらに商品化した汚臭のする退廃を見よ。そういったものがすべて、あのすばらしいはずの〈学校〉社会に持ち込まれているではないか。(続く)


No.176 教育原論Ⅰ 学校(2) 夢の途中(63)

教育原論Ⅰ 学校(2) 夢の途中(63)

 〈立派な人間〉になるためにぼくたちは〈学校〉に行くのだと教えられた。けんかをする子は悪い子だ、嘘をつくのはいけない、他の人に優しくしなければならない、きちんと予習・復習をして、忘れ物なんかするのはもってのほかである。食べ物の好き嫌いをしてはいけない。きちんとにんじんも食べなければいけない。お父さんもお母さんも、髪の毛が一本も生えていない小学校の校長先生もとても優しい担任の先生も、御用聞きにやって来る酒屋のお兄ちゃんも話し好きのクリーニング屋さんのおじさんも、みんなみんな同じことを言いながらぼくたち子どもの頭を撫でた。
 ぼくたち子どもは、そういった大人の人たちがとても大きく、立派に見えた。お巡りさんだけが恐くて偉そうに見えていたわけではなかった。

 学校で勉強する教科や科目というものは正直、身近な大人の人たちのことばに比べると少し気取っていて、体積や体重といったものを感じさせなかった。けれども、この薄っぺらい、匂いや味を感じさせない言葉の中にきっと、ぼくたちが立派になるための魔法の力が潜んでいるのではないかと、いや誰もそんなことは思っていなかっただろう。どうしてこんな見たことも触ったこともないものの名前を覚えなければいけないのだろうと不思議だった。それに、そういったものをできるだけたくさん、正確に早く覚えると、「えらいッ!」とほめてもらえるのだ。
 ぼくは「良い子」だったので、先生たちが望むことをそつなくこなした。するとたくさんほめられるのだった。けれども、あまりうれしいとは感じなかった、正直に言えば。だから、ぼくは疲れていた、小学校の1年生のころから。ためらわず、学校を休むことにした。3学期は家でゆっくり過ごすことにした。3年生の頃までそれは続いた。つまり、毎学年3学期は学校に行かないのである。ぼくにとっては大人の代表で、教育者でもあった両親は、ありがたいことにそれを許してくれた。怒ったり叱ったりは一切しなかった。家で過ごすぼくのためにたくさんの本を買ってきてくれた。学校の先生たちも家にやっては来るのだけれども、母親の手料理を食べ、お酒を飲みながら、父親と教育論議を楽しみ、日が経つごとにそういった先生たちの数は次第に増えていき、我が家は学校の先生たちの研修の場と化した。結局、ぼくの不登校が彼らの議題に上ることはなかった。ぼくは肩透かしを食ったようで、けれども大人という人たちの、先生という人たちの大きさを、豊かさを感じ、毎晩ぐっすりと眠ることができた。この人たちに、思いきり抱かれていていいのだと信じて疑わなかったのだ。

 いつからだろう。いつから〈学校〉は子どもたちを追い込むようになってしまったのだろう。繰り返すが、ぼくたちはなぜ、〈学校〉に行こうとするのだろうか、行かねばならないのか。
 この「濫觴」で何度かぼくは、幼い頃の娘とのやり取りを書いた。(「濫觴」No.24。研究所のHPで読むことができる)
 今はもう、32歳になった娘であるが、うんと幼い頃、学校に行きたがらなくなった娘と話し合った。彼女の登校途中、手をつなぎながらの会話である。ぼくたちは、こう整理してみたのだ。
 「人間が学校に行くのはね、学校に行っていろいろな勉強をするのはね、自分の幸せのためだけではなくて、他の人も幸せにしたいからなんだ。人間が学ぶというのは、きっと人を愛するということなんだ、愛する力をつけるために、ぼくたちは学校に行くんだよ、きっと」
 〈学校〉には今、そういった力があるだろうか。

 〈立派な人間〉になるために、懸命に勉強した者たちは、誰に対しても思いやりがあって、争いごとなどしようとはせず、平和であたたかい社会を気づくために働く大人になっているのだろうか。
 「あの子は成績はいいのだけれど、自分勝手で冷たいんだよね」とか、「あの子はあまり勉強はできないのだけれど、誰に対しても思いやりがあって、優しいんだよね」ということばを聞くことがある。これはとてもおかしい、とぼくは思うのだ。懸命に努力して、一生懸命に勉強して、成績が良くなった者は誰よりも立派であるはずだし、つまりは誰に対しても思いやりがあって優しいはずだ。
 国の官僚などの役人になったり、政治家になった者たちは基本的にその国ではエリートであるはずだ。(最近はそうでない場合も目立つようになっているが)
 国を任せることができるような〈立派な人間〉になったその者たちがなぜ、たとえば〈戦争〉などを発想することができるのだろう。〈戦争〉は〈けんか〉をとんでもなく大きくしたもので、人殺しではないか。けんかなどしないでみんな仲良くしなければいけないと教わったぼくたちは、とても困ってしまうのだ。人を殺すことを正当化するための論理を学ぶためにぼくたちは〈学校〉にやってきたのだろうか。(続く-次号「教育原論Ⅰ「学校3」)



No.175 教育原論Ⅰ 学校(1) 夢の途中(62)

教育原論Ⅰ 学校(1) 夢の途中(62)


 ある国立大学の教育学部の教授から頼まれて、彼が校長を兼務している附属小学校で子どもたちに講演をしたことがある。希望する保護者たちや先生たちも傍聴した。
 担任の先生に引率されて講堂に集まった子どもたちは、実に整然としており、自分が小学生のころ、こんなに立派だったかなあと驚くのだった。
 話の中ごろになると、疲れたのか子どもたちの姿勢が少し崩れ始める。すると、担任の先生がさっとやってきて姿勢を正すように注意する。
「そうか、疲れるよね。ごめん、ごめん。楽な姿勢でいいよ」と声をかけると、子どもたちは一斉にやわらかい姿勢になった。あッ、先生たちに申し訳ないことを言ってしまったな、と反省する。先生たちは一所懸命にしつけや教育に打ち込んでいるのだから、よそからやってきて、無責任な話をして、子どもたちのご機嫌伺いなどされたら迷惑に決まっているのだ。子どもたちだって、懸命に姿勢を正しているのに、どっちのいうことを聞いたらよいのか困ってしまうではないか。一番悪いのは、面白くない話を長々と続けているぼくなのだ。
しかしながら、小学校って、いいなあと思う。

 春の、桜の季節になると、大きなランドセルを背負った可愛い子どもたちの姿がほほえましい。幸せをあちこちに配って歩いているようで、なんともいえぬ喜びを感じる。
 小学校が多くの子どもたちにとっての〈学校〉という世界との出発点である。小学校に行くようになると、毎日数時間はあまり座り心地のよくない椅子に腰かけ、先生の指示に従って、まったくその通りに行動しなくてはならない。給食だっておかずだけ先に食べてしまってはいけない。三角形に順序よく食べるのが良い子だ。教科書と目の距離は30センチ離れていなければならない。そのためには背筋を伸ばさなければならない。鉛筆の持ち方や消しゴムの消しカスの処理の仕方、あらゆることを先生が教えてくれる。
 こういったことはやや窮屈だけれども、先生の言うとおりにしていれば、お父さんやお母さん、おじさんやおばさん、あるいは先生のような大人というものになれるのだろう、と思うのだった。大人になれば、先生のように給食を三角形の順番でない食べ方をしてもよくなるのだろうし、おとうさんのように寝っころがって本を読んだっていいんだと思うのだった。
 とにかく、〈学校〉はすごいところだった。今までの保育園や幼稚園とはまったく異なった空間なのだ。おしっこをしたくなっても、多少は我慢しなければならない。授業中にトイレに行ったりするとみんなから笑われそうな気がするし、先生が怒るかもしれないし、お母さんに先生が何か言うかもしれないし、そうなるとお母さんが悲しそうな顔をするだろうし、お父さんだって心配するかもしれないし、おじいちゃんだって神経痛がひどくなって今までよりたくさんお薬を飲むようになるだろうし、隣のおばさんがおそらく心配してくれてのことだろうけれど、いろんな近所の人たちに教えるだろうし、そうなるともう、ぼくはこの町にいることができなくなってしまうかもしれないのだ。
 でも、いったい何のために学校に行くのかというと、そういえばあまりはっきりとは聞かされていないような気がするのだ。いややはり、立派な大人になるためだと思う。
 ぼくの周りの大人の人たちは、それはもう絶対にぼくなんかかないそうもないほど立派なんだし、比べることすらチャンチャラおかしいのだ、そういうものを感じていたのだった、たとえばぼくの少年時代は。

 立派な人間になるためにぼくたちは〈学校〉に行くようだ。だとすると、〈立派な人間〉とはどういう人のことをいうのだろうか。〈良い子〉であることが立派な人間になるための子どもの姿であるように感じていたぼくは、学校の図書館の本棚に見つけた『良い子になるための本』という実に明快なタイトルのついた本を借りて帰り、なぜか兄姉には隠れてこっそり読んだ。なるほど、なるほどとは思ったが、まったく面白くはなく、そうか、良い子になるためにはなんとなく面白くないことを我慢しなければならないんだなとだけ思ったのだった。
 けんかをする子は悪い子だ、嘘をつくのはいけない、他の人に優しくしなければならない、きちんと予習・復習をして、忘れ物なんかもってのほかである。食べ物の好き嫌いをしてはいけない。ぼくはみんなが嫌いだという人参だって、ピーマンだって、何だって食べた。
 けれども、なんだか、ずっと先に、ぼくも、ぼくの仲良しのヨシトモくんも、ヒロちゃんも、タカオくんも、それからクミコちゃんも、確かにイイ人にはなるだろうけれど、立派な人になるに違いないとはあまり思えなかった。なぜだろうか。(続く-次号「教育原論Ⅰ「学校2」)

(2016.10.14)


No.174 教育原論・序 夢の途中(61)

夢の途中 教育原論・序 夢の途中(61)


 前歯の乳歯2本が抜けて、むしろ愛嬌が増した孫に、ぼくが幼い頃可愛がっていたコロという小犬の話を聞かせてやる。日曜の夜、就寝前のベッドの中だ。初めて独りでお泊りをする8歳の少年は、緊張のせいかとてもよい子である。けれども、次第に抱きついてきて甘え、ぼくの腕を枕にして話を聞く。彼の父親、つまりぼくの長男や次男、それに娘がうんと幼い頃、2歳や3歳、4歳や5歳の頃、聞かせてやった話だ。彼らはこの話が好きで、何度も何度も聞かせてくれとせがんだ。35歳になったばかりの次男がベッドに近づき、〈覚えているよ、まだ。ぼくもまた聞きたい〉と云いながら、ぼくの隣に横になる。190センチ近くある次男と小柄な孫に両腕を与えながら、30年以上前に創った話を聞かせる。コロと少年の頃のぼくとの、事実をもとにした、少し悲しい童話である。

*

 少年の頃の思い出は、何度もこの「濫觴」に書いた。振り返ると、その頃のぼくと年老いた今のぼくとがさほど変わっていないようで、なんとも情けなくなる。
 全てを思い出せるわけではないが、思い出すことの多くが父や母の偉大さと兄姉の優しさと、それに今なお苦しんでいる自分の未熟さに関わることで、多少身についた知識やわずかばかりの経験ではそれらの未熟さを修正や補完はできなかったのだなと思うのだ。
 少年の頃ぼくは、独りの時間を愛した。本を読み、詩のようなものを書き、絵を描いた。同じ年齢の子どもたちとは、思い出せば、仕方なく、つまりは付き合いで遊んでいたような気がする。野球やゲームで遊んでいても、この時間が過ぎれば独りの時間が訪れる、と思っていた。本当に没頭するような興奮はそこにはなかったのだ。
なぜだろう。
 ぼくはいつも自分をばかり見つめていたのだ。それは幼稚園に通うようになったときにはすでに芽生えていた。ピアジェのいう〈知的自己中心性〉とでもいうものだろうか。自分がその場に立っているとしたらこのように見えるだろうといった〈メンタル・シミュレーション〉の力がなかったのではないか。
 社会的存在としての人間には、自分以外の人間を理解し、共感する力が必要だ。それだけではなく、他者の思考や行いの背後にある知覚経験や、いわゆる気持ちや感情、動機などの内的な特性に気付き、おそらくこういうことから悲しみを覚えているんだろうな、と推量し、適切な対応をするという社会性が必要である。
 ぼくはそのような〈社会性〉を手に入れるのに時間を要した。いや、今なお欠落しているようにも思われる。ところが、表面上は、あるいは誰よりも優れた〈社会性〉を持っているかのように振舞うことができるのである。
つまり、演じているのである。
 ゆえに、常に自分を否定しながら生きねばならなくなる。毎朝のようにぼくは、もっと優しい人間になろう、と決意しながら電車に乗る。けれども、今日もだめだった、と家路につくのである。
 自分の心や感情だけを大切にしているのではない。自分のそういったものを徹底的に分析して一日が終わるのである。それは常に批判的で、非難的なものである。だから毎日、おそろしく疲れるのだ。

*

 ぼくたちは学習する。最もわかりやすい学びの場は〈学校〉である。その学校でぼくたちは何を学ぶのだろう。何を、なぜ学ぼうとするのか。くり返しぼくは、考えてきた。
 そこで〈せんせい〉と呼ばれる者たちのありようについても考え続けている。この〈濫觴〉においてもたびたび論じた。
 親たちは、〈学校〉や〈せんせい〉に何を望むのか。何を望めばよいのか。
 教育行政に携わるものたちは、どのような使命を持ち、どのような理想を持ってそれに当たらねばならないのか。
 町のパン屋のおばさんやクリーニング屋のおじさんは何か関わるのだろうか。
 新聞やテレビなどのメディアはどうか。 
 そういったものについてもう一度、この場を何回か連続して借りて、丁寧に考察したいと思っている。

*

 シリアやソマリア等からの難民が、その子どもたちが彷徨っている。食べ物や飲み物もなく、お風呂にも入れず、海に放り出され、路上で震えながら、次々と息絶えてゆく。
 ぼくたちはいったい何をしているのだ。
 インターネットのような大変なツールをもてあそびながら、その傍らにあばら骨の浮き出た子どもたちが餓死しているのだ。経済競争に敗れた者たちが巨大な高層ビル群の足下で自死している。
 〈教育〉はもっとあたたかく、優しい人間を育てる行為なのではないか。夢のある豊かなものではないのか。(続く-次号「教育原論1「学校」)

(2016.09.09)


No.173 大衆の選択 夢の途中(60)

大衆の選択 夢の途中(60)


 英国で生活するようになったある日のことである。30年近く前のことだ。車の運転ができないぼくは、しばしばタクシーで通勤した。わずかな時間だが、タクシーの運転手さんとはよく会話をした。
「夏のホリデーの計画はもう立てたのですか」
「いや、まだですが、運転手さんはどこかに行くんですか」
「ヨーロッパに行こうと思っているんですが、……」
「えっ、この英国だってヨーロッパじゃないですか」
「いや、違いますよ、英国は英国で、ヨーロッパなんかじゃありませんよ」
 英国の人からはこのような言葉を何度か聞いた。英国はヨーロッパの中の一つの国なんかじゃない、ひとくくりにされてたまるか、といった思いを持っているようなのだ。

* 

 ここ数ヶ月、EU Referendumという言葉とBrexitという言葉をいやというほど耳にした。前者は「英国がEU、すなわちEuropean Union(ヨーロッパ共同体)から離脱するかどうかについての国民投票」の意で、投票した人の過半数の選択で決めるというものである。後者は、EUから離脱するという意を込めた造語である。BR (British) とExitとを組み合わせたものだ。離脱しないでEUに残るべきだと主張した人たちは、Remainという語を用いた。
 結果としては、こういった国民投票をやることにした当初の予想に反して、Brexit、すなわちEUからの離脱が決まった。
 数多くの経済学者や科学者たち、世界機関の人たちがEUに残るべきだと主張したが、効果は無かった。オバマ米大統領も英国にやってきて、EUに残らないと米国は知らないよと半ば脅すようなメッセージも発したが、役に立たなかった。経済が悪くなろうが、移民たちを追い出せればそのほうが良いし、いろいろな政策にEUからいちいち干渉されるのは真っ平だというのである。
 ちょっと前に、英国(UK = United Kingdom連合王国)からスコットランドが独立するかどうかについての国民投票がなされた。結果としては、英国に残ることとなったのだが、そのとき、「心では独立、頭では残留」ということが言われた。独立したいのはやまやまだが、経済その他について考えると残ったほうが得策だという結論をスコットランド人は下した。
 今回のEU Referendumにおいても最終的には同じ理由で、Remainという結論になるのだろうと思われていた。けれども、夜が明けると、Brexitとなっていた。
 「エリート層の知性に大衆が勝利した」と報じられた。
 その結果、予想されたとおり、国内政治は大きな混乱に陥っており、経済は厳しい見通しで満ちている。
 Brexitを主導した者たちは、筋金入りの右翼UKIP(英国独立党)のNigel Farage党首だけは満面の笑みを湛えて喜んだが、前ロンドン市長のBoris Johnsonなどは顔を引きつらせていた。彼もまた、どうせ負けると予想していたのだろうし、ゆえに無責任な情報操作を行なったのだ。ぎりぎりで負けるというのが、彼らにとっては最高の望むべき結果だったに違いない。
 同じような風景が、ちょっと前に大阪でもあった。大阪都構想なる府民投票である。負けたほうの橋下市長が実に晴れやかな表情を浮かべて記者会見で応えていた。万が一にも勝ってしまっていたら責任の全てが自分に覆いかぶさってくることになっただろうが、うまい具合に負けることができたとの満足感である。
今になって、Brexitに投票した者たちが慌てている。もう一度国民投票をやり直してくれないかというのである。

*

 中国から研究所に留学してきている学生が言う。
 「中国では一度も選挙が行なわれたことがないとよく外国から批判されるが、選挙でいつも正しい結果が生まれるとは限らないという証(あかし)ではないですか」
 「そうだね。いつも大衆が正しい判断を下すわけではない。けれども、それが民主主義なのだ。愚かな選択をしたとしても、国民一人ひとりに選択する権利が与えられていることが大事なのだ。間違った選択をした責任は、国民が自ら負わなければならない」

*

 新聞もテレビも書かないし、言わないが、本心としては「愚かな民衆や大衆がまさに、愚かな結論を出した」と報じたいことだろう。いや、メディア自体がいまや、愚かな似非ジャーナリズムに堕しているのかもしれない。
 日本の国政では、改憲与党や野党のふりをした与党の補完政党が、衆参ともに3分の2を占めた。いよいよだ。選挙中は愚かな国民にひた隠しにしていた憲法改定が動き出すことになる。
 国会で発議され、国民投票で過半数の支持を得れば、誇るべき平和憲法が葬り去られることになるのだ。いや、それが、その愚かさこそがまさに、民主主義なのだ。
 英国人の主治医が、日本もいよいよだねと表情を曇らせた。

(2016.07.16)




No.172 さようなら、いや、プロローグ 夢の途中(59)

さようなら、いや、プロローグ 夢の途中(59)


 研究所は4月3日に27歳の誕生日を迎えた。今年はその記念日を初めて日本で迎えたのだったが、帰英後ぼくは、いつものように研究所の足跡となるところを一人でゆっくり回った。
 27年前のぼくは、幼い少年が眠りに落ちるとき、目覚めれば必ず新しい朝になることを疑わない、そのような思いで明日を信じていた。
 ロンドンの中心部のビルの最上階のオフィスからぼくはよく、深夜零時に、一人窓際に立ち、宙に浮かぶネルソンの像と、その向こうに見えるビッグベンとを眺めた。
 そのときのぼくは、何を思っていたのだろう。不安に苛(さいな)まれることもなく、湧き出るいろいろな構想に部屋の中を歩き回っていたように思う。箇条書きした紙を見つめ、「よしッ」とか、「うん」とか、ひとり呟いていた。
 その頃のある日、大学で講演するために日本に向かう飛行機の機内誌で、当時、時代の寵児ともてはやされていた世界的経営者、ヴァージングループ代表のリチャード・ブランソンの特集記事を読んだ。
 ロンドンに戻ったぼくは彼に手紙を書いた、「会って、いろいろなことについて語り合ってみないか」と。同じ世代の彼はすぐに、「会おう」と返信をよこし、何度も彼の自宅に招いてくれた。数多くの会社を経営する多忙な彼はしかし、毎回数時間を割いてくれ、ぼくたちは様々なことについて語り合った。
 彼はロンドン市内の5星のホテルの大きなホールを二つ、借り切り、ぼくのためのコンファレンスとパーティーを開いてくれ、集まった多くの人に向かって「ミスター・ズシが教育の新しい世界を創造する」とスピーチしてくれた。
 またある日、辻井喬さんに会ってみたいとふと漏らしたら、彼がわざわざスケジュールを調整して、ぼくを東京・本郷の瀟洒なフランス・レストランに招いてくれた。そこは著名な作家たちが屯(たむろ)するところで、ぼくたちは何時間も文学や文化、哲学について語り合った。その時、彼は70代であったが、まるで青年のように、これからの夢をぼくに聞かせてくれた。彼は日本を代表する詩人であり、谷崎潤一郎賞などの数多くの文学賞を受賞している小説家であったが、西武セゾングループの代表として数多くの会社のトップに君臨する経済人でもあった。
 そのころ、ぼくの周りには力ある魅力的な人たちが集まり、自分がやりたいと思うことは知らぬ間におぜん立てが整っており、ぼくはただ、夢や理想を語っていればそれでよかった。
 自分に自信があった。
 恵まれていた。
 今もまた、ぼくは多くの人たちに支えられて幸せな毎日を送っている。ことばなどでは表現しつくせないほど優れたスタッフや教え子たち、友人たちに囲まれている。
 つまり、ぼくが今日、このように教育の世界で呼吸することができているのは、周りの人たちの力によるのであり、ぼくの力ではないのだ。
 にもかかわらず、ぼくは傲慢不遜だった。自分でもそのことに気づき、毎日のように今日こそはすべての人に優しくありたい、謙虚な人間でありたいなどと決意しながら、そういう自分ではないことに打ちひしがれて一日を終える毎日なのだ。
 だから、未熟な自分に〈さようなら〉をしなければならないと考えるようになったのは、もう何年も前のことだ。
 自分の納得のいかない自分は潔く葬らなければならないと思うようになっていた。

 こういった思いはしかし、自分が歩んできた教育者としてのおよそ40年が今、〈終章 epilogue〉を迎えていると思ってのことだと気づいたのだ、最近。大量の本を読みながらぼくは、自分の本当の傲慢さに気づいたのである。
 ぼくはまだ、ようやく〈序章 prologue〉を終えようとしているにすぎない。ぼくはほんの少しだけ、教育の世界を知ることができたのであり、これから本当に自分の教育に対する思いを確かな形で具現化していかねばならないと思うようになった。
 確かに少し歳は取ったが、まだまだ十分に若い。〈序章〉の段階で身に着けたものを、これからしっかりと形にしていこうと思う。いろいろな屈折や挫折といった厳しさに直面することもあるだろう。それはそれでいい。もう一度、深夜零時のまなざしで、自分の手で、自分の体からにじんでくる汗を大切にし、ぼくの教育の世界を作っていこうと強く思っている。

 第44代内閣総理大臣、すなわち戦後すぐの首相・幣原喜重郎のお孫さんから、「これでモノを書いてください」とモンブランの万年筆をいただいた。30年も前のことだ。そうかこの人のお祖父さんがあのマッカーサーとやりあったのかと自分よりずいぶん年上のその人を見つめた。貴族の血を引く彼は、ぼくの右手を両手で包み込むと、ぼくをじっと見つめて静かに肯いた。
 その万年筆でぼくは今、明日の自分を書き始めるのである。

(2016.05.31)

No.171 夢の途中 日曜日の夜(58)

夢の途中 日曜日の夜(58)


 新しい年になり、もう4回目の日曜日である。新年を迎えるにあたり、ぼくはいくつかの約束事をした。大晦日のテムズの花火大会を見ながら、New Year’s Dayのウィーンフィルのコンサートを聴きながら、ぼくは新年への思いに姿勢を整えた。
 幼いころから毎年恒例としている書初めでは、今年は「求諸己」と書いた。「諸(これ)を己(おのれ)に求めよ」と読む。「すべての責は自らに求めよ」との意を込めた。
 書初めをするたびにぼくは、いつも父を思う。正月2日の朝、父は庭の樹々や草花から集めてきた露で墨を磨った。父の前に正座して座ったぼくも、背筋を伸ばして父に倣(なら)った。そういった清新さは今のぼくの風景にはないが、墨を磨りながら秘かにぼくは心の中で、かつての父との風景の中に自分の身を置くのだった。
 今のぼくの歳には父は、時たまいろいろな団体に呼ばれて講演をすることはあったが、庭で心を込めて花を育て、美しく咲いた花を母に贈り、喜ぶ母の姿を静かに見守る毎日だった。母が逝くと、庭は荒れた。兄や姉はそれを温かく見守った。荒れた庭はしかし、父の代わりに涙を流し、すすり泣いていたからである。

  息子がプレゼントしてくれたFrank Sinatraの “no one cares”とうアルバムを今、聴いている。gigで彼は、自分の作品以外に他のミュージシャンの作品を1、2曲挟んで歌ったりしているが、最近はよくSinatraの曲を取り上げている。New Statesmanというリベラルな週刊の雑誌に彼が書いたSinatraについてのエッセイは話題になった。
 その息子が電話をかけてきて、「どうしたらこの世の中から戦争を無くし、みんなが平和で幸せに暮らせるようになると思いますか」と訊いた。34歳の息子は、英国の新聞Guardian紙の戦争に関する特集記事のチームの一員として連載執筆もしたが、昨今の、日本も含めた世界の状況に憤っているのだった。
 「教育だね。数十年はかかるだろうが、時間がかかったとしても、もう一度やり直すことだと思う。お金を中心とした、数字で世の価値観を支配する社会を変えることだと思う。政治家がすぐ唱えるような道徳教育のようなものではなく、もっと単純で強靭なまなざしを育てることだ。簡単に言えば、美しい花を美しいと感じ、大切な人を確かに抱きしめることのできる、そういった知性を育てなければいけないと思う」

 大学生になってもぼくは、母が編んでくれたセーターを着ていた。母はカーディガンもベストも、ぼくが幼いころから大人になるまで着た毛糸服の全てを巧みに編んでくれた。幼いころは、ぼくの好きな動物も、そして胸のあたりにはぼくの名前も編み込んであった。
 母は優しかった。ぼくは一度も母から叱られた記憶がない。
 恵まれた家庭の3姉妹の末っ子として生まれ、豊かな愛情のもとに育った母は、穏やかで優しい微笑みをいつもぼくに向けてくれた。そして何より幸いだったのは、母の口から他の人の悪口の類いを聞くことがなかったことだ。他の人に対する妬みやひがみなど全く持たない素直な人だった。それは父にしてもそうだった。父もまた、絶対に他の人の悪口を言わなかった。それは、二人の知性だった。
 ぼくが大学生として一人で生活を始めるとき母は、「世の中にはいろいろな人がいるから気を付けるのですよ」とぼくに言った。ぼくははっとして母を見た。「みんないい人だよ」というぼくに、「そうね、そう、みんないい人だよね」と母は恥ずかしそうに応えた。それは、なぜか、はっきりとした思い出である。
 母は優しく、強い人だったのだと思う。そして何より、優れた知性があったのだ。母は自分が子どもの頃の幸せな思い出を、夢を繰り返しぼくに聞かせてくれた。母の両親はぼくに、「君の父親は立派な人だ。お父さんのような人間になりなさい」と何度も話してくれた。
 寡黙で怖く、厳しさを漂わせていた父も、大きな優しさにあふれていた。

 愛情は繋いでいくことができるように思う。
 けれどもまた、その連鎖は新しく始めることだってできるのだ。それはおそらく、その人の知性によって生まれる。豊かな知性によって生み出される。
 Sinatraの曲を聴きながらぼくは、自分の知性の貧しさを恥じている。ぼくの愛する教え子たちへの思いにしても、まだまだ未熟だと感じている。ぼくの愛する人たちへの心にしてもその貧しさを恥じ、けれどももう一度始めようと思っている。
 来週の日曜日で1月も終わる。日曜日の夜はいつも、重く苦しい様々な思いの中で、多くの人たちの愛によって支えられた思い出とともに、たとえばワインと、たとえばウイスキーと、あるいはジャズやクラシックなどの音楽も加えて、明日を信じようとする時間である。

(2016.01.24)



No.170 夢の途中 夢の途中(57)

夢の途中 夢の途中(57)

 このコラムに〈夢の途中〉と副題を付けてからもう、随分と時が流れた。割と気に入っていたこの言葉を、ぼくは今、繰り返し反芻している。
 この〈夢〉とは何だろう、〈途中〉とは何だろう、と。
 教育に打ち込み、文学という世界に精神を遊ばせてきたぼくにとって、〈夢〉とは何だろう、何だったのだろうか。
 いつかこのコラムで「変数Xの孤独」(No.120)という文章を書いた。人はそれぞれ自分の、自分だけの人生を送っているように思ったりするが、しかしそれは哀しく、寂しい誤解であり、人の人生とは、予め設けられている関数の一変数として投げ込まれた数字にすぎないのではないか。多少の違いはあるにせよ、結局は定められた計算式の中を転びまわる数字なのであり、孤独なものなのだ、と。
 いつ始まったのかをさえ思い出すことのできない人生というプロセスは、いつか終わるにちがいないという〈やや確かな死〉というイベントに向かっているようなのだが、つまりは今はその〈途中〉であるということなのだ。
 こうでありたいとか、このようになりたいとか、このようにしたいとか、そういったものを〈夢〉と呼ぶならば、では具体的な事柄を、と思い浮かべてみるや否や、それらは曖昧なものとして瞬時に打ち消されてしまうのだ。いずれも、納得いくものではない。
 ぼくの〈夢〉とは何だったというのだ。

*

 ぼくは今、立ち止まってしまった。
 疾走を続けていたぼくは今、右足の一歩を前に運ぶことができずに佇んでいる。役目を終えた左足も、動き出さぬことに決して不平や泣き言を言わずに沈黙している。
 目に浮かぶのは何年も前にパリのロダン美術館で見た、そして激しく心動かされた「the walking man」というブロンズだ。トルソーに接続された両脚。太い骨格に張り付いたたくましい筋肉は歩き続けなければならないヒトという動物の運命を感じさせ、ぼくはその哀しさにその場に立ち尽くし、泣いたのだ。
 ぼくはどこへ向かって歩いてきたのだろうか。
 そしてまた、どうしてあんなにも激しく走り続けてきたのか。
 Classic fMのピアノ演奏を聴きながら、知人にもらったBallantine’s 30years を飲む。ストレートで何杯か飲んでいるのだが、そう簡単には酔わせてくれない。貧弱なる精神がぼくへの問いを畳み掛けてくる。
 走り続けてきたぼくの周りの風景は、少しは確かに変わった。
 日本から飛び出したぼくは、自ら英国を選んだわけではない。
 どこでもよかった。初めに相談に乗ってもらった教授には、アフリカでもどこでもいい、未開な国の、生活するに困るようなところでもいいから、とにかく日本から出てじっくり自分というものを見つめてみたい、と子どものようなことを言ったのだった。
 当時、ぼくは、激しく走っていた。前のめりになって走っていたぼくは、このままでは上半身についていくことのできない、支えきれない下半身によって倒れてしまうと感じていたのだ。拙い論文を書きまくり、研究大会では胸を張って稚拙な発表を繰り返しながらぼくは、自分の未熟さを素直に感じていたのだった。それは恐怖だった。きっとこのままでは、ぼくはダメになる、と。
 英国で暮らすようになったぼくの風景はしかし、国が違っただけであまり変わらなかった。
 同じ歩幅でぼくは、またしても疾走する。
 ぼくにとって未知であった英国もまた、ぼくを未知のものとして大切に受け入れてくれたが、そして一見それは、新しい風景に見えなくもなかったが、次第にぼくはそれらが錯覚によるものであることに気づくようになる。
 風景は自らが作っていくものであって、そこに存在するものではない。
 あるときは、ぼくは老若男女を問わず、多くの人たちの悩みや苦しみを聞き、まっすぐにそれらに全力で向き合い、励まし、支えた。おそらく、そうにちがいない。自己満足に酔い、それをエネルギーとしていた。と同時に気づいていたのだ。ぼくにはそのような、他者を支える力などないのだと。
 〈夢の途中〉、初めてこのことばを用いたときぼくは(No.110)、「夢を見続けることのできる人間でなければならない」と書いた。

*

 今、庭に狐の気配がある。
 彼は、あるいは彼女は、深い夜の闇の中に灯る明かりの中で、一人のやや年老いた男が暖炉の前のソファに深く身を任せ、〈変数〉に過ぎない存在に気付きながらもなお愚かにも、見苦しくも、情けなくも、自らの語った〈夢〉にこだわり、それを見つめようとし、あるいは、〈ことば〉を信じるがゆえにことばの世界から思いにかなうものを探そうとし、見つけることができずに悶々とし、孤独感に押しつぶされそうな感情を振り払い、なお〈途中〉であることの喜びを感じようとしているさまを、じっと見つめているのだろう、か。狐よ、ぼくはまだ。

(2015.12.03)


No.169 秋の日に 夢の途中(56)

秋の日に 夢の途中(56)

 大学でのMA(大学院修士課程)の講義を終えたぼくは、いつもより早く帰宅する。まだ8時前だ。
 食事を終えると書斎にこもる。Classic FMを流しながら、今日日本から届いたばかりの詩集を読む。詩を書く仲間の出した詩集だ。
 「ぽろんと/空から芯棒が落ちてきた」(「黒いことり」田中裕子)うん、いい表現だ。この落ちてきた「芯棒」はどうなったのかな、とくだらぬことを考える。
 考えながらふと、今日の午後、メールでやり取りした池下君を思い出す。今年の春に大学を退職し名誉教授になった彼は、5月の日本出張の際にわざわざ新幹線に乗って会いに来てくれた。久しぶりだった。
 ぼくよりずっと薄かった彼の髪はその時、なぜかふさふさとしており、つい、「それ、カツラだろッ」と訊いたら返事がなかった。
 ぼくは数日前、頭を丸めた。

*

 日が短くなった。ぼくがベッドから抜け出す5時過ぎはまだ暗い。夏時間の頃はすでに明るかったのだが。暗くなると、小鳥のさえずりが戻ってきた。ひげを剃りながら、どうしてだろうと思う。ひげを剃りながらまた、鏡に映っているお坊さんは誰だろうと思う。まだまだ、髪のなくなった頭に目は慣れてくれない。

*

 金曜日の深夜、久しぶりに次男が戻ってきた。背が190cm近くはある彼は、ぼくが横になって本を読んでいるベッドの空きスペースに横たわると、抱きつくような形で話し始めた。34歳の男である。右腕はぼくの胸の上にのせられている。
 日本は大丈夫だろうか。いわゆる戦争法案といわれているものが成立したようだけれど。
 ジャーナリストの彼は、日本のニュースについても詳しい。
大学教員の長男もしきりに電話をかけてきては心配している。長男は、先ごろ行なわれた労働党の党首選びで、コービンという、より左翼の候補者を応援するためにサポートメンバーとなった。彼のパートナーの祖国、スイスの総選挙では、右側が多数派となった。

*

 そういえば、日本では戦争法案に反対する大学生の活動が話題になった。大学生が、政治的な活動を行なうなんて久しぶりのことだ。
 かつて、詩人の辻井喬と東京・本郷で、ワインを飲みながらじっくり語り合ったことがある。彼の本名は堤清二で、西武デパートなどを経営する西武セゾングループの総帥だった。父親が大臣を務めていた頃、東大生だった若き日の彼は反体制の学生運動にのめり込む。ところが、父親が大臣であることが分かり、不本意にも体制側のスパイと疑われ、追放される。しかしながら、その後も彼は、いわゆる学生運動に対するシンパ sympathizerであった。60年安保闘争の国会前での機動隊と学生との衝突で東大生・樺美智子が死ぬ。その深夜辻井は、国会前に赴き、この夜のことは絶対に忘れないと誓うのだった。

*

 ぼくが沖縄国際大学に招かれ講演をしたのは、その大学に米軍のヘリコプターが落ちた直後だった。
 米軍普天間基地に近接している大学は、確かに危険だった。世界でもっとも危険な基地とその設置を行なった自民党さえも認めるほどだ。その基地を辺野古に移そうという政府に、沖縄県民が反対している。
 政府は、「反対すると普天間をそのままにしておくぞ」という。この論理の気持ち悪さに、あるいはあまりの稚拙さに悪寒さえ覚える。これは恫喝だ。
 危険な基地を早く撤去しなければならないのは当たり前で、国の責任である。移転というと錯覚を覚えるが、覚えさせられるが、そして当然「その代わり」の要求ができそうに思えるが、そんなことは無い。移転ではなくて、新しい基地建設なのである。日本を守るためという理屈のための沖縄への犠牲の強要なのである。たとえば、基地は全部、首相の地元である山口県に集中させたらどうだろう、と思ったりもする。

*

 つい飲み始めたウイスキーが何杯になったかもわからなくなった。まあ、たまにはいいさ、という都合のいい言い訳がしっかりと身を守る。
 いろいろな主義や主張がある中で、できれば弱い者に対する思いやりや優しさがどの立場の者たちにもあるといいなあと思う。自分の幸せのために他人を虐げたり苦しめたりする社会はごめんだ。
 あ、あれは、あの気配は狐だな。庭の芝の上に立ち、今夜もまたぼくをじっと見つめているようだ。

(2015.10.15)



No.168 “We are not animals.” 夢の途中(55)

“We are not animals.” 夢の途中(55)

 ぼくは一度だけ、ドーバー海峡Strait of Doverをホバークラフトhovercraftでフランス北部の港町カレーCalaisへ渡ったことがある。まだ、チャネル・トンネルthe Channel Tunnel が開通する前である。
 飛行機ではなく海を渡ってみたいと思ったぼくはしかし、船酔いしやすく、船に乗っている時間が一番短い、つまり早く目的地に着くホバークラフトに乗ることにした。これが間違いだった。動き出すと海面から空中に浮かんで進むので揺れないのだが、動き出す前の港にとまっている間にぼくは、ひどく酔ってしまったのだ。ホバークラフトは軽く、ぷかぷかと大きく揺れるのだった。もう二度と船には乗りたくないとぼくはふらふらした頭で誓った。

*

 そのドーバー海峡を挟んだ英仏間で今、ぼくたちと同じ〈人間〉が、数多くの弱く力の無い者たちが、まるで獣のように扱われている。彼らはエチオピアEthiopiaやエリトリアEritrea、スーダンSudan、アフガニスタンAfghanistanなどから戦乱を逃れてきた人たちである。不法移民と呼ばれる。
 カレーの町の中心部から数キロメートルしか離れていないところに難民たちを収容するキャンプがある。訪れたOwen Jonesは、高い有刺鉄線で囲われ、汚臭の漂うその地を‘Jungle’と書く (NewStatesman 14-20 August 2015) 。
 およそ3000人がいると思われるそこには30足らずの簡易トイレと粗末なシャワーがほんのわずかあるだけである。ボランティアとして働く英国人医師は、コレラcholeraやはしかmeaslesの感染が広がるのは時間の問題だと指摘する。その他の皮膚病等の伝染も広がっている。無論、その他のあらゆる病気に悩まされつつある。
 彼らはそこで何をしようとしているのか。彼らはドーバー海峡を越えて、チャネル・トンネルを抜けて、英国へ逃れたいのだ。英国へ行けば救われると信じている。隙をうかがっては、英国へ向かおうとするトラックや列車、あるいはフェリーにこっそり潜り込んで海を渡りたいと願う。つまり、 ‘the Jungle is a transit camp, not a permanent settlement’ というわけである。
 現地のポスターや落書きにはこう、ある。
 ‘The grass is greener where there no sides’
 ‘NO BORDER – RESIST! REBEL! REVOLT!’
 そして、こうも書かれている。
 ‘I’m human like you’
 ‘Help!’
 けれどもまた、英国に行けば必ず救われると誰もが信じているわけではない。英国に亡命しようとして拒否され、本国に送り返された者たちもいる。それでもなお、祖国を捨ててこのキャンプに逃れ、でき得れば英国に受け入れてほしいと願っている。
 ‘Our life is dangerous; we are not safe in Afghanistan, that’s why we leave Afghanistan. We come here to make the good life.’
 このようにいう難民の彼の母はまだ生きているが、彼の兄も伯父もタリバンTalibanによって殺された。戦地から逃れ、トラックに乗ったり、歩いたりしてようやくこのキャンプにたどり着いた彼は、続けて言う。
 ‘In England, they give you a home, they give you a doctor, they give you the food money.’
 週に36.95ポンドしかもらえないよと告げられると驚き、しかしなお、キャンプについて次のように言うのだ。
 ‘They’re not supporting the refugees here. We need a home, we need school, we need the good life.’
 そして、言う。
 ‘We are not animals. The Jungle is not safe.’

