研究所所長・図師照幸が、日本語の世界を伸びやかに、楽しく歩きます。日本語の文法や語彙・意味に関する豊かな視点がちりばめられています。




図師照幸の日本語を歩く (200)全力

(200)全力

短い脚は長い胴でバランスをとっているという前向きな論理の持ち主であるNくんが、小学3年生までの漢字には自信を持つHSさんの、できたかもしれない吹き出物、いや恋人のことについて、論評している。「ウン、まあ、彼はだめだね。やめた方がいいよ」「……」「だってさあ、彼はバランスという点で問題があるね。ウン、ウン。まずはね、脚が長い、長すぎる。不安定だよ、あの体形は」「……」「おまけにね、あの鼻筋の通った顔立ちはいただけないよ。日本人らしさにかけるね、ホントに」「……」「それに聞くところによると、彼、T大卒だって? イカンなあ、そういうのって。えッ、英語とフランス語がペラペラ? 父親が英国大使で、母親が大学病院の外科医? そ、そ、そういうのって、とにかく、イカンよ、イカン」 傍で黙って聞いていた、人生のキャリアでは誰にも負けないHHさんが一言、「イカン、イカン、イカンよね、Nくん。やっぱりNくんのように脚は短く、ダンゴ鼻で、そんな大学あったっけというような慎み深い大学を卒業してて、地元の方言と共通語のバイリンガルで、お父さんはマグマ大使のファンだったし、お母さんは大学病院に通院しているし、……」「ハ、ハ、ハ。ぼくって、そんなに整っていますか。少し、照れてしまいますねえ」「120%、Nくんを恋人になんか、する人はいないと思うわ、わたし」と今まで黙って聞いていたHSさんが強い調子で断言する。「120%って、なんだよ。100%が最大の数だろッ? 」「だって、今、大阪市長をしているHさんなんか、大阪府知事選に立候補する前は200%ありえませんと云ってたじゃないの。そのあとすぐ立候補したけど」「そういえば、首相も拉致問題に全力で当たるといったあくる日には、福島の復興に全力で努力するといい、そのあくる日には地方の再生に全力を尽くすとか云っているよなあ。一つのことに全力を使い果たしたら、他のこと、できないんじゃないかなあ」「ムム、めずらしく、鋭い指摘ではないか」とHHさんが感心する。HSさんの恋人の話から、高度な言語分析や社会批評に発展する、とてもとても暇な日本事務局であった。

(2014-09-17)


図師照幸の日本語を歩く (199)死語

(199)死語

人生のキャリアでは誰にも負けないHHさんがどうしたわけか、最近のバカモノことば、いや若者ことばを使おうと努力している。小学3年生までの漢字には自信を持つHSさんによれば、ファッションもずいぶん変化してきているという。似合うかどうかについてはコメントしたくないが、間違いなく20代のファッションに挑んでいるようだとか。短い脚は長い胴でバランスをとっているという前向きな論理の持ち主であるNくんが小さな声でHSさんにささやく、「そういうのって、何とかの冷や水とかいうんだよね」 HHさんの聴力はすばらしく、とくにNくんが何かを云おうとするときには研ぎ澄まされるのだった。「Nくーん、いま何か云ったーア? チョー、むかつくんだけれどーお」 HHさん、とくにこの「チョー」がお気に入りなのだ。恐る恐るHSさんが云う、「あのーォ、チョーは似合いませーん。それに、そろそろ死語になりそうですよー、そのことば」 HHさんの顔がみるみる紅潮する。Nくんが危険を察知して云う、「何を云ってんだよ、よく似合うって。HHさん、チョー似合っていますよ。もう、HHさんのためにあるような、ぴったりですよ、ほんとに、すごく、とっても、……、すさまじく、……、怖ろしいほどに、……」 しばらくして、氷で頬を冷やすNくんの姿が痛々しかった。 *<死語>は<廃語>ともいわれ、現在はまったく使用されなくなったことばの意。ある民族の言語そのものが死んでいくと<絶滅言語>、近い将来絶滅が危惧される言語を<危機言語>と呼ぶ。英語などの大言語に滅ぼされていく言語が増えている。

(2014-09-09)





図師照幸の日本語を歩く (198)魚心

(198)魚心

研究所で日本語を学ぶハンサムな英国人Pくんのことがどうしても忘れられない腰痛のFJ先生、日本事務局の、人生のキャリアを誇るHHさんからの「武運長久を祈る」といったあまり適切とはいえない激励のメールに立ち直った。腰痛はまだ治らないが。なにしろHHさん、時代がかっている。短い脚は長い胴でバランスをとっているという前向きな論理の持ち主であるNくんからもメールが届いた。「ぼくと優劣つけがたい美男子であるPくんにも、ぼくと同じ熱い心というものがあります。最近読んだ推理小説で知ったのですが、魚にだって<魚心>という心があるようです。それを知ってからぼくはどうも、焼き魚を食べるときは魚が<熱い、熱い>と苦しがっているように思えてつらいのですが。Pくんの心に響くようなアプローチで頑張ってください」 今日のランチもジャムパンを頬張った体育会系のMN先生がため息を漏らす、「<うおごころ>とは読んでないんだろうなあ、あの○○」 しかしながらFJ先生、このNくんからのメールにも奮起した。「そうか、魚心か」とつぶやくと、近くのスーパーへ魚を買いに走った、いや歩いたのだった。もはや、台風と豪雨と竜巻が一緒に襲い掛かったような状況である。トホホ。 *魚心=うおごころ。「魚心あれば水心」という形で用いられ、政治家に賄賂を送る企業の見返りを求める思いとか、男女間のやや不純なギブ・アンド・テイクの意で用いられているようだ。「魚、心あれば、水、心あり」がもとで、「魚に心あれば、水にもそれに応ずる心がある」の意。この、<魚>と<水>の関係、<心>の意味が、時代と風潮で味付けされていくのである。

(2014-09-02)




図師照幸の日本語を歩く (197)下心

(197)下心


短い脚は長い胴でバランスをとっているという前向きな論理の持ち主であるNくん、出勤途中に鯛焼を買ってきた。人生のキャリアを誇るHHさんと小学3年生までの漢字は任せてほしいと胸を張るHSさんに、「ほら」と差し出した。いろいろと恩着せがましいことをいわずにぶっきらぼうにプレゼントするのがかっこいいと思っているNくんは今、高倉健になっているのだった。「食べな」とポツリ。「うまいぞ」とポツリ。「結構、高かったんだぞ」とポツリ。「優しいだろ」とポツリ。ポツリ、ポツリ、ポツリ、ポツリ。高倉健のNくんはもはや武田鉄也になっている。「ありがと」と受け取ったHSさん、「なんか、下心でもあるんじゃないの」「なんにもないよッ」「昨日、HHさんがいない間に、HHさんの椅子におしょうゆをこぼしたことのお詫び?」「ええッ、じゃあ、わたしのスカートにおしょうゆがついたのは、Nくんのせいなのッ?」「それとも、お客さんからもらったマンゴーをこっそり一人で食べたこと?」「なにッ、いつもらったの?」「ああ、そうかッ、巨人戦の切符、たしかHHさんに、ともらったんだけど、行っちゃったんでしょ、きのう?」「あ、あ、あんたッ」 HHさんの人生のキャリアを感じさせる声が響く。口の周りにあんこをくっつけたHSさんをにらむNくん。いやはや、いやはや、である。*下心(したごころ)=心の〈下〉、すなわち表面に現れないところで思ったり、考えたりしていること。本心や、裏の心といった意味。

(2014-08-26)





図師照幸の日本語を歩く (196)子午線

(196)子午線

研究所で日本語を学ぶハンサムなイギリス人青年のPくんがやってきた。Pくんへの思いを断ち切ったかにみえた腰痛のFJ先生だったが、Pくんの顔を見るとやはり心が揺れるのだった。「あ、あ、あ、Pくん。元気ですか、か」「ハイ、ゲンキデス。先生ハ?」「ゲンキ、あ、いや、元気です」「ジャム先生、イヤ、MN先生ハ?」「はい、はい、はい、元気ですよ」と右腕に筋肉を盛り上げて見せる。「質問ガ、アルノデスガ」「ん? 何ですか」とFJ先生が張り切る。「日本カラ来タ 友ダチガ シゴセンノ アルトコロニ 行キタイト 云ッテイルノデスガ、 シゴセンッテ 何デスカ」「シゴセン?」「子午線のことでしょ」とMN先生。「ああ、子午線だったら、グリニッジ天文台にあるでしょ」とFJ先生。「???」「The meridian lineのことですよ」とジャム、いやMN先生。「アア、Meridianノ コトデスカ。ドウシテ、子午線ッテ、云ウンデスカ」「それはね、十二支というのがあってね。子、丑、寅、卯、辰、未、……」 FJ先生が滔々と説明を始める。さすがは物知りのFJ先生なのだったが。「それでね、わたしは今年ね、いわゆる年女っていうやつでね。え、まあ、ンー回目だけどね」「そういえば、日本から赤いちゃんちゃんこか何か、送ってきてましたね」とMN先生が注釈を入れる。睨むFJ先生、かわすMN先生、困るPくん。平和な午後ではあった。 *子午線=「子(ね)」を北とすると、十二支で「午(うま)」が南になる。経度ゼロを、すなわち東西の分かれ目を表わす。研究所の英国本部のすぐ近くにある。。

(2014-08-20)



図師照幸の日本語を歩く (195)なんとなく

(195)なんとなく


地方議員のことは痴呆議員と書いた方がいいのでは、と漢字の勉強を始めたNくんがにやにやしながら3、40年前にMBAを取得した知性あふれるHHさんに話しかけた。最近の話題を取り上げての知的な会話である、とNくんは満足げだ。そういえばホンの少し前の佐藤栄作さんが首相の頃は、政治家のこれほど幼稚な不祥事はなかったわねえ、と人生のキャリアを誇るHHさんが溜め息まじりにつぶやく。佐藤さんは今の安倍さんの叔父さんである。ずいぶん昔がホンの少し前なんですねえ、とうっかり口にしたいつも穏やかで優しいHSさんをHHさんがにらむ。そのHSさんとNくんにいつものHHさんの長いレクチャーが始まった。石原慎太郎元都知事が芥川賞作家であり、元長野県知事の田中康夫が『なんとなく、クリスタル』で文藝賞を受賞したということなどを、延々と講義した。田中康夫については彼の癖や好みの食べ物まで話して聞かせるのだった。その『なんだか、クリスタル』とかいう小説、ヒットしたんすかあ、 とNくん。『なんたって、クリスタル』ですよね、とHSさん。なんとなく生きることが空しくなるHHさんだった。そのHHさんの様子を見て、なんだか急に不安になる二人だった。*「なんとなく」には「その気持ちがどこからくるのか」といったことについて考えてみようとする姿勢はないが、「なんだか」には「この気持ちをそのままにしておくことができない」といった不安感が漂う。

(2014-08-12)






図師照幸の日本語を歩く (194)ニンニク

(194)ニンニク


「こっち向かないでッ!」 いつも穏やかで優しいHSさんの口調が厳しい。Nくんの口臭がたえられないというのだ。昨夜Nくんは、脚の短さではNくんに引けをとらない下やんに誘われて焼肉を食べた。たっぷりのニンニクで味付けされたカルビは最高だった、という話を繰り返し聞かされたHSさんはご機嫌斜めだった。なぜ私は誘われなかったのか、という思いが強い。おまけにNくんの口臭である。加えて、HHさんである。3、40年前にMBAを取得した知性あふれるHHさんは昨夜、イタリアからやってきた旧友とパスタを食べた。スパゲッティ・アリオ・オリオである。ガーリック、すなわちニンニクがたっぷり使われたスパゲッティである。下やんの、シー、シーという爪楊枝をせわしく使う音も不愉快だった。自分が昨日食べた夕食は、日本人女性の平均年齢を超えたと喜んでいる母親の作ってくれた野菜炒めだった。ほんの少し、すじ肉が入っていた。それを聞いたNくんがコピー用紙に油性マジックで大きく「人肉vs筋肉」と書いた。HSさんには一瞬何なのか分からなかったが、人生のキャリアを誇るHHさんが気付いて云った、「Nくん、後ろの棚に『小学国語辞典』があるわよ」 HSさんの機嫌がようやくなおった。 *ニンニクは大蒜と書く。すじ肉は漢字で筋肉と書くとキンニクと誤ってとられるので注意したい。

(2014-08-05)




図師照幸の日本語を歩く (193)血液型

(193)血液型


短脚胴長というバランスを誇るNくんがさっきからずっと考え込んでいる。血液型のことである。日本人はこの血液型をよく話題にするが、ぼくの住むロンドンでは、自分の血液型を知らないという人もさほど珍しくはない。Nくんが日本事務局で考え込んでいるのは、A型、B型というものとともに、どうしてO型があり、C型がないのかということである。何しろ朝から何時間もぶつぶつ言いながら考え込んでいるので、とびきり気のきく女性であると本人が思い込んでいるHSさんが声をかける。「Nくん、そういうのは血液に関する科学者に任せて、そのさっきから出ている汚い鼻血をふいたほうがいいんじゃないの?」 そうなのだ、出勤途中に電車の中で読んだ雑誌の写真を見ているうちに鼻血が出たNくん、そういえばと血液型について考え始めたのだった。二人の様子を見ながらため息をついていたHHさんが静かに、知的に話しかける。何しろ3、40年前にMBAを取得した知性あふれるHHさんである。「Nくん、ところで、その写真のことだけれどね、もしかしたらこんなポーズをとっていたんじゃないの?」 HHさんの姿を見たNくん、どうしたわけか洗面所に駆け込んだ。胃の調子でも悪いのだろうか、吐いているようだ。 *日本語からは脱線するが、血液型が発見された当初はA、B、Cの三つに分類されていたようだ。しばらくしてAB型というものが発見されて、四種になった。このC型は、A型やB型にある抗原物質がないというのでそのうちに0(ゼロ)型と名付けられたが、活字になった際にどうしたわけか、0(ゼロ)とO(オー)とが間違えられてしまったのである。研究熱心なNくんの吐き気がおさまったらきっと、知的なHHさんが教えてくれるに違いない。