*

 英国へ潜り込もうとした者の中には死者も出ている。
 英国は、残念ながら彼らを歓迎してはいない。英国は、彼らが思うような夢を彼らに与えようとはしていない。
 英国の外相は彼らについて “marauding”と述べ、首相は “swarm of people”と呼び、英国独立党 Ukipの党首は、入国をさせないよう軍隊を配備せよと主張した。
 けれども彼らは野蛮人でもなければ、盗賊でもないのだ。

*

 ぼくたちは何をしているのだろう。地震や津波で被災した人たちに涙しなかった者はおそらくいまい。誰にだって突然襲い掛かるかもしれない自然の災害は、富める者にも名誉や地位ある者にも等しく、悲惨で苦しい状況を強いる。
 けれども彼ら難民は、愚かな人間同士の、あるいは国や宗教などといったものが引き起こした戦争等の被害者ではないか。
 国なんてどうでもいいじゃないか。同じ人間として、苦しむ者がいれば抱きしめようではないか。飢える者がいれば自らの食べ物を分け与えようではないか。病める者がいれば医者や薬を届けよう。ぼくだって、君たちだって、明日同じ運命に遭遇するかもしれないのだから。
彼らもまた、ぼくたちと同じ人間なのだ。

(2015.08.19)

No.167 からまつに からまつのかぜ 夢の途中(54)

からまつに からまつのかぜ 夢の途中(54)


 日本列島の火山活動が活発になっており、長野と群馬にまたがる浅間山もまた、噴火を繰り返しているという。
 ある年の夏、ぼくは軽井沢の万平ホテルに滞在し、軽井沢近辺を歩き回った。浅間山の麓である。
 その頃のぼくは毎日のように、立原道造や中原中也などの詩に曲をつけ、ギターを弾きながら歌ったり、萩原朔太郎の詩が完成するまでの推敲過程を丹念に追ったり、ボードレールの詩を朗読したりしていた。あるいはまた、詩人たちの詩から連想される抽象的な絵をスケッチブックに描きなぐることもしばしばだった。
 万平ホテルの重厚な部屋は若かったぼくには贅沢だったが、背伸びをしていたぼくには心地よかった。ウイスキーの味が少し、わかり始めた頃でもあった。
 追分まで足を伸ばした日は、堀辰雄や立原道造と同じ空気を吸っているような気持ちになり、涙が滲んだのだった。
 そして星野では、北原白秋の落葉松の詩を諳んじながら歩いた。

からまつの林を過ぎて、
からまつをしみじみと見き。
からまつはさびしかりけり。
たびゆくはさびしかりけり。

からまつの林を出でて、
からまつの林に入りぬ。
からまつの林に入りて、
また細く道はつづけり。

からまつの林の奥も
わが通る道はありけり。
霧雨のかかる道なり。
山風のかよふ道なり。

からまつの林の道は
われのみか、ひともかよひぬ。
細々と通ふ道なり。
さびさびといそぐ道なり。

からまつの林を過ぎて、
ゆゑしらず歩みひそめつ。
からまつはさびしかりけり、
からまつとささやきにけり。

からまつの林を出でて、
浅間嶺にけぶり立つ見つ。
浅間嶺にけぶり立つ見つ。
からまつのまたそのうへに。

からまつの林の雨は
さびしけどいよよしづけし。
かんこ鳥鳴けるのみなる。
からまつの濡るるのみなる。

世の中よ、あはれなりけり。
常なけどうれしかりけり。
山川に山がはの音、
からまつにからまつのかぜ。

 「これらは声に出して歌うべききわのものにあらず」と白秋は注をつけたが、ぼくはかまわず、ゆっくり歩きながら口遊さんだ。白秋が危惧したに違いない五七調の語数音律に酔うことなくぼくはそのとき、この詩の中に潜む白秋という詩人の自らを凝視するまなざしを確かにとらえることができたと思った。ゆえに、第三連でぼくは一度立ち止まり、その続きを、四連に進むことに逡巡したのだ。けれども詩には後半、全身を震わす光が差すのである。今、ここに書き写しながらぼくは、その光に身を浸している。「からまつにからまつのかぜ」。

 日本の文部科学省は国立大学から文系学部を排除するよう通達を出したと聞く。世の中に直接益とならないものは必要ないというのだ。愚かなことだ。かつて、このコラムでも書いたが(No.126)、ぼくたちが歩くのに必要な道幅はわずか1.5メートルもあれば十分だ。けれどももし、この道が1.5メートルの道幅しかなく両側が断崖絶壁であったなら、ぼくたちは足がすくみ、のんびりと歩くことなどできないだろう。今踏みしめている道が踏みしめない大地とつながっていてはじめて、ぼくたちは安心して歩くことができるのである。たとえば人を愛そうとするとき、物理や数学だけでは愛せまい。

(2015.07.02)



No.166 沈んでいく人たち 夢の途中(53)

沈んでいく人たち 夢の途中(53)


  目の前に愛するわが子の細く小さな手が伸びて、「助けて」と叫んでいる。指先は細かく震えている。その歪み、引きつった顔は今にも海面下に隠れようとしている。母親もまた、沈み行く船から身を乗り出して、わが子の手をつかもうとするが、叶わない。
重なる叫び声や悲鳴を聞きながら、神はそれを見捨てるというのか。

 国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)は19日、サハラ砂漠以南のアフリカ諸国や中東のシリアなどからの難民や移民を乗せ、北アフリカから欧州へ向かっていた密航船が地中海で転覆し、約700人が行方不明になっていると報じた。現地時間同日午前までに救助されたのはわずか数十名であるという。
 地中海では今月に入って、中東やアフリカからヨーロッパを目指す難民や移民を乗せた船の転覆が相次ぎ、国際移住機関(IOM)によれば今年の犠牲者の数はおよそ3万人に上るおそれがあるという。
 彼らは紛争・貧困を逃れ、安全な生活を求めて欧州を目指す。粗末な船やゴムボートにすし詰めで乗って、北アフリカに近いイタリア南部海域へと向かう。

 BBCが報じるニュースの映像は、さながら地獄絵である。晩い夕食をとりながら、全身が震える。口に含んだ食べ物が喉から落下していかない。
 これは自然の災害ではない。地震や津波によるものではない。経済的に強い者たちや暴力的な者たちが弱者を追い詰め、追い詰められた人たちが海中深く沈められていくのである。
 もしも自分の愛する者が目の前で海中へと沈んでいくとしたら、悲しみや怒りや、そういった言葉ですら表すことのできない思いに、ただただ立ち尽くすしかないだろう。
 たとえば火災にあった高層ビルの窓から火の手を逃れようと飛び降りる人たちがいるが、その人たちは飛び降りることで救われるとは思ってはいない。飛び降りずにはいられない恐怖感がそこにあるからだ。
 難民たちを襲う恐怖感とは何だ。

 ぼくの研究所では、日本の文部科学省のグローバル人材育成プロジェクトに参画して、日本の大学生に対する教育に取り組んでいるが、この「グローバル人材」なるものについて、たとえば文部科学省や大学という教育機関はどのように定義しているのだろうか。あるいは日本の人たちは、よく言われる「国際人」といったものをどのような人たちであると考えているのだろうか。
 さらにいえば、日本という国は本当に、国を国際化しようとしているのだろうか。そうすることが大切なことであると思っているのだろうか。必要なことであると思っているのだろうか。
 ぼくにはそのようには思えない。
 今や国際語となった英語が使え、国際ビジネスで勝者となることが日本という国や日本人によってイメージされた国際化や国際人であるように思えるのだ。
 たとえば、日本大使館のスタッフは国際人なのか。欧米に進出している日本人学校の教員や日本企業の駐在員たちは、特派員として駐在する日本のメディアの記者たちは、はたして国際人なのか。
 彼らはむしろ、日本から一歩も外国に出たことがない者たちよりもずっと、国際人というカテゴリーから遠い者たちなのかもしれない。

 まずは、これらの難民を救うことだ。食べ物や飲み物がなくて死んでいく人たちに食料や水を、どのような困難があろうとも届けようとすることだ。
 この惨状に涙することだ。体を震わせて怒ることだ。ぼくたち人間はなんということをやっているんだと叫ぶことだ。
 積極的平和主義とは武器を持って戦地に駆けつけることではなく、水とパンを抱えて駆けつけ、苦しむ人たちを抱きしめようとすることではないか。戦いに背を向け、背を火炎放射器で焼かれようとも、向き合う子どもたちに微笑を浮かべようとする強さではないか。
 〈沈んでいく人たち〉に確かなロープを差し伸べようとすることではないのか。
 主義や主張、宗教や思想などどうだっていい。間違いなく間違った方法で搾取されたお金という化け物を弱者のための水とパンに換えて、どんな戦地にでも届けよう。そうすることが唯一、ぼくたちが人間としての誇りを守るためにみんなでできる集団的自衛権の発動といえるだろう。
 〈沈んでいく人たち〉は何も、地中海にのみいるのではない。身の周りにもまた、さまざまな恐怖感から逃れようとして海に放り出された人たちが、今にも沈んでいこうとしている。それらからぼくたちは目を逸らしてはいけない。もう一度、船に乗せてあげようと手を伸ばし、抱き上げようとしなければ。





No.165 父と息子とその妻と 夢の途中(52)

父と息子とその妻と 夢の途中(52)

 4歳になる琴美(ことみ)の手を引いて家を出る。ぼく(相田大・あいだだい)が娘を幼稚園に送るのは、たまのことだ。「気をつけてね」という妻・裕美(ひろみ)の、やれやれといった気持ちが少しだけ混じった声を背中に聞きながら、ぼくたちは歩き出す。これから洗濯や掃除などなど、きっと忙しく働くんだろうなあと思いながら、心の中で(ありがとう)とつぶやく。
 ぼくの気持ちが弾んでいるときは、ところどころ二人で一緒にスキップなんかしながら、あるいは琴美が幼稚園で習ったばかりの歌を一緒に歌いながら、ぼくたちはゆっくりと進む。この「一緒」がうれしい。
 けれども今日は、なんとなく気持ちが弾まない。保育園でぼくが受け持っている2歳の女の子の顔が浮かぶ。ここ3日ほど、表情がさえないのだ。お母さんが迎えに来るのも遅れがちだ。そして、お母さんの顔には激しい疲れが感じられる。いわゆる母子家庭のその子はしかし、いつもは誰よりも明るいのだ。今日はお母さんと少し話をしてみよう。
 「パパ、どうしたの? おなか、いたいの?」
 琴美が心配そうに訊ねる。
 「ううん、大丈夫だよ。パパは元気、元気ッ」
 「コトミのパパは、ゲンキッ、ゲンキッ」

 征一(せいいち)は少しずつ吹き出てくる汗を感じながら、息子の大のことを考えていた。日課のジョギングの最中である。70歳になったが、無駄な脂肪がまったくない筋肉質の体が自慢だ。いや、正直に言えば、社長職を長男に譲り、会長職に退いた今でも、まだまだ自分が支えなければ、といった緊張感が常にある。40歳になった大と長男との間にもう一人息子(次男)がいる。大の下には娘もいる。それぞれ大人として立派に仕事に打ち込んでいるが、子どもたちの頑張る姿を見ながら、内臓の深いところにかすかな痺れにも似た感覚を覚えるのだ。
 征一はようやく今、自分が〈親〉というものになった気がしている。若いときはがむしゃらに働いた。働いていないと不安だった。大切なものが突然消えてしまうかもしれないといった恐怖心にも似た不安感があった。幸い、妻も妻の両親も征一を信頼してくれた。子どもと接する時間はあまりなかったが、妻が余りあるほどに子どもたちを抱きしめてくれた。ありがたかった。
 征一が子どもたちのことを強く抱きしめたいと思うようになったときは、すでに子どもたちのあごにはひげが生えていた。話しかけても「ああ、ウン」といった返事しか返ってこなくなり、征一は取り残されたような寂しさを感じた。
 大が大学を卒業する年に、海外の空気を吸わせてみようと思ったのは、いわば征一の青春時代の憧れだった。自分も外国に行ってみたかった、というそういった思いではなく、異なった空気を思いっきり吸い込ませてやりたいという思いである。
 だから、実は外国でなくてもよかったのだ。何でもいい、今の環境とは異なった世界で呼吸をさせ、そこでもがかせ、自分が経験できなかったものとの出会いをさせたい、そう思ったのだ。
 しばらくしてロンドンに留学した大に会ったとき、大は「将来は父さんの仕事を手伝いたい」と征一に笑顔で言った。
 「そんなことを考える必要はまったくない。お前に仕事を手伝わせるつもりはない。お前は自分の道を探せ」
 征一は即座に、厳しい表情でそう言った。大の顔は凍りついた。
 数年が流れた。
 ある夜、大が教育者の道に進みたいと考えていると聞いた征一はその瞬間、会社の重役たちが並ぶ宴席の場で、立ち上がって、「うおーッ、おれの子どもが先生になるぞーッ」と叫んだ。全身に喜びが満ちていた。
 日本に戻った大は、臆せず夢を語ることのできる青年になっていた。そして40歳になった今、自分の納得できる保育、幼児教育の世界を創りたいと再びもがき始めた。

 裕美は最近の夫の変化が時におそろしくもある。こんなにも優しい男の人がいるのだろうかと思っていた夫が、一人でじっと考え込んでいると、ときにおそろしいほどの形相になっているのだ。こんなことではいけないんだ、どうしてみんな子どもたちのことをもっと考えようとしないんだ、夫はしきりに口にするようになった。眠っているとき、全身に汗をびっしょりかいていたりもする。まるで明日、戦場に行く兵士のような厳しさなのだ。
 しかし、その厳しい姿の奥深くに、大きく成長した教育への愛情が優しい表情とともにあるのだということも、裕美にはわかっていた。

 教育は、子どもの幸せのためにある。それを考えるのはもちろんまず、親である。そして先生だ。子どもたちが初めて出会う、親ではない大人の存在は、子どもたちを宇宙飛行士のようにまったく新しい世界へと誘(いざな)う。
 相田大も裕美も、そして征一も今、じっと明日を見つめている。



No.164 泣き声 夢の途中(51)

泣き声 夢の途中(51)

 朝、いつもの時間にバスに乗る。名前も知らない顔見知りの人たちがいつものようにバス停に集まり、いつものようにバスの同じ席に腰掛ける。
 逞しい体格をした黒人のお父さんがいる。〈お父さん〉というのは、いつも小さな子どもを連れているからである。4、5歳であろうか。男の子である。
 彼はいつも、背伸びをしてオイスター(定期券)を機械にかざす。機嫌のいい朝には、運転手に‘Good Morning!’と笑顔で挨拶する。
 けれども、ご機嫌斜めの朝は大変だ。泣き声がバス中に響き渡る。ぼくと目が合った〈お父さん〉は、(いやはや、困ったよ)といった顔で苦笑いをする。(うん、うん)とぼくは、笑顔を返す。
 子どもの笑顔も好きだが、泣き声も悪くない、とぼくは思う。いやむしろ、泣き声は好きだ。(もっと泣け)と声援を送りたくなったりもする。子どもは全身で、何かを訴えようとしている。それは多分に身勝手で、甘えなのだが、それでいいじゃないかと思う。身勝手さや甘えが次第に、〈社会〉というものによって、それを許されないものとして突きつけられてくるのだ。それまでは全身で泣くがいい。
 周りの乗客は誰も迷惑そうにはしていない。ほっとする。

 日本出張中に、ホテルのテレビで「クローズ・アップ現代」という番組を視る。保育所や幼稚園を取り巻く問題について特集していた。
 住まいの近くに保育所や幼稚園ができるのを嫌う人たちが増えており、そのため共稼ぎの人たちを支える保育所等の設置が難しいというのだ。小さな子どもたちの歓声や泣き声がうるさいというのである。
 ようやく開園することになった幼稚園の、園庭はあるのだが、庭で遊ばせると苦情が出るので建物の中から外に出すことができなくなっているという実情が、新聞などのメディアでもたびたび報じられている。
 老人社会となった今、余生を静かに過ごしたいという思いもわからない訳ではないが、なんとなく寂しい。
 ぼくたちが子どもだった頃の大人たちは、もっと大きかったように思うのだ。もっと、厳しくも優しいまなざしで、ぼくたちのやんちゃ振りを見守ってくれていたように思う。
 ぼくたちは確かに、日本という国が右肩上がりに成長を遂げていく恩恵にどっぷりとつかって大人になり、他の人間よりも少しでもいい暮らしができるようにと利己的な競争に明け暮れた。
 それは結構、大変な競争社会ではあった。ゆえに疲れた老人たちは、いや老人に限らず中年連中も、身に付いた利己的な考え方を支えに、「静かにしてくれ」と言いたいのだろうか。

 日本に旅した長男の家族が、日本国内を旅する中で、なんともいえない居心地の悪さを感じたという。長男の息子がまだベビーカーが必要な時の話である。
 旅行中だからと折りたたみの小さなベビーカーにしたにもかかわらず、しかも折りたたんでバスに乗ったにもかかわらず、他の乗客から迷惑そうな、嫌な目で見られ、ある中年のご婦人からは「ちょっとは考えてもらえないものかしら」と舌打ちされたというのだ。長男のスイス人の妻は、顔を真っ赤にしながら震えたという。
 ぼくや彼らが住むロンドンのバスは全て、ベビーカーに限らず、障害者用の車椅子のままでも乗り込むことができるようになっている。
 乗り込むときには、滑らかに乗れるように、スライド式のスロープが出てくる仕組みである。バスの中にはベビーカーや車椅子用のたっぷりとした空間がとってあり、乗客の誰もがそれらの空間を快く譲り、手伝ったりもする。
 東京では2020年にオリンピックとともにパラリンピックも開催されるが、流行語ともなった〈おもてなし〉の精神は、ファーストフードの店員のマニュアル化された表面的な接客ことばのように、心の伴わないものではないかと心配する。

 英国に留学したことがきっかけとなって、〈教育〉という世界に魅せられ、英国の幼児教育(保育士)の資格を取った相田大(あいだ・だい)は、日本に帰国すると日本の資格も取得して今、東京の保育所で働いている。
 早朝から夜晩くまで、ゼロ歳児からの小さな子どもたちの教育・保育に取り組む彼は、40歳になった今も、まるで青年のように目を輝かせながら、教育・保育のあるべき姿について語る。
 「こんな社会でいいんでしょうか。どうして子どもたちを、もっともっとあたたかく見守ってやろうとしないんでしょうか。行政のさまざまな法規制等も、ぼくには本当に子どもたちのことを考えてのことには思えないんです」と毎日のようにメールで訴えてくる彼は、しかし諦めてはいない。(この稿、続く)




No.163 括る。 夢の途中(50)

括る。 夢の途中(50)


 Islamic State (Isis) がアメリカ人のジャーナリストを馘首という方法で公開処刑した。残虐極まりない彼らの行為に 、国際世論は驚愕し、憤った。
 しばらくして、イギリス人が同じく処刑された。人々は深い悲しみとともに、得体の知れない畏怖心に震えた。
 人類はもはや、他のいかなる動物と比べても獰猛で、醜く危険な生き物となってしまったのである。
 だが、見るに堪えない殺され方をしている人たちはこの人たちだけではない。毎日のように数多くの者たちが死んでいく。
 たとえば、〈戦争〉の〈被害者〉や〈戦死者〉が〈○○名〉という形で新聞等のメディアで報じられるが、このような数字を読んだ読者はいったい、何を思い浮かべることができるだろうか。
 理不尽に殺されていった者たちの苦痛に歪んだ顔や、もぎ取られた腕から吹き出す血、つい数分前まで語り合っていた戦友の首をなくした胴体、それらの一つひとつをどれだけ想像することができるだろうか。
 〈戦争〉ということばで器用に整理されたものは、紛れもなく〈殺し合い〉なのだ。人が殺し、人に殺されるといった〈殺し合い〉なのだ。この〈人〉というものには、一人ひとり名前があり、顔がある。
 殺されるだけでなく、自分もまた、自分が引いた引き金によって、敵の兵士を殺す。その男には、自分がそうであるように、愛する妻や恋人、子どもや両親、数多くの友人といった、そういうかけがえのない人たちがいるかもしれない。
 一人ひとりが自分でなければ生きられない人生を生きている。
 しかしながら、〈殺し合い〉が〈戦争〉ということばで整理され、一人ひとりの生と死が見えなくなってしまう〈戦死者〉などと括(くく)られてしまうともはや、当事者以外の者たちには実感を伴わない表面的なニュースになってしまうのだ。
 飢餓で続々と死んでいくソマリアの子どもたちもまた、ニュースの中の死者である。

 ある教育評論家が、〈モンスター・ペアレント〉なることばを生み出した。学校や教育委員会にむちゃくちゃな要求を突きつけてくる保護者のことをいうようだ。小学校や中学校だけでなく、いまや高校や大学にも出没するという。テレビドラマ化もされ、現場の教員や校長にぼくも、直接いくつかの事例を聞いた。
 恥ずかしいことに、ぼくも少しこのことばに踊らされた。けしからん親たちだ、と憤ったのだ。
 だが、ぼくは今、このことばを否定する。この種のことばが嫌いになったのだ。
 親たちの、学校や教員に対する要求や文句には確かに、とんでもないものが数多くあるが、親とはそういうものなのだ。自分の子どものこととなると、論理や常識、あるいはエチケットやプロトコールなどというものはかなぐり捨てて、ぜがひでも守ろうとするものなのだ。親ばかでない親は親ではないと云ってもいい。
 さまざまな親がいるのであるが、それをたった一つのことばである〈モンスター・ペアレント〉で括ってしまうと、一人ひとりの親の、つまりは子どもの置かれている状況が見えなくなってしまう。教師や学校、教育委員会が、あの親は〈モンスター〉だから、などと一つのカテゴリーに放り込んでしまったら、子どもの苦しみや困惑、苛立ちや絶望等にたどり着くことができなくなってしまうだろう。
 迎合せよと云っているのではない。間違っていることにははっきりとそのことを指摘し、あくまで知的に、自信を持って、粘り強く向き合っていかなければならない。現場はそんなに甘いものではない、と叱られそうだが、けれどもそうすることが教師の仕事ではないか。一人で向き合うのが難しければ、二人ででも、三人ででも、五人ででも、十人ででも、心を込めて、子どもを親ともども抱きしめたい。
 ぼくたちは、安易に〈括る〉ことで自分の視界を狭め、視力を鈍らせ、思考力を低下させてしまうのである。

 ロンドンに長い間住み、たまに日本に戻ってみると、すばらしく便利な日本に驚嘆する。清潔で、豊かで。しかしながら、なんと表現したらよいのか、英国と比べてというだけでなく、他の国と比べても、なんともいえない独特の空気を感じてしまう。
 それはおそらく、均一化した空気だ。いろいろなものが混ざっていない、単一の、たとえば海で泳ぐのとは違った、プールのようなところに投げ込まれたような、そういったものだ。いろいろな未知のものが無数に存在するような海ではなく、しっかりと囲われて、清潔に管理されているプールのような、そういった空間である。それはおそらく、世界では極めて稀で、日本は特異な国になっているように思う。
 そういった空気を支えるものの一つに、この〈括る〉といったまなざしがあるように思う。あらゆるものを類型化してしまうこのまなざしは、時に、お互いの呼吸を息苦しくさせてはいないかと心配しているのである。


No.162 呼吸 夢の途中(49)

呼吸 夢の途中(49)

 〈呼吸〉について考えている。
 ある朝のことだ。電車の窓から外を眺めていたぼくは、深くため息をついた。そのため息にぼくは、あきれた。いや、そのようなため息をついたぼくにあきれ、自分自身を軽蔑したのだ。
 未熟者め!
 そして、しばらくしてぼくは、不思議なことに気付いたのだった。
 いわゆる〈息〉は「吸って、吐く」ということなのだが、そのことを〈吐吸〉とはいわない。広辞苑は〈呼吸〉について、「生物が外界から酸素を取り入れ、二酸化炭素を外界に放出する現象」と説明する。この「取り入れ(吸気)」「放出する(呼気)」現象は確かにそうなのだが、この二つの現象は等しく並び立つものではない。
 「吸う」、すなわち「取り入れる」行為はほぼ無意識に行われるが、「吐く」、すなわち「放出する」行為は時に、意識的なものだ。失望したり、心配したり、あるいは感心したりしたときにつく〈ため息〉などは多分に意識的だ。
 この意識的な「吐く」という行為をなぜ、〈呼〉というのだろう。
 〈呼〉は〈乎〉に依ると考えられ、白川静『字通』はこれを象形として、「板上に遊舌をつけた鳴子板の形」と説明する。「もと神事に用いた」という。つまり、神に振り向いてほしいときの所作ということであろう。〈呼〉が単に「放出する」といった意味ではなく、なにものかに働きかけようとする意であることがわかるが、ではどうして、「吸って、吐く」という無意識に行われていると思える行為の一方がそのような結構重い意味を持っているのか。
 ぼくたちは無意識に吸い込み、意識的に吐き出している。であるとすると、〈死ぬ〉ということは、吸い込むことはできても吐き出すことができない状態ということではないか。

 シャボン玉が好きで、夏休みの夕暮れ時に、縁側に腰掛けて、何度も何度もぼくは、ストローを口にした。半ズボンをはいたぼくのたよりなく細い脚を、うまくとばなかったシャボン玉のはじけた石鹸水が濡らした。
 今度こそ、今度こそきれいにとぼくは、心を込めて、静かに、優しく、石鹸水に息を吹き込むのだった。
 そういえば、小沢昭一が晩年、「シャボン玉とんだ、屋根までとんだ、……」と口ずさむとき、彼はいつも涙を浮かべていた。
 ぼくたちには、西日を浴びながら、優しい心を、丁寧に、何度も何度も吹き込もうとした少年のころの風景があり、だからこそ、大人になった今、その風景に何度も叱られ続けている。

 なにものかに、何らかのことを働きかけようとするには、エネルギーが要る。力が必要だ。
 はたらきかけようとするものに振り向いてほしいから、そのものに高く、高くとんでほしいから、そのものに幸せというものを感じてほしいから、そのものを優しさで包み込んでしまいたいから、自分の息で満たしたいから、と少しばかりわがままで、しかし間違いなく一心に、体の中にあるものを注ぎ込もうとする。
 そのためには、力が要る。
 腕力や、経済力や、名誉や、そういったものではなく、シャボン玉を膨らませようとする少年の、あの真剣な、たまらなく優しい、そういった力が必要なのだ。

 けれども、シャボン玉は必ずはじけて、消えてしまう。どんなに丁寧に、心を込めてうみ出したものも、必ずこわれてしまう。「うまれてすぐに、こわれて消えた、……」というものだってあるのだ。
 少年の日、庭の植物をくり返しスケッチしたぼくは、シャボン玉もまた、飽きずにとばした。こわれても、こわれてもぼくは、何度もストローを口にくわえた。
 おそらく、そうなのだと思う。
 ぼくたちは吸い込むことで生きているのではないのだ。生きるということは、なにものかに働きかけようとして、自分の体内の大切なものを、注ぎ込もうとすることなのだ。
 一心にくり返し、注ぎ込まなければならない。しかも丁寧に、優しく、心を込めて吹き込むのだ。さもないと、それはすぐにこわれてしまう。

 相変わらず、ため息をついている。何かを考えているわけでもないのにため息をつくことだってある。どうしようもないほど、未熟である。なあに、生きている証拠だよ、と独り言ちてみる。しかしながら、吐く息について少し責任を持たなければならないなあ、とも思う。
 シャボン玉はうまくとんだものもしばらくするとこわれてしまうが、くり返し生み出し、とばそうとする少年の心はいつまでたってもこわれたりはしない。


No.161 劣化する言語と教育 夢の途中(48)

劣化する言語と教育 夢の途中(48)

 東京都議会における女性蔑視とも人格否定ともいえる議員の野次が日本国内外で問題となっている。ぼくの住む英国のメディアでも取り上げられた。
 震災の復興に関する品格を疑うような発言も大臣の口から漏れた。最後はカネで解決できるという、被災した人たちに対する思いの感じられない奢った本音を垣間見させるものであった。
 このような発言を拾おうとすれば苦もなくいくつも取り上げることができるであろう。それほど、ことばは今、劣化している。
 特に政治家の言動についてはその知性のなさに唖然とするほどであり、汚臭さえ感じるのだ。
 東京都の議員の野次を大きく取り上げるならば、政治家のブログやツイッターの書き込みもまた読むといい。そこで繰り広げられているすさまじい誹謗中傷、罵詈雑言の数々は、中高校生がいじめに用いることば遣いや発想と寸部も違(たが)わない。
 そういった政治家や役人たちが教育行政を担い、いじめ問題や教育改革について方向性や方法を決めていく。

*

 ほんとうにどうなっていくのだろうと思う。
 ことばやその表現方法について極めて問題がある大阪市の市長がまた、新たな方策を打ち出した。
 校内暴力などの問題行動を起こす小中学校の児童・生徒を学校に登校させず、専用の施設で個別に教育していくというのである。いわゆる隔離教育である。
 確かに、校内暴力や非行、著しい授業妨害等、教育現場の苦悩は他の社会の者には想像できないほど厳しい。真面目に学ぼうとする生徒たちにとって、理不尽な苦痛に耐える毎日は決して健全な知性を生み出す場とはならない。教師もまた、自らの心をさえ破壊されかねない日常は、教育に志した崇高な思いを粉々に打ち砕かれていく。
 しかしこれは、武器を持って制圧しようとする戦争の論理ではないか。正義のためなら人殺しも認められるといった論理ではないか。教育は、学校というところはそういった論理が跋扈してもよいのか。
 「真面目にやろうとしている生徒がバカをみてはならない」というこの市長のことばは、あるいは支持を集めるのかもしれない。それがぼくにはとても怖ろしいことに思えるのだ。みんなで「そうだ、そうだ」と問題児といわれる子どもたちを締め出そうというエネルギーが向かう先に、確かな社会を構築しようとする優しさはあるのだろうか。
 ぼくは問題児といわれる子どもたちと数多く向き合ってきた。明らかに法を犯している子どもたちもいた。それはこの英国社会でも同じだ。グループで大人を殴りつけている見知らぬ若者たちを大声で怒鳴りつけ、パトカーがやってきたりもした。そういったとき、大人たちは若者たちをすぐ隔離しようとするのだ。「あいつらは放っておけばいいんだよ。下手に関わると大怪我をするかもしれないし、間違えば命だって狙われるよ」と忠告するのはポリスであり、教育委員会の役人であり、常識ある大人たちである。彼らはいつもそういった子どもたちを隔離し、見捨てようとする。
 この大阪市の隔離教育がどのような教育効果を生むというのだろうか。問題児がいなくなった教室では、いい中学や高校、いい大学に進学して、自分の幸せだけを考えようとする者たちの利己的な大人のまなざしが育成されていく。
 正月返上で塾の特訓講習会に参加した小学生がテレビのレポーターの質問に応えて、「将来偉くなって、今遊んでいるやつらをこき使ってやる」と言い、その姿をニヤニヤしながらうれしそうに見守る母親の姿が思い出される。この親子は明らかに問題児ではないか。
 隔離された子どもたちはどうだろう。もし自分がそういった特別な施設に閉じ込められたらどうだろう。〈明日〉を思うことができるだろうか。〈未来〉を見つめようとするだろうか。そこにあるのは大人たちによって烙印された〈絶望〉ではないか。
 どうして問題児といわれるようになったのだろうか。そしてまた、その問題児たちはなぜ、そう見られながらも、邪魔者扱いされながらも、級友たちのいる学校に来るのか。大人は、社会はもっと、自らを責めるべきではないか。産まれた時から問題児だったという子どもは一人としていまい。間違いなく、ぼくたち大人が問題児といわれる子どもたちを生み出しているのだ。その責任の取り方は隔離することではないだろう。
 一クラスの児童・生徒の数を半減させ、教員の数を倍増させ、一人ひとりと向き合うきめ細かい教育を幼稚園・保育所、小学校のときから徹底させればいい。親に対する教育も、その環境調査も必要だ。未熟な親をプロの親に教育していく必要がある。それらにかかる費用は社会みんなで負担する。税金は教育と社会保障にもっともっと当てなければならない。
 まずは、メディアの注目を集めるためだけのとんでもないことば遣いや教育破壊をしようとする政治家たちを一掃しなければならない。教育は、彼らの政治的野心のための玩具ではないのだ。
 メディアや御用学者たちも大いに反省すべきだと思う。教育学者と自認する者たちは今こそ立ち上がり、市庁舎前でデモでもしてみたらどうだろう。少し、自らの筋肉も使ってみるのだ。

*

 道徳の教科化やこのような隔離教育ではいつまでたっても幸せな社会は生まれない。病む者たちが突きつける悲痛な叫びと正面から向き合う豊かさこそが求められている、そう思うのだ。

(2014.06.24)

No.160 朝の風景と 夢の途中(47)

朝の風景と 夢の途中(47)


 眠っているのか目覚めているのか分からぬような浅い眠りで朝を迎えたぼくは、熱いシャワーを浴びてもなお、疲労感を覚えていた。庭では、小鳥たちが囀(さえず)る樹々の中をもう、栗鼠たちが飛び回っている。
 バス停でバスを待っていると、あるご婦人がやってきた。今日はついてないな、と思う。 このご婦人とは数日前に同じバスに乗っていた。あるバス停を通り過ぎたところでそのご婦人が運転手のところに行き、「どうしてあのバス停を通過したの。自分はあのバス停で降りたかったのに」と抗議した。確かにその通過したバス停で降ろしてもらえると、電車の駅に行くには都合がいい。けれども本来、そのバスが停車すべきバス停ではない。
 「このバスはあのバス停には停まらないんです」という運転手に、「でも、停めてくれる運転手だってたくさんいるわ」とご婦人。「そういうことをすると危険なんですよ」と応える運転手に捨て台詞を吐いてあきらめたご婦人は、じっとその様子を見ていたぼくに八つ当たりした、̏ Thanks for your help! ̋
 電車に乗って、Mobile phoneでニュースをチェックしたり、日本事務局へメールを送ったりする。ぼくはかつて、つい最近まで、このMobile phoneのようなツールが嫌いだった。なんだか軽薄で、大切な時間を浪費しているような気がしていたのだ。いや、〈今〉というものに迎合しているような後ろめたさを感じていたのだ。けれども今や、ついつい、急ぐ必要もない情報を確認していたりする自分にはっとすることが増えてきた。
 電車を乗り換えるとぼくは、鞄の中から小さな単行本を取り出した。ずっと前に日本に出張したとき買っておいたのだが、その後この作品はずいぶんと有名になり、だから何となく読まずに放って置いたのだった。今朝はMobile phoneの風景を変えようと思い、手近にあったこの本を鞄に投げ入れたのだ。
 三浦しをんの『舟を編む』。
 最初の50頁は瞬く間に読んだ。ああ、いい小説だな、と本を閉じて思う。ちょうどいい、今回はこれにしよう。
 日本に向かう飛行機の中で読もうと思うのだ。最近は重松清の本ばかり機内では読んでいたが、今回はこれを読むことにする。短い作品だし、軽妙な文章だから、機内で読むにはちょうどいい。それまでは読まずにとっておこう。そうしないと一晩で読んでしまいそうで、そうなると機内でいろいろなことを考え込んでしまったりするかもしれないし、この間のように日本に到着するまでずっとコンピュータ相手に仕事をしてしまうかもしれない。
 それにしても、この小説の主人公はたまらなくいい。馬締光也、「まじめみつや」と読む。つまり、真面目なのだ。ある出版社の辞書編集部に勤務する青年である。
 朴訥な青年が辞書編集という極めて地味な作業に打ち込んでいく。周りに現れる者たちがそれぞれきちんと役割を演じていて、いわば漫画サザエさんの世界のような健全さである。
 本を閉じたぼくは電車の乗客たちを、相手に気持ち悪く思われない程度に観察する。早朝の電車である。眠り足りなかったのか、大きな口を開けて眠り込んでいる人、Guardianを読む人、Financial Timesを読む人、ファイルを開いてボールペンで何かを書き込んでいる人、ヘッドフォンをつけて音楽を聴いている人、Mobile phoneとにらめっこしている人。みんな、それぞれの表情で一日の始まりを迎えている。
 窓から外を眺める。あ、あんなところに猫がいる。怖ろしく高いところの建設用のクレーン機が動いている。誰かがもう働いているのだ。
 あ、ぼくの心を押しつぶしそうだった朝の重さは、いつの間にか消え失せている。

 日本から電話がかかる。ハリウッド映画でデビューし、今、日本に帰国中のMからである。近々、東京の舞台で芝居をするので観てほしいという。芝居の初日が、ぼくの今回の日本出張の日本到着のあくる日の夜だという。
 「どうだ、日本の芝居は?」
 「今のところ、うまくいっています、まだ稽古の段階ですから。ただ、本番が近づいてきたので、みんな少しいらだってきてはいますが」
 「当たり前だよな、いいものをつくろうとしたらぶつかりあって、苦しんで苦しんで、いっぱい背伸びしてやらないとな」
 「はい」
 若く弾む彼の声を聞いていると、若いということはやはりいいなあと素直に思う。前を向いているのだ、今、Mは。前だけを、前だけを見据えて、明日を信じて。
では、ぼくはどうだ。
 もう全速力で走ることはできない。息苦しくなり、転んでしまうかもしれない。
 けれども、前を見つめていたい。すぐ前の景色ではなく、ずっと向こうの、はるかかなたにあるに違いないものを見つめようと目を凝らしたい。
 後ろを振り向いてため息をつき、今までのものを守ることにのみ心も筋肉も使うのではなく、明日のほうに向かって前のめりになり、みっともなくとも走ろうとしたい。
 ぼくは〈せんせい〉であり、先生は明日を信じる人間でなければならないのだから。

(2014.05.07)



No.159 桜 夢の途中(46)

桜 夢の途中(46)


眠っているのか目覚めているのか分からぬような浅い眠りで朝を迎えたぼくは、熱いシャワーを浴びてもなお、疲労感を覚えていた。庭では、小鳥たちが囀(さえず)る樹々の中をもう、栗鼠たちが飛び回っている。
バス停でバスを待っていると、あるご婦人がやってきた。今日はついてないな、と思う。このご婦人とは数日前に同じバスに乗っていた。あるバス停を通り過ぎたところでそのご婦人が運転手のところに行き、「どうしてあのバス停を通過したの。自分はあのバス停で降りたかったのに」と抗議した。確かにその通過したバス停で降ろしてもらえると、電車の駅に行くには都合がいい。けれども本来、そのバスが停車すべきバス停ではない。「このバスはあのバス停には停まらないんです」という運転手に、「でも、停めてくれる運転手だってたくさんいるわ」とご婦人。「そういうことをすると危険なんですよ」と応える運転手に捨て台詞を吐いてあきらめたご婦人は、じっとその様子を見ていたぼくに八つ当たりした、 "Thanks for your help! "
電車に乗って、Mobile phoneでニュースをチェックしたり、日本事務局へメールを送ったりする。ぼくはかつて、つい最近まで、このMobile phoneのようなツールが嫌いだった。なんだか軽薄で、大切な時間を浪費しているような気がしていたのだ。いや、〈今〉というものに迎合しているような後ろめたさを感じていたのだ。けれども今や、ついつい、急ぐ必要もない情報を確認していたりする自分にはっとすることが増えてきた。
電車を乗り換えるとぼくは、鞄の中から小さな単行本を取り出した。ずっと前に日本に出張したとき買っておいたのだが、その後この作品はずいぶんと有名になり、だから何となく読まずに放って置いたのだった。今朝はMobile phoneの風景を変えようと思い、手近にあったこの本を鞄に投げ入れたのだ。
三浦しをんの『舟を編む』。
最初の50頁は瞬く間に読んだ。ああ、いい小説だな、と本を閉じて思う。ちょうどいい、今回はこれにしよう。
日本に向かう飛行機の中で読もうと思うのだ。最近は重松清の本ばかり機内では読んでいたが、今回はこれを読むことにする。短い作品だし、軽妙な文章だから、機内で読むにはちょうどいい。それまでは読まずにとっておこう。そうしないと一晩で読んでしまいそうで、そうなると機内でいろいろなことを考え込んでしまったりするかもしれないし、この間のように日本に到着するまでずっとコンピュータ相手に仕事をしてしまうかもしれない。
それにしても、この小説の主人公はたまらなくいい。馬締光也、「まじめみつや」と読む。つまり、真面目なのだ。ある出版社の辞書編集部に勤務する青年である。
朴訥な青年が辞書編集という極めて地味な作業に打ち込んでいく。周りに現れる者たちがそれぞれきちんと役割を演じていて、いわば漫画サザエさんの世界のような健全さである。
本を閉じたぼくは電車の乗客たちを、相手に気持ち悪く思われない程度に観察する。早朝の電車である。眠り足りなかったのか、大きな口を開けて眠り込んでいる人、Guardianを読む人、Financial Timesを読む人、ファイルを開いてボールペンで何かを書き込んでいる人、ヘッドフォンをつけて音楽を聴いている人、Mobile phoneとにらめっこしている人。みんな、それぞれの表情で一日の始まりを迎えている。
窓から外を眺める。あ、あんなところに猫がいる。怖ろしく高いところの建設用のクレーン機が動いている。誰かがもう働いているのだ。
あ、ぼくの心を押しつぶしそうだった朝の重さは、いつの間にか消え失せている。

日本から電話がかかる。ハリウッド映画でデビューし、今、日本に帰国中のMからである。近々、東京の舞台で芝居をするので観てほしいという。芝居の初日が、ぼくの今回の日本出張の日本到着のあくる日の夜だという。
「どうだ、日本の芝居は?」
「今のところ、うまくいっています、まだ稽古の段階ですから。ただ、本番が近づいてきたので、みんな少しいらだってきてはいますが」
「当たり前だよな、いいものをつくろうとしたらぶつかりあって、苦しんで苦しんで、いっぱい背伸びしてやらないとな」
「はい」
若く弾む彼の声を聞いていると、若いということはやはりいいなあと素直に思う。前を向いているのだ、今、Mは。前だけを、前だけを見据えて、明日を信じて。
では、ぼくはどうだ。
もう全速力で走ることはできない。息苦しくなり、転んでしまうかもしれない。
けれども、前を見つめていたい。すぐ前の景色ではなく、ずっと向こうの、はるかかなたにあるに違いないものを見つめようと目を凝らしたい。
後ろを振り向いてため息をつき、今までのものを守ることにのみ心も筋肉も使うのではなく、明日のほうに向かって前のめりになり、みっともなくとも走ろうとしたい。
ぼくは〈せんせい〉であり、先生は明日を信じる人間でなければならないのだから。

(2014.03.08)



No.158 砂時計 夢の途中(45)

砂時計 夢の途中(45)

 英国の大学で英語・英文学を教えている長男の、6歳になる息子が飛んだり跳ねたりしながら抱き付いてきた。「ジージ、スペシャルだよ、すごいんだよ、ヴェリー、スペシャルなんだよ」飛び跳ねながら、彼は繰り返し叫んだ。彼がぼくにくれるクリスマス・プレゼントがすごいんだ、というのである。
 彼の母親の、つまり長男のパートナーの祖国スイスの習慣ではプレゼントはクリスマス・イヴに開けるのだというので、彼が幾重にも幾重にも包装してくれたプレゼントを開ける。その包装の丁寧さだけで、ぼくの目頭が緩む。
 それは小さな砂時計だった。彼の通うロンドン・ハムステッドのプレップ・スクール(小学校)で催されたチャリティー・バザーの会場で砂時計を見つけた時、ジージにはこれをプレゼントするのだと目を輝かせて決め、自分の小遣いをはたいてそれを買ったのだという。その日から、早くクリスマスの日が来ないかと騒いでいたのだと長男がうれしそうに話してくれた。
 砂はきっかり3分で下に落ちた。ぼくは繰り返し、砂を落とした。落ちていく砂を見つめながら、時の重さを感じた。

 師走に入ってから体調を崩していたぼくは、クリスマス・イヴの日から新年を迎えてもしばらくは、起きているのが苦しく、ベッドに横になっては起き、起きてはすぐ横になるといった体たらくだった。一年の疲れが出たのだろう。
 ベッドに横になり、ベッドサイドのテーブルに砂時計を置く。横になったまま、砂が落ちていくのをじっと見つめる。
 時がはっきりとした形で過ぎてゆく。

 2013年が逝った。時は、産まれたかと思えば、瞬時に死ぬ。同じ時も季節も再び巡り来ることは決してない。
 2014年は、研究所が産まれて満25年を迎える記念すべき年である。ついこの前20周年を祝ったかと思えば、といった感慨を覚える。
 教え子の母親から届いた新年のあいさつの長い手紙文に、「先生、一年がどんどん早く過ぎるようになりますよ」と書いてあったが、本当にそう感じる。
 ただ、早く過ぎ去る一年が、軽やかに過ぎていくわけではない。ぼくはこの一年も毎日、さまざまなことを考えた。一日たりとも、何も考えずになめらかに、あるいは軽やかに過ごした日はなかっただろう。

 ぼくは時に、日本という国が教育改革の名のもとに向かおうとしている方向に怒った。
 道徳の教科化、教科書のタブレット化、教科書検定の強化、教育委員会制度の改定、英語教育の取り扱い、グローバル人材育成プロジェクトの目的や方法、大学入学試験改革のあり方、等々、多くの危惧を感じた。日本の教育学者たちは今、何をしているのだろうといらだちさえ覚えた。何とかミクスなる流れの中で、彼らもまた、自らの生活を守ることに終始し、ふやけた思考への後ろめたささえも持たぬまま学者然として生きているのだろう。
 ぼくは時に、メディアの狡猾さと退廃に嘔吐した。
現代社会における最大の権力者はメディアといって間違いない。ゆえに、権力者たる政治家たちはメディアを牛耳ろうとし、あるいはメディアにすり寄ろうともする。しかしながらそのことによってむしろ、世界中のメディアは堕落し、あるいは自滅しようとしている。ジャーナリズムなど、とっくに消えてしまっているのかもしれない。メディアは単に、商品たる情報を売っているのだ。
 英国の政治・文化誌に編集者として勤め、自らも様々な執筆をしている次男は、メディアの将来に少なからず不安を感じている。英国のトップのオピニオン誌であり、リベラルの代表的存在である彼の出版社においても、さまざまな政治的、価値観上の葛藤があるようである。
 日本のメディアはどうだろう。数多くの人たちとその点について語り合った。海外生活を送る人や国際的な仕事に従事する人たちであるが、日本の新聞や雑誌、テレビ等の特殊性については誰もが口をそろえる。鎖国状態であると。
 日本はいつの間にか、鎖国状態に入っている。何を馬鹿なと言われるかもしれないが、少なくとも国民の意識は間違いなく、日本と外国といった区切り目をより大きく太い線で括(くく)ってしまったようだ。
 日本国内に流れるニュース等の報道のほとんどは国内ニュースであり、わずかに流れる国際ニュースといえば、日本と中国、日本と韓国、といった対日本の国際ニュースにほぼ限定される。
 グローバルな人材を育成しようというが、グローバルな人材とはどのような者のことをいうのかについては語られない。せいぜい英語が話せる人間のことだという回答しか得られない。
 おそらく、日本という国は今、もっとも大きな危機を迎えている。残念なことに、大人たちがそのことに気づいていない。気づこうとしていない。子どもたちの未来について考えようとする知性が足りないからだ。日本に戻った際にテレビ等で流れる番組のほとんどは、中学生や高校生向けの、いわば国民のレベルを馬鹿にしたようなものばかりではないか。

砂時計の砂が刻む時は、今の時の移ろいであるが、下に落ちてたまった砂は過去であり、上にまだ残っている砂は未来である。 

(2014.1.24)




No.157 「よい子」は、よい子か。 夢の途中(44)

「よい子」は、よい子か。 夢の途中(44)


 政権が代わり、教育改革がかなりのスピードで進もうとしている。子どもたちの未来を見据えたものというよりは、日本という国の将来を優先させた改革といった印象が強い。

*

 「道徳」が教科となる。今までと何が違うかといえば、国語や算数と同じように評価がなされるということだ。
 つまり、「道徳のできる子」と、「できない子」が生まれるのだ。「道徳」でいい評価を得るには、「よい子の作文」が書けなければならない。「よい子の意見」を発表することも大切だ。
 「みんな仲良く、喧嘩なんかしてはいけない」とか、「どの国とも仲良くし、戦争などはこの世からなくしていかなければならない」とか、「国を愛し、国のためには個人的なわがままなど言ってはならない」とか、言えて、書ける子どもにならなければならない。
 「喧嘩をしてはいけないと教えられ、戦争をしてはいけないと学んだぼくたちの国に、どうして戦争をしたり、人を殺すことのできる兵器といったものがあるのだろう」とか、「一体何という会社が人を殺す兵器を作って儲けているのだろう」とか、「人を傷つけることば遣いをしてはいけないと教えられたのに、市長さんのツイッターに登場する汚いことばはどうして許されるのだろう」とか、「大変な額の収入を得ている人がいるかと思えば、朝から晩まで必死に働いても貧しさに苦しむ人たちがいるのはどうしてだろう」とか、「戦争をしている時は女の人の人格を奪っても許されるんだと言うような政治家がどうして許されるのだろう」とか、そういったことを書くと減点されてしまうのだろう。
 「いじめなんか絶対にしてはいけない」と書く優等生が先生の目の届かないところで陰湿ないじめをしていたとしても「道徳」の成績は一番であったり、優等生ではないおっちょこちょいが「ぼくはつい万引きをしてしまった」などと正直に書くと、これはもう大変なことになってしまうだろう。
 表面をよい子として取り繕うことはそんなに難しいことではない、ということは、大人である先生や親たちがよく知っていることだ。先生や親たちこそが、そうやって世の中をうまい具合に泳いでいるではないか。教科化を提言した偉い学者たちや政治家たちが自分の姿を鏡に映してみればわかるはずだ。
 そこには何とも気持ちの悪い屈折が生じる。そういうふうに育った子どもたちが、青年や大人になって何をしようとするのか。そう思うとぼくは、まさに慄然とするのだ。
 本当に、そういう世の中を作ってもよいのか!

*

 紙の教科書の代わりに、タブレット型コンピュータを子どもたちに配付するそうだ。ぼくもタブレットを使っているが、従来の教科書より優れているなどとは全く思わない。
 従来の教科者には紙とインクのにおいがある。新学期になり、新しい教科書を手にした時の、あの気持ちの引き締まる清新な思いがなくなっていくのだろうか。
 タブレットにすることで、映像や音声等を鮮やかに味わうことができ、検索によって知識を広げることができるというのだが、そういったものは、担当する先生が示してやればよい。みんな前を向かせて、先生が映像を映したり、音声を聞かせたりしてやればいい。調べ物は、図書館に行って調べるようにすればよい。その図書館にコンピュータを設置しておくのはいいだろう。
 教室で手元ばかりを見ながら学習する子どもたちにとって、先生とはいったいどのような存在になってしまうのだろう。顔と顔を見合せながら、相手の表情などから、ああ疲れているなぁとか、おッ、こんなことに興味を持っているのか、などと感じあってこそ、教室ではないか。そしてまた、最も豊かな学びの姿ではないか。
 こういったことを発想する教育行政を担当する者たちの貧弱な教育観を、どうして世の教育学者たちは問題としないのか。
学校は、教室は、教育は死ぬことになる。

*

 5、6年生に必修として導入された「英語活動」が「教科」になる。そして、3、4年生に「活動」としての英語の学習が必修として位置づけられる。
 早期外国語教育については、何度もこのコラムで書いてきた。
 「教科」化されること自体には反対ではない。中途半端な英語教育の導入は教育現場に混乱をもたらし、子どもたちに困惑をもたらした。「教科」化されることで、本格的に取り組むのはいいことだろう。
 だが、どのような形が「本格的な取り組み」といえるのか。5、6年生の「教科」化が報じられた時、「中学英語の前倒し」という言葉が新聞に躍った。
 最初からそのつもりだったのである。早くから詰め込むことによって、英語のできる子を作ろうというわけだ。
 理系を強くしなければならないからと、近い将来、中学の数学も今の小学校に「前倒し」されることになるだろう。6・3・3制から4・4・4制にしようという提言は、つまりはそういうことだ。
 奇妙な言葉だが、「エリート」を養成して、国の力を強くしていこうというのである。

*

 教科書検定もより厳しくなりそうだ。教育改革が、確かに子どもたちの未来を豊かに、幸せにするというのならいい。しかし、絶対安全と言ってきた原子力発電に裏切られたように、ぼくたちは大変な暗闇へと今、走り始めているのではないだろうか。

(2013.11.27)




No. 156 少年の憂鬱 夢の途中(43)

少年の憂鬱 夢の途中(43)


  新学期が始まり、新しい教室と新しい級友と、そして新しい担任の先生が発表された。そしてさらに、新しい校長先生もそれに加わった。校長先生は今までとても有名な会社で働いていたらしい。たくさんの外国にも行って、国際ビジネスのサイセンタン(最先端)で活躍した人で、久美子ちゃんや弘ちゃんのお母さんたちは校長先生のことを<エリート>と呼んでいる。校長先生は今までの校長先生に比べると随分、若い。お母さんたちは<カッコイイ>という言葉さえ遣って、校長先生にキタイ(期待)しているらしい。
  ぼくは真新しい教科書のインクの匂いを嗅ぎながら、また新しい一年が始まるんだなあと、自分の今年の目標をこっそり日記に書いた。
  「たくさん勉強して、立派な人間になろう。国語や算数などの成績のことだけでなく、人のことを思いやることのできる、優しい人間になろう」
  「人のことを思いやることのできる、優しい人間」というのは、二日前に学校の図書館で借りた『良い子になるための本』に書いてあった言葉だ。この本を借りる時も、どうしてかわからないけれどぼくは、胸がドキドキして、頬が赤くなっているのが感じられ、恥ずかしかった。だからぼくは、日記にはこっそり書いた。1、2年生の頃は恥ずかしいとは思わなかったけれど、3年生になったぼくはなぜか、こういった目標を持つことやこういった本を借りることはこっそり、他の人に見つからないようにしなければならないような気がしている。
  もちろん、本当に優しいお母さんも大きな大きなお父さんも、お兄さんもお姉さんも家族のみんなは、「そうだよ。えらいね」と褒めてくれるに違いない。
  けれども、他の人たちは、特にクラスの友だちからは何となく、馬鹿にされるというか、笑われそうで、だからこっそり、ぼくはぼくの目標を隠した。
  4月、ぼくは新学期が好きだ。お正月にも似た、新しい空気が好きだ。ぼくだけでなくきっと、たかお君も美鈴ちゃんもみんな、「よーし、今年はがんばるぞ」って思っているに違いない。

*

  6月になって、もう暑くなった。今年の夏も暑いんだろうなあって、大人のような口ぶりでぼくたちは小さなため息をついてみせた。
  そのころ先生たちはあちこちで、大きなため息をついていた。
  ある日、ぼくたちは全員、体育館に集められた。全校集会だ。先生たちはなんだか、とても怖い顔をしている。校長先生が話し始めた。いつものように<カッコイイ>。
  「先生のコジンテキナジジョウ(個人的な事情)で、みんなと『さよなら』しないといけなくなりました」。
<コジンテキナジジョウ>って、なんだ? 隣の久美子ちゃんの顔を見たら、久美子ちゃんもこちらを見て、首を傾げていた。
  上級生の中には泣いている人もいる。でも校長先生は、時々笑ったりしているじゃないか。
  全校集会の後ぼくは、無精ひげの目立つ担任の中村先生に訊いた。「コジンテキナジジョウ、ってどういう意味ですか。校長先生、何を言おうとされたんですか。さよならする、って、校長先生、辞めちゃうんですか」
  中村先生は「先生にもよくわからないんだ」と一言言って、怒ったような顔をした。
  中村先生にもよくわからないことがぼくたち3年生に判るはずないよ、とぼくは心の中で思った。
  しばらくして、お母さんたちの集まりがあった。学校から帰ってきたお母さんは、「校長先生お辞めになるそうね。でも、心配しなくてもいいの。新しい校長先生がすぐいらっしゃるわ。中村先生はいい先生だしね」
  あくる日ぼくは、クラスのみんなからお母さんたちが随分怒っていたと聞いた。<ミガッテ(身勝手)だ>とPTAの人たちが言っていたそうだ。
  何が<コジンテキジジョウ>で、何が<ミガッテ>なのかがぼくにはよくわからないが、何となく寂しいというか、ぼくの目標が何となく意味がないような気がするというか、〈エリート〉って何だろうって思ったり、<立派な人間>ってどういう人なのだろうと思ったりして、頭が混乱して疲れてきた。
  始まったばかりの新学期は、<新しい>という雰囲気が失せて、上級生のまねをして先生に怒られる者や、少し弱さを感じさせる者へのいじめが流行り始めた。先生に注意されると反抗し、「先生、いつ辞めるの?」って、気持ちの悪い言葉を投げつける者もいるようになった。
  校長先生が言った<コジンテキジジョウ>の意味も新聞に書いてあったり、教えてくれとは言っていないのに、友だちが親に聞いたということが耳に入るようになった。お仕事をしていただくお金が少なかったということや、校長先生がしたいことができなかったということなどが<コジンテキジジョウ>だったようだ。
  でも、校長先生、教えてほしいことがぼくにはあります。
  校長先生はたった3か月しか<学校>にはいませんでした。少しずつでも先生がしたいということができるようにしていくことはできなかったのですか。校長先生が校長先生になってしたいと思ったことは、ぼくたちの未来について役に立つことですよね。3か月で校長先生はあきらめたのですか。あきらめられた学校でぼくたちはこれから、何を学んでいくのですか。

(2013.10.11)




No. 155 酒と 夢の途中(42)

酒と 夢の途中(42)

我慢できないほどに乱れているよなあ、と独り言ち(ひとりごち)ながらぼくは、さっきからウヰスキーをロックで飲んでいる。日本の政治家たちの言葉遣いがどうしようもなく下品で、幼稚で、暴力的で、憤っているのだ。与党の国会議員が、画面に映った野党の女性党首に向かって、「ババア、引っ込め」とツイッターで書き込んだという。この議員、即刻、公職から追放すべきだろう。
ウヰスキーはロンドンのGower Streetにあるウヰスキー専門店で買ってきた日本製の「the Malt」(ニッカ)である。わざわざ英国で日本のウヰスキーを飲むなんてと馬鹿にされそうだが、深夜、深い闇の中で時に、「山崎」「余市」や「響」などの日本のウヰスキーを飲みたくなることがあるのだ。
カチカチに固まってしまった脳を強い酒でほぐしていく。いや、脳の働きを停止させ、脳の支配できない自分と語り合いたくなるのだ。何もかも破壊してしまい、ちっぽけな煩わしさを蹴とばして、手足を伸ばし、「およぐひと」(注)になって、漂うのだ。
それにしてもぼくは、今までどれだけの酒(アルコール)を飲んできたことか。(注)萩原朔太郎「月に吠える」所収

5月、日本に出張したある夜、東京のホテルのバーでイタリア人の大学教授と二人で飲んでいた。ぼくがウヰスキーを頼むと彼もそれに倣(なら)った。彼はことごとくぼくの真似をするのだ。
食事の時もビール、日本酒とかなり飲んだぼくたちはしかし、くだらぬジョークでふざけあいながら、もっと飲もうとバーに席を移したのだった。
珍しく混んでいたが、夜が更けていくにつれて、広い空間に客は3組だけになった。ぼくたち以外はカップルが1組と、ご婦人の二人連れである。
そろそろ出ようかと彼に云ったその時、ソファ席に座っていたぼくたちの目の前を一人の男が横切り、バーのカウンターに腰かけた。あ、と声を上げたぼくに教授が訊いた。「知り合いですか」「うん、よく似ているんだけれどね、違うような気もするし、……」
こちらに背を向けて腰かけて一人で飲んでいる彼は、しかしよく似ていた。やややせた感じではあるのだが。
バーの支配人に、彼の名前は、と訊いたが、もちろんぼくとの関係を知らない人間のことを教えてくれるはずはない。「少し近づかれると、向こうが鏡になっていますから、後ろから顔を確かめることができますよ」と教えてくれた支配人にうなずくと、ぼくはその男に近づいて行った。
おいッ、とぼくが声をかけると、あッ、先生ッ、と驚いたまなざしを、あたたかいまなざしをKはぼくに向けた。
Kは日本の皇室の血につながる男で、ゆえに皇太子とはよく似ている。皇太子がオックスフォード大学留学のころ、彼もまた別の大学の大学院に留学していた。その時、突然ぼくに挨拶に来た彼と意気投合し、ぼくたちはロンドンの街をよく飲み歩いた。
彼はすぐに思い出を語り始めた。
ある夜、酔ったぼくは、「ああ、疲れたぞ、もうぼくはここでしばらく横になる」と、ロンドンの路上の真ん中に大の字になった。驚いた彼は、「先生ッ、危ないですよ、轢かれちゃいますよ」とぼくを抱き起こし、ブラック・キャブでぼくの家まで送ってくれた。家に着くと、「もう少し飲むか」ということになり、Kはぼくの洋酒棚にギリシャのメタクサというブランデーを見つけて飲み始めた。ぼくが大切にとっておいたボトルを開封し、うまい、うまいと飲んだ。帰る時はボトルごと持って帰ったのだ。
いやあ、あれはうまかったですねえ、といきなり話し始めた彼は、瞬時にぼくをあの頃に引き戻した。日本語のわからないイタリア人教授はしかしながら、親しい友人との再会を喜ぶぼくをあたたかく見つめていた。

ウルグアイに住む友人Mが、たまたま東京に来ていて、会いたいとメールを送って来た。ぼくの離日の前夜である。パッキングなど帰英の準備が全くできておらず、困ったなと思いながら、けれども大好きな友人であり、ぼくも是非とも会いたかったので、Mにぼくのホテルに来てもらうことにして、近くの居酒屋で飲んだ。
ぼくは彼の顔を見るだけでたまらなくなる。大げさでもなく、涙が出そうになるのだ。Mはぼくにとって兄貴のような存在なのだ。
仕事をリタイアした後、ダイエットに精を出していた彼は、もう止めたのだと、昔に近い太り気味の、まるでやくざのようなやや怖い雰囲気を漂わせていた。25年も前からの付き合いで、よく飲んだ。彼はかつてロンドンに住んでいて、夕方になると電話をかけてきて、「どう?」と訊く。ピカデリー・サーカスのそばのホテルの地下のバーで、毎日のように飲んだ。いつもシーバスの水割りだった。お互い、5杯も6杯も飲んでから、ちょっと何か食べようかと食事に向かう。日本食の居酒屋だったり、焼肉屋だったり、食事にしようかとホテルのバーを出たのに、また別のバーに行ったりもした。ホステスのいるクラブでも、彼女たちを寄せ付けずいつも二人でいるので、二人は特別の関係ではないかと勘ぐられたことさえある。
東京で久しぶりに飲んだ酒はしかし、少しさみしい酒だった。ぼくの健康や仕事など、いろいろと心配してくれるMにぼくは、全力疾走を続ける苛立たしさからか、疲れからなのか、一つ一つ口答えをしたのだ。Mはあからさまに不愉快な顔になった。
前はこうじゃなかったじゃないか、と彼は云った。悔しいよ、悲しいよ、さみしいよ、と。ぼくもまた、無性にさみしかった。

(2013.07.01)

No. 154 静かな時間 夢の途中(41)

静かな時間 夢の途中(41)

 朝、鳥のさえずりで目覚める。さらに耳を澄ませば、栗鼠たちが庭の樹々を伝い、芝の上を走り回る音さえ聞こえてくる。
 夜が深まると、Urban Fox(狐)が足を忍ばせて窓際に忍び寄る気配が感じられる。わざとしまい込まずにつるしたままの、季節外れの南部鉄の風鈴が鳴る。テーブルの上で汗をかくグラスの中の氷がかすかな音を立てて琥珀色したウイスキーに沈む。ぼくが立てるのは本のページをめくる音のみで、いや時折、姿勢を変えるときに軋むソファの、革特有のうめきが混じる。さらにいえば、深い闇の中から聞こえるかゆいような音があるような、ないような。静かな時が流れている。

 マスメディアが伝える関西のある市の首長のことばは極めて刺激的で、ゆえにどうやら大衆の心を惹きつけるようだ。彼ばかりではない。中央政界の政治家たちは競ってテレビのコマーシャルのような短く刺激的な言葉を一般大衆に投げつける。大衆は投げつけられた言葉に酔うのだ。一見それらの言葉には、力があるかのように感じられる。この言葉の下にいるならば自分の平和が守られるような、その上何か新しいものと出会えるような、そういったときめきを覚えるのだ。
 そういえば、かつてそういった言葉の力をうまく操った首相もいた。戦争への抵抗感もややもすると、彼のような者たちの言葉の巧みさに、そう、まるで過去を忘れ去ることに秀でたプレイボーイやプレイガールのようにスマートに薄れていくのかもしれない。

 日本という国の知的だといわれる者たちが今、おかしい。
 神戸大学や同志社大学などの学生たちが、関西のテーマパークで周囲に迷惑をかけるいたずらを繰り返した。とても最高学府の、しかもある程度の知的水準を誇る大学の学生の行為とは思えぬ幼稚さだ。それらが発覚すると、新聞などのメディアの前で、学長たちが並んで頭を下げて謝罪した。教育の徹底を図りたいという。
 むろん、嘘だ。大学生の私的時間の行動をどのように指導、教育しようというのだろう。やる気もなく、その方法も思いつかないが、とにかくここでは謝っておいた方が無難だろうという方便である。
 メディアにしても、これで一件落着と処理して終わる。
 大学生は大人である。多くは選挙権もあるし、お酒だって合法的に飲める。結婚して子どもを作ることだってできる。その大学生が、私的な時間にしでかした不祥事をどうして大学が謝罪しなければならないのだ。大学とはそういった、学生の私的生活についても責任をもった教育機関なのか。
 むしろ大学としては怒ればいいのだ。「卑しくも本学の学生という立場でありながら、このような愚かな行為を行うとは許せない。知的能力が劣ると思われ、本学の学生として認めることはできないので、退学処分に処す」と言えばよい。そのように進言する教授はいないのか。教授会や理事会は何をしているのか。
 いや、待て。日本の大学はもはや、そのようなところではないのかもしれない。
 「学生はお客様ですから」「学生が来ないと、大学はやっていけないので」といった言葉を数多くの教授たちが恥ずかしげもなく言うようになった。ニヤニヤしながら言うところをみると多少は気にしているのかもしれないが。
 なるほど少子化で、大学間で学生の奪い合いが起きている。学生募集のための説明会では保護者のための席も用意され、入学後も保護者会が開かれる。ある母親がそういった会で発言する、「うちの○○ちゃんは気が弱いので、あまりきつい言葉で指導しないでください」と。「承知いたしました。気をつけますので、どうぞご安心ください」と大学が応える。
 「……というような方もいらっしゃいます」と大学の職員が学生のことを「方」と表現する。おかしいんじゃないの、と指摘すると、「保護者の方の中には、だれのお金であなたたちは生活できると思ってるの、と噛みついてくる方もいらっしゃるんです」とのこと。
 ぼくなら言う、「あなたが納めた学費ではあなたの息子の教育にかかるコストは賄えないんだ。国からの助成金があって、何とかやっていける。それは税金というお金で、あなたの息子とは全く関係のない人たちが払ってくれたお金だ。その中には、あなたの息子より年下の、つまり、中卒や高卒の若者が納めた税金も含まれている。勘違いしてもらっては困る。そういった人たちに支えられて、あなたの息子は学ぶ場が与えられているんだ。何のためだと思うか。もっとこの世の中をより良い世界にするためで、つまり、みんなが幸せに暮らしていけるための学習をしてもらいたいからなんだ。あなたの息子の幸せのためだけに、この学びがあると思ったら大間違いだぞ」と。
 このくらいのことは、大学としてははっきり言うべきなのだ。ある時、大学で講演をした際、この話をした。この話の途中から、学生たちは全員顔をあげ、真剣に話を聞き始めた。講演を終えた後、その大学の教授が学生に言った、「私も前々から図師先生がおっしゃったことを言いたかったんだ」と。では、どうして言ってやらなかったのだろう。

 地球温暖化と異常気象、内乱、飢餓、等々、ぼくたちの住む地球は今、はっきりとしたうめき声をあげている。ぼくたち人間が選択した、作りだした現象である。
 静かな、静かな時間の中で、じっくりと考えなければならない。

(2013.05.10)


No. 153 待つ 夢の途中(40)

待つ 夢の途中(40)

 そろそろ帰ろうと言って我が家に遊びに来ていたイギリス人の青年が、ポケットから携帯電話を出した。いわゆるスマート・フォンというやつだ。近くのバス停にバスが何時何分に来るかを調べるのだという。それを使えば、たとえバスが遅れていようがバス停でバスを待つ必要がないらしい。
 便利なものだ。雨の降る日や寒い日にバス停でバスを待つのはつらい。この機能を使えばもう、そのつらさから逃れることができる。
 そういえば他にも似たような便利さが身の回りに数多く出現してきている。E-mailを使えば、すぐに通信文を送ることができるし、相手からの返信も何日も待つ必要がない。特に海外に住んでいるぼくたちにとっては実に助かる。ロンドンに昨年現れた日本食(日本料理とか和食という代りに海外ではこういう呼び方をする)のレストランは、テーブル上に映し出されたタッチ式のコンピュータの画面のようなもので注文も会計もできる。退屈したらゲームで遊ぶことだってできる。ウエイトレスの方が来てくれるのを待つ必要がない。Bootsという大手チェーンの薬屋さんも、同じく大手のWHSmithという本や文房具を売るお店も最近、会計は自分でさっさと機械を使って済ませることができるので並ぶ必要がない。いやこういったことはずいぶん昔からあった。今や電子レンジを使えば、手作りの料理よりもうまいものが数分でできてしまう。何十年も前に生まれたあのボンカレーやククレカレーなるインスタント食品もすぐに食べることができる。待つ必要などないのだ。
 けれども、と思う。ぼくたちはかつて、バスを待ちながら何をしていただろうか。同じようにバスを待つ人を眺め、あの人はどんな仕事をしているのだろうとか、たぶん大学生だな、何を専攻しているのかなとか、あの人、今日は険しい顔をしているけれども何かあったのかなとか、可愛い娘だな、洋服のセンスもかなりいいなあ、フランス人かな、とかいろいろ想像したりする。あるいは、周りには目が行かず、じっと仕事の案件について考える。あの人へのプレゼントは何にしようかと楽しい思考に遊ぶことだってある。
 愛する人と待ち合わせをして、わずか数分をとても長い時間に感じながら待つこともあるだろう。愛する人が来るか来ないかわからないのに、何時間も喫茶店(今はカフェというらしい)で待つこともあるだろう。
 かつて食事は、その準備、料理が少しずつ進んでいくのをにおいや音で感じながら待つのが当たり前だった。
 お店では店員さんと会話を交わす。少し面倒でも、それが<買う・売る>ということだった。
 そういったことは余計な時間であり、わずらわしく、無駄な行為であり、余計なことや無駄なことはできる限りなくしてしまうのがいいのではないか、となってきたのだろう。
 待ち合わせの時間より早く行って恋人を待つ人や遅れたことを心から詫びる人。30分以上も待ったのに、ぼくも今来たところだからとあたたかい嘘をつく人。携帯電話があればもう、こういった様々な心の風景は消えたり少なくなったりしていくだろう。無駄な時間はなくなり、余計なことをする必要はなくなっていくのだ。
 でも、と思う。本当にそういった余計なことや無駄をなくしていけば、ぼくたちはもっともっと幸せになれるのだろうか。
 人形浄瑠璃なんて客があんまり入らないんだから価値がない、吉本新喜劇を参考にすべきだなどと発言する関西の元気な市長の言葉、大学に文学部のような社会に役に立ちそうもない学部は必要ない、理系の学部だけでいい、と発言するTV向けの評論家。
 おそらく日本の人口の4分の1に達した65歳以上の高齢者たちはこういった論理では抹殺されていくのだろう。
 このコラムでもかつて書いたが、ぼくたちが歩行に要する道幅はせいぜい150センチだ。けれどももし、その150センチの道幅の両端が断崖絶壁になっていたら、ぼくたちは心安らかに歩行することができるだろうか。足が震えて立ち尽くすのではないか。踏みしめる大地が踏みしめることのない遥かなる大地につながっていて初めて、ぼくたちは歩くことができる。
 機械化が進み、いろいろと便利になっていくことは結構なことだ。しかしその便利さが、自らの機械化を強要し、結局は息苦しい生活を強いることになりはしないか。
 もっと待とうではないか。
 いつやってくるのか分からないバスをいろいろなことを考えながら待つことにしてみないか。
 料理が出来上がるまでのあいだ、包丁がまな板をたたく音や醤油が焦げるにおいを楽しみながら、おなかがグウと音をあげるのをなだめながら、待ってみようではないか。
 いじめられている子どもが、じっと父親の目を見つめ返し、自分のことばで苦しみや切なさをとつとつと話し始める、その時を待ちたい。
 時にいらだちに待つことをやめたくなるとしても、もう少し待ってみよう。待つということはきっと、信じようとすることなのだ。雨が降るまで雨乞いをすれば、必ず雨粒は落ちてくる。
 小賢しい便利さに捨ててしまってはならないものをぼくたちは抱きしめて離さない知性を持ちたい。待たなければ見えないものがあるのだ。感じられないことがあるのだ。

(2013.01.02)



No. 152 静かな呼吸と想像力を 夢の途中(39)

学校の憂鬱 夢の途中(39)

 英国では最近、15歳の少女と30歳の男性の恋の逃避行がテレビのニュースや新聞の紙面をにぎわした。男性は少女の学校の数学教師であり、彼には妻子がいる。
 CCTV(監視カメラ)がいたるところに設置されている英国をはじめとしたヨーロッパでは、建物の中にじっと息を殺して隠れていない限り姿を消すことは難しい。フランスへ向かった二人は、逃げる車の中での表情もカーフェリーの中での様子も、そしてフランスの田舎町を手をつないで歩く姿もすべて、テレビの画面に映し出された。
 二人の写真が大写しでテレビ画面に繰り返し映された。少女の両親が涙の記者会見を行う。少女の家が映され、少女の通っていた学校が映され、少女の同級生がマイクの前で語った。
 しばらくして二人の逃避行は終わった。少女は「保護」され、教師は「逮捕」された。教師は裁判にかけられ、刑が決まる。二人の「これから」もしばらくは報じられることになるのだろう。
 ひどいなあ、と思う。
 確かにこの数学教師は浅はかであり、裁かれなければならない。15歳は現法下では恋の相手とするには若すぎた。妻子への配慮も欠いた。拘置された冷たい部屋で彼は今、何を思うだろう。
 少女はどうだろう。「保護」された彼女は、「はっと我に返る」のだろうか。「被害者」として、あたたかい愛情の数々に囲まれて、「立ち直る」のだろうか。
 それにしても、ひどいなあ、とぼくは思うのだ。
 正義面をしたメディアに対してぼくは、激しい憤りを覚える。この二人は、メディアにとって格好の餌食となった。確かにいかにもゴシップであり、覗き趣味を満たす。彼らはこの事件を商品化して、面白おかしく報道した。「これから」の少女のことなど全く考えようともせず、また、教師が科せられるであろう刑の重さの何十倍もの罰をためらいなくメディアが科した。
 少女と教師の顔写真は事件の早期解決のために必要だったというが、警察が把握していれば教師の写真を公開する必要もなかったのではないか、今回の件は。
 ぼくが憤るのは、メディアが先走って行う裁きについてである。彼らにそういった裁きを行う権限など全くないにもかかわらず、彼らはそれを声高に行う。他人の不幸を、将来の困惑を、商売の材料にして売るのだ。彼らは事件とは直接関係のない様々なニュースも含め流すことによって、今回の事件を商品化する。かつて知人の新聞記者が自ら言っていたが、新聞・ニュースは新聞社という営利企業が販売する商品なのだ。その商品であるニュースを売らんがために、面白さや刺激性といった合成着色料や人工甘味料を用いて加工する。事件や出来事を「おいしそうに売る」ために、彼らは何だってやるのだ。
卑しい、と思う。そこには知性や品位といったものが感じられない。

 しばらく前のことであるが、日本の小学校において、払う力はあるのに給食費を払わない親がいて「けしからん」という報道が盛んになされた。テレビのワイドショーでは大変な時間を割いてこの件を特集し、コメンテーターの評論家たちは怒りの言葉を吐いてみせた。確かにひどい親がいるものだとぼくも思う。
 しかし、である。一つのクラスの中には、払えるのに払わない親の子どもとともに、本当に給食費を払うことのできない子どもだっているのだ。その子どもはいったいどのような思いでその教室にいることになるのだろう。
 ある少年がいる。その少年の親は朝早くから夜晩くまで必死で真面目に働いている。父も母も善良で誠実であり、その少年を心から大切にし、愛している。にもかかわらず貧しく、給食費が払えないのだ。
 そういった少年がどこかの学校のある教室に一人でもいたら、とぼくはそう想像するだけでたまらない気持になる。その一人の少年の心を守るためならぼくは、払えるのに払えない親のことは見逃してもいいとさえ思う。たとえそういった親の子が10人いてもぼくたちは、一人の少年の心を守ろうとしなければならないと思うのだ。

 関西の売れてきたコメディアンの母親が生活保護費をもらっていたこともメディアの袋だたきにあった。法的には問題ないにもかかわらず、メディアという正義がコメディアンを叩きのめした。コメンテーターたちがにやにやしながらサディスティックに攻撃する。政治家の中には自分は大衆の味方だというがごとくコメディアンいじめの先頭に立とうとするいやらしい者まで現れた。もっと問題にしなければならない巨悪が、すました顔をして、世の中の搾取をしているではないか。

 いつからか、大声で叫びちらすヒステリックな社会となった。攻撃や非難が日常化し、内容の軽さを覆い隠すような刺激的な言葉が、政治の世界でも、教育の世界でも、日常生活においてももてはやされる。それとともに、我々の想像力は失われていった。 
ぼくたちはもっと静かに呼吸しなければならない。もっと静かに見つめ、静かに考え、見えるものが触れている見えないものの存在に思いを巡らす想像力という知性を持とうとしなければならない。

(2012.10.10)


No. 151 学校の憂鬱 夢の途中(38)

学校の憂鬱 夢の途中(38)

 早く高校生になりたいと思っていたぼくは、高校生になると、早く大学生になりたいと願った。大学生になったぼくは、漠然と求めていたものが瞬く間に消えていくのを感じ、立ち尽くした。

 小学生の頃は、〈学ぶ〉ということが新鮮だった。先生たちも学校も素晴らしく大きかった。
 城跡に立った校舎は木造で古く、雑巾がけをする床にはところどころ穴も開いていた。廊下はとてつもなく長く、つい走りたくなる。夏の蝉時雨がよく似合っていた。
 男の先生はタバコ臭かった。それが大人の男の人のにおいだと思っていた。つまり、小学生の頃から身体の大きかったぼくでも、先生の懐(ふところ)に何度も抱かれたのだ。理科の実験の時間は先生も目を輝かせていたし、恵まれない国の人たちの話をする先生は本当に悲しそうだった。逆上がりのできない子どもが責められることはなかったし、勉強のできない子が運動会で活躍すると先生は心から褒めた。
 ある女の先生は、確か砂土原先生といったと思うが、右手の指をいつも真っ赤に汚していた。ぼくたちが提出した作文や日記に、赤いインクのペンでたくさんの書き込みをして返してくれた。いつも必死で忙しそうで、家に帰った後もたぶん、睡眠時間を削って働いていたのだろう。ワープロもコンピュータもない頃の話で、ガリ版を使った鉄筆でできた指のペンだこにインクが染みていた。ぼくはその先生の涙を一度だけ見たことがある。ある時ぼくたちは、先生に赤いペンのセットをプレゼントした。その時、先生は嬉しそうな、けれども少しさみしそうな顔をしたのだ。さみしそうに感じたのはぼくだけだったのかもしれない。けれどもぼくはその時、なんだかよくわからない戸惑いを覚えた。ぼくもまた、涙が浮かんだのだった。
 みんなみんな、すごいなあ、と思っていた。先生って、すごいなあと思っていた。 
 だからぼくは、「将来の夢」という課題の作文に、「かきかた鉛筆」で、筆圧強く、「先生になりたい」と書いた。

 中学校でも高校でもぼくは、先生に恵まれた。出会った先生のすべてに、大切にしてもらった。すべての先生が懸命に教育に打ち込んでいた。
 けれどもぼくは次第に、学校の勉強に興味を失っていった。中学校や高校で学ぶ勉強の内容よりも、さまざまな書物を読んで学ぶ内容のほうに深さや広さ、あるいは高さを感じ始めていたのだ。おそらくぼくは同じ世代の者たちより、かなりの本を読んでいたのではないか、その頃。
 おそらく先生たちもまた、多くの矛盾を感じながら、教育という仕事に従事していたのではないか。何となく教えている内容の価値が、たとえば受験のため以外にはないような、そういった諦観が漂っていたように思うのだ。

 小学校における留年制度や高校における飛び級制度が話題になっている。
 ぼくはこういった発想に強い違和感を覚える。
 小学校は中学校のために、中学校の勉強は高校進学のために、高校の教育は大学受験のためにあるのではない。
 小学生でなければ見えないものがある。中学生でなければ感じられないものがある。高校生でなければ持てない価値観がある。それぞれの学齢でしか学べないものがある。それぞれの時にこそ学ぶべきものを教育しなければならないのではないかと思うのだ。
 それはいったいどのようなものだと問われれば、それをこそ先生は、教育学者は、教育行政を担当する者は徹底的に考え、研究しなければならない。そこに初めて、豊かな教育が出現する。子どもたちは、学ぶ豊かさを実感し、明日の可能性を信じるだろう。

 大津市で起きた中学2年生の男子生徒の飛び降り自殺が問題となっている。自殺の練習をさせられていたなどのいじめが原因とみられる。
 もしも、もしもぼくの子どもがこのような理由で死を選ばざるをえないところまで追い込まれたとするなら、ぼくは絶対に学校には行かせない。
 今、中学校で学んでいることは命をかけてまで学ばねばならないことでは絶対にない。
 教育を受けさせる義務があろうが無かろうが、ぼくは学校には行かせない。
 そして、このようないじめ行為を「いじめ」の名で曖昧には済ませない。明らかに犯罪行為であり、それを許した学校には業務上過失致死という罪が課されるべきである。隠ぺいしようとした学校や教育委員会にはもはや、機能不全としか言えない憤りを覚える。
 失った命は戻ってはこない。
 学校は、明日のためにあるのだ。今日の豊かな学習によって、明日をより豊かで幸せな世界に変えるために学ぼうとするところである。
 大人たちは狂ってはいないか。
 いじめを繰り返した子どもたちのみならず、学校の教師たちも教育委員会の委員たちも、そして今の教育システムに安穏とするすべての大人たちは今、裁かれなければならない。

(2012.7.10)

No. 150 まだ、間に合うよ。 夢の途中(37)

まだ、間に合うよ。 夢の途中(37)

 激しい雨と雹(ひょう)と雷に、突風が加わった。
 会議に出かけようとしたぼくは、テレビの天気予報官の「外には出ないでください」との警告に足止めをくった。日本では数日前には竜巻がつくば地方を襲い、大変な被害をもたらしたという。昨日英国から日本に着いたばかりのぼくは、2月の大雪に続く悪天候に驚いている。
 清掃が行われるので、ホテルの部屋を出る。ホテル内の陶器屋さんをのぞく。ロンドンを発つ前に娘が、急須を買ってきてほしいとねだったのだ。今年27歳になる娘の25年間はロンドン暮らしだが、緑茶も日本料理も大好きだ。ついでに、ぼくに似て酒飲みの息子二人に、漆塗りの小さな器を買う。二人とも深夜、原稿を書いたり、研究をしたりしながら、ちびちびとウイスキーをストレートで飲んでいるようで、ちょっと贅沢だが、自分の若い頃にこんな器で飲んでいたらもっと上質の文章が書けたかもしれないなあと思い、奮発する。
 昼ご飯を食べそこなっていたぼくは、けれども食事をする気力はなかった。そうなのだ、最近は食事をするにも気力がいる。
 陶器屋さんを出たぼくは、同じくホテル内の「とらや」の前で立ち止まる。西洋のケーキ等には興味のない左党のぼくはしかし、日本の小豆の甘さは好きだ。
「とらや」にはちょっとした食事のできる甘味処もあり、そのメニューにかき氷を見つけた。盛夏にこそ似合うかき氷である。しかも今日は大変な悪天候である。さらにぼくは、食事をするところに一人で入ることは苦手である。
 けれども、かき氷は魅力的だ。しかも宇治金時とある。甘味処はきっと、女性ばかりではないかという不安もあったが、勇気を出して中に入った。
席に案内されながら周りを見ると、確かに女性が多い。だが、ご婦人と表現した方がいい落ち着いた女性がほとんどだ。
 宇治金時に練乳をかけてもらったものを注文する。運ばれてきた宇治金時をスプーンで食べる。何年振りだろう、宇治金時を食べるのは。少なくとも25年間は食べていない。
かき氷はうまく食べないと、無様に崩れてしまう。そんなことを思い出しながら少し緊張しながら食べる。それがたまらなくうれしい。

**

 宇治金時を食べながらぼくは、一冊の文庫本を読んだ。ホテルの部屋を出るとき、部屋の清掃が終わるまでホテルのラウンジで、コーヒーを飲みながら本でも読んで時間をつぶそうと思っていたのだった。
 重松清の『小さき者へ』は短編集だ。文庫本の表題となっている「小さき者へ」は、「海まで」「フイッチのイッチ」に続く3番目の物語である。級友にいじめられた中学2年の少年が、母親に対する暴力と引きこもりに逃げ込む。その少年の姿はほとんど描かれてはいない。その少年の父が手紙をつづることで少年に語りかける形で物語は進んでいく。渡されることのない手紙を毎日、深夜に書きながら、少年の父は、自らが少年の頃の父との対峙を振り返ることになる。
 わかったふりをする大人が許せなかった少年の頃の彼であったが、彼もまた気がつくと、同じ大人になっていたのだった。
彼は少年の頃、父親の学歴の低さを、父親の仕事を恥じ、嫌い、憎んだ。学校でいじめの標的になりつつあった彼は、いじめから逃れようとして、級友の気を引くために、母親の財布から紙幣を抜き取る。それを父親(中2少年にとっての祖父)に見つかるが、父(祖父)はぼうぜんと立ち尽くし、しばらくして静かに言うのだった、「おまえが落としたものは、一緒に拾うちゃるけえ」と。
 子どもの落としたものを見ることのできる父親がいる。落としたものがなんであるかを見ようとする親がいる。一緒に拾おうとする大人がいる。
 なにも落とすことのない子どもなんていない。
 もしいるとしたら、大人たちによってなにも落とさないようにとがんじがらめに動けなくされてしまっている子どもだ。
 そういう子どもをよい子としてぼくたち大人は、歓迎しているのではないか。
 大人は子どもの幸せを願うのだが、親は子どもの幸せを祈るのだが、教師や先生は幸せの形らしきものを教えようとするのだが、しかし、それは本当だろうか。

***

 ぼくは「小さき者へ」の5、6頁を残して、「とらや」を出た。もうそれ以上読み続けることがどうしてもできなかった。
 部屋に戻り、冷蔵庫からエビスの缶をとりだすと一気に飲んだ。それから冷たい水で顔を洗った。夕刊を読み、窓の外の雨を見つめた。そしてようやく、ソファに腰掛け、続きを読む。
 読み終えたぼくはまた、窓際に立ち、外を見る。
 ぼくたちはまだ、間に合うだろうか。たとえば教育は、恐ろしく間違った方向へと走ってはいないか。学ぶべきこととして大人たちが今、子どもたちに示しているものは確かなものだろうか。
 止んだはずの外の雨の風景が、けれども水の中にゆがんでいる。

(2012.5.10)



No. 149 欲しい 夢の途中(36)

欲しい 夢の途中(36)

 人は時に、欲しい、と思うものがある。
それはモノであったり、カネであったり、ヒトであったりする。

 たとえば、モノである。
 長男がまだ少年であった頃のことである。ロンドンの中心点ともいえるピカデリー・サーカスPiccadilly Circusにぼくは、オフィスを持っていた。近くにはメリディアン・ホテルLe Méridien Piccadillyがあり、ぼくはよく、そのラウンジを応接間代わりに使っていた。
 午後4時ごろだっただろうか、その日も、日本からやってきた客と紅茶を飲みながら会議中であった。すると突然、「パパ」と長男が現れた。真剣な面差しで全身に力が入っているのがわかる。
 「あ、どうしたの?」
 「パパ、お願いがあるの」
 「なあに、云ってごらん」
 「あのーぅ、ぼく、ゲーム・ボーイがほしいの」
 やっと言えたと、ほっとした、けれども不安な表情の長男の頬は紅潮している。ぼくは決して友達のような、優しくものわかりのいい父親ではない。むしろ怖い父親だったろう、その頃。
 しばらくじっと長男の顔を見つめたぼくは、「わかった。自分で買いにいけるか」と訊いた。喜びに泣きそうになった長男は、ウン、とだけ応えた。
 長男がぼくに直接、モノをねだったのはそのときが初めてだった。そしてそれ以降、そのような記憶はない。
 長男が立ち去った後、そうか、そうか、とぼくは独り言(ご)ちたのだった。