(2014-07-29)






図師照幸の日本語を歩く (192)虫唾が走る

(192)虫唾が走る

マレーシア航空機が撃墜された悲報にぼくは怒りを覚えた。さらに、散乱する遺体から物品を略奪するおぞましい者たちの所業に、芥川龍之介の「羅生門」における老婆や下人が徘徊する地獄の世界を見た。映像を見ると絶望的な涙が止まらない。無論、そのような殺人兵器を作り、販売している商人たちの陰の姿にこそ、許せぬ激しい怒りを持つのだ。そういったものがなければ、妊婦もいたいけな子どもたちも無残に殺されることはないのだ。「兵器や武器」とは「人殺しの道具」なのだ。そういった物を作っている者やそれでもって金儲けをしている会社や、他国に輸出したり、売り歩いたりしている、日本も含めたさまざまな国の大統領や首相たちは、間違いなく極悪人なのだ。その収益による高給に笑みを浮かべるエリート社員も、そういう輩に地位や名誉を与える社会や庶民たちもみんな、気持ちの悪い犯罪者なのだ。そういった会社名と、その会社が軍需産業でどれだけの利益を出しているかということと、それらの兵器によってどれだけの人間が殺されたかということと、その会社の社員名の全てを公表するといいだろう。新聞やテレビでは毎日、どの会社が売った兵器で今日は何人の人間が殺されたかということを報道したらいいだろう。多数の被害者を出したオランダの大統領はロシアの大統領との電話でのやり取りで「虫唾が走る」ということばを用いたという。*虫唾が走る:「むしづ(ず)」は体内(胃)にいる虫(好ましくない、忌むべき存在)の、唾液というとらえかたと酸味のある液体というものの二説がある。震えを覚えるほど嫌で、嫌でたまらないという意味。


(2014-07-21)



図師照幸の日本語を歩く (191)優しい人

(191)優しい人


短脚胴長というバランスを誇るNくんが心配している。HHさんが来ないのだ。とびきり優しい彼は、出勤途中のHHさんの身に何か起きたのではないかと1分おきに時計を見ている。熱中症で倒れたのでは(いや、暑さには強いとエアコンも使わないらしいし)、それとも駅の階段を踏み外し骨折して動けないのでは(確か骨粗しょう症にはまだなっていなかったし)、あるいは先日のように賞味期限の過ぎたコンビニの弁当をもったいないからとこっそり食べて道端でうなっているのでは(いやいや、カビの生えたものもチーズだと思えば大丈夫よと微笑んでいたし)、うーん、何が起きたのだろうか、Nくんの心配は広がっていく。傍らでHSさんがアイスクリームを食べながら笑う、大丈夫ですよ、HHさんは元気そのものですから倒れたりしませんよ、二日酔いでさえなければ。HSさんのHHさんに対する信頼は絶大である。さて、HHさん、出勤途中、あるおばあさんに道を訊かれた。できるだけ短距離で行く道を教えてあげようとおばあさんを高速道路の入り口まで案内してあげた。Nくんに勝るとも劣らないとても優しい女性なのである。少し寄り道をしてしまったわと思いながら急ぎ足で歩いていると、おじいさんが苦しそうに歩いている。左手に杖を突き、右手には持ちきれないほどの荷物を抱えている。何しろ優しいHHさんである。手がふさがっていてかわいそうだわと、左手の杖を持ってあげることにした。これで両方の手が使えて助かるだろうと思ったのだ。しばらく歩いて振り返ると、そのおじいさんは立ち止まったまま動こうとはしていない。少し休みたいのだなと、じゃあこの杖はここにおいておきますよォと云って立ち去った。いやあ、イイことをすると気持ちがいい。HHさんはとにかく優しい女性である。困っている人がいると放っておけないのだ。*優しい=優という文字は喪に服して悲しむ人を表している。また、その所作を真似する人も表すようになり、俳優ということばが生まれる。遺族の代わりに神にその悲しみを演じて見せたのだ。

(2014-07-15)







図師照幸の日本語を歩く (190)どうかいたしましたか?

(190)どうかいたしましたか?


日本事務局のHHさんが何か考えながら出勤した。とびきり気のきく女性であると本人が思い込んでいるHSさんが声をかける。
HS:今日の日替わり弁当でしたら、鯖の塩焼きですよ。
HSさんが生まれる20年以上前にMBAを取得したHHさんのプライドが敏感に反応する。
HH:そんなことを考えていたんじゃないのッ。日替わり弁当なんてどうでもいいの。……鯖、鯖、えッ、また鯖なの?
短脚長胴のNくんがフォローする。
N:HHさんが考えていたのは集団的お見合いのことでしょ、内閣が決めたとかいう? 
HH:……。 
HS:二日酔いですか、また……。 
N:またっていうのは失礼ですよね、二日酔いだったのは一昨日だったんだから。
HH:……。
H:あ、そうか。その前に二日酔いだったのは4日前だしね。
N:ほんとに、どうかいたしましたか?
HS:どうかなされましたか?
家を出るとき鍵をかけたかどうか考えていたHHさんとしては、もはや何も応えることができなくなってしまった。それにしても最近、どうも物忘れが著しい、と不安がるHHさんであった。
*「どうかいたしましたか」も、「どうかなされましたか」も間違い。「どうかなさいましたか」が正しい。「いたす」は「する」の謙譲語。相手に使うべきではない。「なさる」は「する」の尊敬語。尊敬の助動詞「れる」と重ねては二重敬語表現となって、適さない。

(2014-07-09)




図師照幸の日本語を歩く (189)潮時

(189)潮時

研究所で日本語を学ぶハンサムな英国人のPくんへの思いがままならず、腰痛のFJ先生が憂鬱な日々を送っている。先日の花瓶騒動のことが気にかかる、脚が短く、代わりに胴が極端に長いというバランスが自慢のNくんがFJ先生を慰めようとする。「センセー、あのォー、Pくんのことですが、……」「何ッ、来たの?」「いや、あの、そうじゃないんですが、……」「じゃあ、何よッ」「シ、シオ、……」「塩がどうしたのッ、塩なら冷蔵庫の上に乗っているでしょッ。うるさいわねッ」「はいッ、ありがとうございます」 そこへまたまた、ジャムパンのMN先生が登場。「Nくん、そろそろ潮時じゃないかって、云いたいんでしょ?」「ええ、まあ、……」 じっとNくんを睨みつけるFJ先生。「あきらめろっていうのッ?」 Nくんは震えながら持っていた塩をFJ先生のお気に入りの靴の上にこぼすのだった。ここから先は、あまりに残酷なシーンのためお伝えすることができない。いやはや。*なお、「潮時」であるが、本来は、「(あることをするための)ちょうどよい時期。好機。時期」(広辞苑第5版)の意で、ネガティヴな意味がこの語自体にあるのではない。

(2014-06-14)



図師照幸の日本語を歩く (188)花瓶が割れました。

(188)花瓶が割れました。

研究所で日本語を学ぶハンサムな英国人のPくんがやってきた。日本からロンドン本部を訪ねた有名なNくんに会いたいとのことだったが、肝心のNくんの様子がおかしい。Pくんがやってくるというので腰痛のFJ先生がわざわざ買ってきたバラの花を生けた花瓶を、大衆紙サンの第3ページを開いてそこに載っている大きなグラビア写真に見とれているうちに落として割ってしまったらしい。当然ながらFJ先生のご機嫌がよろしくない。「何をやっているのオッ、ほんとにッ」とのお叱りのことばがNくんに突き刺さる。これは面白いことになったと、ジャムパン愛好家のMN先生が油を注ぐ。「Nくーん、どうしたのーッ?」「いやあ、花瓶が割れてしまいました」「えーッ、大変だーッ。花瓶を割ったのーッ?」「はい、花瓶が割れました」 このやり取りを聞いていたPくんの頭が混乱した。花瓶を割ったのか、花瓶が割れたのか、どっちなんだろう。*Nくんが「割った」ので、花瓶が「割れた」のである。他動詞と自動詞の競演である。「割れた」といういい方をすれば、Nくんの罪が免れるような印象が産まれる。ひとりでに割れたようにも聞こえるからである。「隣のミケが子どもを産んだ」とはいうが、「隣の花子さんが子どもを産んだ」とはいいにくく、「隣の花子さんに子どもが生まれた」といういい方にするのと一緒に考えてみるといいだろう。**ところで、大衆紙3面の写真であるが、そこに映っている美女のあられもない姿の美しさもまた、FJ先生やMN先生を逆なでしていたようで、あ、失礼。

(2014-06-14)



図師照幸の日本語を歩く (187)そうなんだ⑥

(187)そうなんだ⑥

若者がよく使う「そうなんだ」ということばについての、最終回。「えッ、もう終わるんですかあ。残念だなあ」とNくん。このNくん、とにかく〈最後〉というものに惹かれるらしく、日頃はまったく寄り付かなかった中華料理店が閉店すると聞くと出かけて行って、「残念だ、残念だ」と嘆くのである。テレビドラマも、最終回だけは視ることにしているようだ。あらすじなんか関係ないのだ。特殊な感性の持ち主である。さて、「そうなんだ」である。「そうなんだ」の第1回(「歩く」182)で書いたように、関西のK大学のM教授が〈のだ(んだ)〉という文末表現には「伝達型」と「認識型」といった二つの用法がある、と分析しているのだが、あるいはさまざまな文法学者がこの〈のだ〉の機能について細かな分析をしているのだが、この〈のだ〉そのものにはそれらの〈機能〉と呼ばれるような基本的な働きはない。〈のだ〉の〈の〉が〈名詞化〉するものの意味(文脈的意味)がまず、〈名詞化〉されることによって、つまり固められることによって、その時々の表現意図と結びつく。なぜ固めるのか、というものである。そしてその固められたものがさらに、〈だ〉と断定の形で終結する。断定することによってきっぱりと言い切ろうとするのである。聞き手に対して、これで一丁上がりと宣言するのである。そのような段階に、〈名詞化〉された意味(文脈的意味)が関与するというわけで、その意味によって分類されたものが、〈機能〉などといって解説されているに過ぎない。ちょっとややこしいかな。やはりもう少しきちんとしたまとまりのある分量で文章化した方がいいようだ。「えッ、まだ続くんですかあ」とNくんの不安な表情が露骨だ。このコラムではここでひとまず終えるとしなければ。そうそう、付け加えておかなければならないことがある。前号で、エグイサルやモップのことをつい書いたために、エグイサルのファンである英国本部のFJ先生の機嫌が悪い。いやあ、正直に書くということも善し悪しだと、反省することしきりである。


(2014-04-24)




図師照幸の日本語を歩く (186)そうなんだ⑤

(186)そうなんだ⑤

若者がよく使う「そうなんだ」ということばについての、5回目。「いつまで続くんですかあー」と、Nくん。「もう少しで終わるからさ、ね、ね」と、まるで悪いことでもしているようだ。Nくん、さっさと耳にイヤホンを突っ込んで何かうるさそうな音楽を聴き始めた。英国本部の腰痛のFJ先生の「これを聴きなさい、すごくいい曲だから」という命令で聴いているのだという。なんだったか、エクササイズとか、エルサイズとか、エグイサルとかいうグループの曲だ。ぼくにはどこがいいのかさっぱりわからない。特に詞がひどい。掃除道具のモップとかスマップとかいうグループの歌っている詞も怖ろしいほどひどいが、この何とかサイズのも考えられないほどひどい。まあ、詩ではなくて歌詞だから我慢しよう。でも(井上)陽水なんかの詞は詩になっていたよなあ、「ゼンマイじかけのカブト虫」とか、「傘がない」とか。何となくこういったカルチャーは退化というか、劣化しつつあるように思う。あ、脱線しすぎた。脱線ついでに、〈の〉についてもう少し脱線することにしよう。Nくんが音楽を聴きながらうとうとしているようだから、よだれをたらしながら。以前にも書いたような気がするが、もう一度。「漱石の本」というと、「漱石が書いた本」「漱石について書かれた本」「漱石が持っている本」といったいろいろな意味にとることができる。しかしながら、「太郎の本」と聞いたら、ま、「太郎が持っている本」ぐらいにしかとれない。「AのB」というとき、〈の〉はただ二つの名詞を結び付けているだけで、その組み合わせの意味するところに何らかの関与をしているわけではない。Aの意味的世界とBの意味的世界とのイメージの組み合わせで成り立っているのであり、〈の〉はなんら関与していない。このことが、ぼくの「そうなんだ」の分析におけるこだわりなのである。申し訳ないが、以下次号。Nくんが起きないうちにホテルにもどろうっと。