 少年の頃、ぼくはなにが欲しかっただろうか。
 小学生の頃、年の暮れ、本屋さんにまぶしく積まれた「お正月特別号」の雑誌を買って貰い、家まで走って帰ったことがあった。
 まだまだ珍しく、誰も持っていなかったテープレコーダー(ソニーのソニオマチックといった、確か)が欲しいと母親に囁いたら、本当に父親が買ってきてくれて驚いたこともある。もっとも、それに母親が漢字の読みを吹き込み、それを聞きながら漢字を書いて練習することになったのだが。
 百科事典が要るといったら、ブリタニカの堂々たるセットが届いた。父親が注文したらしい。めくってみたら英語版であった。
 視力がそれほど落ちていなかったのに、メガネをかけてみたくなった。中学3年生の頃である。見えない、といったら母親が驚き、すぐに眼鏡屋さんに連れて行かれた。
 高校生になるとき、自転車を買ってもらう。スポーツタイプのそれには、なんと曲がる方向に光が流れる方向指示器がついていた。その自転車に乗っているとき転倒し、危うく車にはねられそうになる。手の平を何針か縫う。
 大学生の頃、刊行が始まった萩原朔太郎の全集は、当時のお金で一冊あたり1万円近くもする高価なものだった。同級生たちと居酒屋や喫茶店で屯することを拒んでいたぼくには、しかしながら手の届く額であった。酒と詩集が欲するものだったのだ。
 今ぼくは、何が欲しいだろう。どんなものが欲しいのだろう。

 もし可能であるなら、時間が欲しい。
 ゆったりと静かに流れる時間が欲しい。
 心穏やかで、優しい表情のぼくが欲しい。
 誰も傷つけることのない、ゆるやかな時間が欲しい。
 大切な人を守るために自らが激しく傷ついても、それを痛みと感じない強靭な精神が欲しい。
 愛する人のところへ瞬時に駆けつけることができる筋肉が欲しい。

 たとえば、カネである。
 人がお金が欲しいと願うのはどんなときだろう。そのお金がなければ生きていけないのではないかと不安に思うとき、そのお金があれば欲しいモノが買えると思うとき、そのお金があればしたいことができると願うとき、より多くのお金を持つことで周りの人たちから敬いや羨望の目で見られるのではないかと期待するとき、などなどいろいろであろう。
 息子の大学時代の友人とばったりロンドンの街角で出会う。インド出身の彼は大学を卒業すると、世界でも有数の銀行に就職した。初年度から表彰されるほど優秀な成績を積み上げ、若者としては驚くほど多額の報酬を得ることになる。いくつもの大学院を経て英国の大学の貧乏教員をしている息子と比べると、5倍以上の年収である。「でも、彼(息子のこと)がうらやましい。彼のような人生を送りたいとぼくはいつも思っているんです」と別れ際に、なぜか思いつめたように彼は言った。その彼はつい最近、銀行を辞め、家族と一緒にインド料理店をやっている。
 お金なんて、とは言わない。この世の中でお金の持つ力を知らないわけではないし、飢餓で苦しむアフリカの人たちの命が、いかなる種類の、わずかなお金であったとしても救える現実に、目をつぶろうとは思わない。けれども、お金で全てを手に入れることができるとか、お金のために生きるなどということばは使わない、わずかばかりの知性は持っていたいと思っている。

(2012.03.30)

No. 148 梅の花、咲く。 新年・断章

梅の花、咲く。 新年・断章

 暖冬のロンドンから、氷点下の成田に着く。機内から眺めた富士が白く化粧し、美しい。
 空港に迎えに来た東京のスタッフが寒さに震えている。前日にかなりの雪が降ったらしい。
 新年の雪、いいじゃないか、と少年のように心が弾む。
 ホテルに到着してつけたテレビのニュースが大雪に苦しむ人たちの顔を映す。
 そうか、そうだな、と未熟さを恥じる。震災の被害者への思いやりを欠いていた。

 ホテルの庭を散歩する。凍った小道に足を滑らせそうになる。大気もまた、凍っている。
 あ、梅が咲いている。
 つぼみだが、梅だ。
 ン、いつだったかな、前に見たのは。
 いや、同じ花と二度と出会うことはない。
 利休の云う「一期一会」である。
 〈現在〉という時は、瞬時に〈過去〉となる。とどまることはない。

 新年ということばの響きが好きだ。
 昨年や去年はすでに死に、同じ季節が巡り来ることはない。
 時は常に生まれ、次の瞬間には死んでゆく。
 〈未来〉はあるようで実はなく、あるのは〈過去〉だけである。
 ゆえに〈今〉は、まさに戦慄を覚えさせる儚い時であり、ぼくたちはしかし、あたかも〈今〉を生きているような錯覚の中にいる。

 ぼくは今、〈生きている〉と書いた。
 けれども、〈生きている〉ということばが表すアスペクトは何とも頼りない。
 時の流れの中のいつ、それが始まり、いつ終わるのかがはっきりしないのだから。
 周辺に様々な生が誕生し、あるいは朽ちていったとしても、少なくとも自分のそれは分からない。
 かつてこのコラムでぼくは、「変数xの孤独」という小文を書いた。ぼくたちの〈生〉はあらかじめ設定された関数の変数として放り込まれた、極めて孤独なものであり、ゆえに時の流れという座標軸に抗うことも何らかの傷をつけて痕跡を残すこともできないのだ。

 今年もぼくとぼくの仲間たちは、教育というものの可能性を信じて懸命に、真摯に取り組み、闘おうとするだろう。
 ぼくたちは、〈ヒト〉という哺乳動物が〈人間〉という社会的存在となった時、その社会性を支える豊かさと残酷さとをしっかりと見据える力の必要性を訴えようとする。
 それを仮に〈知性〉と名付けるならば、その知性は静かに澄んで、確かなあたたかさに満ちていなければならない。
 例えば、学校とは何か、と問い続けよう。
 学力低下の元凶とされた「ゆとり教育」の健全な方向性が稚拙な現実主義に押しつぶされたが、百ます計算や学校内における塾教育などの愚かで幼い、教育まがいの手法の跋扈は必ずや近い将来、大きな社会問題を引き起こすだろう。
 学校というところは訓練の場ではない。今の社会や大人にとって都合のいい人間を生産する工場ではない。
 今の社会の持っている病や問題点をしっかりと見つめ、より良い、もっと幸せな社会を作ろうとする力を持った者たちを育むところである。

 日本語教育や英語教育といった外国語教育もまた、もっと豊かで幸せな世界を作ろうとする行為である。
 世界を作る、というのは自分のまなざしを豊かであたたかいものに変えていこうということである。
 外国語としての日本語を学ぶ外国人が、日本語や日本文化の学習を通して発見した日本的なまなざしが、どの国の人にとっても価値ある普遍性をもったものであった時、その学習者の〈生〉を豊かに変えていく。
 この日本語教育、世界中で数多くの日本語教師たちが必死で格闘している。その努力の成果は少しずつだが上がりつつある。
 しかしながら、残念なことに日本国の政府の取り組みは、その独立行政法人の活動も含めて、極めて表面的であり、役人のための、機関のためのそれを越えない。この点はしっかりと知っておく必要がある。昨今の日本という国のあらゆる点における縮む姿は内なる崩壊であり、必然なのだ。
 早期外国語教育としての小学校英語(児童英語)教育も、それ自体は良いことであり、その充実が望まれるが、すでに問題が吹き出ているように、外国語教育の目的の欠如や貧しさ、教員養成に関するその中途半端なシステムはまさに、今の日本という国の問題点のサンプルとして厳しく検証する必要があろう。

 時間の流れを区切り、年を改めて〈新年〉と呼び、もう一度始めようとする先人の知恵は素晴らしい。
 新しい梅の花が、今、咲いたのである。

(2012.01.27)

No. 147 少年の秘密 夢の途中(35)

少年の秘密 夢の途中(35)

 少年が通っていた小学校は石垣に囲まれたお城の跡にあった。
 半世紀も前の話である。
 通学路は、登校時のその道と下校時のそれが同じ道であるとはとても思われないほど、帰りの道は遠かった。けれどもそれは理屈で言えばおかしい。小学校は、つまりお城は高台にあり、登校する際はまさに登っていくのであり、下校時は下るのである。だから、下校するときのほうがずっと楽だったはずなのだ。
 登っていかなければ学校というところはないのだと思い込んでいた少年は、初めて平地にある他の学校を訪れたとき、空気のよどみを感じた。凛としたものが感じられなかったのである。
 下校する少年は疲れていた。何度も何度も途中でランドセルを投げ出しては休憩した。途中にはお寺やお屋敷が続いた。それは休憩というよりも、ところところで座り込み、本を広げたり地面に落書きをしたりの、いわば遊びながらの下校路であった。
 高学年になると、道はいくぶん短くなった。途中、文房具屋や駄菓子屋に立ち寄ることもあったが、どうしたわけかそこにいる厳しい雰囲気のおばあさんたちが苦手で、またそこで売っているもののクウォリティがいかにもいい加減な感じがして、嬉々として屯(たむろ)する同級生ほどには魅力を感じなかった。

 登校する少年の右手に、すなわち下校する少年の左手に、お寺や墓地を通り過ぎた辺りに竹林があるのに少年が気付いたのは、もう少年が6年生になっていたころかもしれない。
 少年はその日も疲れていた。学校では良い子の典型みたいな存在で、いつもリーダーであった少年は、けれどもなんとなく疲れていた。家に帰ればいつもたっぷりと時間をかけて母が作ってくれるおいしい夕食と優しい笑顔とが、そして父の大きな、どんな時でも守ってくれるに違いないたくましい愛情とが少年を包み込む。
 だからその日も、その竹林に差し掛かったとき、立ち止まる必要などまったくなかったに違いない。早く帰り、抱きしめんばかりに少年を迎えてくれる母の顔を見ればよかったはずなのだ。
 けれども少年はそのとき、どうしても立ち止まらなければならないような、<立ち止まりなさい>という声を聞いたのだ。その声は、少年が年老いた今もまだ、時折聞こえてくる。たとえば、駅のプラットホームで電車を待っているとき、反対方向の電車が滑り込んでくると、その電車に乗せようとする強い力を感じてしまうことがある。もしもそのとき、その声に素直に従えば、きっと違った世界に入っていける、そういう思いがするのだった。それはいつか、いつの日か訪れるのかもしれないが。
 竹林の前で立ち止まった少年は、道を外れ、がけをよじ登り、踏みしめる草木が音を立てないように恐る恐る奥へと進んだ。そして周りが全て青い竹で囲まれ、ほかに何も見えなくなったそのとき、少年は慄然と立ち尽くすのだ。
 その震えはどのくらい続いたのだろう。少年は天空を突き刺すように伸びる竹に身構え、怖れ、震えた。
 しばらくして少年は、地面に座り込んでいる自分に気付く。音が聞こえる。虫の羽音のような音が微かに、けれども確かに聞こえる。
 震えは、ない。消えた。
 ゆっくり立ち上がった少年は靴を脱いだ。靴下を脱ぐ。上着を脱ぎ、シャツを脱ぐ。ズボンを脱ぎ、下着を脱ぐ。身につけていた一切のものを静かに脱いだ少年は、その細い体をつま先で支え、両手を頭の上に伸ばし、手の指のすべてに力を入れて伸ばし、目を閉じた。
 少年は竹になり、天を突き刺し、少年の繊毛のような神経を地面に這わせ、深く深く潜っていく。
 そして、少年はもう一度震えるのだ。
 少年の秘密はその後ずっと、今に至るまで封印される。

 中学生になった少年はある日、街の書店でボードレールに出会う。『悪の華』という詩集である。
 またしばらくして少年は、次の詩と出会うことになる。それは少年を激しく貫く。いわば、少年がいまだに抗い続ける生の、つかみようのない、見えない、その一瞬の影との対峙であった。

 光る地面に竹が生え、
 青竹が生え、
 地下には竹の根が生え、
 根がしだいにほそらみ、
 根の先より繊毛が生え、
 かすかにけぶる繊毛が生え、
 かすかにふるえ。

 かたき地面に竹が生え、
 地上にするどく竹が生え、
 まつしぐらに竹が生え、
 凍れる節節りんりんと、
 青空のもとに竹が生え、
 竹、竹、竹が生え。
        ―― 萩原朔太郎「竹」





No. 146 なぜ、学ぶのか。 夢の途中(34)

なぜ、学ぶのか。 夢の途中(34)

 ぼくはずっと〈教えて〉きた。
 ぼくはずっと〈せんせい〉だった。
 ぼくの生きている時間のほとんどは、<教える>ことに、〈せんせい〉と呼ばれることに費やされた。
 それ以外のことはしたことがなく、それ以外の存在であったことはない。
 けれども、数十年も教えながら、ぼくにはわからないことが多すぎる。それはどんどん増えていくのだ。
 〈教える〉ということは何であるのか。それを考え、考え込み、疲れて眠る夢の中でもまた、考えるのだ。
 その答えを見つけようとすることは、ぼくの〈生きる〉ということの意味を探そうという行為に等しい。

 気がつくと、目の前には〈学ぶ〉者がいる。
 いや、この〈学ぶ〉者がいなければぼくは、〈教える〉ことはできない。ぼくに向き合うそれらの者たちがいなければ、ぼくは〈せんせい〉ではない。
 ならば、この者たちの〈学ぶ〉ということについて考えれば、その意味について整理すれば、ぼくの生の意味を定義できるのではないか。

 なぜ、〈学ぶ〉のか。
 研究所のさまざまな教育課程に入学する者たちについて考える。ある者は、日本や英米の大学や大学院を卒業するとすぐに入学してくる。ある者は、さまざまな種類の会社での就業経験を持つ。またある者は、入学する直前まで学校の先生であった。20代の若者もいれば、50代や60代の者もいる。
 学ぶことで彼らは、知識や技術を、あるいはさまざまな思考の座標軸を、新しいまなざしを得ようとする。
 では、それらは彼らにとってどのような意味を持つのだろうか。
 性別や年齢、それまでの社会体験や経験、そういったものに関係なく、人には、今の自分を見つめようとする、そういう時がある日、訪れる。
 その時、つまり今の自分を見つめようとするその時、その時間と向き合うには少しだけ勇気が要る。まっすぐに自分を見つめるためにはそうしようとする意志の力が必要だ。
 しかしながら、いや、だからこそ、人は自分の今をそのまま見つめることを恐れる。怖いのだ。自分が見つめなければならないと思う自分の今は、本来自分が自分に課している、期待する自分の姿とは、少しであったとしてもずれがあるのだ。そのずれと向き合うことは辛く、怖く、逃げたい。だが、いくら恐れて逃げようとしても、その思いから完全に逃げ切ることはできない。追いかけるのが、自分自身であるからだ。
 このような学生生活を送っていてもよいのか。ぼくが友人として付き合っている連中は、本当にぼくにとって大切な友人といえるだろうか。会社の愚痴ばかりを言いながら過ごす私の人生って何なのか。妻として過ごす私の人生は決して恵まれていないわけではないが、毎日夕刻になるとつく溜め息はなんだろう。
 いやいや、そもそもぼくはいつの日からか、何かに打ち込み、努力しようとする人間ではなくなってはいないか。言い訳ばかりをいつもポケットに忍ばせている人間になってしまってはいないか。私が本当におなかの底から笑ったのはいつだっただろうか。ぼくが本物の涙を流したのはいつだっただろう。
 そういった思いは毎日少しずつ、静かに沈殿し、溜まっていく。いつかその溜まったものと向き合わなければと思いながら、巧みにごまかし、逃げ続けてきたのだ。
 けれども、自分を信じようとする自分がそれを許さない。
 私は変わりたいと思うのだ。ぼくはもう逃げたくないと思うのだ。
 そして、学ぼうとする。変わるために学ぼうとするのである。
 それは無意識なものであるかもしれない。けれども、学ぼうという思いは、つまりは、変わろうとすることなのだ。
 そして変わるために学ぼうとすることは、学べば変わることができると信じていることになる。自分は学ぶことで成長できると信じていることになる。
 明日を信じようとしていることになる。
 学ぼうとしたその時、すでに一歩前に足を踏み出しているのである。このことはとても素晴らしいことではないか。
 ゆえに学校は、明日を信じようとする者たちが集うところなのだ。
 このことはあらゆる学校に当てはまるはずだ。小学校の児童も、中学校や高校の生徒たちも、大学などの学生も、すべて明日を信じようとする者たちであり、その者たちが集うところを学校と呼ぶのだ。
 持っていた夢や理想を捨てさせ、現実を教え、現実に適合する人材を生産しようとするところではけっしてない。現実というものがあるとすれば、そしてその現実におかしなところがあれば、それを変えようとする精神を育むところが学校である。すべての人間が平和で幸せに生きていこうと願っている。そのことを確かなものにするために、必要な知性や心を育てていくところである。
 学ぶとは、そういうことだ。そして、教えるとは、その学ぼうとする者たちに寄り添う行為である。

(2011.10.16)

No. 145 少年の憂鬱 夢の途中(33)

少年の憂鬱 夢の途中(33)

 「ナイフ」(重松清)を読んでいたぼくは、気が付くと降りるべき駅を乗り過ごしていた。しかも何駅も過ぎていたのだった。やむなく降りた駅のプラットホームの椅子に腰掛けて、文庫本を握り締めながら、戻る電車を待つ。
 切ない小説である。穏やかで平凡な日常を突如襲う絶望的なゲーム、中学生の息子に対する陰湿な<いじめ>。父親として闘おうと手にした小さなナイフ。貧弱で臆病な父親の、息子を守ろうとする闘いはひどく惨めで見苦しい。しかしそれは、父親自身の<生>との闘いでもあった。
 父と子の同志ともいうべき絆に心が震えるが、とはいえ、この子どもたちの世界の息苦しさは、一体どうしたというのだろうか。

 ぼくには幼稚園の園児のころから小・中・高・大にいたる学生時代に、いじめられたという思い出もいじめたという記憶もまったくない。
 子ども同士のけんかはあった。小学生のころは、どこかでだれかがけんかをしていると、友だちが「図師君、けんかをしてるよ、来てくれない?」と呼びに来た。駆けつけたぼくが「やめろよ」と睨みつけると、けんかは終わった。体が大きくて、威圧感のあったぼくは、一度も殴り合いなどしたことはなかったが、強かった。
 中学生のころはバレーボール部のキャプテンをしており、部員の一人の、まなざしが暗く歪み、乱暴な男を軽く投げ飛ばして諌めたことがある。彼はいわゆる番長だったらしく、見ていた他の部員によってこの話には尾ひれがつくことになる。
 いじめたり、いじめられたりしたことはなかったが、それでもぼくは、早く高校や大学に進級したかった。
 少しでも論理性のある世界に住みたかったのだ。幼稚な者たちの怖ろしいほど稚拙な、論理ともいえない論理に付き合いたくはなかったのだ。
 もっとも、高校にも大学にも似たような幼さが感じられた。しかしながら、それらを無視した自分の生活が、ある程度は保障された。

 けんかは対等なぶつかり合いであるとぼくは思うが、いじめはそうではない。
 集団で無視をしたり、教科書や持ち物を水浸しにしたり、「死ね」というようなことばを差出人のない手紙で繰り返し送りつけたり、さらに今はインターネット上で誹謗中傷、攻撃する。
 そのような行為がゲームとして行なわれているのだという。ゲームとはいえ、いじめに耐え切れず自死を選ぶ子どももいる。
 そして、そのようないじめにあう者だけでなく、いじめをみてみぬ振りをせざるをえない消極的な加害者も、あるいは積極的加害者もみな、消すことのできない傷を負うことになる。
 戦争における悲惨さは、殺されるということだけでなく、人を殺したといった経験や記憶を背負わせることにもある。
 級友を追い込み苦しめた記憶は、追い込んだ者のその後の人生に暗く歪んだ影響を及ぼすであろう。

 しかし、どうもおかしい。
 子どもたちは他の人間を陰湿にいじめたり苦しめたりする存在として生まれてくるのではない。また、親をはじめとした周りの大人たちも、子どものすくすくとした成長と幸せに生きていくことを心から願うのである。
 小学1年生になるとき、子どもも親たちも果てしない未来に胸膨らませている。そこには希望がある。
 けれども、しばらくすると、子どもたちのまなざしも親の言葉遣いも大きく変わっていく。
 周りの者たちに負けない、競争のための学習が始まり、数字で評価することのできるわかりやすい学力だけが大切になり、上を見ることにのみ必死になる。足下を静かに優しく見つめようとする柔らかさは瞬く間に消えていくのだ。
 「一所懸命勉強して立派な大人になるんだよ」と言った大人たちの指す「立派な大人」とは、まずは高所得の職業に就くことのできる人間のことであり、級友たちへの思いやりや優しさよりもその者たちを踏みつけてでも上に行こうとするさもしい強さを持った人間であることにまもなく子どもたちは気付くのだ。
 そういったことを、親も先生も、大人たちみんなで教え込むのだ。
 「悪意と策略と暴力とののしりと虚勢と苛立ちと退屈」(「ナイフ」)に微笑む大人たち、彼らはなぜ、理不尽な、不条理な圧力に佇む子どもたちを抱きしめようとはしないのか。
 そんなにも大人たちの住む世界は淀み、希望や信頼の失われた世界なのか。
 子どもの世界もなかなか残酷だよと言うが、子どもの世界を残酷なものに変えたのは大人たちではないか。
 子どもたちはいつの間にか、大人の残酷さと冷酷さと悪意を学ぶのだ。
 子どもたちの歪んだまなざしは、親よ、あなたのまなざしである。子どもたちの悪意と策略の知性は、教師よ、あなたが教えた知性である。子どもたちの憂鬱は、世の大人たちよ、あなたたちの汚臭のするため息と絶望が産み出したものなのだ。

(2011.08.26)

No. 144 「哀しみ」のコミュニケーション 夢の途中(32)

「哀しみ」のコミュニケーション 夢の途中(32)

 ぼくたちには<うれしい>とか、<かなしい>とか、<たのしい>とかの感情がある。
 たとえば〈うれしい〉は、広辞苑によれば、「はればれと喜ばしい。こころよく楽しい」と説明される。辞書による説明はこの程度が限界なのだろうが、あまりに無味である。
 ではお前はどのように説明するのかと訊かれると、少し考え込んでしまう。
 くたくたに疲れて満員電車に乗り込んだとき、腰掛けていた小学生の少年が恥ずかしそうに席を譲ってくれたときの、そのときの気持ち。
 ずっと前から想い続けていた人に何も言えずにただ時が過ぎ、離ればなれになってしまったひと月後に手紙が届き、私もあなたのことが好きでしたという文字を見つけた、そのときの気持ち。いやこれは<切ない>というべきかな。
 救急車で運ばれ、死を見つめたベッドに、「ぼくはぼくの人生をあなたとシェアしたいのです。だから、ずっと元気でいてほしい」という手紙を息子からもらった、そのときの気持ち。これも、切ないなあ。
 教え子がアフリカでの教師経験の後、たくましくなって、大きくなって、夢を持って、帰ってきたときの、一緒に酒を酌み交わすときの、そのときの気持ち。うん、これはうれしい。教え子の成長に出会うときのうれしさ、喜びは、数え切れないぐらいある。
 <かなしい>はどうだろう。「自分の力ではとても及ばないと感じる切なさをいう語。悲哀にも愛憐にも感情の切ないことをいう。①泣きたくなるほどつらい。心がいたんでたえられない。いたましい。②身にしみていとしい。かわいくてたまらない」(広辞苑)ということだが、①の思いはどんなときに浮かんでくるのだろうか。
 幼いときからの親友が急逝し、いくら時間が経ってもその遺影の前に立つ勇気が出ない、そのときの気持ち。うーん、これは<苦しい>、かな。
 雲海を眺めながら、ぼくは結局一人だなあ、とつぶやくとき、そのときの気持ち。
 既成の権威になびいていく、愛すべき仲間の姿を見た、そのときの気持ち。
 東アフリカの食糧危機で、やせた駱駝(らくだ)とともに歩く幼い子どもの胸の浮いた骨を見る、ただBBCのニュースの画面で見るだけの、そのときの気持ち。Death Noteと書かれたノートに毎日書き込まれて行く夥(おびただ)しい子どもたちの名前、その名前をテレビの画面で見る、そのときの気持ち。
 まだ残っていたはずのウイスキーが、留守にやってきた息子によって飲まれて無くなっていた、そのときの気持ち。
 えッ、もう卒業するのか、もっとここに残っていてくれよと、巣立つ者たちに証書を手渡す、そのときの気持ち。これは、<さびしい>かな。
 なかなかむずかしい。
 こういった心の有様を表すことばは、一人ひとり、それぞれの思いで、それぞれの「心の辞書」に収まっている。
 それぞれの思いで、と書いたが、そのそれぞれは、それぞれがそれぞれ、それまでに経験したことや学んだことによって作られる。一人ひとり自分の感情を持っている。自分のことばを持っているのである。
 だから、ぼくの<哀しみ>は、ぼく以外の人間の<哀しみ>とは違うのだ。彼の<哀しみ>は彼のものであり、彼女の<苦しみ>は彼女のものである。
 ぼくはこのことに慄然とする。
 ならば、ぼくには愛する者の心の揺れやときめきが、わからないということではないのか。
 わからないのだ。
 ぼくたちは自分以外の人間の心を全(まった)きかたちで識ることはできない。
 君の気持ちはよくわかる、などと打つ相槌(あいづち)は、少しわかるような気がするというほどのことで、しかしながらそれは大したことなのである。
 数多くの経験をした者、たくさんの本を読んだ者、勉強をした者、いろいろと思い悩み、考えた者、そういった者の<哀しみ>と、そういった経験や学習の歴史を持たない者の<哀しみ>とではおそらく、量ってみれば重さが違うに違いない。
 一編の詩に動悸を覚え、一枚の絵に射精し、奏でられるヴァイオリンの音に涙を流し、乱暴な男の靴によって踏みつけられた名もない雑草の付けた花に微笑む、そういった人間の<哀しみ>はおそらく、毎日ハンバーガーによって胃袋を満たし、酔う為だけの酒を飲み、ほどほどの友情で時間をつぶし、ほどほどに笑い、叫び、時に泣いてもみせる人間の<哀しみ>とは、もはや別のカテゴリーに収められるほど異なった、そういうことばなのではないか。
 どちらの<哀しみ>が高尚であるとか、下劣であるとかといっているのでは決してない。もともと<哀しみ>には実は、辞書が定義するような、平たい意味はないのだから。
 ただ、ぼくたちは、自分以外の者と繋がろうとするとき、自分の体内に蓄えたものによって、果たして確かに、コミュニケートすることができるだろうかと、一瞬でもよいからたじろいでみなければならない。

(2011.07.07)



No. 143 雨の声 夢の途中(31)

雨の声 夢の途中(31)

 着陸態勢に入っていた飛行機が突然、高度を上げた。俯(うつむ)いていたのを無理やり仰向けにされたように。機長からのアナウンスが流れる、「視界不良のため着陸ができません。しばらく旋回して、もう一度やってみます」
 激しい風雨のため、もしかしたら着陸できずに羽田に戻ることになるかもしれません、という空港でのアナウンスを聞きながらぼくは、羽田から飛んだのだった。どうしても行きたかった。
 幸い2度目の試みが成功して、飛行機は宮崎空港に着陸した。

 ターン・テーブルからスーツケースを取り、振り向くと、義姉と姪が迎えに来てくれていた。兄は車の中で待っているという。ハンドルを握る兄に、仕事を休ませて申し訳ないと云いながら、車に乗り込む。いや、と一言、寡黙だが、相変わらずの優しさに心打たれる。
 「直接行きたいんだろ」と兄が訊く。
 「うん、そうしてくれるかな。でも、すごい雨だね」
 「ああ。しばらくはこのままだろ。ゆっくりできないのか。泊まっていけばいいのに」
 「うん、仕事があってね。どうしても今日のうちに、福岡に入らないといけないんだ、残念だけど。夜の便だから、時間は少しある」
 花屋に立ち寄り、花を買う。
 酒屋に立ち寄り、酒を買う。
 何も云わないのに、ぼくが望むところに兄は車を走らせた。父と母の眠る墓へ参るときは、ぼくはいつもそうしていたからだ。

 父や母とゆっくり話がしたい、とぼくはロンドンを発つときから思っていた。少なくとも年に3回は日本に出張するぼくは、いつもそう願いながら、仕事に感(かま)けて足が遠のいていた。航空券の手配をしながら、断念したこともある。
 しかし今回は、どうしても会いたいと思った。墓の前でゆっくり話したかった。

 激しい雨が降り続く。傘を差していても、ぼくの体はびしょ濡れで、兄が準備した線香の火もたたきつける雨に降参した。
 墓をきれいに掃除しようとして東京で買って持ってきていたゴム手袋も棒の付いた硬いスポンジも、たわしも、結局何にも役に立たなかった。苦笑しながら、けれどもいつものように一升瓶の栓を抜くと、墓のてっぺんからそれをかけた。左手で傘を差し、右手で一升瓶を持つのは大変だった。手が滑って、墓に落とすとビンが割れて大変なことになる、と少し緊張した。
 一升瓶の半分ほどをかけると、栓をした。残りは近くに眠る中学時代の恩師の墓にかけるのだ。ぼくの父を敬慕した彼は、父の墓のすぐそばに自分の墓を立てていた。そして父と同じく、こよなく酒を愛した人だった。
 いつもなら辺り一面に漂う酒の匂いは、強い雨によって掻き消された。漂う酒の匂いをかぎ、少しその酒を口に含みながらぼくは、父に問い、母に語り掛けるつもりだった。
 尊敬する教育者としての父に教えを請いたいという思いがあった。何十年も必死に打ち込んできたはずの教育の、そのすべてについてぼくは、もう一度考え直さねばならないような、そういった思いの中にいる。
 こんなにも優しい人がいるのかと思わせる母にぼくは、まずは、ぼくからは優しくすることが何一つできなかったことを詫びたいと思っていた。そしてまた、ぼくのさまざまな愚かさや醜さを一つ一つ話そうと思ってきた。きっと母は、静かにそれを聴いてくれるだろう。悲しそうな表情や寂しそうな表情を浮かべた後で、それらの思いを全て飲み込むように少しうなづいて、それからきっと優しく微笑むだろう。何も云わない、励まそうともしない、しかし優しいまなざしでじっと微笑むだろう。
 いや、ただ語りかけるためだけに、教えを請うためだけに、ここに来ようと思ったのではなかった。
 ぼくがここに来た本当の目的は、墓に眠る父と母に、ある挨拶をしようと思っていたのだ。
 けれども、激しい雨は、そのぼくを許さなかった。激しい雨に、まだまだ、という声を聞いた。

 墓参りを済ませたぼくは他の兄や姉、その子どもたちや孫たちといった大勢で食事をする。兄姉は歳をとり、けれども仕事を引退した今のほうが活き活きとしていて元気だ。今も一緒に暮らしているかのように、ぼくに話しかける。他愛のないことばかりで、特別なことは何もない。その心地よさに感謝する。
 しかしぼくは、この人たちにも挨拶をしようとしてやってきたのだった。

 会食の後、兄の家に祀(まつ)られた父と母の位牌と遺影に手を合わせる。
 空港に向かうため家を出ようとする直前、部屋から庭を眺めていると、今日一日付き合ってくれた兄がやってきて、庭の手入れをもっとちゃんとしなければいけないんだけどね、とつぶやく。二人でしばらく黙ったまま並んで庭を眺める。揺らいで見えていた庭の池の水が、ぼくの頬を伝って落ちる。

(2011.06.15)

No. 142 ずっと神はそこにいた 夢の途中(30)

ずっと神はそこにいた 夢の途中(30)

 あの日から不思議な感覚に襲われている。けれども実は、ずっと前からその感覚はぼくを包み込んでいたのであり、あの日の衝撃がそれを確かなものにしただけなのかもしれない。
 おびただしい生命が圧倒的な、有無を言わせぬ力で呑み込まれていった。その映像はテレビのスイッチを切ることで一旦消すことはできるが、閉じたまぶたをこじ開けて、許すことなく侵入してくるのだ。
 「3・11」は地震であり、津波であり、原発であったが、もっと異質の、得体の知れない恐怖をぼくに感じさせている。

 シンガー・ソング・ライターの長渕剛が今回の震災について書いたという散文詩「復興」を読む。彼は、「自然が憎い」「海が憎い」「地球よ 貴様が狂っている」と書く。詩作品というよりも肉声そのものであり、叫びであるが、確かにあの映像はまず、どのような発声も許さぬ完璧な沈黙を、次いで深い悲しみを、そして激しい怒りを抱かせた。
 なぜあの人たちがあのような形で死ななければならなかったのか、という怒りである。もし、神というものがいるとするならば、なぜあのような仕打ちを彼らにするのかといった怒りである。
 ぼくはかつてローマ教皇の住む宮殿・ヴァチカン Vaticanを訪れたとき、激しい怒りを覚えた。このとてつもない絢爛豪華さは何だ、このひとかけらで飢えや病気に苦しむ子供たちのいったいどれだけの者たちが救えるだろう、とその建物の豪華さや陳列されている宝石等を見て思ったのだ。神に最も近いとされる者に、それは見えていないのかと憤ったのだ。
 日常の生活においても、善良なる生活者が虐げられ、搾取する者が支配する。神は何を見ているのか、とぼくは怒り続けた。神など存在しない、その神に祈るなど愚かなことだ、偽善であり、気持ちの悪い戯れだ、そう思っていたのだ。
 だが、ぼくは今、それらの怒りとは異なった不思議なものと向き合っている。

 ぼくの前に今、神がいる。
 神はずっと前からそこにいた。微笑むことも、怒ることも、嘆くことも、許すことも、創ることも、壊すことも、神は一切何もしないで、ただじっとそこにいた。
 ヒトはその沈黙に耐え切れずに、動き始める。立ち、座り、歩き、走り、泳ぎ、飛び、転び、起き、笑い、泣き、悲しみ、憂い、喜び、憎み、励まし、だまし、裏切り、信じ、そうやってヒトは、<生きる>ということを<定義>しようとし始めた。
 ヒトは群れることでその<定義>を正当化しようとしていく。数多くの同調者がいればそれは正義であり、少数の者を異端視する。 
 <生きる>とは<定義>されて初めて意味を持ち、ヒトは<生命>さえも<定義>していこうとする。もともとヒトにとっては、<生命>の意味を<定義>することと、たとえば<走る>ということを<定義>することとに大きな違いはなかったのだろう。
 そしてヒトは、<神>を創る。<神>が万物を創造したのではなく、ヒトが<神>を産んだのである。どうしても<神>が必要だったのである。なぜなら、いろいろな<定義>にはところどころに矛盾が生じ、わからないことが出てきたからである。
 むろん、<神>を<定義>しようとするそのことこそが不遜であり、あるいは滑稽であった。
 いや、つまりは、もともとその他の一つ一つの<定義>にもなにも意味がなかったのだ。あるとすれば、<戯れ>としてのそれであり、<諦め>としてのそれであった。
 優れた者と劣った者、美しいものと醜いもの、富める者と貧しい者、大きなものと小さいもの、前に進むことと後ろにさがること、痛みと快感、呑み込むことと吐き出すこと、などなど、それらはすべて他愛もない<戯れ>が産み出す<諦め>にすぎない。
 にもかかわらず、愉快なことにヒトは、その意味を持たぬものを大切にあがめ、囚われ、時に泣き、笑うのだ。

 ぼくたちは、あらかじめ設定された<関数>に投げ込まれる<変数>にすぎない。すべての生き物はその<関数>の設定に従って<解答>へと導かれる。にもかかわらず、<自分>という存在については異なった存在であるかのような錯覚に陥る。
 <自分>の周りの<他なる存在>はすべて、<変数>の一つに過ぎないのだが、<自分>だけは異なった存在であるかのように思いたいのだ。
 ならば、その<自分>をどう<定義>することができるのだろうか。

 神はずっと前からそこにいた。
 幼い子を、母を、年老いた女を、たくましい父を、理知的な教師を、赤銅色に肌を焼いた漁師を、妊婦を、犬を、そういったすべての愛すべきものたちを一瞬にして海が呑み込んでいこうとするとき、神はそれでも、静かに、そこにいた。
 少なくとも、そこにいたのは、ヒトという生き物が刹那の快楽のために勝手に創り上げた神ではなく、ぼくたちがもっと謙虚に、あるいは素直に向き合わねば、見えてはこない神が、そこにはいたのである。
 ぼくは今、その神を前にして震えている。

(May 19th, 2011)


No. 141 特別な料理 夢の途中(29)

特別な料理 夢の途中(29)

 目覚めたぼくは、今どこにいるのだろうと不安になる。あたりを見回して、ようやく日本に行く飛行機の中なのだ、と気付く。
 最近、こういうことが増えた。何をするにも緊張感が失せてしまっている。そのためか、よく忘れ物をする。泊まったホテルにはたびたび物を置き忘れ、あとで送ってもらうこともしばしばである。忘れたことも忘れてしまって、数ヵ月後に同じホテルにチェックインした際に、「お預かりしておりました」とその忘れた物が差し出されることもある。
 緊張感が失せている、と今ぼくは書いたが、それは心がそれらの物事にしっかり向き合っていないということで、つまりは感動とは程遠い日常がぼくを包み込んでいるということだ。
 刺激のない毎日というのではない。さまざまな人たちと会い、語り合い、お酒を飲み、食事をする。それらの人たちの中には社会的に有名な人たちも数多くいる。周りの人たちが振り向くようなそういう人たちと一緒にいても、少しも緊張したりはしない。
 ぼくが求めているものと少しだけずれが生じているのかもしれない。

 では、ぼくが求めているものとはなんだろう。
 たとえば、正月だ。もうすぐ正月がやってくるという年末、ぼくは興奮した。まったく新しい一年が始まる、と少年のぼくは緊張したのだ。
 たとえば、新学期だ。新しい教科書の匂い、同級生の顔が新鮮で、新しい先生の鼻の動きまでじっと見つめた。
 いや、新しいものだけではない。
 深夜、自衛隊の問題や環境破壊について父親と討論する高校生のころのぼくは、なんだかうんと背伸びをしているようで、しかもそれを父親が認めてくれているようで、うれしかった。
 母親の手作りのマヨネーズや餃子や、あるいはあんみつはぼくをそのたびに歓喜させた。母親が編んでくれたセーターやカーディガンはたまらなく暖かかった。
 将来の夢を語る兄の静かな言葉に感動した。「そんなこと言ったって」と繰り返す子どものぼくに、三歳上の兄は怒ることもなく静かに繰り返し自分の思いを語った。
 近くの川に向かって石を投げ続けたぼくは、投げた石が大きな岩にぶつかって割れるとき、泣きそうな顔でそれを見つめた。
 どの思い出も全て、ぼくには特別なのだ。

 ぼくは特別な、なにものかがほしい。
 たとえばぼくのために心をこめて作られた特別の料理。それはおそらくたくさんの時間を要するであろう。ぼくはそれが出来上がるのを空腹を我慢して待たなければならない。贅沢である必要はまったくない。見かけが悪くったってかまわない。ミシュランの星のついたレストランでは絶対に食べることのできない特別の料理が食べたい。
 たとえば、とびきりの授業がしたい。徹底的に準備をして、学生の動きを完璧なほどに予測し、計算しつくした、特別の授業がしたい。
 たとえば、旅だ。行き当たりばったりの無計画な旅がしたい。ホテルなど予約しないで、多少困ったりする旅である。心奪われる風景に出会ったら何日もそこに逗留する、そういった特別な旅である。
 たとえば、特別な人に会いたい。

 ぼくたちは朝起きて、食べて、働いて、時に少し遊んで、夜になると眠る。歩いたり、走ったり、笑ったり、悲しくなったり、そういうことを繰り返しながらぼくたちは、次第に同じ朝を迎えるようになる。同じ道を歩き、同じ乗り物に乗って、同じ駅で降りて、同じことにため息をつき、同じことに喜び、同じことに少しだけ怒ったりする。
 愛するとはこういうことだとずっと昔からみんなが信じている形に肯きながら、同じ高揚や諦めを経験する。
 繰り返される日常の中で人間が選択して歩いていこうとする先には不思議な定型が待っている。慣れるということはおそらく安心できるもので、自分がどこにいるかさえ時に忘れてしまったりするほどだ。
 けれどもぼくは、地下鉄に貼られた詩人の詩に出会うとき、幼子が必死に母親の乳房に吸い付き、母親の命さえも吸い取ってしまおうとするのを見るとき、ホームレスの少年が街角に座り込みはるかな天空を鋭いまなざしで睨みつけるのに出くわしたとき、嫉妬するのだ。
 惰性に流された眠りは、ぼくをむしろ眠らせぬように向こう岸に引き戻そうとする。日常が鬱陶しいのではない。日常に不必要に微笑もうとする自分がたまらなく哀しいのだ。

 特別な料理が食べたい。ぼくのためだけに心をこめて作られた料理が食べたい。それはごくごく普通の皿に盛られた、ごくごく普通の名前を持ったものでなければならない。普通でないものがしばらくするとだらしなく変化し、いわゆる普通になるのは耐え難い。普通が時とともに魅力的に変化していくのでなければならない。特別な普通、普通の特別がぼくは今、恋しいのだ。(2011.03.10)

(March 11th, 2011)


No. 140 新しい年、助走。 夢の途中(28)

新しい年、助走。 夢の途中(28)

 年が改まった4日にぼくは書き初めをした。年の初めに墨を磨り、大きな筆で文字を書くのは子どものころからの習慣である。その年の抱負を文字にするのだが、今年は「育」と書いた。
 研究所は1989年に設立され、今年で丸22年が経った。瞬く間に時は過ぎたが、その間さまざまな方や機関の助力を得て、何とか今日まで活動を続けることができた。日本経済新聞や毎日新聞、英国の新聞や英国BBC放送などが取り上げてくれたり、英国の大臣がコンファレンスにおけるスピーチで研究所の活動を評価してくれたり、ヴァージン航空などを擁するヴァージングループ代表のリチャード・ブランソン卿がさまざまな形で支えてくれたりした。英国に駐在する日本大使や日本から戻ったばかりの英国大使等も温かく支えてくれた。
 とはいえ、いわば荒れ地を耕し、種を蒔き、水や肥料を与えるといった開拓民に類する労力は、ささやかなものではなかった。そして今、ようやく若芽が萌え出ようとしている。
 か弱く芽を出したそれらを見つめながらぼくは、その頼りない命を育てるためにこれから、どれだけ多くの時間と労力がいることだろうと武者震いする。
 深く、広く根を張る確かな樹木として育てたいと思うのだ。華やかな花を咲かせる必要はない。太い幹と豊かな緑葉を持つ樹木でありたい。芽を出した生命を丁寧に、心を込めて育てたいと思う。