(2014-04-15)






図師照幸の日本語を歩く (185)そうなんだ④

(185)そうなんだ④

若者がよく使う「そうなんだ」ということばについての、なんと4回目の雑文である。いやはや、周りから「難しいよ」「もう少し面白いこと、書いてよ」などなど、不評である。大学教授をしている教え子からは「面白くて、今後が楽しみです」などといったメールも届くが、稀な感想である。もう少し我慢してくれないかな、との思いで今回も。「のだ(んだ)」の〈の〉である。183稿でスポンジのような働きをする〈名詞化〉について、184稿では〈凝固作用〉をする〈の〉について述べた。要するにどちらも、〈名詞〉という固形・かたまりに関与することばであるということである。①「Nくんの脚が極端に短いのを知っていますか」 ②「英語の勉強をする」 このような例文を挙げた。②の変形としては、③「これは君のペンだけれど、それはぼくのだよ」といったものを挙げることができる。③では、「ぼくのペン」の「ペン」が省略されていると考えればよいだろう。ではそろそろ、「そうなんだ」に戻ることにしよう。このことばは①の形で、「そうだ+の+だ」がもとの形である。つまり、この〈の〉はスポンジとして、前にある「そうだ(そうである)」を〈名詞化〉している。何だかしらないけれども、何かについて断定したものを〈の〉で受けて(〈名詞化〉して)、「だ」とさらに断定している。この〈断定〉というのはいわゆるモダリティといわれるもので、あッ、いけない、Nくんが不機嫌なまなざしを向けてきた。「……である」などと言い切るのは、その人が偉そうに言い切りたい、そう 言い切れるんだぞって思っていることの表れで、それを後の断定でダメ押ししているのである。ダメ押しっていうのは、そんなふうにあなたに伝えたいんだよということである。182稿で偉大なるM教授の「そうなんだ」の機能についての分析に疑義を表わしたが、この「そうだ+の+だ」の構造を踏まえたうえで、その疑義の内容について説明していくことにする。これは、次号。いやあ、ごめん。

(2014-04-9)



図師照幸の日本語を歩く (184)そうなんだ③

(184)そうなんだ③

若者がよく使う「そうなんだ」ということばについての3回目の雑文である。前稿では、この「んだ(のだ)」の〈の〉には〈名詞化〉の働きがあると述べた。「Nくんの脚が極端に短いのを知っていますか」という誰もが知っている事実について述べた例文で、この〈の〉が「Nくんの脚が極端に短い」という〈文〉を名詞という塊(かたまり)に変えて、「知っている」の対象にする働きがあると述べた。「そうなんだ」の分析からは少し脱線するが、この〈名詞化〉には他の形もある。たとえば、「勉強する」という言い方と「勉強をする」という言い方とがある。どちらがより自然な言い方なのだろうか。「勉強」だけについて考えると、このことばは名詞である。しかし、「机」や「本」などの名詞とは異なった名詞である。何が違うのか。「勉強する」とは言えるが、「机する」や「本する」とは言えない。「勉強する」と言えるのは、「勉強」ということばの中に動作的なもの(ぼくは「動作性因子」と呼んでいる)が含まれているからである。「運転する」や「研究する」も同じである。つまり、この「勉強」という名詞はもともと動作的な因子を持ったことばであるので、「勉強する」という形を与えて「スル動詞化」させてやった方が落ち着くのである。しかしながら、「勉強をする」という言い方だって聞かぬ訳ではない。この「を」というものは名詞にくっつく助詞であるから、「勉強」はしっかりとした「名詞」でなければならない。この「を」が「勉強」に囁きかけるのだ、「お前、確かに名詞だよな」と。「勉強」としては体の中にドロドロとうごめく動作性因子を抱え込んでいるので落ち着かない。そこで、「英語の勉強をする」というように、「英語の」ということばを「勉強」の前にくっつけてやる。これによって、「勉強」の体内でドロドロとうごめいていた動作性因子がカチッと固められてしまい、「勉強」は完全なる名詞となってしまう。これをぼくは「言語の凝固作用」と名付けている。未熟な状態のことば遣いを補完する働きである。この凝固作用をつかさどる〈の〉の働きが〈名詞化〉のもう一つの形なのである。つまり、後ろに来ることば遣いを名詞的なものに変えていくというものである。今回はこの程度にしておこう。脚の短いNくんのいびきがうるさくて、うるさくて、これ以上は無理なのだ。(以下、次号)

(2014-04-3)



図師照幸の日本語を歩く (183)そうなんだ②

(183)そうなんだ②

若者がよく使う「そうなんだ」ということばについての続稿である。この「んだ(のだ)」についてもう少し考えたい。この表現をめぐっては実は、数多くの論考がある。このコラムは論文ではないので、できるだけ気楽な格好で、たとえばソファに横になりながら(日本なら畳にごろんと横になって、だろうか)考えてみよう。この「んだ」の「ん」というのは、「の」の音便化したもので撥音便(はつおんびん)といわれる。つまり、「そうなのだ」が元の形である。で、この<の>である。この<の>自体はいったいナニモノなんだ、と考えてみる。品詞としては助詞、特に準体助詞と呼ばれる。いや、早速硬い表現で恐縮恐縮、いびきが聞こえてきそうになる。えーと、「何でもかんでもこの〈の〉をつけることによって名詞のようなものに固めてしまおうとする、まとめることの大好きな、まあ生真面目なことば」である。たとえば、「Nくんの脚が極端に短いのを知っていますか」という(事実に即した)例文で考えてみる。「Nくんを知っていますか」という文では、「知っている」対象は「Nくん」であり、これは名詞である。まあ、モノか何か、(やや不潔な)かたまりだと思ってもらえばいい。前の例文の「Nくんの脚が短い」はしかし、かたまりではない。悲しい状況・状態を述べたものだ。これだけだと手術が整った、いや主述が整った<文>である。これを固まりに変えて、「知っている」の対象とする働きをするのが<の>なのである。器に入った水は、そのままでは誰かに投げつけることは困難だが、それをスポンジに吸わせれば、容易に投げつけることのできるかたまり(モノ)になる。そのスポンジの働きをするのが、この<の>なのである。このスポンジの働きを仮に今、<名詞化>と呼ぶことにしよう。(以下、次号)


(2014-03-26)