 書き初めをしたあくる日、井上康生と飲んだ。シドニーオリンピックの柔道の100キロ超級で金メダルに輝いた彼はぼくとほぼ同じくらいの身長で、しかしぼくより20キロ以上も重い。
 飲みながらぼくは、彼に話した。
 「サッカーのカズという選手がいるが、彼はいわゆるスーパースターだったけれどもワールドカップの代表チームの選手選考に漏れる。もはや下り坂だったということだけれども、カズはそのショックから立ち直り、サッカーを続ける。たとえ2軍選手のような取り扱いをされても、彼は現役を続けようとする。
 彼は言う、ぼくはもはや若い選手のような華やかなプレイはできない、速く走れない、しかしぼくは、サッカーがもっとうまくなれる、ぼくの知らないぼくを見つけたい、と。
 プロ野球の投手に工藤という選手がいる。西武や巨人等を転々とし、優勝請負人といわれるほどの活躍をする。どうやら現役最年長であるらしい。彼もまたスーパースターであったが、来期は所属するチームがない。つまり、浪人中だ。けれども彼はあくまで現役にこだわる。
 ぼくはもうかつてのような速い球は投げられない。けれども、 ぼくは打者の心理を読むことができる、前よりもずっと。コントロールも磨くことができる。ぼくはまだまだ野球がうまくなれると信じている、と。
 この二人に共通する、そう、なんといったらよいか、信じるものに殉死さえいとわぬような熱い思いにぼくは心打たれた」
 ぼくは、康生に訊いた。
 「ところで、井上康生にとっての柔道はどんなものなのだろうか。カズや工藤の場合と違い、柔道は格闘技だ。一対一で闘う競技だから、同じ思いで打ち込むことはできないのではないか。
 中国のオリンピックの代表選手の選考のための予選で負けた時、その瞬間、畳の上でどんな思いだったか。
 世界の頂点に立った君は、これから何を目指そうというのか。
 まだまだ若い青年である君にとっての人生は、これからどういう形をとるのか」
 彼は何杯目かの芋焼酎のロックを飲みながら言った。
 「ぼくの、勝つための柔道は終わった。けれども、ぼくはまだまだ未熟です。オリンピックで金メダルを取った直後も、ぼくは父親から厳しく叱られたことがあります。調子に乗るな、お前はまだ未熟だ、と。ぼくはもっともっと、柔道を極めたい。柔道の<道>を極めて、そして後に続く者を育てたい。教育をしたいのです。
 そして、柔道を通して、世界の平和に貢献したいと思っています。ぼくは、それができると信じています」

 日本に一昨日、着いた。3週間の出張である。さっそく昨夜は女優の竹下景子や写真家の関口照生が歓迎の宴席を設けてくれた。近々ハリウッド映画でデビューする青年も一緒だ。それぞれが近況について語る。おいしいワインと洗練された料理をいただきながらぼくは、静かに深呼吸をする。新年を迎え、昨年のぼくと比べてみる。ぼくは変わったか、成長しているか。軽いジョークに興じながら、自分の笑い声がいつもよりも大きいことに気付く。そのことが、ホテルに戻るタクシーの中で妙に気になる。もう一度深く、息を吐く。
 ロンドンを発つ前の日、25歳の娘と話す。彼女の仕事上のストレスを聞いてやる。そうか、いろいろと大変だな、と思う。パパもスタッフに大変な苦労をかけているんだよ、それが辛くてね、と話すと、「パパはいい人だから、大丈夫だよ」と言ってくれる。こぼれそうな涙をごまかしながら、生意気言うな、と娘の額を人差し指で押す。
 新しい年である。
 もう一度、始めよう。ぼくという人間を探す旅の、夢の途中なのだ、まだ。まだまだ。(2011.01.27)

(January 28th, 2011)


No. 139 灰色・考 夢の途中(27)

灰色・考 夢の途中(27)

日本からやってきた大学教授と数時間の論争をした。せっかくの楽しいはずの会食の場を議論の場に変え、そしておそらく、疲れていたはずの彼をさらに疲れさせることになったのではと申し訳ない思いである。

 小沢(一郎・元民主党代表)の問題が発端だった。この件についてぼくは詳しくはないが、なぜ不起訴になった者があたかも犯罪者のように報道され続けるのか、とぼくは訊いた。
 それは現時点では黒ではなくても限りなく黒に近い灰色だからだ、と彼は言った。
 「では、だれが灰色だと決めているのですか。だいたい灰色の意味がぼくにはよくわからないのですが」
 「みんながそう思っているということですよ」
 「〈みんな〉というのは誰ですか」
 「ぼくの友だちもそう思っているし、……」
 「先生のお友だちが、〈みんな〉ということですか」
 「いや、社会のみんなが、メディアも」
 「ということは、テレビや新聞などが〈みんな〉ですか。ぼくはそのあたりがよくわからないんです。検察が何度も徹底的に調べた結果、起訴できなかったことを、でも怪しい、灰色だという裁き方は危険ではないでしょうか。ぼくはメディアを信用してはいないんです。起訴できなかったということは、裁判すらする必要はないということですから、有罪、無罪を論ずる以前のことです。その段階で、でも本当は黒ではないか、だから灰色だ、という考え方は随分乱暴な、論理ともいえないものに思えるのですが」
 「だから、裁判で白黒をつければいいのではないかということです」
 「でも、それはおかしい。起訴するに足る十分な証拠がないにもかかわらず、とにかく裁判してみましょう、というのは法治国家の基本的論理を揺らがすものであるとぼくは思います」
 「でも、いろいろとおかしな、怪しい点があるわけで、それを裁判で公にしてといった考え方です」
 「しかしながら、その怪しい点というのも誰が怪しいというのですか。〈みんな〉が言っている、思っているという、その〈みんな〉の正体がぼくにはどうも気になるんです」
 「では灰色ということはないというのですか」
 「犯罪に灰色はないと思います。白か黒かしかないのです」
 「でも、立証はできなくても悪いことをしている者はいるんじゃあないですか」
 「でも立証できないのに、どうして悪いことをしているといえるのですか」
 「法が裁かないから、法の網目をかいくぐって悪いことをしてもいいというのはおかしいと思いますが」
 「悪いことをしてもいいと言っているのではなくて、もしおっしゃるように法の網目をかいくぐって悪いことができる状況であれば、法を改定すべきことであって、法を超えて何者かが、つまりよくわからない存在である〈みんな〉が裁くという形はやはりぼくは間違っていると思いますし、危険だと思います」
 「危険だというのはどういう意味ですか」
 「たとえばメディアを押さえておけば、法を超えて、いかなる者も思想も悪とすることができるということです」
 「そのために裁判があるのです」
 「いや、その裁判が行われる、つまり起訴されること自体が実際は既に裁かれていることになりませんか。ぼくは小沢が悪いことをしているかどうかといったことは知りません。おそらくほとんどの人が実は知らない。メディアがこんな怪しいことがあるぞと報道したことで、怪しいと思っている。知ったつもりでいる。本当にそれが起訴するに足るものであるならば起訴されるだろうし、そうでなければ起訴されない。現時点で起訴されていないということは立証できないということです」
 「でも、法が絶対ではないから」
 「ぼくもそう思います。法は絶対ではない。しかし、ならば人を裁くのに何をもってするかということです。ぼくたちは灰色の意味を問う必要があります。さもないと、たとえば先生を社会的に抹殺しようとすればいとも簡単にできることになります。先生はどうも怪しい、疑わしいと喧伝するだけで社会的に裁かれてしまいます。あるいは、宗教も、さらには国と国の関係であっても。そういうことから戦争も度々起きたのではないでしょうか。日本の大新聞は戦争のときにはすべて、戦争を支持したのです。後になってその時は仕方なかったといっても、その報道によって多くの国民は動かされたのです。死んだのです。最近も繰り返される冤罪に見られるようにメディアというものにはそういった恐ろしさがあります。灰色という言葉の響きには人間の持っている情念的なものも含まれるようにぼくは思います。つまり、いやな奴は消し去ってしまおうという、論理を無視した恣意性です。メディアが操作するのです」
 曖昧なものは曖昧なものとして位置付けるのがいいだろう。曖昧なものを曖昧でないもののように取り扱い始めると、権力や財力などを持っている者が、その者にとって都合のよい身勝手な社会を形成することになる。すでに、そうなってはいまいか。

(December 1st, 2010)


No. 138 S氏からのメール 夢の途中(26)

S氏からのメール 夢の途中(26)


 「親友が永眠」というメールが届く。つい1週間前、日本出張からロンドンに戻るぼくを、成田空港まで見送ってくれたS氏からのメールである。

 「札幌に住む私の高校の親友が図師先生が帰英した翌日に永眠し、11月2日に福岡にて供養するというので、今日昼の便で福岡に来ており、空港から博多駅に来て、駅ビルの焼きそば屋で焼酎を飲みながら図師さんにメールしてます。メールしたくなりました。センチメンタルジジィですかね。寂しかですよ、そんな時図師先生に何かを伝えたいちゅうのは、何か不思議な思いがしてます。図師先生も無理するなよ、頼むよ、友は欠けたら駄目だよ。生きててなんぼとちゃうか?体に気をつけてよ。」(2010年11月1日受信。原文のまま)

 ぼくより2歳年上のS氏は福岡の出身で、彼の高校時代の親友が癌におかされ、危ないという話は以前から聞いていた。そうか、とうとう亡くなられたか、と思う。ぼくはその人に会ったことはないが、S氏と酒を酌み交わす時、S氏が彼を案じているのを繰り返し聞いた。「辛いよ、しんどいよ、参ったよ」と彼は何度も口にした。かけがえのない親友が逝く日が遠くないことを彼は恐れていた。
 S氏は情が厚く、まるで「フーテンの寅さん」のような男である。他人の世話ばかり焼きながら、気が付くとポツンと一人取り残されているような、そんな寂しさも漂わせている。
 親友の遺影を前にしてS氏は、顔をくしゃくしゃにして、あたりかまわず泣くんだろうなあ、と思う。明日のことなんかどうでもいいや、と親友への思いに浸ってしまうんだろうなあ、と思う。
 会いに行く前に彼は、酒を飲んでいる。一人で焼きそばを食べながら焼酎を飲む姿は、あまりに寂しいではないか。
 だって素面で会えるはずないじゃないか、とぼくがそこにいれば絡むことだろう。ぼくも親友が急逝した際、何年も遺影の前に立つことができなかった、そういう思い出がある。

 滞日中にぼくはS氏に電話をかけた。留守であったが、彼の一人娘の「さくら」(本名)と話すことができた。幼かったさくらは、早いものでもう高校3年生になったという。
 「さくらのお父さんはいつもさくらのことばかり考えているんだぞ。さくらに幸せになってもらいたいといつも言っているんだぞ。わかるか、さくら。お父さんを大切にしろよ」
 余計なお世話だとはわかっているが、ついいつもこういったことを云ってしまう。ぼくが云わないといけないような気がするのである。S氏は立派なんだぞ、と大きな声で云いたいのである。そんなことはきっと、十分にわかっていることなのだ、さくらにも。やはり、余計なことだ。

 S氏の奥さんがつい先日、癌の手術を受けた。日頃は奥さんに対して強がっていたS氏も、完全に参っていた。
 「冗談じゃないよ、俺じゃなくてあいつがこんな病気になるなんて、冗談じゃないよ、ほんとに」
 独り言のように彼は何度もそうつぶやいた。
 手術の状況や術後の経過について知らせてくれたS氏は、その成功に安堵し、「心配なんかしちゃあいなかったよ、ちっとも」と強がった。周りの者にはそのいじらしさが見え見えだった。

 心細やかな人間がささやかなことに喜んだり、悲しがったり、ため息をついたり、怒ったり、そういう息遣いがぼくには今、とてもいとおしい。
 生きるということの恐ろしい程の孤独感はどんなに思考を巡らせてみても、結局のところそこから逃げだす術は見つからない。ぼくたちの背負った寂しさは消そうとしても消し去ることのできないものであり、もがけばもがくほど手足の自由が奪われていく。
 ならば、ぼくたちはどういったものに笑おうか。どういったものに歓喜しようか。生きる喜びをどこに求めようか。
 それはおそらく、一人一人の掌(てのひら)の上にある。踏みしめるわずかばかりの大地にあり、息が届く距離に佇む人たちと共にある。
 愚かな名声や富を求めず、今自分が求めようとするものの価値を繰り返し繰り返し問い直しながら、ひたすら丁寧に、抱きしめようとしていかねばならない。
 S氏のメールはぼくに、彼の食べる焼きそばの香ばしい醤油のにおいや、アルコール臭の強い芋焼酎のにおいをさえ感じさせながら、体に気を付けてということばと共に、いいか、間違えるなよ、じっと見据えるんだぞ、じっとじっと大切なものを見据えながら生きて行くんだぞ、そのあたりに転がっている偽物に騙されてはならないぞと語りかけてくるのだ。

(November 2nd, 2010)


No. 137 それでいい 夢の途中(25)

それでいい 夢の途中(25)

夢から覚めたぼくは、ベッドに横たわったまま天井を見つめる。夢を反芻しながら、ふうと息を吐く。

 夢の中でぼくは、黙々と拭き掃除をしている。山深い田舎の小さな木造校舎の教室の床に四つん這いになったぼくは、硬くしぼった雑巾で行ったり来たりしながら拭いている。床も壁も木でできているその教室にはせいぜい20人が座れる椅子と机しかない。その椅子も机も全部木製で、相当使い込んだ古いものだ。その机もぼくは丁寧に雑巾で拭くのだ。机の表面には彫刻刀で彫ったと思われるさまざまないたずらが描かれ、消しゴムのカスがその溝にたまっている。折れた鉛筆の芯もある。
 早朝だ。まだ完全には陽は昇り切ってはいない。
 誰もいない。鳥が鳴いている。
 ぼくはきっとその学校の先生なのだ。
 ゴシゴシとぼくは、力を込めて拭き掃除をしている。腕の筋肉がよみがえったのか、机の汚れがみるみる落ちてゆく。子どもたちが登校する前に、すべての机を磨きあげておこう、ぼくはそう思っている。窓ガラスの木枠も、出入り口の木製のスライド式のドアも、バケツの水を何度も代えながら洗った雑巾できれいに磨き上げる。ひたすらぼくは拭き掃除をしている。
 ぼくは笑っている。楽しくてしようがない、そういった表情だ。
 気がつくと、父が立っている。いつものように威厳のある顔つきで、「それでいい」と一言つぶやく。母がいる。父の言葉に柔らかな笑顔で肯く。
 ぼくはポケットから柔らかいタオル地のハンカチを取り出して、額の汗をぬぐう。

 研究所に向かう電車の中でぼくは、夢について考えている。朝、目覚めたぼくの頬には伝う涙があり、ぼくは戸惑いを覚えたのだった。
 実際には一度も経験したことのないその風景はしかし、懐かしく、温かかった。
 父も母も教育者であり、幼い頃、ぼくの家には大勢の青年教師たちが毎日のようにやって来ていた。彼らは大酒を飲み、大きな声で歌を歌い、激しく教育論をたたかわせた。先生とはかくもすごい人たちなのかとぼくは、幼心に憧れを持った。
 ぼくは大人になり、教育一筋に30年以上を生きてきた。教育の世界にさまざまな表情があるのをぼくは知った。その中にはどうしてもどうしても受け入れることができないものもあった。
 教育にもいろいろあり、教師にもいろいろいるのだ。
 ぼくが今、「いろいろ」と書くのは、「こんなもの、教育なんかじゃない」、「こんなやつ、先生と呼ばれるべき人間じゃない」と、そういった怒りを覚えることが時にあったからである。
 自らの名誉や欲のために教育という世界を弄ぶ政治家や役人、その者たちにこびへつらう役人もどきや卑しい教育関係者たち、貧しい教育理念しか持たないにもかかわらず、メディアに注目されもてはやされることのみ大切にしようとする似非学者や教師たち、それらの教師たちをおなかの中で馬鹿にしながら商品化して儲けようとするメディアの連中、それらに面白いほど踊らされる愚かな母親たち、陰で愚痴を言うしかない情けない父親たち。 
 学ぶ立場の者たちにもいろいろいる。
 努力なんか一度だってしたこともないくせに、「努力なんかして何になるんだよ」と格好つける、気持ち悪い程腑抜けた少年少女たち。努力ということばの意味も知らないくせして、「懸命に努力したんだから認めてくれてもいいではないか」と甘える青年。「褒めてくれないとやる気が出ないじゃないか」と大きな勘違いをしている若者。「いろいろな生き方があるじゃないか」などと、生きてるとも言えない生活をしながら居直る者たち。個性ということばを盾にしながら、わがまま以外に何一つ個性らしきものを持っていない者たち。わずかばかりの知識を身につけただけで自分より知識のなさそうな者を必死で見つけて偉そうにふるまう愚か者。自分のものではない権威を身に纏おうと権威の傘の中に入ろうと走り回る小さき者。
 怠惰と諦めと狡猾さと裏切りと、そういったものに支配されている社会とその社会に翻弄される教育、ぼくはそういったものに少し疲れていた。
 教育とはどんな意味を持つのだろう。

 雑巾がけを終えたぼくは、しんと静まり返った教室の窓際の椅子に腰かけて、朝の冷気に姿勢を正す校庭を眺める。教育はきっと、こういう静けさの中で、一冊の書物や白いノートの一ページを開くことで、明日の幸せを見つめることで始まる、ささやかな行いであり、それ以上のものであってはならないのだ。

(September 30th, 2010)

No. 136 夏の終わりに 夢の途中(24)

夏の終わりに 夢の途中(24)

 夏はもう、逝ったようだ。空を見上げると上品な青がさわやかに、うっすらと刷毛で掃かれている。風が心地よい冷たさで、頬を撫でる。
 ああ、今年の夏もまた明らかに筋肉が瘠せた。たくましい青空に対峙することのできる筋肉はもう随分前に失せて、木陰で静かに、さまざまな書物の世界に遊ぶのがせいぜいである。
 けれども、明日を忘れたのではない。明日を忘れようとしているのではない。ぼくはまだ、夢の途中を歩いているのだから。
 休日の午後、庭の芝においた椅子に腰かけながらいろいろな想いに耽っていると、突然立ち上がってしまいそうな、そんな激しい思いに襲われることもあるのだ。
 足もとまで来ていた栗鼠が驚いて、傍らの樹木にかけのぼっていく。

 詩人の辻井喬が書いている。

   記憶が
   花になる人は幸福だ
   過ぎた時間が
   無数の犬になって
   俺を責める
   死者の枕辺に
   立ち騒ぐ波のよう  ―「犬」『不確かな朝』 

 詩人とは何と哀しい、哀れな姿を晒す生き物であることか。それはどうしようもない程の露出狂であり、ゆえに、隠れようとして、もっと深く、もっともっと深く、自らの奥へと分け入っていくしかないのだ。

   車にはねられた犬の死体を
   仲間の犬が喰っていた
   陽炎の立つ道で
   そいつの眼には
   街路樹の緑が綺麗で
   何だか俺を責めているようだった  ―同

 ことばを仕事にしているが、ことばへの不信というか、ことばの貧しさというか、そういったものが鼻につくことがたびたびで、世界中のことばをミュートしてしまいたくなることがある。わずかな力を、それがすべてででもあるかのように取り扱う、そういったふるまいが我慢ならないのだ。
 ことばなんてたかが知れているのだ。
 辻井は強かで、だから自分の生み出したことばに恐れおののく自分を表現できるが、ほとんどの人間は、たとえば、<愛している>と云えば、確かな何かがそこに生まれ、それで事足れりといったふうを装っている。
 うん、そうなのだ。最初は装っており、ほんの少し時間が経つと、その装いを捨て、いや忘れてしまい、そのことばが産み出した貧弱な<愛>の世界に浸ることができるようになる。
 たとえば、知的であると思われている学者や研究者たちの頭の中は、他の者に負けたくないとか、できるだけ多くの者に尊敬されたいとか、そのための肩書や権威といったものがほしいとか、そういった実にわかりやすい、おどおどした思いで満たされている。
 おそらく彼らはほどほどに知的であるのだろうから、自分の力が実は大したことはないということに気付いており、しかしながらそのことをできる限りカムフラージュしなければ恐ろしくて夜も眠れなくなってしまうのだ。
 知的であるかないかなんて実は大したことではないのである。

 ぼくがぼくであるかどうかなどどうでもいいことではないか。
 背を倒した椅子に横たわりながらぼくは、うつらうつらと微睡む。ん、何だかこの風景には既視感を覚える。
 堂々巡りをする思いの中でもがいている男がいて、どこかでその男を見たことがあるのだ。その男についてかなりのことを知りながら、どうしてもすべてを知ることができないもどかしさでいつも、まあ、いいさとあきらめてしまうのだが、いや、やめよう。その男の正体は最初からわかっているのであり、ゆえにいつまでたってもわからないのだから。
 ぼくがぼくであるとは何だろう。
 夏が死に、秋が生まれる。歩き続けなければならないぼくは、足下からぼくのからだの上によじ登ってきた栗鼠を驚かさないだけのわずかな優しさでもう少し、夏と秋のはざまの空気を吸うのである。

(August 20th, 2010)

No. 135 まだまだ 夢の途中(23)

まだまだ 夢の途中(23)

 恐ろしいほどの大酒飲みであったぼくは最近、もうそんなにたくさんの酒を飲みたいとは思わなくなった。
 かつてのぼくは、宴会のはしごの後、足を向けたバーでウイスキーのボトルを一本空にして、それから別の店へとさらに夜の街を彷徨い歩いた。
 来客があれば、ビールをたっぷり飲んだ後に、一升瓶二本の日本酒を相手と二人で一本ずつ飲み干した。客は間違いなく酔いつぶれた。
 近くに小さな焼鳥屋が開店したと聞き、仲間3人でその店のビールがなくなるまで飲み続け、店の亭主を驚かせた。
 休みの日は朝からワインを空け、昼と夜はそれぞれ別の酒を味わった。
 さすがに体の調子がおかしくなり、病院に行くと医者はこう言った。「どうせ酒を止めるなんてことはできないだろうから、もっと弱い酒を飲んだ方がいい」と。
 しかし、酔わなかった。飲むことはなんだか一種のスポーツみたいなもので、飲んでいたからよく覚えていない、などと言い訳をいうことは一度もなかった。
 けれども、どうやらアル中でもないようだ。ためしにひと月、一滴のアルコールも飲まないことに挑戦したら、苦もなくできた。
 けれども、今ぼくは、そのような、浴びるような酒の飲み方をしたいとは思わない。
 できれば、ゆったりと、静かに、夜の闇の音を聞きながら、味わいたいと思う。
 歳をとったせいだろうか。

 かつてのぼくには、ある種の怒りが巣食っていた。何に対してというより、すべてに対する怒りである。すべてに対する怒りとはつまり、自分に対する怒りという意味になる。
 ぼくはぼくの存在の意味がわからなかった。何のためにぼくがいるのかといったことではなく、ぼくとはどういった存在なのかがわからないということで、この「濫觴」にもたびたびそのことについて書いた。
 ぼくはどこから来て、どこに存在し、これからどこへ行くのかといったことがまったくわからないのだ。
 ぼくは神が創った、よくわからない装置や数式に放り込まれる一つの変数に他ならないと思うのだ。(「変数χの孤独」濫觴120)
 にもかかわらず、どうして安穏と生きることができようか。〈意識〉というものから逃れることができないまま〈生きる〉ということの苦悩は、実にわかりやすく単純で、残酷な一つの回答を突き付けてくる。逃れようと本当に思うのならば、その〈意識〉を抹殺すればよいのだ。
 目の前にそびえるピカソの絵画も、モディリアーニのスカルプチャーも、朔太郎の詩も、ショパンの旋律も、八百屋のおばさんのやや下品な笑い声も、サンドイッチ屋のかわいい女の子の澄ました顔も、わずかばかりの知識で胸を反らせる学者の愚かしさも、その頃のぼくにはすべて苦悩から逃れるための悲痛なうめき声に聞こえていたのだ。
 ぼくは耳をそば立てて、彼らのうめきを聞き続けた。それらを言葉に写し取り、一つずつまとまりをつけ、名前をつけて詩という形で放りだした。
 朔太郎は猫の泣き声を「おわあ」と、「おわああ」と、「おぎゃあ」と書いたが、朔太郎自身はもちろん、そうは聞いていない。
彼は怒りとともに猫にそのような鳴き声を与え、見捨てるのだ。表現は表現する者に、絶望感を与え、より深い孤独感を突き付ける。
 けれども詩人は書こうとする。谷川俊太郎が数年前、ロンドンにやってきたとき、「もうぼくは詩は書かない。書くものがなくなったから」と言ったが、書くものがなくなったのではなく、彼には詩が書けなくなっただけのことなのだ。彼は今、朝日新聞に毎月作品を載せているが、たしかにもはや詩とは言えない。耳を澄ませてもうめき声などまったく聞こえない。

 歳をとったせいだろうか。
 いや違うのだ。
 ぼくはもっと耳を澄まして聞きたいと思うのだ。逃れられないぼくの〈意識〉がとらえようとするものをもっと深く、もっと丁寧に、じっと見つめようと思うのだ。ぼくが愛する者をじっと見つめることでおそらく、ぼくはぼくを発見することができるだろう。
 ぼくの心臓や胃や腸、あるいは肺や肝臓が反応し、耳が、目がとらえようとするものを見つめ、聞くとき、ぼくは変数χの孤独の数式に抗うことができるのだ。
 ぼくはまだまだ、闘おうと思うのだ。

(July 9th, 2010)

No. 134 日本人の論理

日本人の論理

 日本の首相がまた変わった。毎年新しい首相が誕生する先進国は他にもあるのだろうか。外交は間違いなく希薄なものとなり、日本の国際的な発言力などなくなっていくだろう。
 ところで今回の首相や民主党の幹事長の辞任については、よくわからぬことばかりだ。
 まず沖縄の基地の問題だ。ぼくが米軍普天間基地に隣接する沖縄国際大学に招かれ、講演をしたのは、この大学に米軍ヘリが落ちた事故の直後で、学長室はプレハブだった。学部長の研究室からは基地の中が手に取るように見えた。こう近接していたのでは確かに危険だと、そう思った。
 その基地の移転を旧政権・自民党と米国との間で決められていた名護市辺野古ではなく、沖縄県外へ、できれば国外へ、という鳩山首相の思いは無残な形で挫折した。沖縄県以外のどこも引き受けようとはしなかったからだ。他の県への受け入れ要請が確かな手順で行なわれたかどうかは疑わしいが、発想としてはおかしくはないだろう。仮に日本と云う国の平和と安全が米軍の駐留によって保たれているとするなら、沖縄だけが過重にそれを負担しなければならない論理は成立しない。
 もしぼくなら、と子どもじみた仮定をしてみる。もしぼくなら、沖縄以外のすべての地方自治体の首長に対して、何月何日までにそれぞれの住民の意向をまとめさせ、報告させる。基地の受け入れをするかしないかである。
 おそらくどこも受け入れようとはしないだろう。であれば、日本国民は米軍を受け入れることを拒否するということであるから、政府は米国に対して米軍の完全撤退を命じればよい。
 そんなことをしたら日本の平和と安全はどうするのだともし言う輩がいたら、ではあなたのところで基地を引き受けなさいと言えばよい。自分の身を守るために他者を犠牲にする論理がまかり通ってはならない。
 そのために軍隊が必要であると思うのなら、憲法を変えて軍隊を持てばよい。軍隊を持つことに反対なら、軍隊をもたないで国を守る方法をみんなで考えるのだ。あるいは、軍隊をもたないがゆえに他国から攻められたときは、それに耐えることを選択するのだ。
 そんなに単純ではないよ、政治は、といういかにも政治等に通じているという者がしたり顔で言うならば、政治家を見なさい、そんなに優れた知性や論理的思考のできる者たちであると自信を持てるかと訊ねたい。
 単純でいいのだ。いや単純でなければならないのだ。単純であることを筋を通して守ろうとする勇気が必要なのだ。
 ところで、今回の鳩山首相の迷走は確かにみっともなかったのだが、元に戻っただけのことだ。しかし、沖縄の問題や米軍基地の問題、日本の平和と安全が米国の力によって守られていること、その歪み等、いろいろ隠れていたことや隠されていたこと、敢えてみようとしなかったことが表に出てきたことは大いに意味のあることではなかったか。
 新聞や雑誌、テレビ等のメディアは今回も事の本質から外れた周辺の面白おかしさだけを報じ、醜悪さを露呈した。
 鳩山首相がなんとか沖縄の負担の軽減をと志向したことこそ、もっと見つめる必要があった。
 米国のオバマ大統領は米国のために働いているのである。そのオバマに日本の首相が軽くあしらわれたということを愉快に報じるメディアの愚かしさこそが、気持ち悪いではないか。オバマが言ったチェンジは自分の国・米国のためであり、日本のチェンジなんか関係ないよという姿勢に多少なりとも不快感を持ってよい。
 さらに、小沢幹事長に関する報道もよくわからない。彼は検察の繰り返しの捜査、取調べの結果、不起訴になった。犯罪は有罪と無罪のどちらかなのではないか。不起訴と云うことは、裁判にかける必要がないとの判断が下されたということで、有罪、無罪を論ずる必要もないとされ、白と判断されたのだ。しかし、メディアは灰色として報道を続け、世論を操作する。
 冤罪について話題になった際、警察や検察の攻撃をしたメディアは、その人が逮捕された時にはいったいどのような報道をしたか。掌を返したように冤罪報道に走るメディアのいやらしさを忘れてはならない。
 小沢幹事長が実際はどうであるのかは分からない。しかし、黒でないと結論付けられたものを灰色としてメディアが裁くというのは恐ろしい社会を生み出すことにはならないか。
 勝手に、証拠もなく、ある人間を突然、恣意的に、時に特別の意図を持って、社会的に葬り去ることができるのだ。
 ぼくは鳩山氏にも小沢氏にも、民主にも自民にも与しないが、論理を軽んずる社会は恐怖である。情報を狡猾に操作し、販売しているメディアによって、国民は弄ばれているのではないか。

(June 11th, 2010)

No. 133 外国語を学ぶということⅢ イメージする力 夢の途中(22)

外国語を学ぶということⅢ イメージする力 夢の途中(22)

 St Paul’s School for Girlsというのは英国を代表する中等学校である。GCSEやAレベルの成績は常に全国のトップであり、生徒たちの多くはいわゆるオックス・ブリッジ(Oxford UniversityとCambridge Universityを合わせていう)に進学する。
 ある日、その学校の校長から電話がかかってきた。生徒たちへの日本語教育に取り組みたいので相談に乗ってほしい、というのである。かつて、プリンス(皇太子)が行くので有名なEton Collegeから依頼された時には多忙を理由に断るといった失態を演じた反省から、協力することにした。
 校長の部屋で質素なランチをいただきながらぼくは、なぜ子どもたちに日本語を教えようとするのかと訊いた。「この学校の子どもたちは英国だけでなく、世界のリーダーとして生きていきます。学科だけでなく芸術の面でも、あらゆる点で優れた成績を収めている彼女たちは、しかしながら自分の知識や能力といったものが極めて限られたものであるということを知らなければなりません。異質のものに触れるということは人間のまなざしを豊かにしていきます」

 日本の小学校の校長が大変な剣幕で英語教師を派遣する業者に電話をかけてきた。
 「これは一体どうなっているんだッ!」
 「えッ!」
 「なんで、黒人を派遣したんだッ!」
 「彼は英国人で、立派な教育を受けており、英語教員の資格も持っていますが……」
 「そんなことはどうでもいいから、すぐに白人に替えろッ!」

 国際人を養成するというのが謳い文句の幼稚園を経営する理事長が、自分の娘が滞在することになったロンドンのホームステイ先が気にくわないと紹介した機関にかみついた。
 「英国人の家にしてくれと頼んだだろッ!」
 「はい、英国人の家ですが……」
 「何言ってんだよッ、黒人じゃないかッ!」
 「でも、確かに英国人で、素晴らしい英語を話すファミリーですが、……」
 「黒人なのに、何言ってんだよッ! とにかく娘は白人の家に替えろッ!」

 教育者にしてこうなのだ。国際人養成や英語教育に熱心な教育機関にしてこのありさまなのだ。いち早く英語の教育に取り組んだ小学校の校長にとって、英語という外国語を教えるということはどんな意味があるのだろうか。子どもたちに何を学ばせたいのか。幼稚園の理事長が考える国際人とは何なのか。
 ぼくは講演や公開討論の場で繰り返し、この種の危惧を語ってきた。2011年の春から始まる外国語活動という名の英語教育は油断すると危ない。いつの間にか有名中学の入試科目になってしまい、子どもたちはひたすら単語を覚え、例文を暗唱する。先生がもっとコミュニカティブな英語をと叫んでも、母親が許さない。「何言ってるんですか、入試に必要なことから、まずはやってください。中学校の英語を前倒しでやってもらわないと高校入試が心配です」などと。
 いや、英語に限らない。国語も算数も理科も社会も、みんないったい何を目標としているのだろう。
 つまりは、なぜ教えるのか、なぜ学ぶのかについて、教育に携わる教師も、親も、教育行政に関わる者たちも、しっかりとした理念など持ち合わせていないのだ。
 不真面目だ。
 この不真面目さについてぼくたちは、もっと反省しなければならない。教師失格、親失格、役人失格、社会失格なのだ。

 異質のものを学ぶことによってぼくたちは、知識を超えた、今まで感じたことのない世界の存在をおぼろげながらも識ることになる。それはイメージする力である。
 ぼくたちが存在する世界はその自らの存在さえもわからないのだから、すべてを知ろうとしても知りつくすことはできない。それはもう悲しくなるほどにぼくたちは、何も知らない、わからないのである。考えることさえもうやめてしまおうと思ったりもするほどだ。
 けれどもなおぼくたちは、知りたいし、わかりたい。たとえば愛する人の喜びや悲しみを、できれば同じように感じたいと思うのだ。そのためには、知っているわずかなことを通してわかろうとする、イメージする力が必要だ。想像力が、とびきり上質の想像力こそが、ぼくたちに見知らぬ国で飢えや病気に苦しむ子どもたちの涙をたしかにわからせようとするのだ。
 外国語を学ばせようとするぼくたちはまず、そのことを忘れてはならない。

(May 11th, 2010)

No. 132 外国語を学ぶということⅡ イメージする力Ⅰ 夢の途中(21)

外国語を学ぶということⅡ イメージする力Ⅰ 夢の途中(21)

 日曜日にDVDを見た。15年前、1995年1月17日に発生した阪神・淡路大震災の際の、地元の新聞社・神戸新聞の格闘のドキュメンタリー・ドラマである。
 死者6434名、行方不明者3名、負傷者43792名(重傷者10683名)等の未曾有の被害を出したこの災害の中で、神戸新聞の記者たちが彼らの使命である新聞発行のために闘う姿にぼくは、あふれる涙を押さえることができなかった。
 老いた父親が埋まる現場を離れて社説を書く男、泣きながら、震えながら、詫びながら、被害者にカメラを向けるカメラマン、血を流しながら、自分の家族の安否への心配を胸の奥深いところに呑みこみながら紙面編集に走る男。
 それらの者たちの、自分がしなければならないことは何なのか、自分の仕事とは何なのか、人間としての自分と仕事との関係をどう整理すればよいのか、と問う姿にぼくは、深く息を吐いた。
 自らを責めながら、罵りながら、疑いながら、呆然と立ち尽くし無力感にさいなまれながら、そういったものと渾身の力を振り絞って闘う姿は、ぼくを激しく打擲した。仕事というものの厳しさや尊さについて目の前に突き付けられた気がして、「ぼくは、ぼくたちは、まだ、仕事と呼べるほどのことは何もしていないではないか」と自分を責めた。
 ある記者が言う、「ぼくたちは何もわかっちゃいなかった。わかったふりをしていただけで、被害者の気持ちや思いは何にもわからずに、記事にして報道してきたんだ、今まで」

 わかる、というが、実は何にもわかってなどいない。
 ぼくたちはいつも、ほどほどの理解の中にいる。向き合う人物や現象のごく一部を把握することによって、すべてがわかったつもりでいるのである。
 この「濫觴」でも書いたことがあるが、ぼくが「わからない」と思い始めたのは、小学校を卒業し、中学校に入る前の春休みだった。小学校卒業式のあくる日、後頭部を強打し、意識のない状態で入院したぼくは、病院のベッドで「ぼくは一体何なんだ」と考え始める。
 いつからぼくはぼくであり、ぼくの命はどこから来たのだろう。今いるぼくの空間は、宇宙がどうのこうのといってみたところで、結局のところわからないということではないか。さらに驚くべきことには、ぼくは一度だって自分の顔を生で見たことがないのである。鏡に映る顔はいわばフィクションにすぎない。
 そしてぼくは、ぼくの目からしか世界を見ることができない。本当にぼくが死ぬことなんてあるのだろうか。だってもしぼくが死ねば、この世は終わりになってしまうではないか。
 幼いぼくはしかし、狂おしいほどにその「わからない」ということと格闘した。そして今もなお、ぼくには「わからない」のである。

 2011年の春から、日本の小学校の5,6年生の児童の英語の学習(年間35単位時間)が始まる。「外国語活動」の名の下に行われるのだが、「英語を原則」としている。
 学習指導要領によれば、「外国語を通じて、言語や文化について体験的に理解を深め、積極的にコミュニケーションを図ろうとする態度の育成を図り、外国語の音声や基本的な表現に慣れ親しませながら、コミュニケーション能力の素地を養う」というのが「目標」である。
 今回の外国語活動の新設は中央教育審議会からの答申を踏まえたものであるが、その答申には「人材育成面での国際競争も加速していることから、学校教育において外国語教育を充実することが重要な課題の一つ」とあるように、国際競争力には英語力が欠かせないといった判断が重視されている。この国際競争力とは国際経済競争力を意味し、そこで求められている「人材」とは英語力を用いて国際ビジネスのできる人間のことをいう。
 小学校から英語を学ばせたいということの、おそらくこれが本音なのだろう。経済大国日本が他の国の後塵を拝しては耐え難いというのだ。とくにアジアの、中国や韓国などには絶対に負けたくないという思いが感じられる。実際、早期英語教育に関するシンポジウムでは、中国では、韓国では、といったレポートが盛んになされ、このままでは負けてしまうといったことばをたびたび耳にする。
 そんな時ぼくは、負けたり、勝ったりする学習とはなんだろう、と考え込んでしまうのだ。
 そして、そういう位置づけをされた英語という外国語の学習に子どもたちは、どんな豊かさを感じるのだろうか、と心配するのだ。
 本当にそういった考え方は小学校の教育の位置づけとして好ましいのだろうか。もっと大切なものが学校というところの教育には位置付けられなければならないのではないかと、思うのだ。(続く)

(April 16th, 2010)



No. 131 外国語を学ぶということⅠ イメージする力 夢の途中(20)

外国語を学ぶということⅠ イメージする力 夢の途中(20)

 毎日のようにBBCのニュースではアフガンに行った英国人兵士の死が報じられ、棺の行進の映像が流れている。遺族の悲しみははかりしれない。愛する者を失った悲しみは、たくさんの涙を流し、大きな声で泣き叫んでも癒されることはない。失った者が再び戻り来ることはないのだから。悲惨なことだ。
 けれどもまた、その棺に取りすがる遺族の悲しみに重なるもう一つの慟哭が聞こえる。亡くなった兵士が戦った相手の遺族の泣き叫ぶ声である。つまりは、相手を殺しに行った者が殺されて帰ってきたのだ。その間、相手の何人かを殺しているかもしれないのである。
 戦争ということばには、ずいぶん曖昧な、いやらしい狡猾さが潜んでいる。戦争とは、人が人を殺し、人が人に殺されるということだ。それを戦争ということばで表す時、一人ひとりの身近な感覚から遊離した国家間の概念となり、正当化さえ可能となる。人を殺してもよいという理屈が生まれるのだ。けれどもやはり、戦争とは殺し合いなのだ。愚かなことだ。
 しかしながら、その愚かなことを指導する者たちはそれぞれの国やグループのとびきりのエリートたちである。優れた知能と知性を持った者たちなのだ、おそらくは。純真な子どもたちが学習し、努力を重ねて獲得することのできたものの一つが命あるものの命を奪いうるという論理なのだ。そのことを正当化するといった知性なのだ。
 子どもたちはいったい、何のために学ぶのか。

 アメリカに誕生した素晴らしい大統領がプラハで核廃絶の演説をした時、人間の未来はまだまだ信じられるぞと思った人たちが大勢いたに違いない。
 けれども、ノーベル平和賞の授賞式で、正義のための戦争や平和のための戦争という論理を格好良く演説した彼に、あの広島や長崎に落とされた原子爆弾を平和のための投下と位置付けるアメリカという国の手前勝手な論理を重ね合わせた人も少なくなかったのではないか。
 彼はなぜ苦悩を浮かべながら、格好悪く、無様にスピーチをしなかったのだろうかと私は落胆したのだ。彼が胸をそらして言うアフガンへの数万人の兵士の増派はつまり、相手を殺して来いという命令ではないのか。そしてそのことで本当に、確かに、平和が訪れるというのか。
 いやいや、世の中はそう単純なものではないのだよと耳元で諭す賢人がいれば、ぼくは言いたい、ならばぼくは愚かしくも単純でありたいと。
 今年も戦争が続く。一方では自然のメカニズムが大きく崩れてもいく。ため息がなにも生産することはないと知りつつも、気が付くと大きなため息をついている。

 ぼくたちが生きている間に会うことのできる人間の数は限られている。この地球に生きている人間の総数と比べてみればごくごくわずかだ。だから、たとえば、アフリカの山奥に暮らす人たちの毎日の暮らしについては何も知らない。知らなくても生きていけるようにも思える。
 では、身近に接する者たちについてはよく知っているかといえば、実はほとんど何も知らないのだ。知っていることはその人間のごく一部にすぎない。知ったつもりになって、あの人はいい人だとか、あいつは嫌な奴だとか、彼は優しい人だとか、彼女は冷たい人間だとか、決めつけている。その根拠となるものは、入手したささやかな情報である。交わしたことばや顔の表情、たまたま共にした経験や体験、その他のわずかな事柄をもとにぼくたちは、自分以外の人間を評価・査定している。
 好ましいと思っている人間についてはあまり問題ないが、そうではない感情を抱いている者が傍らにいると、毎日が鬱陶しくなる。けれどもその人間について知っていることは、繰り返すが、わずかなのだ。
 別の視点で、異なった角度から、違う価値観でその人物を、あるいは現象をとらえると、全く異なった印象や新鮮な発見に出会うことがある。そうすることでぼくたちがもし、好ましくない人物や現象への温かい理解が可能になるとしたら素敵なことではないか。
 外国語を学ぶということは、母語では獲得できなかった新しいまなざしを手に入れ、見えないものを豊かにイメージする力を手に入れようとすることなのである。(つづく)

(March 12th, 2010)

No. 130 一文字、一文字を 夢の途中(19)

一文字、一文字を 夢の途中(19)

 「ごんぎつね」や「手ぶくろを買いに」などの名作で有名な絵本画家・黒井健はいつも黒ずくめのファッションで決めている。どうしてかと聞くと、「だってボク、黒井だもん」との明快なる応え。
 日本に出張した際、「うまいラーメンが食べたいなあ」というと、「わかった。行きつけの店があるから」といってホテルに迎えに来てくれた。  
 「どうしてラーメンを食べに行くのに、ベンツなんかでいくの? しかも電話で予約なんかして」
 「いいから、いいから」
 連れて行ってくれたのは、恵比寿のしゃれたレストラン。 ファッショナブルなカップルで席が埋まっている。
 「あれっ、ラーメンじゃないの?」
 「まずはここで食事してからね」
 食事を終えると、「じゃあ、いよいよラーメンだ」と車を走らせる。
 「もう、満腹だよ」
 「大丈夫、大丈夫」
 半分残したぼくに、「もったいないなあ。実は今日の昼もここに来たんだよ」と言いながらぺろりとどんぶりを空にした。
 「もう一軒、行こうよ、飲みに」
 「いや、今日のところはやめておくよ。明日、講演だから」
 あの、吸い込まれるような、素晴らしい絵本を描く男は、まだまだ大きな世界を飛び続けるのだろう。彼の食欲やあらゆるものに対するまっすぐなまなざしはそばにいるだけで心地よい。