図師照幸の日本語を歩く (182)そうなんだ

(182)そうなんだ

今、研究所には大勢の大学生が日本からやってきている。「グローバルな人間」になるために、日本政府がお金を出してくれたのだ。日本はすごい国だな、と思う。福島の若者たちも、グローバルな人間になりたいだろうなあ、とも思う。仮設で暮らすおじいちゃんやおばあちゃんにはグローバルって、わかんないだろうなあ、とも思う。その代わり知る必要もなかった「線量」などというおぞましい専門用語は肌身で知っている。さて、大学生である。彼らと話すと、その明るさにこちらまで若くなったような錯覚を覚える。素直にそう思う。ただ、時々よくわからない言い回しが気になってしまうことがある。とはいえ、ぼくも、「フツーに」「やべエ」などなど、そういったことば遣いにずいぶん忍耐力がついてきたのも確かである。その若者ことばの一つだろうが、「そうなんだ」ということばについて関西のK大学のM教授が分析している。「そうなんだ」には「応答の用法」(さっき、気分が悪かったの?/そうなんだ)と「あいづちの用法」(私、この前、車の免許を取ったの。/そうなんだ)との二つがあるという。そして、その二つの用法は「のだ(んだ)」という文末表現に「伝達型」と「認識型」といった二つの用法があるからだと説明している。さらに、「あいづち型」の「そうなんだ」を「感心型」(私、この前、車の免許を取ったの。/へー、そうなんだ。私も取りたいんだけど、なかなか時間がなくて……)と「流し型」(私、この前、車の免許を取ったの。/そうなんだ)とに下位分類する。「なるほど、そうなんだ」とうなづく人も多いだろうが、果たしてそうか。「のだ(んだ)」そのものに、そういった機能があるのだろうか。このような表面的な意味を、あたかもその語の本来的機能であるかのように分析する、その方法には、ぼくはどうしても与することができないのだ。(以下、次号)


(2014-03-19)





図師照幸の日本語を歩く (181)今こそ別れ目

(181)今こそ別れ目

卒業式の季節である。かつて、卒業生が歌ってくれた「仰げば尊し」に涙が止まらなかった思い出があるが、今はこの歌はほとんど歌われなくなったと聞く。悲しいなあ、寂しいなあ。ところで、歌われていたとしても、その歌詞の意味が正確に理解されているかどうかは疑わしいようなのだ。なにしろ、「ふるさと」という歌の「うさぎ追いし」が「うさぎ(は)おいし(い)」と理解されていたりする時世だ。さて、この「仰げば尊し」の「今こそ別れめ」の「め」であるが、歌う学生も、聴く教師も、「別れるそのとき、別れ目」と思っている者たちが今や多数派であるらしい。とすると、なんとも珍妙な式の感激となる。この「め」は、意志を表わす助動詞「む」の已然形(いぜんけい)である。係助詞「こそ」と呼応している。「今まさに、わたしはこの学び舎に別れを告げよう。そして、明日の一歩を踏み出そう」といった思いが込められているのである。巣立つその日にずっこけないようにしたいものだ。

(2014-03-12)




図師照幸の日本語を歩く (180)どうかなされましたか

(180)どうかなされましたか

少し前の話だが、韓国人の日本語教師がぼくに、「コーヒーをいただかれますか」と訊いた。ぼくのためにコーヒーをいれてくれようとしての言葉だが、常々自分の日本語力を自慢している先生の言葉だけに、傷つけないで間違いを指摘するにはどうしたものかと困った。ぼくの分まで謙譲してくれているのだから。具合の悪そうな人に、「どうかいたしましたか」と声をかける人にも時々出くわす。「いたす」は謙譲語だから、相手に使う言葉ではない。だからといって、「どうかなされましたか」では丁寧すぎる。「なさる」は「する」の尊敬語で、その上に尊敬の助動詞「れる」をつけることになる。「なさいましたか」がいい。

(2014-03-05)



図師照幸の日本語を歩く (179)健忘

(179)健忘

海外旅行をすることに緊張感がなくなっているせいか、いろいろと失敗する。今回日本に出張する際は、自宅に迎えに来た車に乗ってヒースロー空港へ向かう途中、コートを忘れてきたことに気付いた。数年前も忘れて、日本で買おうとしたら体の大きなぼくのサイズに合うコートが見つからず寒い思いをしたので、家に引き返した。さらに、重要な書類を研究所のぼくの部屋に忘れてきたことも思い出した。大切だからと昨日、机の上においていたのだが、鞄に入れずにそのままにしておいたらしい。スタッフに空港まで急いで届けてもらうことにしたが、肝をつぶした。パスポートを忘れたり、キャッシュを忘れたり、いやはやまさしく健忘症である。そういうと口の悪い日本事務局の下やんが、「老人性の認知症やアルツハイマーじゃないの」とからかう。ところで、この「健忘」ということばは面白い。「健やかに忘れる」、なんとさわやかではないか。嫌なことはきれいさっぱり忘れる、まさしく健康的だ。ただ、白川静博士の『字通』(平凡社)によれば、「健」には「健やか」のほかに、「非常に」の意味もあり、どうやらこっちの意味のようである。そしてまた、えーと、えーと、なんだったか、もう一つ何か書こうと思っていたことがあったのだけれど、えーと、……。

(2014-02-26)



図師照幸の日本語を歩く (178)お求めになられたのですか

(178)お求めになられたのですか

日本出張からロンドンに戻ろうとしたら、雪のため成田空港に行くことができず、なんと余計に3泊もすることになってしまった。毎日早朝に起きて帰英の準備をしては、道路が閉鎖されているとのことで動けない。27年間英国に住んでおり、毎年数回は日本に出張しているが、予定通りに戻れないということは初めてである。まいった。ぼくの荷物は100キロを優に超える大変な量で、簡単には運べない。また、一度パッキングしてしまったら、それを開けるのは重労働なのである。当然のことながら、着替えの下着が足りなくなる。その上ぼくには悪癖があり、一日に2度、下着を替えるのだ。通常はワイシャツなどと一緒にホテルのランドリーサービスに洗濯してもらうのだが、足止めを食った3日間は航空券の変更などを慌ててやっているうちに、サービスの受付時刻に間に合わなかったりしたのだった。そこで、やむなく買うことにした。その話を知人にしたら、「それで、どこでお求めになられたのですか」とどうでもいい事を訊かれた。疲れていたぼくだったが、このことばを条件反射のごとく分析し始めていた。とても丁寧に云ってもらったのだが、やや敬語表現が重い、と感じたのだ。ここは、「どこでお求めになったのですか」で十分。「お……になる」で尊敬表現であり、それに尊敬の助動詞(れる・られる)をさらにつける必要はあるまい。つまり、「なる」を「なられる」とする必要はないのである。油断すると、「どこでお求めなさったのですか」などという間違った言い方にも遭遇したりするのである。それにしても、ロンドンに<かえる>のに、<ゆき>に苦労するとは。

(2014-02-19)