 健人は黒井健の長男である。彼は成人した立派な大人であるが、今、自分というものをじっと見つめ、考える生活を送っているようだ。ある年の正月二日、彼に今年の抱負は何だと聞くと、一文字、一文字を丁寧に書こうと思います、と答えた。
 ぼくはそれを聞き、うなった。そして、それはすばらしい決意だね、とほめた。黒井健にもそれを伝えた。
 他愛もないことに思う人もいるかもしれないが、ぼくはいい決意・抱負だなと心から感心した。

 そして今年、ぼくの決意resolutionは「一文字、一文字を丁寧に書くこと」である。健人の真似をしたのである。
 考えてみればいつも、急ぐ必要のない時でさえもぼくは、走り書きのような乱暴な文字を書くようになってきているのではないか。
 故に、書いた文字に愛着を覚えない。つまり、残したり、振り返ったりするものに、心がこもっていないのだ。
 残してきたものに、振り返るべきものに対する思いはいつも、そして長い間、ぼくを責め続けてきたではないか。いや、そう思い込んでいただけで、実はいつも一目散に逃げてばかりではなかったか。
 一文字、一文字を丁寧に書こうと思う。
 そうするためには、焦る心を押さえ、静かな心を持たなければならない。対峙するものとまっすぐに向き合うということだ。怯(ひる)むことなく、じっと見据えるということだ。
 それはおそらく、今を大切に生きるということを意味するのだろう。

 正月はいい。誰もが生まれ変わることができる。三日で躓(つまず)き、ああ今年もだめかなどとつぶやいている者もいるかもしれないが、なあに、気にすることはない。一年後にはまた新しい年が必ずやってくる。それまでじっくり力を付けて、来年こそはもっと長く続けられるようにすればいいのだ。
 色鉛筆の芯をほぐしながら目に見えないものまでもつかまえようとする黒井健も、じっと、切ないほどに自分を見つめようともがく健人も、ぼくも、愛すべき者たちも、ひとしく新年を迎え、生まれ変わったのだ。
 目の前の一文字、一文字を大切に、丁寧に、心を込めて、きれいに書こう。間違ったら、消しゴムで消して、書きなおせばいいのだ。一文字も間違えずに書ける人間なんか一人だっていないのだから。
 しかし、書かなければならない。
 恐れず書かなければならない。
 書こうとしなければならない。
 一文字から書きださなければならない。文字は、ことばを産み、ことばは愛する人に語りかけ、ことばは立ち尽くす自分に語りかけてくれるのだから。
 まずは、一文字書くのである。丁寧に、心を込めて。

(January 25th, 2010)

No. 129 線 夢の途中(18)

線 夢の途中(18)

 子どもの頃ぼくは、よく一人で遊んだ。本を読み、絵を描いた。庭の木々や草花を繰り返し描いた。特に、決して華やかではないマツバボタンの花を好んで描いた。大きな樹木も描いたが、気がつくとまたマツバボタンを描いていた。
 絵を描くのが好きなのだなと思った親は、プロの画家の先生のところにぼくを連れていった。毎週のようにぼくは、その先生に連れられてスケッチ旅行に行った。小学校に入る前のぼくは、大人の男の画家と二人きりで海に向き合ったり、山に入り、滝の傍らに咲く草花を描いたりした。何時間もほとんど話すことはなく、時々彼はぼくの絵を覗き込んでは、一言二言何かを言った。母親の作ってくれた弁当を食べる時も、静かにあたりを眺めていた。
 彼はしかし、厳しかった。いきなり描き出してはいけないとぼくの逸(はや)る気持ちを制した。よく見なさい、静かによく見なさい、と彼は描こうとするものをじっと見つめることを教えた。
 ぼくは見つめた。そしてある時、ハッとしたのだ。ぼくはいつも柔らかい鉛筆で下書きをし、縁取られたそれに色を塗っていったのだったが、ぼくが見つめた草の葉には、そして花には線による縁取りがなかったのだ。
 家に戻り、卵をテーブルの上に置いた。そしてじっと見つめる。ぼくが描くすべてのものはいつも線によって縁取られていたが、よく見ると卵のどこにも線はなかった。掌(てのひら)を見つめる。柔らかな肌色のどこにもやはり線はなかった。
 線を引くことなく絵を描いてみよう、そう思ったぼくは、筆に絵の具を含ませると白い画用紙にいきなり塗りつけていった。それに気付いた先生は、ほうッ、と微笑んだ。その微笑みの意味はぼくにはわからなかった。
 モノが持つと思い込んでいた線という縁取りがぼくの視線から消えると、影さえも不思議な生命力を感じさせた。少年の日、ぼくは密やかなものに触れた衝撃に打たれた。

 平山郁夫さんが亡くなった。日本画の最高峰として偉大なる業績を残した彼とずいぶん前のことだが、二人でのんびり小一時間ほど話したことがある。
 彼が旧制の中学生(現高校)の頃の思い出話である。彼が通った学校は藩校を前身とする私立男子校で、いわゆる進学校である。
 日本語学者の三上章(「象は鼻が長い」等の著者)も数年、教師として勤めたその学校にぼくも、国語を教える青年教師としてしばらくの間勤めたことがある。
 学校の周りをのんびり歩きながら平山さんは、懐かしそうに彼の少年時代を語った。
 「この塀を乗り越えてね、ええ、授業をさぼってね、お好み焼きを食べに行ったんですよ、仲間とね。うまかったなあ」
 「先生たちは怖かったけれど、立派でね」
 ある雑誌に特集されるということで懐かしいキャンパスを訪ねた彼は、日本の画壇の最高峰という必要のない威厳のようなものは微塵も感じさせなかった。少年時代を思い出しながら静かに息を吸い、吐いていた。
 「K君は元気かなあ」
 「ええ、お元気です」
 かつての同級生の名前を挙げて彼は聞いた。Kはその時のぼくの同僚で、音楽教師をしていた。
 東京芸大の学長を務めるなどの激職をこなしながら絵筆をとる彼のまなざしは、優しかった。
 「あのう、先生。この学校に先生の絵を頂けませんか」
 気が付くとぼくはとんでもないお願いを彼にしていた。彼の息遣いを後輩である子どもたちに直接感じさせたい、そう思ったのだった。
 「わかりました」
 いやな顔一つせずに彼は、微笑みながらそう答えた。他の画家とは桁違いに高額で、値段のつけようがないという画家の絵をくれないかと簡単に言ったぼくは、一瞬聞き間違ったかなと思ったが、彼はゆっくり肯いた。
 あくる日ぼくは、そのことを校長に伝えた。驚いた校長は本当かと何度も聞き返した。しばらくして、大きな絵が届いたのだった。

 人間を、心を、描こうとする。さて、どう描こうか。線を引かなければ切り取ることのできない対象は、けれども線などは持っていない。ぼくはいつの間にか、縁取ることでものをとらえたつもりになってはいなかったか。
 ことばもまた、同じである。

(December 11th, 2009)

No. 128 忘れ物 夢の途中(17)

忘れ物 夢の途中(17)

 よく忘れ物をする。旅行中はホテルに忘れ、レストランに忘れ、会議室に忘れる。ペンを忘れ、眼鏡を忘れ、書類を忘れる。買い物をすると、その買ったものを忘れて店を出る。少しばかり時間があるからと駅のコインロッカーに荷物を預け、その荷物の存在を忘れて新幹線に乗り、一駅も二駅も行ってから思い出す。若い頃からそうなのだ。

 旅立つとき、故に、いつも何かを忘れているような気がしてならない。けっして忘れてはならない、そういうものをぼくは忘れてはいないか。

 昔の教え子が訪ねてきて、昔のぼくについて語る。未熟なはずのその頃のぼくにぼくは、嫉妬のような不思議な心の揺れを覚える。教え子の思い出話の中のぼくは活き活きと走っているのだ。伸びやかに呼吸をしているのだ。まっすぐに全力疾走をして今日まで来たはずのぼくがかなわない、青年という名のぼくがそこにはいる。
 いや、そんなはずはない。ぼくは間違いなく今のほうが純粋で、知的である。若い頃のぼくは何も知らぬが故の、いわば未熟な純粋さを持っていたかもしれぬが、いまのぼくは数多くの体験や経験を経たのち、あるいは大きな責任や義務を背負いながら、それらを乗り越えて得た本物の純粋さを持っているはずだ。闘い、傷つき、起き上がり、そうしたのちになお純粋であろうとすることのほうが尊いに決まっている。いや、それこそが純粋という言葉にふさわしいのではないか。
 確かに若い頃は前を見ていればそれでよかった。責任や義務といった抱えるべきものはわずかであり、それらを捨てることになったとしても何度でもやり直すことはできると信じていた。未来を見つめ逡巡することなど必要なかった。故に伸びやかに走ったり、飛んだりできた。
 けれども、歳をとり、多くのものを背負った時、足下を見つめ、振り返り、しかしなお、前に一歩、歩みを進めることは確かに苦しく、つらいことであり、それでもなお純粋であろうとすることは、若いときのそれとは比べようもない力が要るのだ。そこにある純粋さこそが誇るべきものではないか。
 しかし、本当にそうだろうか。ではなぜぼくは、今のぼくは立ち止まるのだ。立ち止まってため息をつくのだ。ぼくが手にしてきたものは、伸びやかさや純粋さといったものではなく、ただ狡猾な弁明やごまかしだったのではないか。ちっぽけな自分の心のみを宥(なだ)め賺(すか)す愚かな言い訳だったのではないか。ぼくは自分の心をも偽ろうとしているのではないか。
 そうなのか? いや、違う。ため息をつくぼくが求めようとしているものは、少年のころや青年のころには見えなかった、もっと高く、もっと輝き、力あるものなのだ。
 大人になってようやく見えてくるものがある。繰り返し転ばなければ見えてこないものがある。大量の本を読み、音楽を聞き、絵画と向き合い、お酒を飲み、口論し、恋をし、裏切られ、病に倒れ、肉親を見送り、命が生まれ、そういった様々な経験や体験が、あるいは学習が、それまで見えなかったものを見えるようにしてくれる。
 それは、〈愛する〉ということだ。〈愛する〉ということの厳しさであり、優しさであり、大きさである。純粋であるとは〈愛する〉力を持っているということであり、〈愛そう〉とすることである。
 この〈愛〉はしかし、難しい。油断すると利己的なものになり、危険な力を持つことになる。自分が幸せでないと他の人を愛したり幸せにしたりは出来ない、という若者がたくさんいる。だから、まずは自分が幸せにならなければ、というのである。この陳腐な論理はかなり支持されており、故にわがままが正当化される。
 ぼくにはまだ〈愛する〉ということを定義する力はないが、かつて何度か〈愛〉というものに触れたような気がするのである。極めてささやかな日常の生活の中でぼくは、それらに包まれて微笑んだ思い出があるのだ。それはいつ、どこにあったのだろう。
 それを思い出さねばならない。いつまでもそれを忘れ物として放っておくわけにはいかない。なぜならぼくは今、旅立とうとしているからである。もう一度ぼくは旅に出ようと思っている。旅の支度は時間をかけずに、あっさりとしたものにしよう。けれども忘れ物をしたままでは旅立てない。ぼくが〈愛〉にほほ笑んだその時を思い出さなくてはならない。それはどのような風景であったか。その風景を求める旅なのだから、しっかり思い出さなくてはならない。

(October 27th, 2009)

No. 127 捨てることば 夢の途中(16)

捨てることば 夢の途中(16)

 夜中に目が覚めた。もっと眠らなければと思うのだが、眠れない。目を瞑ったまま、頭の中のカオスの整理を試みる。

 ことばとは何だろう。
 ここに「林檎」があるとする。いや、「林檎のようなもの」だ。名前はまだない。木の実であることは確かだ。じっと見る。触ってみる。指で弾いてみる。舐めてみる。齧ってみる。噛む。飲み込む。この木の実がどのようなものであるか、少しわかる。
 ここに「林檎」がある。蜜柑でもバナナでもなく、間違いなく「林檎」である。触ったり、食べてみたりしなくとも、それはかつての経験や体験、学習した結果身につけた知識によってわかる。
 ここに一人の「人間」がいるとする。いや、「人間のような動物」だ。名前はまだない。動物であることは確かだ。じっと見る。触ってみる。撫でる。指で弾いてみる。舐めてみる。抱えてみる。噛む。この動物がどのようなものであるか、少しわかる。
 ここに一人の「人間」がいる。犬でも馬でもなく、間違いなく「人間」である。撫でたり、抱えてみたりしなくとも、それはかつての経験や体験、学習した結果身につけた知識によってわかる。
 ここに一人の「男」がいるとする。いや、「男のような人間」だ。名前はまだない。人間であることは確かだ。じっと見る。触ってみる。撫でる。指で弾いてみる。舐めてみる。抱えてみる。噛む。この人間がどのようなものであるか、少しわかる。
 ここに一人の「男」がいる。女ではなく、間違いなく「男」である。撫でたり、抱えてみたりしなくとも、それはかつての経験や体験、学習した結果身につけた知識によってわかる。
 ここに「悲しい」という感情があるとする。いや、おそらくそれは「悲しい」というような感情だろうという程度だ。名前はまだない。心の中に芽生えたものであることは確かだ。じっと考える。悩む。泣く。叫ぶ。それらをじっと見つめる。「悲しい」という感情がどのようなものであるか、少しわかる。
 ここに「悲しい」という感情がある。それは「嬉しい」とか「にくい」といった感情ではなく、間違いなく「悲しい」というものだ。いちいち考えてみなくとも、それはかつての経験や体験、学習した結果身につけた知識によってわかる。
 ここに「愛する」という思いがあるとする。いや、おそらくそれは「愛する」というような思いだろうという程度だ。名前はまだない。心の中に芽生えたものであることは確かだ。じっと考える。思う。焦がれる。悩む。欲する。喜ぶ。悲しむ。泣く。笑う。沈む。浮かぶ。走る。立ち止まる。見上げる。うつむく。振り向く。待つ。あげる。もらう。産む。失う。それらをじっと見つめる。「愛する」という思いがどのようなものであるか、少しわかる。
 ここに「愛する」という思いがある。それは「嬉しい」とか「にくい」といった感情ではなく、間違いなく「愛する」という思いだ。いちいち考えてみなくとも、それはかつての経験や体験、学習した結果身につけた知識によってわかる。

 「林檎」ということばを用いた瞬間ぼくたちは、「林檎というもの」を認識する。「人間」ということばも、「男」ということばも、「悲しい」ということばや「愛する」ということばも、ぼくたちにそれらの意味や感情や思いを明確に整理した形で与えてくれる。そうすることでぼくたちは安心する。
 けれども、そこで認識されたものは既成の知識や経験の枠の中で処理されるのであって、多くの場合それは、それ以外の何ものでもない。
 たとえば「林檎」は、あくまで今までに知っている「林檎」でなければならない。「四角い林檎」などは認められない。
 たとえば「愛する」ということばを用いるときぼくたちは、いつかどこかでインプットした「愛するということ」についての知識や見解や態度や姿勢や方法などといったもので、今まさに目の前にある「愛するもの」に向き合うのだ。その範疇にないものは認められず、時に、あっさりと捨ててしまったりもする。
 けれどもぼくたちが「その時」までに知りえたことやものというのは、そのものが持つ全体像のいかほどであることか。ぼくたちが知ることができるのは常に、そのものや事柄の一部分にすぎない。その一部分にことばというものを当てはめているのだ。つまり、ぼくたちはことばを用いることで、多くのものを捨てているのである。文学的表現の比喩などはそれらを克服しようと挑み続けてはいるのだが。

 頭は冴えるばかりで、今夜もやはり眠れない。

(September 25th, 2009)


No. 126 道幅1.5メートルの教育 夢の途中(15)

道幅1.5メートルの教育 夢の途中(15)

 日曜日の夕刻、柔らかい日差しの中を散歩する。樹林を切り裂いた小道を、時折横切る栗鼠たちと一緒に奥へと歩み入る。突然、芝の公園が現れ、真っ白いユニフォームを着た男たちがクリケットに興じている。そこには当たり前のように穏やかな時間が流れている。ぼくのわずかばかりの疲労感は、そういった風景の中に溶けていき、気がつくと小椋桂を口ずさんでいる。
 持ってきた文庫本を枕にして芝の上に横になる。空はまだ薄青色をしていて、高い。
 どうしてだろう、吸われてしまいそうな空を見ながらつぶやく。教育の専門家である先生と呼ばれる者たちが、今の社会が評価するものばかりを追いかけて必死である。
 たとえば、「百マス計算」である。テレビで特集されたものしか知らないのだから、論評は差し控えなければならないのかもしれないが、少なくとも「百マス計算」に好意的な報道を見ての感想であるのだから許していただきたい。計算の速度と正確さを競う言わば訓練をストップウォッチを用いて行っていたのだが、その風景にぼくは怒りさえ覚えたのだ。こういった訓練を、幼い子どもたちは「学ぶ」ということだと思うことになるのだろう。他人よりも多くの計算ができたことに喜びを感じ、できなかった者を蔑(さげす)むことになるのではないかと心配する。何より驚いたのはそれらを担当する教師たちの表情であった。まるで安っぽいゲームを楽しむような、教育とはずーっと離れた遠いところに置かなければならないはずの、貧しさや卑しさを感じたのだ。まずは基礎力をつけさせるので、そのあとじっくり考える力は養成するのだ、とその教師たちは言う。それは根本的に間違っている。このような学び方で鍛えられた者は、じっくり考えることをしようとはしなくなるのだ。「まずは」というのは大人の勝手な論理である。その論理は、「わかりやすい」ということから導かれる。大人にわかりやすい力(学力)なのである。
 たとえば、「夜スペ」である。民間企業から公立中学校の校長になった者の発案で始まった。彼は成績上位の者たちのことを「吹きこぼれ」と呼び、その者たちへの特別教育を学校で行なおうとする。「上位層を伸ばすのも公教育の役目だ」といい、大手進学塾の講師たちが放課後の教室で特訓する。ここで身に付けた学力は「学力テスト」で測られる。つまり、テストで測ることのできる学力を養っていく。学校と塾との垣根がなくなったのである。放課後の教室は点取り競争をする者たちの戦場となり、彼らの言う「学力が低位の者たち」ははじき出される。代わりに土曜日に「底上げ」の教室を開いていると彼は胸を張る。
 「百マス」も「夜スペ」もメディアが大きく取り上げて、二人は教育界のスターとなる。大阪のタレント知事はこの二人を招へいし、大阪の教育の改革の旗振り役とした。確かにこの知事は大阪の赤字財政を立て直し、中央政権と闘うかっこよさを持っているが、少なくとも教育については大きな失政と言わねばなるまい。学力テストの点数を上げることが教育の向上であると考える単純さは、確かにわかりやすいのだろう。いや彼はもっと強(したた)かで、一般大衆は単純な論理でなければついてこないと考えているのだろう。少し前の政権が短いフレーズ(語句)で大衆を煽ったそのストラテジー(戦略)と同じなのだ。彼は学力テストの成績が上がったその時、誇らしげに言うのだろう、「私が大阪の子どもたちの学力を上げました」と。
 数字は絶対であり、わかりやすい。8は5より3大きいのである。けれども、子どもたちが、たとえば学校というところで学ばなければならないのは、数字で表すことのできるものばかりではない。いくら考えてもなかなか答えの見つからない事柄についても、考えようとしなければならない。たとえば、「幸せってなんだ」と問わなければならない。ぼくの、私の、幸せばかりでなく、生まれてすぐに死んでいかなければならない子どもたちの存在についても推し量り、慮(おもんばか)る力をつけたい。そういった力は数量化できない。
 ぼくたちに必要な力はわかりやすくて、数量化できるものばかりではないのだ。学校は、今の社会にとって都合のよい人間の生産をする工場ではない。一見役に立たないものも大きな意味を持っていることを大人たちは、教育者は、為政者は知らなければならない。人間が簡単に測ることのできる力は、簡単であるがゆえにわずかばかりの力である。
 家に戻りながら、足元を見つめる。ぼくが歩くのに必要な道幅はわずか1.5メートルもあれば十分だ。けれどももし、この道が1.5メートルの道幅しかなく両側が断崖絶壁であったなら、ぼくは足がすくみ、のんびりと歩くことなどできないだろう。今踏みしめている道が踏みしめない大地とつながっていて初めて、ぼくは歩くことができるのである。

(August 10th, 2009)


No. 125 あの頃の 夢の途中(14)

あの頃の 夢の途中(14)

 吉田(和彦)さんがわざわざ新幹線に乗ってやって来て、教え子たちも一緒に酒を飲む。吉田さんはぼくの後輩で、日本で暮らしているときはいつもそばにいた。
 ぼくが研究発表をするときはいつも、レジュメの印刷を手伝い、段ボールに詰めたそれを抱えて大会会場までついてきた。ぼくが組織した研究会のメンバーとして、ぼくのわがままや厳しさ、甘さや未熟さをだれよりも知っている男だった。
 ぼくたちは狂ったように仕事をし、狂ったように酒を飲んだ。ぼくがウイスキーのボトルを一本空けると、彼も同じように一本空けた。そしてあくる日はきまって、二日酔いでのたうちまわっていた。ぼくたちは激しくわがままな兄と優しく善良な弟といった関係だった。
 彼は自分が仲人をした若い教員を連れて来てぼくを紹介し、「この人がぼくの原点なんだ」と言った。ぼくはいつか言わなければいけないと思い続けていた言葉を、20年以上も経ったその時、ようやく言うことができた。「ぼくは吉田和彦を尊敬しているよ。この男はね、立派な教師なんだ」
 研究の仕方や教育について、いつもいつも激しく彼を叱責していたぼくは、彼をもう一人のぼくに見立てていたのだ。彼にもっと頑張らなければと言うとき、ぼくはぼくを叱責していた。ぼくは彼が好きだった。
 「壱岐(俊平)さんがいよいよ定年で退職だってね。壱岐さんから、あの頃はよかったね、と書いた年賀状が来ていてね」、吉田さんにそう言いながらぼくは、胸にこみ上げてくるものをどう抑えたらよいかめんくらっていた。
 壱岐さんはぼくの兄貴のような存在で、酒は彼に教えてもらった。夕方になると彼は、「行こうか」と飲みに誘うのだ。魚のうまい店で日本酒をそれぞれ軽く一升は飲み、それからスタンド・バーに向かう。そこではサントリーのオールドかリザーブを水割りで飲むというのがいつもの流れだった。そのバーには、その頃のぼくから見たらずいぶん年上のママさんともう一人のやはり中年の女性がいた。10人も入ればいっぱいになる狭いその店には常連の男たちしかいなかった。
 酒を飲み、歌を歌った。その頃のカラオケは今のようなものとはずいぶん異なり、映像などはなかった。
 ぼくはそのお店の誰からもかわいがってもらった。生まれて数カ月の長男を抱いて、ぼくはそこで水割りを飲んだ。常連の男たちは、「まったくもう」とあきれながら微笑んだ。
 壱岐さんはいつも優しかった。彼はとめどもなく駄洒落を言っては笑わせ、笑った。その彼はだれよりも教育熱心で、おそらく辞めるまで青年教師として情熱を注いだことだろう。
 むしょうに声が聞きたくなった。吉田さんに言って電話をかけてもらう。
 「あのう、夜分、すいません。今、図師先生と一緒なんです。ロンドンから帰ってきておられて、電話をしろって言うので」
 「え、図師さん?」
 電話の向こうで、壱岐さんが話し始める。不覚にも、涙が浮かぶ。一緒に飲んでいた連中が静かになる。
 どうしてだろう。
 どうして、あの頃の声に涙が出るのだろう。
 あの頃、ぼくたちは若かった。がむしゃらに仕事をし、徹底的に飲んだ。一所懸命であることは当然で、そのことで自分の未熟さを言い訳しようという者はいなかった。
 ぼくたちは自分の未熟さを知っていた。お互いの力の無さを認識していた。だから、頑張るのは当然だと思っていた。頑張っている仲間の苦しみを黙ってみていた。慰めたり、表面的な励ましを言ったりすることなどまったくなかった。それどころか、厳しく磨き合おうとした。
 大酒を飲みながらの話題はほとんどが教育のことで、つまりは昼も夜もどっぷりと仕事に浸かっていた。
 壱岐さんの先輩に大鎗(正昭)さんがいた。ある日、彼は日本から手紙をよこした。「図師さん、日本の教育はどんどん変わっていくよ。こんなはずじゃなかったと思うんだよ。油断すると、また戦争に若者を送り出すような、そんな教育の片棒を担がされてしまいそうで」と書かれていた。彼もまた、真摯に教育に向き合っていた。
 松井(博文)さんや向井(均)さんはもっと先輩だったが、まるで本当の兄弟のように支えてくれた。甘えるような喧嘩もした。この二人の存在はぼくの人生に大きな意味を持っている。
 あの頃、ぼくたちは、ぼくたちであった。ぼくだけで終結するのではなく、ぼくたちであった。ぼくたちは同じ空気を吸い、激しくもがきながら、一緒に生きた。
 あの頃、ぼくは未熟で、みんな未熟で、その未熟さに甘えないようにしような、そう声を掛け合って生きていた。

(July 10th, 2009)



No. 124 おおい、雲よ。 夢の途中(13)

おおい、雲よ。 夢の途中(13)

 夕刻になるとロンドンは空を青くする。そしてそこには、やわらかな白い雲が浮かんでいる。ぼくは椅子を回して、部屋の中からしばし眺める。今年のロンドンの初夏は美しく、晴れ渡る日が多いように思う。
 キャンパスの芝の上を幼な子が頼りなげに走り回る。母親らしき若い女性が追う。それを、離れて見守る老人がベンチに腰かけている。
 ぼくはぬるくなったコーヒーを口に含む。立ちあがってステレオに向かい、ボッチェリAndrea BocelliのIncanto(CD)を流す。盲目のオペラ歌手の、青竹の匂いを思わせる声がぼくを遠い日へと誘う。

 リフト(エレベーター)を降りると不思議なことにぼくはかすかな緊張を覚えた。どうしてだろう、と戸惑う。日本出張中のぼくは、宿泊しているホテルの部屋からかつての教え子の待つロビーへと向かっていた。
ぼくを見つけ、ロビーのソファから立ち上がり、「先生ッ」と言った彼は、いい顔をしていた。まるで少年だ。もはや中年の彼には、けれども青い竹の匂いがした。
 20数年ぶりの再会は喜びにあふれていたが、瞬く間に過ぎた。レストランではワインを飲み、ぼくの部屋では日本酒を飲んだ。彼の作った曲を聴き、静かに語る彼の軌跡を聞いた。
 夜が更け、ホテルの出口まで送ったぼくに抱きついた彼は、声を出して泣いた。
 部屋に戻り、ぼくはもう一度グラスに、今度は強い酒を注いだ。「がんばれ」と呟く。

 雲が流れていく。すこし風が出たようだ。けれども、のんびりとしたものだ。微かにほほ笑みながら流れていく。どこへ?
 ぼくの住むイギリスは、日本からは随分遠い。父が死んだ時はロンドンに、長兄が死んだ時はケンブリッジにいた。人は数百メートルも離れていれば、もう見えなくなる。見えないという意味では地球の反対側にいるのも同じだ。会いたいという時に駆け出していけば会えるというのと、駈け出したってすぐには会えないというのとの違いである。
 少し切ないが、近くにいたって何も見えていないことがあるじゃないか、と自分を慰める。

 時に、すべてがつまらないものに思える。世の権威あるものに薄っぺらさと醜さを感じるのだ。テレビや新聞の伝えるもののどれもこれもが、大切なものを放っておいてどうでもいいことに躍起になっているように思える。笑いの中に、怒りの中に、涙の中に、ぼくは偽りを感じてしまう。
 子どものころ食べた西瓜の甘さはどこへ消えたのだろう。蛍を追いかけた時の闇の怖さはどこに行ったのだろう。近所のおばあさんの慈愛に満ちたほほ笑みはいつなくなったのだろう。

 ちぎれて取り残された白い雲が浮かんでいる。
 モディリアーニAmedeo Modiglianiの画集を開き、「ジャンヌ・エビュテルヌの肖像」をみる。14歳年下の愛人を描いたこの絵は見つめてはいけない。動けなくなり、何かを差し出さねばならなくなるから。飲んだくれで女たらしの天才画家はモデルとなったジャンヌに見つめられることで生きた。画家がモデルを見つめたのではない。
 日本で買った『子葉声韻』(高貝弘也)を読む。「どうして、幼い子どもばかり死ななければならなかったのか」で始まる詩集。秀逸だ。言葉が勝手に動き出したかのような生命力がある。

   雲もまた自分のやうだ
   自分のやうに
   すつかり途方にくれてゐるのだ
   あまりにあまりにひろすぎる
   涯(はて)のない蒼空なので ―「ある時」(暮鳥)

 陽が落ちようとする。雲はどうするのだ。陽が落ちてしまったあとで、お前はどこへ行こうとするのか。
 おおい、雲よ。
 ぼくの心を吸ったお前はそれをどこへ運んで行こうというのか。ぼくの心はそこで、幸せにほほ笑むことができるというのか。

 飲もうとしたコーヒーはポットを傾けてももう出てこない。今日も5、6杯は飲んだだろうか。

(June 11th, 2009)

No. 123 天命を待たず 研究所創立20周年 夢の途中(12)

天命を待たず 研究所創立20周年 夢の途中(12)

[人事を尽して天命を待つ]という言葉がある。「人間として出来るかぎりのことをして、その上は天命に任せて心を労しない」(広辞苑)という意味だ。
 がむしゃらに走ってきたぼくは時に、この言葉で以て自分を支えた。やれるだけのことをやったのだから、と自らを慰めた。神社やお寺では賽銭を上げて手を合わせ、教会を訪れた際には頭(こうべ)を垂れる。
 けれども今、この言葉に甘えようとした自分を恥じるのだ。そもそも、「人事を尽し」たことなど一度もないのではないか、と振り返ってそう思う。ほどほどの努力しかしていないのに全力で事に当たったと納得してきたように思うのだ。いや、正確にいえば、納得しようとしてきたのだ。つまり、ぼくにはわかっていた、その妥協が、あきらめが。
 ゆえに、ぼくにはうしろめたさがつきまとってきた。もっと、もっと、どうして努力しなかったのだ、と。
 「天命を待っ」てはいけないのだ。「天命」などないのだ。すべては自ら生まれ、自らに対峙し、自らを裁くのだ。

 今年の4月で研究所は20歳になった。ようやく大人になる歳なのだが、まだまだ幼く、未熟である。
 瞬く間に過ぎた20年であったが、その質感は重い。教育とは何かという問いに真直ぐに向き合ってきたつもりであったが、振り返ってみると自分の愚かしさだけが思い出される。
 20年前のぼくは、確かに20歳若かった。ある神父が当時、「人生は闘いです」と話してくれたが、ようやく今、少しだけそれがわかるようにもなった。その時ぼくは、神父への手紙に「何のために人は闘わなければならないのですか」と問うた。おそらくその闘いとは「生きるとは何か」と問うことであろう。それはつまり、「死ぬ」ということについて考えることでもある。

 この20年の間、ぼくにとって幸せであったのはさまざまな人との出会いである。研究所の所員として支えてくれた数多くの者たちに、まずは感謝したい。今年の4月3日の創立記念日にぼくは、ロンドンのピカデリー通りに面した研究所の最初のオフィスを訪れた。そこは20年前の、瀟洒で、贅沢な出発点であった。
 突如、ぼくの眼頭が熱くなり、必死でこらえた。さまざまな仲間たちの顔が浮かんできたからである。
 20年前のある夜、その裏通りのパブで、当時のぼくのアシスタント(補佐・イギリス人)の男と激しい口論をした。ぼくには彼の使う[business]という言葉が我慢ならなかった。「ぼくはbusinessをするつもりはないんだ。ぼくがやろうとしているのは教育なんだ。どうして君にはそれがわからないんだ」
 ぼくにはその頃、[business]という言葉の持つ意味の広さを理解する力がなかったのだ。教育一家に育ったぼくは、その言葉になんとなく卑しい響きを感じていた。彼は「Good luck!」と言って去って行った。そのパブは今はなく、日本食のレストランになっている。
 数多くの者たちとの擦れ違いがあった。そのすべてがぼくの未熟さによるもので、一人ひとりにお詫びを言い、またお礼を言わなければならない。
 それにしても、なぜかすべての者たちが素晴らしい純粋さにあふれていた。すべての者がぼくの夢や理想を理解しようとしてくれた。一人残らず、ぼくにとっては大切な者たちで、ゆえに切ない思い出である。ぼくにもっと力があれば、もっと大きな愛情があれば、そう思うのだ。
 幸いなことに、現在の所員も含めてみんな、学生に対する教育には打ち込んでくれた。日本の大学教授たちに会うと、ぼくはいつも誇らしげに口にする。「うちのスタッフはすごいんだ。みんな純粋に教育に打ち込み、成長を続けている。だから、学生たちも不思議なほどに努力をし、大きく成長していく」と。
 きっと手前味噌なのだろう。親バカなのだろう。けれども、親がバカと言われるほど子どもを愛して何が悪いのだ。

 ぼくは人事を尽そうと思う。巣立っていった卒業生の一人一人の顔を思い浮かべながら、時に涙を浮かべながら歯を食いしばって仕事に打ち込む仲間であり同士である所員のまなざしを受け止めながら。
 ぼくは天命を待たない。ぼくやぼくたちの仲間の人生は、ぼくたち自身で隅々まで神経を行きわたらせて、自ら作っていこうと思う。
 研究所の20年は、まだまだわずかな一歩である。これからまた、新たな一日一日を積み重ねて、できうる限り純粋に、さわやかに、豊かな教育の世界の創造に努力していこうと思っている。
 今年の春も、桜は美しく咲いた、全身の力を振り絞って。

(May 7th, 2009)

No. 122 退陣要求 夢の途中(11)

退陣要求 夢の途中(11)

■退陣要求(1)内閣総理大臣
 すごい、ものすごい。こんなことが許されるのか。この程度の人物が堂々と最高権力者の地位に鎮座していていいのか。下品、下劣、無教養、いくらでもネガティヴな形容詞が浮かぶ。朝令暮改は日常的で、加えてそのことに対する批判への居直りや恫喝までもある。「濡れ衣を着せるな(彼はカブセルナと言ったが)」とすごんで見せた彼は、漢字だけでなく小学生でも知っている慣用表現もその意味するところをよくは知らぬのだ。数か月前には「おれがやったんだから、そこのところ、よく覚えておいてくれ」とテレビカメラの前でチンピラ並みに啖呵を切ったそのことを、「濡れ衣を着せるな。おれがやったんじゃない」と吐き捨てる。第一、「濡れ衣」というからにはそのこと(郵政民営化)が悪事であったと言っていることになる。あくる日には「やっぱりおれがやった」と言いなおす。論理性なんて何もなく、ただ駄々をこねたり、いちゃもんをつけたりの繰り返しなのだ。世界第2位の経済大国のトップが中学生にまでその知的レベルの低さをあざ笑われているのだが、どうしたわけか他国のトップとの会談をするために世界を駆けまわっている。国会答弁で「俺は、……」という言葉遣いしかできない人物が、どうして品位のある英語が使えるというのか。どうして内容のある協議ができるというのか。恐ろしくてハラハラする。
 不思議なのは、周りに仕える連中である。この「未曽有(彼はミゾユウと読む)」のコメディアンの一挙手一投足をおなかの中で笑いながら楽しんでいるというのか。国益を考えると一日も早く首相という役職も国会議員という立場も辞めさせなければ。彼の盟友の財務大臣も二日酔いと思われる会見で世界に醜態をさらし、大臣職を退いている。

■退陣要求(2)マス・メディア
 朝日、読売、毎日、産経、東京、日経の各新聞の記事を毎日読む。どれもこれももう駄目だ。商品と化した文字には生命力が感じられず、ジャーナリズム精神を感じない。ロンドン駐在のある新聞記者は、ウインブルドンのテニスの試合のテレビ中継を支局で見ながら記事にして、現地からの記事として配信し、こうのたまった、「日本にいる者にはどうせわかんないんだから」と。面白ければいいんだよ、どうせ商品なんだから、というのである。
 メディアが暴力的な力を持ち、跋扈している。通りの隅で刃物をちらつかせてゆすりたかりの類をしている者たちより恐ろしく悪質なのである。
 日本で最も大きな自動車会社(どうやら世界で最も大きな会社になったようだが)の名誉会長という男(経団連の会長もやったことがある)が庶民を苦しめる年金問題を取り上げ検証するテレビ番組をやり玉に挙げた。彼はこう言った、「ああいう番組はけしからん。テレビのコマーシャルなどをやめて報復してやろうか」と。こちらも結局はチンピラなのだ。どんなに社会的な地位を手にしても、心の奥底はその筋の者と変わらない。いや、もっとタチが悪いのだ。すぐに会社をたたんで出直すのがいい。
 こういう言動を新聞もテレビも、メディアはほとんど取り上げなかった。取り上げてもごく小さな記事であった。不買運動の展開が起きてもおかしくない暴言であるのだが。要するに広告を出されなくなると困るからだ。いつもの正義の味方ふうなポーズはどこへ行ったのだ。

■退陣要求(3)似非・教養人
 大学に入学した若者の学力があまりに低いので、中学や高校の教科書を用いて補習する大学が増えているのだそうだ。そのことを推進する団体まで出現している。なんだか頭がくらくらする。
 子どもたちに貧相なプリント教材を配って、ストップ・ウォッチで追い立てながら「百マス計算」などをやらせるのにも吐き気を覚えているが、大学生に対する補習をシステム化しようという者たちが集団を形成しているのには呆れて笑っちゃうぐらいである。しかも、真面目にそういった愚かな営みに打ち込んでいる者たちは大学の教授たちなのである。いや、これは意外なのではないのかもしれない。大学の教授にしてその程度のレベルなのだ。
 大学の教授たちと話をしていて不快になるのは、自分の大学の学生たちの質の悪さをとうとうと述べる輩が多いことである。その大学生たちの教育を担当しているといった責任感が全くというほどないのである。彼らが眼の色を変えるのは研究費という名の自由になるお金の獲得に対してであり、そのお金を使っての海外遊学の楽しみにである。大学における教育の可能性や理想を語る者がほとんどいない今、みんなそろって辞めてもらうことにしたい。

 気持の悪い大気汚染はまっぴらなのだ。権威も権力も、地位も名誉も一度、「ご破算で願いましては」といきたい。

(March 3rd, 2009)

No. 121 ふうと風を産む 夢の途中(10)

ふうと風を産む 夢の途中(10)

正月二日、書き初めをする。子どもの頃からの習慣である。新しい年を迎えて思い浮かんだ言葉を書くのである。
 時間をかけて墨を磨りながら、静かに新しい年の自分を見つめる。気取った言葉を書こうとすると、それを見透かした自分が赤面する。あくまで素直でなければならない。
 うまく書こうとすると、気持の悪い文字が目の前に嘲笑するかのように現れる。心を空しくして書くのがいい。

 今年、ぼくたちの研究所は20周年を迎える。ようやく成人するのである。早いものだ。実態はよちよち歩きからさほど成長していないのだが、それでも振り返ると胸が熱くなる。
 20年前、ぼくは痩せた青年だった。
 若く未熟なぼくの前に、なぜか数多くの人たちが現れた。その人たちは等しくぼくに対して頭を垂れ、笑顔で近づいてきた。ぼくの語る教育についての思いに頷き、褒め称えた。
 しばらくすると、いろいろなプロジェクトが企画され、ぼくはいつもその中心にいた。土曜も日曜もなく、ぼくはそれらの仕事に没頭した。今まで出会うことのなかった世界の人たちとの出会いも増え、ぼくはぼくの世界が急速に拡大していくのを感じた。
 有名な人たちと旅もした。
 さまざまな国を訪れると、空港には航空会社の代表たちが出迎え、酒食を饗してくれた。ぼくよりもずっと年上の人たちが、ぼくの表情に敏感に反応した。
 こうしてくれないかということにはだれもが快く応じた。
 そのうちに、仕事から解放されたぼくは深夜、ぼくの部屋からまっすぐに見えるネルソン提督の像とビッグベンをしばしば眺めるようになった。その頃のぼくのオフィスはピカデリー・サーカスにあった。ビルの最上階の瀟洒な部屋で一人、ぼくはワインを飲んだ。
 ぼくはなにをしているのだろう。
 気がつくとぼくは、大きな仕組みの中で一つの都合のよい歯車と化していた。確かにすべての中心にいたが、その周りにはぼくの知らないモノが蠢いていた。
 教育さえも飲み込もうとする<カネ>という名の化け物である。ぼくが依頼されて作る新しいカレッジ等のカリキュラムやコースデザイン、基本理念や謳い上げる理想といったものがすべて数字化されて知らないところで動いていたのだった。
 ぼくは知らぬ間に立っていた見知らぬ足下を見つめ、それらとの訣別を決心した。
 もう一度始めよう。ワインを飲み干すと、ぼくはたった一人の部屋で、その決意を口にした。全身が熱くなるのを覚えた。
 教育を貶めたり、辱めてはいけない。信ずる教育の創造のためにもう一度始めよう。
 ぼくは毎晩、一人でビッグベンの文字盤を眺めながら<人間と教育>について考えた。多くの人たちと酒を飲みながら語り合ったりもしたが、いつも最後は部屋に戻った。窓のそばに立ちビッグベンを眺めながら、あるいはファイアープレースの前の椅子に腰かけながら、教育の意味について考えた。
 それはぼくがこれからどのようにして生きていくかについて考えるということでもあった。
 その時ハッとしたのは、教育の名のもとに展開されている世の中の様々な営みが、実は多くの場合、その目的に教育とはまったく関係のないものを設定しているということだった。それに関わる者の名誉のためであったり、金銭欲によるものであったり。たとえ高名な学者であろうが、機関であろうが、<人間と教育>についての確かな思いを持つものは少なかった。
 教育は人間を幸せにしていくものでなければならない。この<人間>とは動物としての<ヒト>という生き物を指すのではなく、自分以外の人との関わりを前提とした社会的存在としての人間のことである。人間は自分以外の者たちとの関わりを捨てて生きることはできない。
 <幸せ>とは何か。おそらくそれは<捨てる>ということだ。生まれながらに持っている、あるいは生まれたのちに身につけた<欲>を少しずつ捨てていくことだ。手に入れることではなく、捨てることである。油断するといろいろなものを気づかぬうちに身に纏ってしまうのが人生だ。身に纏ってしまったものは多くの場合、少しの快楽と多大なる苦痛をもたらす。
 それらの身に纏ったものを少しずつ脱ぎ捨てようとするとき働くのが<知性>である。脱ぎ捨てることを続け、最終的に最後に残ったものを捨てる時、安らかで美しい死が訪れる。

 今年ぼくは、「ふうと風を産む」と書いた。静かに、やさしく、心をこめて、息を吐く。それが風になる。

(January 23rd, 2009)

No. 120 変数χの孤独 夢の途中(9)

変数χの孤独 夢の途中(9)

 寒い朝、空が焼けている。きれいだな、と思う。もう少しそのままでいてくれないかなと思う。

 言語分析はぼくにとってはいわば一種のゲームだ。文法のある概念について書かれた論文を読みながら、その論理の破綻を見つけるとぼくは、味方の走者を自分の打撃でホーム・インさせて得点したような軽やかな喜びを感じる。オリジナルの論理を磨きながら微笑むのは、ずっと幼いころの野球ゲームでの独り遊びに通じる。
 小学校に入る前からぼくは、独り遊びを覚えた。同じ年代の子どもたちと遊ぶのに比べて、幼稚な仲間意識や非論理的な秩序に振り回される必要がなく、なにより想像力が満たされた。
 その頃人気のあったスポーツは何と言っても野球だった。だから野球に関する本やゲームが店先にはいろいろあった。もちろん今風のコンピュータを使ったゲームなどではなく、ボード・ゲームがせいぜいだった。パチンコ玉のようなボールを転がして、ボードに張り付けられたバットで打つといった他愛もないもので、ゆえにすぐに飽きた。小賢しい細工が施されてはいたが、それがかえって興ざめだった。プレゼントで貰ったどんなに新しいものもすぐに興味が失せていくのだった。
 そこでぼくは、自分で作ろうと考えた。既成のもののように磁石やほんの少しの電気を使うのではなく、単純で、ふくらみのある仕組みはないかと考えた。いろいろ考えた上で、行き着いたのは薬品を入れた箱などのコーナーにくっついている堅いスポンジと鉛筆とを用いた何とも地味でみすぼらしいものだった。ボードの上に様々な模様を描き、二つのチームの選手を決め、投手の持ち球や決め球をそれぞれ設定した。決め球は絶対的ではなく、相性を組み合わせ、と次から次へとゲームの密度は複雑になっていった。ぼくは試合の解説をしながら延々と何時間も一人で遊んだ。目の前のボードの貧弱さとは大きなギャップのある高度で豊かな<遊び>が展開した。想像と創造の楽しい空間だった。あるいはその頃の遊びの方が今の言語分析よりも夢中だったようにも思える。
 いや、その頃も、夢中になっている自分に耳元でささやく声が聞こえていた。ぼくはほとんど毎日全力疾走で生きているが、ときにふと、耳元でささやく声に立ち止まるのだ。<ボクハ・イツマデ・ボクナノダロウカ>
 懸命に記録を伸ばそうとするオリンピックの選手たち、もはや絶対に使いつくすことのない財力を持ちながらさらに富を得ようと睡眠時間まで削る経済人、名誉と権力のために必死に演説する政治家、研究のために家族も友人も捨てる学者、いやこういった者たちはほんの一例に過ぎない。この世に生きとし生けるもののすべてに、ある悲しみがある。

 ぼくは幼い頃からよく空を見上げた。ずっと、ずっと上のほうからだれかが覗いているのではないかと思ったのだ。そしてまた、ぼくは不思議だった。足下を見つめ、この地面は何が支えているのだろう、と。
 ぼくたちはある方程式のχに投げ込まれた変数にしか過ぎない。あらかじめ設定されている方程式の一変数に過ぎない。ゆえに、χに放り込まれる数字の間で個性だの優劣だのと言ってみてもそれは滑稽なだけだ。ぼくたちは大きな誤解の中で生きている。最も大きな疑問と向き合うことから逃れながら、ごまかしながら、ほどほどの納得の上に築いた生なのだ。すなわち、<生きている>ということさえもあるいは誤解なのだ。もがき、喘ぎ、苦しみ、あるいは笑い、喜び、そういったものが落ち着くところはあらかじめ設定された方程式の箱の中なのである。
 深く考える恐怖から逃れるために、ぼくたちは眠る。眠るために、歩き、食べ、恋をする。どのように歩くかとか、何を食べるかとか、どんな恋をするかとかは恐怖から逃れるためのちょっとしたレトリックやカムフラージュに過ぎない。そういったもので飾りつけることで、確かに眠りが訪れやすくなるのかもしれない。深く眠ることのできる者たちは幸せだ。けれども、眠ることを忘れた者たちは夜毎考えなければならない、<ボクハ・イツマデ・ボクナノダロウカ>と。
 χには毎日おびただしい数の変数が投げ込まれてくる。それぞれの変数は単なる一つの変数に過ぎない。変数χはゆえに孤独である。時と空間を見失いながら、χという入れ物の中でため息をつく。けれども、なかに何とか首を伸ばして隣のУを見ようとする、あるいはχから逃げ出そうとする変数が、いや、いまい。

(December 4th, 2008)

No. 119 ごめんね 夢の途中(8)

ごめんね 夢の途中(8)

やはり、書いておくことにする。書いておかなければならないと思うのだ。他の形で書き遺すつもりでいたが、書ける時に書いておくのがいいように思う。この濫觴には今までも恥ずかしいことも心の内を曝(さら)すように書いてきたのだから。

 長男の空(そら)には、秋(あき)という息子がいる。23日の今日で満1歳になる。つまりは孫というわけだ、ぼくにとって。
 空は教育者として多忙な生活を送っている。大学やカレッジで教え、ケンブリッジ英検やIELTSの出題委員も兼務する。空手も時間を作っては道場で教えている。大変なスケジュールをこなしている彼を見ていると、若い時の自分の姿を想うのだ。
 ぼくもまた、疾走する毎日だった。教育に加えぼくは、文学の世界にも棲(す)んでいた。とにかく必死で、もがくように努力をした。けれども自分の未熟さは識っていた。未熟である自分を、よく咀嚼していない理論や大量のアルコールでごまかしながら走っていた。深夜の路上で嘔吐しながら、痩せた才能を信じようとした。周囲はそのぼくをなぜか許し、認め、評価し、つまりは甘やかした。ぼくはそのことを十分に認識していたが、ゆえにいつも不安だった。逃げ出したいと思っていた。
 ぼくには3人の子どもがいる。空と次男の陽(よう)、それに長女の花(はな)である。それぞれ成長し、アカデミックな世界で何とか生きている。
 その子どもたちをぼくは深く愛しているが、空が赤ん坊の秋を愛するその姿を見て、ぼくはぼくを責める思いに襲われ、立ち尽くすのだ。
 空は多忙にもかかわらず、息子の秋を徹底的に抱きしめる。頬ずりをし、キスをし、おしめを替え、お風呂に入れて、と。
 ぼくは幼い空を書斎から締め出し、研究や創作に打ち込んだ。陽も花も、ぼくの手でおしめを替えられたことは一度もないのだ。
 けれども、例えば空は、気がつくと疲れてソファに横たわっているぼくに這いながら近寄ってきて、ぼくの胸の上で眠ったりした。その風景を写した写真は、けれどもその頃のぼくの心の中の不安や荒(すさ)みまでは写してはいない。
 ぼくはどうしてもっと子どもたちを抱きしめようとしなかったのだろう。愛しているよと言葉に出して言わなかったのだろう。頬ずりをし、キスをし、どうしてそれができなかったのだろう。孫の秋にできることが、どうして息子や娘にできなかったのだろう。
 大人になった息子たちは、ベッドに横になっているぼくの傍にやってきていつの間にか隣に横たわり、チョムスキーのことやピカソやゴッホの絵について話しかける。気がつくと、ぼくに抱きついたまま寝息を立てていることだってある。
 娘は出張から帰ったぼくに抱きつき、30分以上もそのままで離れない。キスをしてくれ、体をいたわってくれる。
 ああ、幸せだなあという思いとともに、ぼくには苦(にが)さが込み上げてくるのだ。

 ぼくはね、君たちを、空が秋を抱きしめるようには抱きしめなかったのだよ。ぼくは自分の疾走に必死だったのだよ。表面的な格好ばかりを気にする愚かな父親だったのだ。本を読み、詩を書き、研究発表をし、褒められ、おだてられることに喜びを感じながら、脚にすがりついてくる君たちを抱きしめることをしなかったのだ。
 もっともっとぼくは、君たちを抱きしめなければならなかったと思うのだよ。もっともっと抱きしめておけばよかった、そう後悔しているのだよ、いま。君たちがもう一度赤ちゃんに戻ってくれたなら、ぼくは君たちが泣き出すぐらい強く抱きしめようとさえ思うのだよ。
 ごめんね。

 秋を連れて訪ねてくると、空は決まってまずぼくに秋を押し付ける。抱け、というのだ。自分の家に戻るときも、別れ際にぼくに抱かせようとする。
 ぼくは優しく抱きしめ、頬ずりをし、キスをして、空に戻す。空は嬉しそうな顔をして、可愛いでしょ、と訊くのだ。ああ、可愛いね、というぼくの言葉には、時を越えて届いてほしいという思いがある。
 けれども、もう子どもたちは大人になった。ある時、一緒に食事をし、お酒を酌み交わしながら、ついぼくは空に言った、君はパパよりずっと立派な先生になったし、大人になった、と。すると空は驚き、真面目な顔をして言った、パパにはまだまだ全然敵(かな)わないよ、本当に。

(October 24th, 2008)

No. 118 突然 夢の途中(7)

突然 夢の途中(7)

南川貞治先生は突然、現れた。
 キャンパスの芝の上に座り込むと、「一緒に座ろうよ」とぼくを誘った。自己紹介もほどほどにして彼は、いいところだねえ、と呟くように言った。
 あの日から10年以上も時が過ぎた。
 いまぼくの手には日本から届いた一通の葉書がある。「故南川貞治儀」と始まるそれは、彼の逝去を報せている。
 81歳で彼は旅立った。

 抱きしめるようにぼくを可愛がってくれた彼は、いったい何者だったのだろう。
 大学の先生であり、芸術関係の評論家であり、しかしぼくはそれらの詳細を一度も訊ねなかった。
 「先日、演出家の野田秀樹と飲みましてね。その時、こんなことを言って野田をからかってやったんです」
 「それは面白い。今度野田君に会ったら、その続きでぼくもからかってやろう。ハ、ハ、ハ」
 彼はいつも、あたたかいまなざしでぼくを見つめた。向き合っていると、ずっと前からの友人であるかのような錯覚を覚えるのだった。
 年齢はずっと上の彼は、けれども友人だった。時に父親のような錯覚も訪れたが、けっして不自由な関係にはならなかった。
 ある時、ホテルの部屋のFAX機から大きな文字で「会いたい」と書かれた用紙が吐き出された。忙しいだろうが、何とか都合をつけてくれないか、と書かれていた。
 日本出張中のぼくのスケジュールは確かにかなりタイトだった。福岡から東京に戻ったとき、ホテルのレセプションには彼からのメッセージが届いていた。
 「ホテルのすぐそばの東京會舘のレストランで待っている。あわてないでいいから、シャワーでも浴びてゆっくり来なさい」
 ポーターに荷物だけ部屋に入れておくように頼むと、急いでそのレストランへと走った。
 井上壽子先生と一緒に彼は入口のそばのソファに腰掛けていた。そもそも井上先生が南川先生を紹介したのが始まりだった。
 案内されてレストランに入る。
 予約されていた席に座ると、二人ともうれしそうにほほ笑んだ。
 「よかった。久しぶりだねえ。会えたねえ」と彼が言うと、井上先生も頷いた。
 運ばれてきたフランス料理はぼくの好物ばかりだった。
 「こんなものばかり食べていると体を壊すぞ、とお叱りを受けたことがありましたが……」
 「今日はいい、今日は許す、ハ、ハ、ハ」
 二人の老名誉教授はニコニコしながらナイフとフォークを動かしている。
 静かで、上品で、あたたかく、優しい時間が流れた。
 食事を終え、席を立とうとすると、南川先生が言った。
 「もう少し時間をくれないかなあ。実はもう一軒予約しているところがあるんだよ」
 脚の悪い井上先生のために彼は車を拾った。行先は目と鼻の先で、数分で着いた。
 「えっ、ここですか」
 そこはカラオケのお店だった。
 受付で、南川先生が店員の若い男に言った。
 「来ましたよ」
 二人の老教授は早い時間に待ち合わせ、レストランを決め、カラオケのお店の下見をし、予約していたのだった。
 部屋に入ると、カラオケの機械の操作の方法を三人とも知らなかった。
 店員に教えてもらって、流れ出した曲は原語で歌うシャンソンだった。懐かしい童謡だった。唱歌だった。
 おそらくあのお店で初めての曲が次から次へと通路に漏れた。通る人たちがぼくたちの部屋をのぞきこんでいく。
 ぼくは酔った。二人の老人にやわらかく抱かれていた。

 それからまた時が過ぎ、日本に帰国した折、普茶料理(精進料理)を一緒に食べた。
 南川先生は言った。
 「今度一緒に温泉に行こう。絶対行こう。必ずね。それから、図師君、井上先生を頼むぞ。彼女には図師君しかいないんだから」
 ぼくはその時、南川先生の不調に気付かなかった。やわらかく、シャンソンを口ずさむような彼の口元に、ある思いがあることに。
 しばらくして、南川貞治先生は突然、逝った。(続く)

(September 29th, 2008)

No. 117 権威や権力にひれ伏す者たち 夢の途中(6)

権威や権力にひれ伏す者たち 夢の途中(6)

疲れたな、と思う。
 その疲れが程よく、おいしいお酒が飲みたい、そういうときはいい。が、ふつふつとした怒りをこみ上げさせるときは、酒に宥め癒す力はない。
 怒りは嫌な人間と一定の時間を過ごしながら生まれ、成長する。

 国のオーナーは国民である。公務員は公僕であり、国民から給与が支給され、国民に奉仕する存在である。にもかかわらず、公務員があたかも国民の上に存在するかのような錯覚を持った輩がいる。国家公務員にも地方公務員にも少なからずいるのである。
 そしてまた、そういった者たちにひれ伏す者たちがいて、勘違いをした公務員を増長させている。役人と訊くだけで腰を低くする者たちである。
 おもしろいことに、特殊法人、あるいは独立行政法人などといった組織の者たちにも不遜な者たちがうようよしている。これらの法人のトップの多くは役人の天下りであり、また多くの資金が国などから供給されるため、まるで公務員であるかのようなそっくりかえった姿勢をとる者たちである。確かに、役人が出向してきていたりもする。
 これらの組織は甚だ滑稽で、そこに勤める者たちをキャリアとノンキャリア、あるいはプロパーに分類している。キャリアとは国家公務員上級甲種あるいは1種試験に合格して採用された者で、若くして上位のポストに就く。プロパーはそれ以外の者で、もともと公務員試験とは関係なく、いわば会社員として就職している者たちをいう。
 キャリアが公務員としてふるまうのは理解できなくもないが、プロパーもまたなぜか似た雰囲気を漂わせるのである。もちろん、キャリアの見ていないところでである。この雰囲気というのが、何ともばかばかしい。ただの会社員であり、しかも国等の公的な資金を使わせてもらっている身分でありながら、そっくりかえるのだ。そっくりかえったその直後、キャリアの前ではひれ伏すのだから、このギャップは喜劇である。周りの者がそれを笑っていることに気づかず、外に出るとまた堂々とそっくりかえる。
 それらには日本語教育やその他の教育に手を広げる機関もあり、そこには大量にそういった喜劇役者が生息しており、3流役者、端役特有の鬱屈したまなざしをもち、口臭のする息を吐いている。
 そしてそこにも、そういった者たちにさえひれ伏し、すり寄っていく外部の機関の者たちがいる。むろん、少しでもそこにあると思われる権威にすがろうとするのである。
 研究所のおよそ20年の、ロンドンにおける活動の過程にも、そのような生き物が現れては消えていった。公務員としての真摯な志もビジネスマンとしての専門性や能力も持たぬ中途半端な者が、いかにも自分の後ろには日の丸が控えているのだという雰囲気を漂わせ、そっくりかえりながら近づいてきた。
 劣等感の裏返しなのだなと思いながら、注がれる酒を飲む。この代金は税金だと思うと、目の前の男に頭を下げる気にはなれない。利用できるものは利用し、相手に非常識なお願いをしても言うことをきくはずだという思い込みや傲慢に、ぼくは何度も「ノン」と言った。「自分たちに刃向かうとセンセー、損しますよ」と言わんばかりの脅しに品位の低さが露呈する。いつからこの者たちはチンピラもどきになったのか。常に計算づくで姑息に振る舞うその者たちと別れた帰り道、ぼくは決まって嘔吐した。
 そしてなんと、その「もどき」にさえも、えへらえへらとすり寄る太鼓持ちが、またいるのである。むろん、下心がある。「あのセンセーのところから手を引き、こっちへ」とムジナが集まる。

 そういった者たちに教育や文化、国際交流などというものが委ねられているというのは悲劇である。3流の喜劇役者が演じる悲劇である。
 どうしてみんな弱いのだろう。
 どうして既成の権威や権力にひれ伏すのだろう。
 日本の教育における受験戦争も一流と言われる会社志向もみんな一緒だ。既成の枠組みの中でうまくいった者たちは既得権を守ろうとし、うまくいかなかった者たちは次世代で、つまり自分の子どもたちでそれらを手にしようと必死である。
 だから、枠組みはしっかりと守られていく。
 押さえつけられた者は押さえる側に立ちたいと思い、願うのである。押さえつけているモノがどのような価値観に基づくモノであるかなどとはこれっぽっちも考えようとしないのである。
 けれども、おそらくそういった恐ろしいほど幼稚なものの上に築かれた権威や権力は近いうちに崩れ落ちていくことだろう。なぜなら、そういったものを無視したり鼻で笑うような異文化という黒船が、本格的にすぐそこまで近づいてきているのだから。
 ぼくたちの研究所はこれからも、既成の権威や権力と闘いながら、新しい権威の創造へと舵を切り続ける。まだまだ夢の途中だけれども。(続く)

(August 21st, 2008)

No. 116 「赤めだか」 夢の途中(5)

「赤めだか」 夢の途中(5)

ロンドンで暮らしながらぼくは、毎週2席の落語は欠かさない。むろん演じるのではなく、観るのであり、聴くのである。DVDやCDで繰り返し聴いているので、ここで一つ咳をするといった落語家の癖や息遣いまで覚えてしまう。日本出張時は、時間があれば新宿の末広亭に通う。独演会があれば国立演芸場にも駆け付ける。
 最近の若手では吉朝に惚れていたが、彼は数年前若くして逝った。これはとても悲しかった。枝雀もずっと前に自ら死を選んだ。志ん朝もよかったが、彼も死んだ。それでなんだか詰まんなくなってしまった。最近、三枝の落語をDVDで20席ほど集中的に観た。三枝のは漫談である。創作落語が悪いのではないが、やはり古典の奥行きがない。二代目小さんの襲名披露も末広で観たが、並の真打である。やっぱり小三治に継がせるべきだった。本当に、寂しくなった。
 だが、もう一人、まだ生きている。
 談志である。最も好きな落語家である。好きな、というより、この人の落語が落語なんだという気がするのだ。大変な毒舌で、落語ではない語りに嫌な感じを持っている人も多いだろう。観客と喧嘩をすることだってあった。客に向かって、「帰れッ!」と怒鳴ったのだ。
 が、談志の「芝浜」をじっくりと観て、聴いてほしい。きっと、ええっ、と思ってしまうだろう。これが落語だったのかと驚くだろう。その凄さに圧倒されるだろう。
 その談志の弟子・談春が本を書いた。「赤めだか」(扶桑社)という本である。ぼくはこの本を一晩でいっきに読んだ。文芸評論家の福田和也は「笑わせて、泣かせて、しっかり腹に残る。プロの書き手でもこの水準の書き手は、ほとんどいない。間違いなくこの人は、言葉に祝福されている」と帯に書いた。
 談志は小さんの弟子としてその天才的な能力を認められ、間違いなくこれからの落語界を背負って立つ人間として認知されていた。しかし談志は、師匠の柳家小さんが会長を務める落語協会に反旗を翻す。協会の旧態依然としたあり方に反発し、脱会する。協会の真打試験のあり方が気に食わなかったのである。いわば、親に子が噛みついたのである。小さんは談志を破門に処した。談志は「上等だ」と吠えた。
 協会を離れた落語家には寄席という舞台がなくなる。立川談志とその弟子たちは、いわば路頭に迷う。しかし誰もが談志の才能の確かさを知っていた。ビートたけし、横山ノック、上岡龍太郎、高田文夫などなど、落語界以外の者たちも次々と弟子入りした。立川流の誕生である。
 談志の弟子たちはしかし、苦労を重ねた。並の苦労ではない。毎日ほとんど食事は1食。しかし、師匠の談志にはその空腹感を見せないようにし、ひたすら耐える。掃除から洗濯、あらゆる雑用をこなし、絶対服従の日々を送る。その厳しさに、精神の異常をきたしたと思われる者も出てくる。
 この本のタイトルになっている「赤めだか」は談志が飼っている金魚だが、痩せた金魚を弟子たちはこう呼んだ。その金魚に餌をやれと命じられた弟子の一人・談秋は金魚の泳ぐ水がめを金魚の餌である麩で覆った。
 談志が笑顔で、ものすごく優しい声で、「談秋、金魚はそんなに食わねェだろ」と云う。肩をふるわせて「申し訳ございません」と小声でつぶやきながら、談秋は手でお麩をすくって捨てていく。
 談秋は談志のもとを去る。談春は師匠をじっとみつめる。そして、その日の談志の寂しさを知る。
 厳しさの中で時にくじけそうになりながら弟子たちは、必死に前を見ようとする。
 前座から二つ目、真打と落語家としての力を証明する立場を獲得するために談志の課した課題は落語協会のそれとは比べ物にならないぐらい厳しい。しかしそれを超えなければ、談志に認められた真打にはなれない。既成の権威におもねるのではない、たった一人の落語家に認められるために精進するのである。志の輔や志らく、談春といった実力を持った、今をときめく落語家はそうやって生まれた。
 この本の後半に、談春は「真打を目指している人達へ」と書く。「もう時間がありません。…立川談志だっていつかは必ず死ぬのです。…談志が認めてくれなくて何のための真打か。何のために今まで頑張ってきたのか。耐えてきたのか。もっと云えば談志亡きあと、誰の責任であなた方を真打ですと世に披露するのか、問うのか。そんな真打になったところで嬉しいのか。意味があるのか、…」
 時間がないぞ、早く頑張って真打になるんだ、何をしているんだ、と談春は熱い檄を飛ばす。
 涙があふれた。この談春のたたみかける言葉がぼくの心を激しく打った。プロであろうとするとき、一流であろうとするとき、プライドを持とうとするとき、甘ったれている者たちへの平手打ちである。

(July 15th, 2008)

No. 115 疑問 「森田ミツの意味」再考

疑問 「森田ミツの意味」再考

この小文のNo.113でぼくは、遠藤周作の小説「わたしが・棄てた・女」を取り上げた。実はその際、紙面の都合で一部を削除したのだが、その削除した部分がぼくにとってはやはり重要なので、もう一度考えてみたい。
 この物語のあらすじは次のようなものである。
 町工場の事務員である森田ミツは大学生であった吉岡努に恋をする。ともに貧しく、戦後のすさんだ空気の中で生きている。吉岡はミツを犯し、棄てる。棄てられたという自覚のないままミツは、さまざまな苦しみや悲しみを抱えた人たちを支えながら生きていく。会社員となって幸せの階段をのぼりはじめた吉岡への恋心をミツは持ち続けるが、吉岡とは対照的に社会のどん底へと転がっていく。そしてある日、癩病と診断され、絶望の中で隔離された病院に入ることになる。誤診と分かるがミツはそこにとどまり、病人の世話に献身的に打ち込む。ある日、その病院の仕事で外出したミツは、車にはねられ、死ぬ。
 吉岡努は「犬ころのように棄ててしまった」ミツのことを、「理想の女というものが現代にあるとは誰も信じないが、ぼくは今あの女を聖女だと思っている」と振り返る。
 また、吉岡への手紙の中で、スール・山形という修道女は次のように述べている。
 「もし神が私に一番、好きな人間はときかれたなら、私は、即座にこう答えるでしょう。ミッちゃんのような人と。もし神が私に、どういう人間になりたいかと言われれば、私は即座に答えるでしょう。ミッちゃんのような人にと」
 森田ミツは神に仕える修道女の心をも大きく揺さぶるほどの慈愛に満ちた女性であった。修道女がこのような女性になりたいと思うほどの存在であった。
 ならば、どうしてだろう。
 どうしてこのスール山形という修道女はかかることをしたのか。
 「息を引き取る前に、私は独断で御殿場の教会に電話をかけ、神父さんに来ていただいて、洗礼をミッちゃんにそっと授けて頂きました」
 キリスト教の信者でないぼくには、どうしてもこの点が理解できないのだ。この修道女からの手紙によれば、昏睡状態にあるミツは生前、この修道女からの信仰の勧めをはっきりと断っている。
 「このミッちゃんは、私が信じている神については、決して首を縦にふりませんでした」
 だのになぜ、この修道女は昏睡状態のミツに、「独断で」洗礼を授けるのか。
 信者であることとそうでないこととではいったい何が、どのように異なるというのだろう。
 ミツはなぜ、信者として死ななければならないのだろうか。傲慢なのだ。
 「どういう人間になりたいかと言われれば、私は即座に答えるでしょう。ミッちゃんのような人にと」と言いながら、それでも信者でなければだめだというのか。
 恐ろしく独りよがりで、傲慢ではないか。
 信者でなければ認められないのか。
 この発想が、平気で人を殺す論理を生み出すのだ。
 世界中でいまだに続く宗教に根差した戦争という名の殺し合いは、このような傲慢な者たちによって肯定される。
 ぼくの知っているファーザーやブラザーといったその世界のエリートたちの堕落は、その者たちに限定されるのではなく、宗教というものの持つ排他的で独善的な体質そのものではないか。
 どうしてそのままを抱きしめることができないのだろう。
 どうして線を引こうとするのか。
 どうして区別したいのか。
 キリスト教信者である自らが許されることには極めて寛大であり、信者ではない他者の過ちは厳しく糾弾しようとする者には本当の愛はない。
 遠藤周作は笑っているのではないか。
 素晴らしく敬虔な修道女もまた、神を見いだすことのできぬ愚かしさを。
 そしてその神に仕えるものと対峙するかのように描かれた吉岡が、抗いながらも神のまなざしにおののくことを。
 その矛盾しているかのような構図を遠藤は描くのだ。
 神はどこに、どのように、いるのか。
 そして、なぜ、いなければならないのか。
 森田ミツが、森田ミツの存在が意味を持つのは、吉岡においてであり、スール山形においてではない。スール山形がミツから受けた感銘は、スール山形をはじめとした修道女の体内にあり、ゆえに神のまなざしではない。
 神はもっと厳しく、もっと冷たく、もっと深く、けれどももっと大きく、そしてしっかりと抱きしめようとする。(次号は、「夢の途中」)

(June 16th, 2008)

No. 114 原点の風景 夢の途中(4)

原点の風景 夢の途中(4)

■1
 そうか、昨日は「子どもの日」だったのだ。日本を離れて久しく、子どもたちが大人になってしまったために、今は亡き母が送ってくれた武者人形や鯉のぼりはロンドンの貸倉庫に眠っている。
 子どものころ、ぼくは「良い子」になりたかった。「良い子」になれば父や母は喜ぶし、学校の先生も褒めてくれる。
 蝉が喧(かまびす)しく鳴く下校路に、まだ高い太陽が大きな木の影を黒くくっきりと映している。ランドセルを背負ったぼくは思うのだった、(あの影を出たところでぼくは、新しいぼくになる。良い子のぼくになる)と。
 けれどもそれは秘め事だった。決して他の者には言ってはならないことのようにぼくには思えた。「良い子」になりたいという思いを持っていることが他の者に知れたら笑われるような気がしていたのである。どうしてなのかがわからないままぼくは、ぼくの心の中にその思いを閉じ込めた。
 大きくなるにつれて、大人の言う「良い子」の意味がどんどんわからなくなっていく。掃除を懸命にやる子は確かに先生に褒められる「良い子」なのだが、算数のできる「良い子」とはなんとなく違う種類の「良い子」であるようなのだ。そして学年が進むにつれ、次第に後者の方に価値の大きさが移行していくのだった。
 勉強だってそうだ。
 ぼくが小学生のころ、先生や周りの大人たちはみんなこう言った、「一生懸命勉強して、良い子になりなさい。良い子になって、みんなのことが考えられる思いやりのある子になりなさい」と。
 たしかに学校ではウサギを飼い、老人ホームを訪れ、美化運動ということで町の掃除をしたりした。それらは「良い子」になるための学習ではなかったのだろうか。勉強だったのではなかったのか。
 小学校の高学年になると、私立中学校の受験の話を親がするようになり、中学校では、小学校の時ほど勉強が面白くなくなった。ぼくは中学校でも高校でも「良い子」だったが、周りの大人たちが思っているような「良い子」ではなかった。いや、彼らが思っている「良い子」を演じてはいたが、彼らの価値観に見切りをつけていたのだった。
 学校の「教科・科目」の勉強をする代わりに、本を読んだ。漫画にはそれほど興味はなかったが、小説も詩歌も、父親の本棚にあった哲学書も、勉強をするふりをして読み漁った。『あれか、これか』という不思議な題目のついた本がその世界でどのような位置にあるのかなどは何も知らぬまま、ただただ文字の世界を楽しんだ。そして、それらの世界の方が学校の「教科・科目」の勉強よりもずっと面白かった。
 ぼくの少年時代は時折、ぼくを訪ねてくる。これほどまでに優しく慈愛に満ちた人間がいるのだろうかという母や厳格で偉大な父がいつもそこにはいる。間違いなく尊敬でき、絶対にかなわぬ兄たちがいる。
 その風景が時にぼくに語りかけるのだ。(あの影を出たところで照君、新しい照君になってみてはどうだい。もう一度夢に向かって歩いてみたら)と。
■2
 教員の養成に取り組みながら、わずかな期間で一体何が教えられるだろうと立ち尽くすときがある。
 教育は難しい。世にいう一流企業で働いた経験があるから学校の教師ぐらいはすぐできるだろうなどという考えで中学校の校長として採用し、それをマス・メディアがもてはやす愚かな風潮があるが、ならばどうして大学に教育学部が、教員養成課程があるのだ。どうして教員になるための必修科目・必修単位というのが定められているのだ。
 商品としてのメディアには見えない、子どもたちの戸惑いやためらい、喜びや興奮を静かに見つめ、抱きしめている教師たちがいることに社会は気付かなければならない。そういう先生はたくさんいるのだ。
 塾の先生のように点数で動機付けをしなくとも、お母さん受けのいい学級通信を出さなくても、ストップウォッチを握りしめて計算の競争に子どもたちを駆り立てなくても、せっかく塾とは違った何かがありそうな空間だった教室を夜の塾の授業に貸し出さなくても、そういう先生たちはじっと静かに子どもたちを、子どもたちのまなざしを守り、育てようとしている。その先生たちを認めよう。そうしなければ、大切な子どもたちをとんでもないところに追い詰めてしまう。
 学校は学校でなければできないことをするところだ。夢や理想を恥ずかしがらずに口にし、語り合い、もっともっとよりよい社会を作る力を作ろうとする意志を育むところだ。今の社会に都合のいい人間を作る工場ではない。小学生のころからどうして株や金融なんかについて学ぶ必要があるというのだ。そういう時間があったら絵を描き、歌を歌い、本を読み、昆虫や植物を観察させよう。
 教師はそういうまなざしをもった人間でなくてはならない。算数や数学を教える教師も、英語やフランス語や日本語を教える教師も、物理や体育を教える教師も、「先生」と呼ばれる者たちはそのためにいるのだ。
 教員の養成に取り組みながらぼくがしようとしていることは、ぼくたちの研究所がしようとしていることは、つまり教員を養成するとは、知識と技術を授けるばかりではなく、先生と呼ばれるようになった卒業生の教育者としての原点の風景を作ることではないか。
 日常に疲れ、立ち尽くすとき、彼らを訪れ、傍らに静かに寄り添い、語りかけてくる、そういう風景を作ることではないか。
 では、その原点となるべき風景はどのようにして作られていくのだろう。(「夢の途中」続く)

(May 8th, 2008)

No. 113 森田ミツの意味 遠藤周作と神

森田ミツの意味 遠藤周作と神

■1
 「夏の花」の作家・原民喜の遺族からの法事の招待状を受け取ったぼくは会場となっていた寺に出かけ、そこで遠藤周作に会った。
 「僕は堪えよ、静けさに堪えよ。幻に堪えよ。生の深みに堪えよ。堪えて堪えて堪えてゆくことに堪えよ。一つの嘆きに堪えよ。無数の嘆きに堪えよ。嘆きよ、嘆きよ、僕をつらぬけ。還るところを失った僕をつらぬけ。突き離された世界の僕をつらぬけ」「世の中にまだ朝が存在しているのを僕は知った」(「鎮魂歌」)と書いた原は、「三田文学」で育てた後輩の遠藤に「これが最後の手紙です。去年の春はたのしかったね。では元気で。」という短い遺書を残して、1951年3月13日に国鉄中央線の線路に身を横たえ、自殺する。
 原は前年の1950年の春、遠藤らと多摩川を散策し、空を見上げながら「ヒバリになっていつか空に行きます」とつぶやいた。遠藤は原を兄のように慕っていた。
 遠藤はクリスチャンであり、法事では数珠を持たず、ただ手を合わせてこうべを垂れた。彼に続いたぼくも仏教徒ではなく、遠藤に倣った。法事に呼ばれた者たちの数は少なかったが、周りにはテレビカメラや新聞記者たちがいた。
 法事の読経がすむと、遠藤らとともにマイクロバスに乗って原の詩碑を訪ねた。
 遠藤はすでにそのとき、病に侵され痩せていた。背の高い彼はそれをより感じさせた。
■2
 小説『わたしが・棄てた・女』は遠藤周作の1963年の作品である。遠藤は40歳だった。この小説について、不思議なことに、同時期に日本に住む二人の友人からメールが届いた。全くの偶然である。
 一人は遠藤と同じく敬虔なキリスト教徒であり、臨床薬学の世界で真摯な取り組みを続けている。もう一人は、臨床心理学の研究者で、幅広くカウンセリングの実践を行っている。
 この作品を読んでいなかったぼくは日本から取り寄せて読んだ。講談社文庫に収められていた。その文庫のカバーには次のようにある。
 「二度目のデイトの時、裏通りの連込旅館で躯を奪われたミツは、その後その青年に誘われることもなかった。青年が他の女性に熱を上げ、いよいよ結婚が近づいた頃、ミツの躯に変調が起った。癩の症状である。……冷酷な運命に弄ばれながらも、崇高な愛に生きる無知な田舎娘の短い生涯を、斬新な手法で描く。」
 これではこの作品は浮かばれまい。主人公の森田ミツの人生が「冷酷な運命に弄ばれ」、しかしながら「崇高な愛に生き」たといった図式化は、なるほど多くの読者にはわかりやすいものであるかも知れないが、ぼくは違和感を覚える。
 町工場の事務員である森田ミツは大学生であった吉岡努に恋をする。ともに貧しく、戦後のすさんだ空気の中で生きている。吉岡はミツを犯し、棄てる。棄てられたという自覚のないままミツは、さまざまな苦しみや悲しみを抱えた人たちを支えながら生きていく。会社員となって幸せの階段をのぼりはじめた吉岡への恋心をミツは持ち続けるが、吉岡とは対照的に社会のどん底へと転がっていく。そしてある日、癩病と診断され、絶望の中で隔離された病院に入ることになる。誤診と分かるがミツはそこにとどまり、病人の世話に献身的に打ち込む。ある日、その病院の仕事で外出したミツは、車にはねられ、死ぬ。
 吉岡は「犬ころのように棄ててしまった」ミツのことを、「理想の女というものが現代にあるとは誰も信じないが、ぼくは今あの女を聖女だと思っている」と振り返る。
 多くの読者がミツに同情し、吉岡をなじるのだろう。あるいは、同じキリスト教徒はミツにあこがれるのかもしれない。ミツのように、他者の悲しみや苦しみを自分のものとして受け入れ、愛することのできる存在でありたいと。
 ミツの死を吉岡に知らせた修道女は言う、「もし神が私に、どういう人間になりたいかと言われれば、私は即座に答えるでしょう、ミッちゃんのような人にと」。
 確かに、ミツは優れて心清らかな人間であり、慈愛に満ちている。それに比べ吉岡は極めて自己本位であり、汚(けが)れているといえる。
 しかしこの小説は、そのような対比から、森田ミツといった女性のキリスト教的な崇高な愛といったものを際立たせようとするものなのだろうか。
 ぼくはそうは読まない。
 ミツを棄てた吉岡は、そのミツを「聖女」というのだ。ミツの何が、ミツの生に明確な形で対峙する吉岡にそう思わせるのか。そしてさらに、もっと考えなければならないのは、物語の最後でその吉岡が佇み、感じる「寂しさ」である。その「寂しさ」は一体どこから来るのか。吉岡の内部の深いところに巣くい、彼を見つめるものは何なのか。
 切支丹弾圧下の長崎に潜入した宣教師が棄教するまでの心の動きを描いた『沈黙』という作品の中で遠藤は、「罪とは人がもう一人の人間の人生の上を通過しながら、自分がそこに残した痕跡を忘れること」であるという。この作品の中でも、同じ言葉を繰り返す。
 「生きる」ということが他者との交わりの上に成り立つものであるとするなら、ぼくたちは常に何らかの「痕跡」を他者に残しながら生きていることになる。その生を遠く高いところから、静かに、まっすぐに見つめている森田ミツがいる。遠藤はそのまなざしを神というのか。(「夢の途中」は次号から再開)

(April 25th, 2008)

No. 112 失くしたものを追いかけて 続々・夢の途中

失くしたものを追いかけて 続々・夢の途中

■1
 小学生のころ、ぼくの通っていた学校はお城だった。正確に言えば、お城の跡地に建てられた小学校で、大きな石垣や大手門などはそのまま残っていた。
 その小学校の近くに小村寿太郎記念館という立派な建物が建てられた。数年前、ぼくはその記念館での講演を頼まれた。生誕150年記念の行事の一つだった。
 講演を終え、市長や教育長たちとお茶を飲んで語り合っているところに一人の老婦人が現れた。市役所の課長さんが連れてきたのだ。
 「照ちゃん、大きくなって、……」
 ぼくはもう50代であり、大きくなったのは当然なのだが、その老婦人の知るぼくは小学生だったのである。
 その老婦人の顔を見つめた。
 「あ、おばさんッ!」
 「覚えてくれてるの?」
 ぼくが幼いころ、近所に住んでいた人だった。ぼくは小学校までしかそこでは暮らさなかったが、子どもの頃の思い出は鮮やかだった。近所の同世代の者たちはお互いに何でも知っていた。おじさんやおばさんだって同じで、みんなが大きな家族のようだった。
 季節の行事もみんなで楽しんだ。お正月もお盆もいつもみんなが当たり前のように一緒にいた。
 しかし、そういった風景は随分遠くなった。
 ぼくはもうそういったところには住んではいない。

 中学時代をともに送った者たち数名とその時以来の再会をした。ぼくたちは酒を飲み、少し語り合った。ぼくは懐かしそうな顔をしていただろう。確かに、胸にこみ上げるものがあった。
 彼らはそのままだった。その頃のにおいをぷんぷんさせていた。その土地に住み、いろいろな苦労はあるのだろうが、ぼくの持つ曖昧さや虚ろさは彼らには感じられなかった。うらやましくはなかったが、大きな違いを感じた。
 ぼくは遠くへ来てしまった。ぼくはもう彼らと同じところには住んではいない。

 帰りたい、と思うことがある。涙が浮かんで、不意に嗚咽さえしてしまいそうな時がある。
 しかし、どこへ帰ろうというのか。
 どんな時間へ戻りたいというのか。
 戻る価値のある時間があったか、ぼくに。
 いや、何かを失くしたように思うのだ、確かに。
 そして、それはとても大切なものであったように思うのだ。
 それはきっと、今のぼくが最も欲しいと願うものであるように思えるのだ。
 それを追いかけよう。
 追いかけて、そしてもう一度それを静かに、丁寧に、ゆっくりと抱きしめよう。
 夢の途中で、ぼくは夢を忘れてはいけないのだと思うのだ。
■2
 「学ぶ」ということは本当に人間を成長させることなのだろうか、ぼくはときどきそういった疑いを抱くのだ。
 ぼくは怒っていて、それを押し殺しながら生きている。
 人間は多くの知識や知恵を身につけて、結局は醜くなっていくのではないか。

 日本語教師の養成を英国・ロンドンで始める。それまで、ロンドンには体系的な養成のシステムがなく、ぼくが始めたのが最初といっていいだろう。JETRO(当時の名称は日本貿易振興会)という通産省系列の機関から日本語の教員を養成してくれないかと依頼されたのだ。ロンドン大学のSOASが加わり、ぼくが代表となって開講した。JETROの目的は日英の貿易をはじめとした望ましい友好関係を作ることにあり、そのため「ビジネス日本語教師養成講座」と名前が付けられた。
 その頃、おもしろいことを経験する。SOASの代表とJETROとぼくとの三者会議の場で、SOASの英国人代表が、こう言ったのだ。
 「ビジネスはSOASがやるので、図師先生はアカデミックを担当してくれませんか」
 同席していたSOASのドクターがとっさに叫んだ。
 「そんなことを言って、恥ずかしくないんですか。SOASは大学じゃないんですか」
 ぼくはなるほどと思ったのだった。そのとき、SOASの代表は涼しい顔をしていた。(続く)

( March 19th, 2008)

No. 111 続・夢の途中

続・夢の途中

「あ、夢か」
 目覚めたぼくは全身にびっしょりと汗をかいている。まだ夜が明けるには時間がある。すぐにシャワーを浴びたいという思いを引きとどめ、もう一度その夢の中へ誘おうとするなにものかがそこにはいる。そのものと闘いながら、ベッドの中でぼくは呟くのだ、「寂しい」と。
 かつて繰り返し見た蝶の夢は最近全く見なくなった。白い蝶に追いかけられる、怖く苦しい夢である。手をバタバタさせて空を浮遊する夢も、そういえば最近見ていない。
 眠っている間にみるぼくの夢には、どうやら2種あるようだ。「散文としての夢」と「詩(韻文あるいは比喩)としての夢」である。蝶や浮遊の夢は後者である。
 最近見る夢の多くは散文夢である。「夢現(ゆめうつつ)」という言葉があるが、この夢は極めて現(うつつ)に近く、ゆえに、目覚めた後にそれが夢であるのかどうかについて判断を下すのにしばらく時間が必要だ。
 多くの場合、すでにこの世を去った者が登場したり、もうとっくに年老いているはずの者が何十年も前の姿で現れたり、日本にいるはずの者がロンドンで生活していたり、とそういった矛盾に満たされてはいるが、しかしそこで展開するトピックやテーマは極めて現実的なのだ。活き活きとして、ぼくを責め続ける。
 夢の中のぼくはいつも孤独である。甘えた表現であるが、正直に書くならば、狂おしいほどに孤独なのだ。しかもその孤独にはいつも確かな根拠があり、ゆえにぼくはその孤独から逃れることができない。その根拠を巧みに設定しているのもまた、ぼく自身である。つまり、ぼくはぼく自身を責めることに執着し、目覚めた時から疲れている。
 目覚めたぼくは、ベッドの中で目を閉じたまま分析を試みる。散文夢が映し出すものはぼくの現(うつつ)の生きざまに相違ない。ぼくは目を覚まし、明るい日差しの中で呼吸をしながらも、自分を滅ぼすことに懸命なのだ。滅びを前提とした生を生きているように感じるのである。