図師照幸の日本語を歩く (177)ばっかもーん

(177)ばっかもーん

日本の大学の7割が大学入学後に中・高等学校の学習内容の再教育をしているという。先日亡くなったサザエさんの父親・波平の声優のことばでいえば、「ばっかもーん!」である。大学の先生たちはそれを可笑しいと思わないのだろうか。彼らもまた、「ばっかもーん!」である。中・高等学校の学力のない者がどうして大学に進学できるのだ、とぼくは単純だからそう思う。高等教育機関で中等教育内容を教えることの可笑しさに知性のあるはずの大学教員たちは恥ずかしさを覚えないのか。少子化で学生募集のためには仕方ないのだと関係者は言う。フーン、ならば大学という看板を下ろしなさい。恥ずかしいということを恥ずかしいと思わなくなったものは醜い。いや、大学ばかりではない。中学教育を高校進学のためと思い込んでいる「センセー」たちも退場したほうがいい。みんなみんな可笑しいよ。大学教育についてこれないものはどんどん留年させたり退学させたりさせたらいいのだ。学生で退学になった者は何度でも入学すればいい、それでも大学に行きたければ。こういった中・高内容の再教育といった制度を考える輩もおかしい。大学に子どもを通わせる親のための保護者会、保護者のための就職説明会、そういったものは異常なのだ。少なくとも知的な立場にある大学教授たちが情けない。保護者に教えてあげよう、このような妙な制度を設けている大学は、2流、3流、……9流、の証拠である。ろくな教育はしてくれないから入学させないほうがいいのだ。

(2014-02-07)



図師照幸の日本語を歩く (176)なんだか

(176)なんだか

新年になり、研究所で日本語を学ぶP君が張り切っている。「今年のホーフ(抱負)は、ハルキ(村上春樹)を日本語で読むことです」と宣言するために、わざわざコーディネート・ルームにやって来た。日本から戻ってきたばかりの腰痛が持病のFJ先生が喜ぶ。FJ先生の機嫌はすこぶるいいのだ。なにしろ贔屓(ひいき)の演歌グループ、ピンカラトリオだったか、なんだか知らないが、年末のお山の大賞かレコード大賞か何かを取ったのだそうだ。エクササイズとか何とかいうグループで、名前からすると体操か何かのお兄さんたちだろう。そこへあこがれのP君の登場である。今年もランチは食パンにジャムを塗っただけのシンプルなサンドイッチを極めるというMN先生が「なんだか、40歳ぐらい若返ったみたいね、FJ先生」と冷やかす。「そうかなあ、……」と一瞬照れたFJ先生だったが、すぐにMN先生を睨みつける。P君が訊ねる。「〈なんだか〉ってどういう意味ですか? 〈なんとなく〉というのと同じですか?」*広辞苑第五版は〈なんだか〉について、「何かわからないが。何故かわからないが。何となく。」と同じ意味であるかのように説明している。その上で、「なんだか変だ」の例文を載せている。しかし、「なんだか変だ」と「なんとなく変だ」とでは、明らかに異なる。「なんとなく変だ」では、(変だと感じるが、まあ、いいか)で終えることができるが、「なんだか変だ」では、(変だなあ、何かあったのかな)といった思いが引きずられるのである。原因や理由が知りたいといった思いが感じられるのだ。「何となく好きになる」ことはあるが、「なんだか好きになる」ことはない。「なんだか好きになったような気がして、どうしてだろうと考える」のである。

(2014-01-15)




図師照幸の日本語を歩く (175)なまえ

(175)なまえ

日本からやってきた学生の名前を見ていると時に、いったいどういうふうに読めばよいのか戸惑うことがある。外国人のような名前に漢字を当てているのだが、極めて難解なのだ。漢字の中にはいわゆる象形文字というものがあるが、これはわかりやすい。〈山〉、〈川〉、〈月〉など、なるほどとうなずく。女と子どもに対するまなざしから〈好〉という文字が生まれ、女二人がいると〈嫌〉となるのも面白い。そのものの状態やそのものに対する思いから記号・符号としての〈なまえ〉がつけられる。子どもにつける名前には、親の思いや願いといったものが込められているのであろうが、他者との区別をするというためだけであれば、AとかBとかといったものでも十分なのだが、そうはならない。〈美子〉とくれば美しい人になってほしいとか、〈優子〉であれば優しい人間になってほしいとか、〈直子〉であれば素直な人間に、〈順子〉はきっと穏やかで他の人との関係が滑らかであるように、〈由香〉は、〈理美〉は、〈倫子〉は、……。いやはや、うまくいかないものだ。つまり、人間につけられた名前は、その人間の特徴を、必ずしもよく表わしているとは言いがたいのである。しかしながら、いわゆるあだ名やニックネームといったものは、これはなかなかのものである。漱石の「坊ちゃん」に登場する〈赤シャツ〉や〈山嵐〉などは、絶品である。とっくに他界しているぼくの伯父は晩年〈ツルさん〉と呼ばれていた。本人が知っていたかどうかは知らないが。貫禄のある教育者だったが、今ぼくはこの名の継承を恐れている。

(2014-01-08)




図師照幸の日本語を歩く (174)怒りを買う

(174)怒りを買う

研究所で日本語を学ぶハンサムな英国人のP君がクリスマスカードとチョコレートを持って挨拶にやって来た。それまで、昨夜のパーティーでの暴飲暴食がたたり、二日酔いでうつろな目をしていたFJ先生が突然、生き返った。「あ、P君、カードを持ってきてくれたの? ありがとう」「ええ、みなさんに」「チョコレートもくれるの?」「ええ、みなさんに」「……」 そこへ、ランチにはジャムサンドイッチを極めるMN先生が現れる。「あ、P君、カードを持ってきてくれたの? チョコレートも? ありがとう」「ちょうどよかった。質問があります」「何、なに?」とFJ先生が二人の間に割り込む。「昨日、インターネットで日本のニュースを見ていたら、T都の知事が都民の怒りを買っている、と言っていたのですが、〈怒りを買う〉の〈買う〉は、〈チョコレートを買う〉の〈買う〉と同じですか? もしそうだったら、どうやって買うのですか。どこで売っているんですか。いくらするんですか」とP君、FJ先生をさわやかな美しい目で見つめる。見つめられていることはうれしかったが、質問の内容がFJ先生の二日酔いの頭にズキズキとこたえた。「ちょっと今日は頭が痛くてね、……」*〈怒りを買う〉の〈買う〉は、広辞苑(第五版)の説明によれば「悪い結果を招く」の意となる。が、〈買う〉はもともと、〈替ふ〉の意である。〈チョコレートを買う〉は、チョコレートとお金とを交換するという意味である。〈怒りを買う〉は、知事のやったことや言ったことが都民の怒りと交換されるという意味で、基本的には同じである。このような固定した語と語の結びつきは日本語にはよくみられる。〈罪を着る〉や〈二の舞を踏む〉などがある。