 もう一つ、夢という言葉は、「理想」という言葉とともに用いられることがある。夢や理想、将来の夢、といった表現がなされたりする。こうなりたいとか、こうでありたいとかいった意味合いで用いられたりする。
 その場合の夢として語られるものは、実現不可能なものや不可能に近いものである。あこがれ、といったものであろうか。
 ぼくは小学生のころ、「先生になりたい」と作文に書いた。その夢は叶えられたのだが、「先生」と呼ばれるようになってみると、その「先生」というものがどのようなものなのか、未だよくわからないのである。
 けれども、少しだけわかりかけてきたものがあるにはある。  それは、夢を見続けることのできる人間でなければならない、ということだ。
 よく講演などで話すことだが、人が学ぼうとするのは今までの自分にはなかったものを身につけて変わろうとすることである。つまり、学ぶことによって自分は変わりうると信じているということであり、明日の可能性を信じているということである。そういった学習者に向き合う教師は、未来や将来といったものをネガティヴにとらえたり、限定したりしてはならない。あらゆる可能性にあたたかいまなざしを向けることのできる、そういう人間でなければならない。

 ところで、日本語教育を担う教師たちの養成・育成をしながら、ぼくが抱いている夢とは何だろう。
 日本国内の大学でも日本語教員の養成が行われているが、そして昨今はこのロンドンにも日本からいくつかの日本語教師養成講座を開講する機関が現れたが、どういった理念でそれがなされているか。
 日本の政府系機関もまた、このロンドンでさまざまな活動を展開するようになったが、日本語や日本文化を取り扱うその取扱い方には、あるいは日本語教師を支えるべきそういった機関としての活動の仕方を考えると、多くの疑問を感じざるを得ない。
 少しそれらのことについて検証しながら、ぼくの日本語教育における夢について考えてみたいと思っている。
 まずは、日本語教育は何のためにあるのかといった視点から考えてみよう。世界的にはまだまだマイナーな日本語をなぜ外国人は学ぼうとするのか。たとえば、今や世界語となった英語を母語とする英国人がなぜ日本語を学ぼうとするのか。どのような価値があると考えられるか。そして、それらに応えることのできる日本語教育となっているか。(続く)

(February 19th, 2008)

No. 110 夢の途中

権威や権力にひれ伏す者たち 夢の途中(5)

新しい年になった。
 ぼくはお正月が好きだ。子どもの頃、元旦には、母がそろえた真新しい下着を身につけた。するとぼくは、新しいぼくになるのだ。もう一度、ぼくはぼくを始めることができるのだ。たいていは「よい子」になろうと思った。二日には書き初めをした。墨を磨ると、その放たれるにおいを吸い込んだ。ぼくは背筋を伸ばして、筆を執った。

 けれども、ぼくはもう子供ではない。知らなかったことを知り、知りたくなかったことも知った。できなかったことができるようになり、できないほうがいいこともできるようになった。
 ときにぼくは、「もう一度」と口ずさむ。もう一度、新しいぼくを始めたい、そう思うのだ。

 いや、まだだ。
 ぼくはふりかえるよりも前に、今のぼくと対峙しなくてはならない。避けたり、ごまかしたり、逃げたりしてはいけない。もっともっと今のぼくを見つめなくてはならない。そして自ら今のぼくに語りかけなくてはならない。君は今、何をしようとしているのか。

 周りを見回す。
 たとえば、研究所の所員、先生たち。こんなに善良で、こんなに学生たちのために、教育のために、研究所のために打ち込む者たちはまずいない。絶対に、と言っていいほど、この者たちは特別な存在だ。表でも、陰でも、等しく純粋だ。ぼくのわがままを受け入れ、一日中、学生たちの教育について話し合う、たとえ夜中になろうとも。深夜2時に突然招集され、教育に対してこんな程度の打ち込み方でいいのかと怒鳴るぼくに、真剣なまなざしをまっすぐに向けてくる連中なのだ。
 研究所の学生たちは、ほとんどの者たちが無遅刻、無欠席。授業中に眠ったりする者なんか一人もいない。土曜も日曜も、深夜まで文献にあたり、論文を書き、教育実習のための教材を作り、涙を浮かべながら、歯をくいしばって、「いい先生」になるために打ち込む。ヨーロッパの日本語学習者の表情に一喜一憂し、卒業式には謙虚に、そして誇らしげに自分を振り返る。一人ひとりの挨拶の言葉は涙で時々聞こえなくなる。

 日本語の教員の養成を始めたのはもう20年近く前だ。その頃、英国にはきちんとした養成課程がなかった。
 ある日、日本の政府機関から人がやってきて、日本語の教員養成に取り組んでくれないかと要請された。日本という国の絶頂期(いわゆるバブル前夜ともいうべき時期)で、日本文化や日本語に興味を持つ英国人が急増していた。しかし、教える力を持った日本人がほとんどいない。その頃すでに教えていた人たちは手探りで、ゆえに悩んでいた。なんと「サイタ、サイタ、サクラガサイタ」などと教えている人もいたのである。
 ロンドン大学のSOASが企画に加わり、ぼくが主幹としてコースをデザインし、教師養成講座を開講。始めたのは、パートタイムのコースで、だれでも気楽に教えられる、といったコースだった。英国人と結婚した在英婦人たちが主な学生だった。
 次いで、朝日新聞社の朝日カルチャーセンターがロンドンに進出し、日本語教師養成講座をやりたいので作ってくれないかと要請され、始めた。こちらもほぼ同様のパートタイムのコースである。
 もっと本格的な教員養成が必要だなと思ったぼくは、当時ケンブリッジ大学で仕事をしていたことから、ケンブリッジ大学が認定する教師養成課程を創設した。これが現在のDiploma課程やCertificate課程、あるいはMA課程の前身である。
 つまり、その頃ぼくは、三つの日本語の教員養成課程の代表を務めていたのである。
 教える」ということの意味について、あるいは「ことばの力」について、「異文化を学ぶ」ということについて、真剣に考える「先生」を養成したいと、ぼくはより確かな日本語教師の養成に取り組もうと考えるようになった。
 そのため、そのカリキュラムは密度を濃くすることとなり、レベルを高めた。しかし入学してくる学生たちのほとんどが小学生のまなざしよりも純粋に、大学生のそれよりも迫力をもって学習に取り組んだ。
 この者たちが教育現場で先生として動けば、日本語教育だけではなく、あらゆる教育を根底から変えることができるのではないか、ぼくは口癖のようにそう言うようになった。
 けれども、まだまだ夢の途中である。(続く)

(January 24th, 2008)

No. 109 2007年、断章。

 タクシーに乗った途端、運転手に訊かれた。
 「あなたはプロフェッサーか?」
 それから次々と質問されることになる。ぼくは疲れているのに。
 「日本人か?」
 「何年ロンドンに住んでいるのか?」
 「この国での生活は気に入っているか?」
 そういうあなたは、どうだね。
 この国の人ではないんだろう?
 どこから来たの?
 この国、気に入ってる?
 イスラエル出身の彼は、30年もロンドンで暮らしているという。
 英国はいい国だという彼は、突然こう言った。
 「日本が戦争を始めたんだ。どうしてパールハーバーを攻撃したんだ?」
 この質問はかつてもレストランで突然、投げつけられたことがある。
 戦争はね、いい国も悪い国もないんだよ。
 「しかし、日本が始めなければ戦争にはならなかったんだ。それともナチズムを肯定するのか?」
 どうしてタクシーの運転手とこんな話をしなければならないんだ、とため息をつきながら、ぼくはやむなく彼の話を聞いた。
 「天皇が戦争を命じたんだろ?」
 「日本はドイツやイタリアと組んでとんでもないことをやろうとした」
 運転手の乱暴な言葉を聞きながら、いわゆる不快感を覚える。そして、こう言った。
 日本という国も日本人も確かに間違いを犯したことはあるが、このイギリスもアメリカもすべての国が同じく愚かな過ちを犯してきたんだよ。人間はそういう過ちを犯す生き物なんだよ。だからいろいろなことを学ばなければいけないんだ。
 そうなのだ。
 人間は過ちを犯す生き物なのだ。

 2007年が終わろうとする。今年も驚くべき速さで時は過ぎた。
 今年も多くの新しい出会いや再会があった。不覚にも涙が浮かんでくるような再会もあった。再会は、今の自分がかつての自分とは異なった人間になったのだということを教えてくれる。また、自分の置かれている環境もかつてのそれとは大きく違っている。それはぼくを、時につらく、切ない気持にする。もちろん、過去が美しく、現在が認められないということではない。少なくとも、今のぼくのほうがぼくは好きだ。歳をとり、昔のように全力で走ったりするようなことは出来なくなったが、その走りを楽しんだり、かみしめたりは出来るようになった。ものごとに対して、できる限り純粋でいたいと願う気持ちも強くなった。
 新しい出会いの中には、新しい生命の誕生もあった。研究所所員の甥の肇(ただし)には「新(あらた)」という男の子が生まれた。肇の赤ん坊の時の表情にそっくりで、つまりはぼくにもよく似ている。
 そして、ぼくの長男の空(そら)にも第1子が誕生した。10月23日に生まれた彼は、「秋(あき)」と命名された。空は早速親バカになり、自分がそうされたように赤ん坊の時から美術館に連れて行ったり、本物の音楽を聴かせたり、書物のにおいのする部屋で育てると宣言している。
 別れもあった。
 長い間心の中で生き続けていた親友が、突然死んだ。もう一度ゆっくりと子どもの頃の思い出話をしながら酒を飲みたかった。お互いの生きてきた道のりを静かに語り合いたかった。これから生きていくということをどのように受け止めているかを聞きたかった。一日生きるということは一日死に近づくということであり、その一日がいとおしいものに思えるようにもなった。
 恩師の奥さんもこの世を去った。静かで、あたたかく、剛速球しか投げられぬ教育者を支え続けた。恩師の墓の前に佇みながら来る日も来る日も墓の下に眠る夫に話しかけていた彼女は、漸く夫の待つところへ旅立った。
 「照ちゃん、したいことをするのよ。照ちゃんが信じることを一所懸命にするのよ」
 彼女もまた、ぼくの大切で、敬愛する先生だった。
 2007年が逝こうとする。この年、自ら決意しなければならない別れもあった。

(November 30th, 2007)

No. 108 挑戦する夕暮れ

 冬時間になった。
 夕暮れが早くなり、いつの間にか街に明かりが灯る。陽が落ちる直前、空は薄い青と灰色とが上品に混ざり合い、遠く、高く離れていき、戸惑うような表情を見せる。
 ぼくはその空が好きだ。それは少年の日の空だ。もの悲しくなるような、切ない思い出に満たされた、けれども明日を信じることのできた少年の頃の空だ。

 夕暮れはしかし、いつも心を不安にする。
 ぼくの夕暮れはぼくに問い続ける。
 おまえはいつ、おまえになるのだ、と。おまえにとって生きるとは何か、と責めるのだ。
 確かにぼくは今、<生きる>ということについて考えている。<生きかた>というものについてである。
 ぼくはまだ青年時代を生きているつもりだが、50代の今のぼくと20代や30代の頃の<青年>の意味とには大きな隔たりがある。
 それは<青年>の<青>の問題である。
 ぼくの<青>は、若い頃の<青>に比べ劣化したとは思わない。むしろ若い頃よりもはるかに、純粋にものを見つめようとする思いが強くなった。若い頃のぼくは、若くはなかったのだ。
 若い頃のぼくはただ若かっただけであり、<青>を意識することなどなかった。あるいは時に、愚かな思いこみから、格好をつけた<青>を演じることはあったようにも思う。
 ぼくは今、<青>を演じたりはしない。
 けれども、体内の<青>との闘いに、毎日のエネルギーのほとんどを費やしている。
 闘いは、振り上げた拳をもう一方の手で押さえつけようとするようなもので、ゆえに激しい葛藤がある。

 かつて、若い頃のぼくには怖いものはなかった。傲慢な表現であるが、まさに傲慢不遜な人間だったように思う。今振り返っても赤面してしまうほどであるが、と同時に懐かしくもある。
 その懐かしさには危険な要素も含まれているが、そういった腕力によって切り拓いてきたものが少なからずあったように思うのだ。
 そして、その腕力への懐疑が結果的に非力な今を導いたのではないか、そういう思いにとらわれたりする。

 もう少し具体的に書こう。
 ぼくはかつて、相手がたとえ公的な機関であろうが、社会的権威をもっていようが、やくざであろうが、どんなものに対しても言いたいことを言い、闘ってきた。
 既成の権威におもねることはしなかった。
 だから、そういったものに媚を売る輩が嫌いだった。陰でこそこそ噂話や悪口を言う者には反吐が出た。そういった者と連帯する者たちの愚かしさが不思議だった。
 何でもかんでも人のせいにする者を軽蔑した。努力不足を隠すために、いろいろな理由を考え出すことで言い訳をし、世の中を渡っていく者たち、社会人にも学生にもうようよいる、そういう者たちを侮蔑した。そういう者は一人で立つことができないから、周りに仲間を増やそうと卑しい画策をするのが常である。
 学校には時々生息するが、自分の所属する学校や組織の悪口を言って、ぼくだけは君たちの味方だよ、などと学生の人気取りを陰でする教師など最低だと切り捨てた。そういう教師は間違いなく会議等では権威に媚を売って、改善のための建設的な提案などはしない。学生のために自分を犠牲にして発言したり、行動したりするようなことはまずない。なぜなら、そういう者たちにとっては学生のことなどは実はどうでもよく、その時の自分の心持が良ければいいのだから。
 つまり、その頃のぼくの<青>は<怒り>であった。あるいは既成の権威などに対する挑戦でもあった。
 そして今ぼくは、その<怒り>を自分自身に向けている。
 挑戦する姿勢を捨て、<怒り>をあいまいにごまかしながら生きているのではないかと疑っているのだ。自分に対して、たまらなく憤っているのだ。

 夕暮れの中で、ぼくはもう一度青年に戻ろう。少し衰えつつある肉体もまだまだ大丈夫だろう。新しい<青>をしっかりと抱いて、挑戦していくことにしよう。その不器用さゆえに折れて朽ちることになってもいい。許せぬ者には怒りをもち、挑戦する心を持ちながら、歩んでいこうと思う。

(November 2nd, 2007)

No. 107 再生会議と中教審の稚拙

馬鹿につける薬(7)

 あの子は学校の成績はよくないけれど、優しいのよ」とか、「成績抜群だけれど自分のことしか考えない身勝手なやつさ」とかいったことを耳にすることがある。
 ぼくは自分が子どもであったころから不思議に思っていた。変だなと疑問だった。
 小さい子どもに向かって大人はこう言う、「一所懸命勉強して立派な人間になりなさい」と。
 学校に通い、あるいは塾などにも通って一所懸命勉強すると、立派な人間になれるのである。野球やゲームや友だちとのおしゃべりを我慢して一所懸命勉強するのは嫌でも、立派な人間になりたくない子どもなんかはいない。
 一所懸命勉強した子どもは試験などで評価され、良い成績を取る。だから、良い成績を取った者は「立派な人間」である、はずなのだ。そして、「立派な人間」であるのだから、だれよりも他人に対する思いやりがあり、優しいはずだ。
 にもかかわらずである。成績の良い連中が優しくなかったり、わがままだったり、人を傷つけたりするというのはおかしくないか。勉強に打ち込まなかった者が優しく、思いやりがあるというのも変だ。

 研究所が実施した小学生作文コンクールで最終選考に残った子どもの作品を読んでいて、次のような文章に出会った。
 「私は戦争が嫌いです。私の友だちもみんな戦争はいけない、嫌いだと言っています。どの国の子どもたちも同じだと思います。でも、いつもどこかで戦争が起きています。大人になるとどうして、戦争をすることができるようになるのでしょう」
 戦争にかかわり、戦争をすると決定し、攻撃をし、多くの死傷者を生み出すのは、どの国においてもその国の最も優れた立派な人間たちで、学校の成績もトップクラスのとびぬけた秀才たちである。一所懸命勉強した者たちである。
 つまり、一所懸命勉強したことによって、人を殺すことについての正当性を身につけた者たちである。

 つまり、子どもたちは学校や塾に通いながら、自分の幸せのことばかりを考える力や方法を身に付ける。他人を押しのけ、他人の上に立つ人間になるために切磋琢磨する。一所懸命がんばるのである。
 そういったシステムこそが見直されなければならない。
 だが、教育再生会議や中央教育審議会が次々と出す改革案を見ていると、いずれも刹那的なもので、とても再生などできるものかと思ってしまうのだ。
 たとえば、新聞各紙で大きく報じられた小学校高学年(5・6年)における英語活動の必修化である。
 このコラムでも繰り返し述べてきたことだが、ぼくは国際理解教育の一環としての外国語教育を幼いころから取り入れることには賛成である。小学校の1年生から導入してもよいとまで思っている。
 けれども、そのためには現在の小学校教育における教科の改編が必要である。国語・算数・理科……といった組み立てはいらない。「ことば」(言語コミュニケーションとことば文化)とか、「みる・きく・しらべる」(科学)といった名称等での新しい教科構成を提案したい。ここではそれらについては述べないが、ともかく今の教科の概念では子どもたちの学びに対するモチベーションを上げることなどできない。
 小学校の高学年で英語を取り扱うとして一体誰が教えるのか。小学校教諭の研修体制を整え、教えられるようにするとのことだが、大人になって、ちょっと研修を受ければ教えることができるほどの英語力が身に付くならば、何も焦って小学校から導入する必要はないということになる。自ら矛盾することを証明しているようなものだ。
 この稚拙な論理性があらゆる提案や方策において、教育行政を担当する者たちに蔓延していて恐ろしく滑稽だ。喜劇であり、悲劇であり、暴力的である。
 小学校における英語という外国語を取り扱った授業は、まったく新しい概念の中に位置づけるようにすべきである。そのためには、子どもたちは英語を学ぶことによって何を獲得することになるのか、そもそも小学校教育とは何のためにあるのか、といったところからもう一度議論を始める必要があるのだ。
 一生懸命学び、良い評価を得た者こそが、誰よりも優しく、他人の幸せについて考えることができるような、そういった学びのシステムと内容を作るのが大人の責任である。それは道徳のおしつけや国際経済競争力を付けるための英語学習などとはまったく異なったレベルの問題である。
 そしてもし、稚拙な教育行政しか繰り広げられないのならばいっそ、公教育における国の関与をやめてしまったらどうか。(続く)

(September 24th, 2007)

No. 106 寂しくて、空しくて、怖くて

馬鹿につける薬(6)

 ぼくは教師以外の仕事をしたことがない。
 教師になりたくて教師になり、今は数多くの教師を育てている。
 人間社会における教育の意味や意義について、そしてその可能性について心の奥深くから信じていたぼくは、しかし最近、考え込んでしまうのだ。
 人間には人間を育てる力があるのかと。

 ぼくの周りは先生だらけで、だからよく学生たちについて話したり、教育論について語り合ったりするのだが、そしてかつてはそのことが楽しかったのだが、最近時々、違和感を覚えることがあるのだ。
 なぜそうなったかは明らかである。
 ぼくはぼくを認めることができないのだ。
 ぼくは他の人よりことばに関する感性は優れていると自負している。
 話しことばも書きことばもコントロールする力はある方だろう。
 しかしそれも大したことではない。
 ましてや<生きる>ということなどについて発言する自分は、いったい何をしているのだろうと、もう一人の自分が嘲笑うのだ。

 人は自分が生きるということだけで精いっぱいなのに、どうして他の人間の生のありようにまで口を挟もうとするのか。
 もしもそういう行為が先生というものの仕事であるとするならば、これは大変だ。
 大変なんだ、ぼくたちは!
 本当に幼い子どもたちから大人に至るまで、いつの間にか手にした命をどういうふうに取り扱おうかと試行錯誤する者たちにぼくたちは、したり顔で、ほぼ既製品のことばを使って、何かを言わなければならない。
 話しているうちに、なるほどそうなんだと自分でも納得を始める。
 陶酔さえ、し始めるのである。

 研究大会等でも、ほんの少し物知りの人間が、あたかもすべてのことを熟知したように話しはじめると、ぼくはもう同じ空間にいることさえも息苦しくなってしまう。
 くだらぬ、と断ずる自分がいる。
 そして時に、そのくだらぬと断じられる者の一人に自分がいたりもする。
 恥ずかしいのだ。

 いつからだろう、こんな思いを抱くようになったのは。
 自分という人間がいかに未熟で、つまらぬ存在であるかといったことが少しずつ、おかしなことに自信をもってわかり始めてからに違いない。
 その未熟なぼくが、学生たちに説くのである。
 説いた後に必ずと言っていいほどぼくは、もっと寂しく、もっと空しく、もっと怖くなるのである。

 まるでネガティヴなことばかりを書いているようだが、他の教師といわれる者たちにも聞いてみたいと思っている。
 あなたたちはいつも教師でいて苦しくないかと。
 ぼくたちは未熟なのだ。
 まずそのことに謙虚にならなくてはならないと思う。
 そこから次に、教師には何ができるのだろうと考えるのだ。
 人が人に教えるとはどんなことなのだろうと悩むのだ。
 知識や技術はもちろん大切だが、それでもなおそれらは大したことはない。
 ぼくたちが知っていることは、知らないことと比べるとゼロに近い。
 知っていることが偉く、知らないことが劣っているのではないのだ。
 わずかばかり知っていることが大いなる未知の世界の存在を感じさせる、そのことを感じる力があるかどうかが大切なのだ。
 教師はそういうことをとっくの昔に忘れてしまって、みんなみんな愚かな知識競争の下僕と堕してしまったのではないか。
 点を取らせるためにとか、受験に勝つためにとか、教授になるためにとか、偉そうに思われるためにとか。
 助けてくれーっと逃げ出したくなるのだが、もう少し、寂しくて、空しくて、怖い思いに身をさらしてみるかと教室に向かうのだ。(続く)

(August 24th, 2007)

No. 105 子どもの心と親

馬鹿につける薬(5)

 これもずいぶん昔のことである。男子だけの中高一貫の名門私学で9年間教師をしていた、その頃のことである。

 家に戻り、寛いでいたぼくに電話がかかった。Tという生徒からである。
 「先生、ぼくは悔しいんです」とTは話し始めた。Tは高校からの入学生である。中高一貫校であるが、高校からの入学も一部認めていた。高校から入学してくるには相当な受験戦争を勝ち抜いてこなければならない。また、中学から入学してきた生徒たちは勉強の仕方の要領がよく、成績も上位を占めた。その要領のよさに溺れて結局下位を占めるのも中学からの生徒たちだった。高校からの生徒たちは彼らに挟まれる形で中位に座る。高校からの入学生はどちらかといえば質実剛健で、中学からの生徒に比べて地味だった。
 Tの同級生にHという中学からの生徒がいた。成績は常に上位で、スポーツも抜群だった。小柄ではあったがハンサムでもあった。彼はあるグループの中心で、そのグループのメンバーが良からぬことをして教員に注意されることはあっても、不思議にHだけはすり抜けていた。
 その日、Hのグループに呼び出されたTは、ジュースを買ってこいと命令された。そういったことは常態化していたようである。嫌々ながらTは命令に従った。しかし、買ってきたジュースを見て、これじゃないとHが怒った。そしてそのジュースをTの顔めがけて投げつけた。Tはメガネを飛ばすとともに、ジュースで顔を濡らした。Hのグループの者たちはその様をはやしたてた。
 Tの電話を切るとすぐ、ぼくはHの家に電話をかけた。電話を取ったHにTの話が本当かどうかを確認すると、Hは素直に認めた。大したことではないでしょう、といったニュアンスが感じられた。
 「ふざけるな」と激しく注意したぼくは、自分が向き合っているものの根深さを何となく感じていた。
 「父親がいるか。かわりなさい」
 「父は仕事に行って、家にはいません。」
 Hの父は薬局を経営していた。Hが医学部に進学し、医者になるというのが親の願いであった。
 「お父さんの薬局の電話番号を教えなさい」
 「先生、勘弁してください。親には言わないでください」
 Hは必死で頼んだ。無理やり聞きだした父親への連絡先にぼくは電話をし、今からぼくの家に子どもを連れて来いと言った。
 「先生、もう夜分でもありますし、ご迷惑でしょうから。先生の言われることはよくわかりましたから。息子には厳しく言っておきますから」
 「いや、すぐ来てください。夜であろうがなかろうが、そういったことは気にしませんから」
 しぶしぶ訪ねてきた父子を書斎に通した。妻が紅茶を運んできた。
 「先生、学校にN先生がおられるでしょう。N先生と私はこの学校の同期なんですよ」
 自分もこの学校の卒業生(OB)であり、同期には管理職のN先生がいるので、今回のところは穏便にというのが父親の言わんとすることのようだ。ぼくには、その不思議な笑みがたまらなく不快であった。
 「ええ、N先生はいらっしゃいます。とても立派な先生で、尊敬しています」
 ほっとしたような父親から目を外し、ぼくはHに言った。
 「ぼくは今からこの紅茶を君のお父さんの顔にぶっかけるつもりだ。いいね」
 Hは驚いた。父親はのけぞった。
 「いいか、君のしたことは大変なことなんだ。人間の尊厳を傷つけることなんだ。そういうことに慣れてはいけない」
 ぼくは子を叱り、父親を諭した。
 あくる朝学校に行くと、N先生がぼくを手招きした。
 「昨日の夜、随分派手にやったようだなあ」
 「えっ、もう聞かれましたか」
 「うん、電話があってね。心配しないでガンガンやれよ」

 担任教師に気持ちの悪いネゴシエートをする父を目の当たりにして、Hは何を思っただろう。本当に子どもを愛する親であるならば、まずは子どもの心について考えたい。清々しい人間として子どもに向き合いたい。

 日本に戻り、福岡に出張したぼくは、公開講義が終わると会場から静かに立ち去る男を見た。時が流れ、中年になったTがぼくの顔を見るためだけに新幹線に乗ってやってきたという。追いついたぼくにTは抱きつくように手を取って、「ありがとうございました」と言った。(続く)

(July 5th, 2007)

No. 104 学力低下は親のほうだ

馬鹿につける薬(4)

 子どもたちの学力低下については、その科学的検証がなされないまま、今やだれもが信じて疑わない。そこで導き出されるのは、かつてのように詰め込み教育に戻せという本音だ。東京大学大学院教育学部の有名教授などは「私は学力とは何かといった定義はしないが、学力は確かに低下した」と恐ろしいほど愚かな発言をし、ぼくがその稚拙さを指摘すると、「私は教育の専門家ではないので」と逃げる始末である。
 ここではそういった子どもの学力については述べないが、親の学力、すなわち〈親力〉について考えてみたい。
 ずいぶん昔のことになるが、ぼくはかつて中高一貫の私学で教師をしたことがある。男子だけのいわゆる名門進学校で、9年間そこで教えた。
 高校3年のあるクラスを担任した時のことである。

 Kという生徒がいた。ホームルームの時間だったか、彼は立ち上がり、こう言った。
 「勉強も大切だけれど、ぼくたちは他にも色々と考えるべきことがあるんじゃないだろうか。ぼくたちの周りには平和運動をする人もいれば、環境について活動している人だっている」
 しかし、彼の発言は応えのないまま空しく消えていった。
 Kは同級生より一つ歳が上だった。中学時代に野球部にいた彼は甲子園にあこがれ、野球で有名な高校に入学する。しかしその学校には、彼のレベルをはるかに超えた者たちが全国から集まっており、3年間で正選手になれるとはとても思えなかった。考えが甘かった、井の中の蛙だった、と悟った彼は、勉強をしなければ、と方向転換をしようとする。
 「高校に入りなおしたい」という彼に、父親は「わかった。しかし、今の学校に通いながら受験勉強をするのではだめだ。今の学校はすぐ辞めなさい。受験に失敗しても今の学校があるなんて考えたらだめだ。そして、下宿で一人で頑張りなさい。家には戻ってくるな」と言ったという。
 父の指示通りKは学校を辞め、一人下宿で受験勉強に打ち込む。そして、合格する。
 大学進学を控え、彼がやってきた。
 「親が一校しか受験してはならない、もし落ちたら働けと言うのです。一校しか受けるなというのはいいのですが、ぼくはどうしても大学に行きたいので、落ちたら浪人をしたいと思っています。親は支えないというので、自分でやっていくしかありません。もし落ちたら新聞の取次店に住み込んで新聞配達をしながら予備校に通おうと思っています。ただ、それには保証人が必要です。先生がなっていただけませんか」
 三者懇談の際、ぼくは母親に聞いた。
 「一校しか受けてはならない、落ちたら働け、とお父さんがおっしゃっておられるようですが」
 「はい。主人の考えが正しいと思います」とKの前で母親はきっぱりと答えた。
 Kに部屋の外に出てもらい、再度ぼくは母親に尋ねた。
 「本当にお母さんもお父さんと同じ考えですか」
 母親は泣き崩れた。
 「Kが可愛そうなのですが、主人の言うことは正しいと思います。でも、辛くて、……」
 母親の涙について、ぼくはその時Kには話さなかった。
 受験に失敗したKは、一人で下宿を引き払い、ぼくにあいさつに来ると、実家にも帰らずそのまま新聞取次店へと旅立った。
 それから1年が経とうというある日、Kから大学に出願するために必要書類を送ってほしいとの連絡があった。しばらく経ち、受験を終えた彼が訪ねてきた。新聞配達の休みを貯めて受験に行ってきた帰りである。
 行きつけの寿司屋に彼を誘い、酒を飲みながら語り合った。彼は今年も一校のみを受験した。
 この一年、彼はひとりで生きた。
 「君は親を怨んでいるか」
 「いえ、親は正しかったと思っています」
 「もし今年もダメだったら、どうするつもりだ」
 「もう一年頑張ります」
 「これから、家に帰るのか」
 「いや、合格しないと、帰れません」
 ぼくは一年前の母親の涙について話した。Kは泣いた。寿司屋のおやじは暖簾をしまい、静かに酒を継ぎ足してくれた。
 それからしばらくして、Kから電話がかかる。
 「先生、合格しましたッ」
 「今どこから電話してるんだ」
 「親と一緒です、家です。父が泣いています」
 親が親であって、子が子になる。愛するということには力がいる。(続く)

(June 12th, 2007)

No. 103 ぼくもまた、馬鹿親だった

馬鹿につける薬(3)

 ぼくもまた、「馬鹿親」だった。いや、今もまだ「馬鹿親」のまま成長していないような気がする。

 ちょうど20年前の春、ぼくは英国に渡った。
 それは衝動的と表現してもよいほど、唐突な選択であった。
 教育や研究に関する仕事に従事しながら、あるいは詩人気取りで夜の街を徘徊しながら、闇へ闇へと沈んでいく自分を感じていた。極端に少ない睡眠時間の中でも、苛立ち続けた精神は安らかな眠りにぼくを誘ってはくれなかった。〈今〉から脱出しなければ、と思っていた。
 そのころのぼくは、全力で教育に打ち込み、全力で研究に没頭し、全力で詩を書いた。つまり、ぼくは300パーセントの世界に住んでいた。しかし、ぼくにはもう一つの全力が欠けていた。

 「馬鹿親」とは「あるべき親として存在せず、なすべき親の務めを果たさぬ者」のことである。「自分のことをまずは大切にし、子どもの本当の幸せについては二の次にするような身勝手な者」のことである。

 英国に出発する前の晩までぼくは仕事に追われた。家には、締め切りを過ぎた原稿を取るために編集者がやってきた。
 英国の通貨に換金する時間もなかったため、英国に到着した時ぼくは、1ポンドも持っていなかった。
 当時、日本と英国を結ぶ飛行機に直行便はなく、アンカレッジを経由した。ヒースロー空港には早朝、午前6時ごろだったか、到着した。前もって日本から送っていた書籍以外にも大量の書籍(段ボールの箱で数十箱はあったか)を飛行機には積み込んでいた。入国審査も通過した覚えがほとんどなく、飛行機の出口まで出迎えた担当者に従って車に乗る
 妻と三人の子どもたちも一緒にそのまま職場に直行し、学食で朝食をとる。家族はあらかじめ予約しておいたホテルに行かせ、ぼくは早速会議に入る。
 夜まで働いたぼくはようやくホテルに向かう。
 ホテルでは子どもたちが言葉のわからないテレビを見ている。
 その子どもたちを呼び、ぼくは言った。
 「君たちはもっときちんと挨拶が出来なくちゃあ、だめだ。なんだ、今朝のみっともなさは」
 2歳の娘、5歳と6歳の息子が横一列に立って並び、ぼくの厳しい言葉に身を縮こまらせている。
 「もういい、やすみなさい」と解き放たれた子どもたちはベッドのある部屋に行き、ベッドに顔を埋めて泣いた。大きな声を出して泣いてはさらに怒られると思ったのだろうか。
 ぼくの傷である。償うことのできぬ罪である。
 このときのことをもう何十回思い出しただろう。外国に着いたその日の夜なのである。未熟で、身勝手で、しかも偉そうにふるまう男の醜さをぼくはいくたび恥じただろう。
 息子二人はすぐに現地校に入れられる。アルファベットの存在も知らなかった子どもたちは、英語だけの世界で泳ぎはじめる。泳ぎ方も知らなかった彼らはしかし、自己流で手足を必死に動かし、もがきながら泳ぎはじめた。そうしないと溺れてしまう。
 2歳の娘はすぐに高熱をだして何日も寝込んだ。その時、父親は妻にすべてを押し付けて、仕事の都合で職場に泊まり込んでいた。

 数年経って長男は学校で作文(英語)にこう書いた。
 「どうしてイギリスという知らない国にぼくたちは行かなくてはならないのだろう。友だちと遊ぶこともできなくなるし、言葉なんか何もわからない。ぼくは飛行機の中で悲しくて涙が出そうだった。けれどもぼくが泣いたら弟や妹が不安になる。我慢しなければと、そのとき思った」

 子どもたちはもう大人になった。
 3人とも自分の道を求めて模索している。徹夜を繰り返しながら、研究や学習に打ち込んでいる。その徹底した取り組みにぼくは、時に苦笑いをする。
 今年のぼくの誕生日に娘がくれたカードの中には、一つの書類が入っていた。アフリカの貧しい教師たちの研修のためにぼくの名で寄付をした証明だった。「パパが喜ぶと思って」と娘ははにかんだ。
 次男は自作自演の英語の曲の中で、「もう晩くなったよ、早く帰ってきてゆっくりお休みよ」とうたった。
 カレッジで教えてもいる長男は、書き上げたばかりの授業構成についての論文のコピーをくれた。
(続く)

(103 April 27th, 2007)


No. 102 続・子どもをダメにする親

馬鹿につける薬(2)

 万葉の歌人・山上憶良の歌に次のようなものがある。

  瓜食めば 子ども思ほゆ 栗食めば まして偲はゆ いづくより 来りしものぞ
  まなかひに もとなかかりて 安眠しなさぬ

  銀も金も玉もなにせむにまされる宝子にしかめやも

 「子らを思ふ歌」という題のある長歌と、その反歌である。
 親の子を思う愛情ははるかな昔より変わらない。「安眠しなさぬ」その子の幸せについて、片時も忘れることはない。
 いや、子を虐待したり、子どもを自分のアクセサリーぐらいにしか思っていないような昨今の愚かな親たちを見ていると、「親」という語のもつ意味的世界が変化したのではないかとさえ思えてくる。

 親の子に対する愛情について考える時、ぼくはいつもRoberto Benigni監督・主演のイタリア映画「Life is Beautiful」を思い出す。この映画で描かれる父親像こそが、ぼくたちの理想とすべき親の姿ではないかと思うのだ。
 この映画の父親は幼い子とともにナチスのユダヤ収容所に連行されたのちも、ただ子どもの命を守ろうとするだけでなく、子どもの心さえも守ろうとするのである。親が、例えば戦時中に子どもの命を守ろうとするのは当たり前だが、彼は厳しい状況の中でも子どもの心やまなざしをゆがめないように努力するのである。むろんそのためには大変な力が親には要求される。それを知性と呼んでもよい。
 「どうせこの世の中はお金次第なのだから」とか、「一流企業に入らないと幸せになれないわよ」などと平気な顔で子どもたちを叱咤する親たちはこの映画の中の父親とは対極に位置する。
 これらの馬鹿親たちは確かに今、不幸なのであろう。
 「給料の高い、いわゆる一流会社に入らないと幸せになれない」と思っている馬鹿親は、たとえそれが叶って一流会社に入れたとしても、そのことによって幸せといったものが保証なんかされないということについて知らない。あるいは知らないふりをする。
 人間の幸せなどということについて、もはや考える能力さえ持たないのである。
 おそらくは、自分のことしか考えることのできない者たちなのである。これらの馬鹿親たちはまず自分の見栄を第一に大切にしようとする。参観日があれば、自分が何を着ていくかが最も大切である。子どもは自分に恥をかかせることなく参観授業を終えてくれればいい。できれば手を挙げて素晴らしい答えをしてくれたらいいが、そうでなくったってかまわない。いい中学校や高校、そして一流大学に進学してほしい。さもないと、井戸端会議などで、世間体が悪いのだ。子どもがどんなものに興味を持っているかとか、どのような職業に就きたいと思っているかなどということはそれほど重要ではない。とにかく世間体のいい会社というのが好ましい。名の通った一流と呼ばれる会社がいい。あるいは公務員だ。安定した生活は魅力的だ。
 いや本当はそんなことはどうだっていい。そんなことより、自分のことだ。母親だって一人の人間として人権を持っているのだし、カレーライスを作るのにいろいろと時間をかけるんだったら、袋を温めてご飯にかけるだけのものでいい。何ら変わりはないし、私が作るよりは数等うまいのだから、そんなことに時間をかける必要はない、何しろ人権を持っているのだから。野菜サラダだって、すでに切ってあって袋から出すだけのものと自分で切ったりするものとどこが変わるというのか、そんな時間があったら教養講座に通ったり、英会話を習ったり、そう、もっと自分をブラッシュ・アップしなくちゃ、何しろ人権を持っているのだから。
 こういう輩の身につける教養なんてたかが知れている。いや、身に付いたりはしない。つけようとしているものは表面的な知識であり、それをひけらかす機会である。
 本当に、親がいなくなった、いるのは親という肩書を持つバカばっかりである。「銀も金も玉」に目のくらんだ大馬鹿者ばかりである。
 子どもの幸せって何なんだ。子どもにとっての幸せは、まずは、本当に心豊かで優しくて、その優しさの奥深くに強靭な強さを持った親との出会いではないだろうか。日常の打算や迎合、虚飾や偽善といったものにはびくともしない、そんな清々しいまなざしを持った親の存在ではないか。(続く)

(March 28th, 2007)

No. 101 馬鹿に付ける薬

1)子どもをダメにする親

 政治家たちが声高に教育再生を叫んでいる。そこには彼らの貧相な知性といったものが透けて見えて醜悪である。いや政治家のみならず、それらを支えようとする御用学者や経済人たちの稚拙な論理にも驚くばかりである。さらに、リベラルな、あるいはやや革新のオーデコロンをまとった似非知識人たちの無責任な傍観者的言動、加えてどうしようもなく呆けてしまった親たち、プロフェッショナルとしてのプライドなんかとっくの昔に捨ててしまった教師たち、みんなみんな揃いに揃って馬鹿者たちが今、「気持ちの悪い国・日本」を創ろうとしている。
 ■馬鹿親

  1. 子どもが風邪で学校を休む。あくる日その子どもの親から担任に電話がかかる。「給食費を払っているんだから、子どもが学校を休んだら給食を家までどうしてとどけないんだッ」
  2. 親が学校に怒鳴り込んで来て、言う。「この教科書はうちの子どもにはあわない。すぐ変えろッ」
  3. 授業中に居眠りをしていた子どもを注意した教師に親が抗議の電話をかけてくる。「せっかく休んでいるのにどうしてそっとしてやってくれないんだ、塾で疲れているんだぞッ」

 こういう親を放し飼いにしていてはいけない。こういった親たちに育てられる子どもたちの将来は暗澹たるものである。そういった子どもたちが大人になった社会には健全な人間は住めなくなる。こういう馬鹿親たちに市民権を与えてはいけない。こういったことは犯罪以外のなにものでもないのだから、即刻逮捕し、「親鑑別所」に入れる必要がある。「美しい国」を創りたいのなら、こういった輩に人権を与えてはならないのである。親鑑別所では、ひたすら地道な作業をさせる。たとえば農業がいい。未開の地を開拓させて、少なくとも5年間は隔離し、農作物の生産に従事させる。その間、子どもたちには安心して、まっとうな考えの下で生活できる環境を提供する。
 それにしてもひどすぎる親たちが跋扈している。不思議なのは、どうしてそういった輩をのさばらせておくのかということである。暴力団にも似た親のわがままな恫喝によって小学校の校長や教員が自殺したり、病気になったりしている。
 この親たちが子どものころ受けてきた教育は、いわゆる「詰め込み教育」であって、今盛んに批判される「ゆとり教育」ではない。受験戦争に勝ち抜いた先には一流企業や官僚といった勝ち組の仲間入りが保障されるなどと踊らされた者たちである。高給を得る者が立派な人間であり、お金という数字にひれ伏してきた者たちである。教養や品格などとはほど遠い者たちである。
 けれどもまさに末期的かつ喜劇的なのは、今教育再生を叫ぶ者たちの価値観はどっぷりとそれらの数字崇拝におかされている。百マス計算をはじめとした恐ろしいほど気持ちの悪い幼稚な訓練教育は何だろう。そういったブームを演出するメディアの連中も、同じ穴のムジナである。
 つまり、日本社会は間違いなくもっともっと悪くなるのである。理屈が通らないのに殴られたり、計算のスピードが少し遅いからといって馬鹿にされ一生ダメな人間として扱われたり、教室で居眠りしようが、携帯電話をかけようが、注意されることはなくなり、まじめに勉強したい子どもたちも次第に無気力となっていくのである。
 高校卒業に必要とされた科目の未履修の問題も、結局は文部科学省を中心とした気持ちの悪い大人たちが適当なごまかし方を率先して教えてくれた。まじめに学習しなくても、受験のためなら許されるんだといった大人の論理を国をあげて教えたのである。どうして、一年ぐらい足踏みをさせる力が大人になくなってしまったのだろう。いけないものはいけないんだと教えることができなくなってしまったのだろう。
 気持ち悪くないのか。
 少なくとも親は、自分の子どもの幸せについて真剣に考えなくてはならない。たとえ国や社会がどのように推移しようとも体を張って子どもの幸せについて闘わなければならない。たとえば、戦争がはじまったら子どもを戦争のない国に逃がすのだ。非国民といわれようが、命を守ろうとしなければならない。殺されず、殺さぬ人間として、心も守らなければならないのだ。
 親は、本当の幸せについて毎日毎日考え闘わなければならないのだ。子どもの、そして自分の幸せとは何だろうかと。(続く)

(March 5th, 2007)

所長室からのメッセージ集

図師照幸の日本語を歩く

j0430553.jpg研究所所長・図師照幸が、日本語の世界を伸びやかに、楽しく歩きます。日本語の文法や語彙・意味に関する豊かな視点がちりばめられています。

濫觴

j0401237[1].jpg英国国際教育研究所で学ぶ皆さんへのささやかな、けれども真摯なメッセージとなって、教育や学問の世界での新しい宇宙を創造しようとする皆さんの磁場となるように創刊されたものです。

検証 教育問題への提言

kensho.gif教育に関わるさまざまな問題について、研究所所長・図師照幸が徹底的に分析し、斬新かつグローバルな視点から提言します。

大きな地球 フロントポエム

uta1.gif読者から送られてきた写真の世界を、詩人・図師照幸がまったく独自の想像力と創造力によってあたたかい言葉の世界に置き換えていきます。