(2013-12-19)



図師照幸の日本語を歩く (173)否定するものではない

(173)否定するものではない

権力やお金の力を持つ者たちの日本語はどうも気持ち悪い。反社会的組織(やくざや暴力団と呼ばれる人たちのこと)に融資などをしたりして関係を持っていた日本を代表する大銀行頭取の謝罪のことばである。「反社会的勢力への融資について、取引が存在することを否定するものではない」 これは何なんだ。「法律を犯して、そういった者たちへの融資をしていました。ごめんなさい」とどうして言えないのだろう。宿題をやってこなかった小学生が「宿題をしてこなかったことを否定するものではありません」と先生に言ってみろ、泥酔している人のカバンを盗んだ男が「盗んだことを否定するものではありません」と記者会見で言ってみろ、反省なんかちっともしていないと厳しく叱責されるに違いない。そもそもこういった行為そのものが反社会的行為なのではないのか。つまり、このような会社自体が反社会的組織なのではないのか。それとも何だろうか、政治家や銀行などの大企業に勤める者たちには悪いことをしても素直に謝らなくてもよいという特権が与えられているのだろうか。諸君、実は与えられているのですぞ。日本社会では、権力や筋力、いや金力等を手にしたものには超法規的な権利が与えられているのだ。直接手を汚さずに、うまい具合に悪そうな連中を動かして、それらの権力や経済力を拡大していく者たちが正義なのだ。成長するにつれて、それらを少しずつ感じ取っていく子どもたちが親や先生たちを斜めのまなざしで見るようになるのはやむを得ないことではないか。成績の良い秀才のしでかす悪事は大目に見られ、できの悪い連中のささやかないたずらは厳しく叱責される。そういう空気に耐えられなくなる者たちのほうがよっぽど健全ではないかとぼくには思えるのだが。血圧の薬を飲まねば。*政治家にも銀行員にも誠実で心清らかな人もいるだろうから、そのことについてはもちろん断っておきたい。

(2013-11-14)



図師照幸の日本語を歩く (172)ゆびきり

(172)ゆびきり

ぼくの父が好きだった島倉千代子さんが亡くなった。美空ひばりさんの強そうな雰囲気よりも、おしとやかで可憐な感じのする島倉さんの方がいい、と父はよく言っていた。歌謡曲を歌う歌手の名前が父の口から出たのは、そういえば島倉さんぐらいだったような気がする。そういう父のことばを聞いて育ったぼくも、島倉さんの歌が好きだった。歌の題名は忘れたが、「小指と小指からませて、……」という歌が耳に残っている。日本語には、日本的表現には繊細で、儚(はかな)く、瞬時に清(さや)けき気持ちにさせられるものがたくさんあった。「あった」というのは、もうおそらく、少なくとも若者たちの世界には息づいてはいないだろうと思うからだ。たとえば、〈指きり〉である。「指きりげんまん、嘘ついたら針千本飲ーます」、などと言って遊んだ覚えがぼくにもある。この〈指きり〉、もともとは遊郭のことばで、遊女が愛する男に自分の思いの証として、実際に自分の小指を切断して贈るというならわしをいった。それが後々、子どもたちの戯言となり、時に大人の男女の秘めやかな交(かわ)しごととなった。小指と小指をからませて、約束事をする男女の、どれだけの者たちがそれを確かに果たしただろうか。ほどかれた小指を見ながらため息をつく女もいるだろうし、ほどいたのちもその約束を果たそうと静かに思い続ける男もいる。

(2013-11-13)



図師照幸の日本語を歩く (171)偽装と誤表示

(171)偽装と誤表示

先週、日本出張から戻った。10月9日からの3週間の旅に疲労困憊(ひろうこんぱい)した。日本に着いた時は30℃を超す真夏日で、しばらくすると立て続けに台風が襲った。日本にいると国内ニュースが全てで、こんなことまでどうして報道するのかな、といった瑣末のことが重大ニュースとして連日取り上げられる。日本の人たちはきっと、新しい種類の鎖国政策下にいるのではないだろうか。政府が声高に言うグローバル化などということばはきっと、「むこうとこちら」とを明確に区別する意味を持っていて、いつでも「こちら」に逃げ帰ってくればいいといった類のものに思えて仕方ない。さて、日本滞在中に、いかにも「日本的な」という事象に出くわした。一流ホテルによる食材の「偽装」である。一流ホテルで食事をするのは街中のレストランよりかなり割高であったとしてもかっこいいわけで、特にデートなどの場合は相手を大切に思っているのだぞということを表わすのには効果がある、とみんな思っている。財布の中身と相談しながらであったとしても、余裕のある表情で相手を誘うのだ。当然そこに出てくるワインもジュースもコーヒーも、日ごろ口にするものとは果てしないほどかけ離れた代物で、すごいのだ。しかし、そのすごさがわかるのは金額を通してであって、自分の舌が素直に感じるのではない。舌がそういった力を獲得するためにはかなりの回数そういったすごさを体験する必要があるわけで、だから、多くの庶民は値段を信頼するしかないのである。ところがである。しぼり立てのはずのフレッシュジュースが、紙パックから注がれたジュースであったり、有名な和牛のはずが外国産の加工肉であったりしたのだ。ホテル側は最初は「誤表示」と言い訳をしていたが、むろん、そんな言い訳が通じるわけはなく、しばらくして「偽装ととられてもいたしかたない」と改めた。「いたしかたない」とは何としゃれた言い回しであることか。「誤表示」は「間違っちゃった」ということだが、「偽装」はそうではない。無意識と意識の違いである。しかしながら、大した問題ではないとぼくは思うのだ。一種の悲しい喜劇なのだ。蘊蓄(うんちく)で固めたワイン通の舌が、ワインの味を確かに感じ取っているかは疑わしい。味覚は千差万別で、権威にはすがらぬ方が、少なくとも恥をかくことがなくていいのではないだろうか。空腹でたまらぬ時にスタッフがコンビニで買ってきたカップめんは、星三つの味がしたのだった。

(2013-11-4)




図師照幸の日本語を歩く (170)まあ②

(170)まあ②

前号からの続きである。「まあ、そこにおかけください」などという表現はどうだ。これは男の言葉だろう。「まあ、ここはこれぐらいにして……」などもそうだろう。「ええッ、どうしてですかーーーーーッ?」 どうしてもなにも、女性がこういう言い方をしたら変だろう、と言いかけて、でもどうしてだろう、と考え始める。と、いうところで、前号を終えた。すこし、考えてみた。これらの「まあ」は、やや偉そうなのだ。その場を仕切っている感じがする。自分がこの場をコーディネートしているんだぞ、という響きがある。広辞苑は「軽く相手を制止したり、うながしたり、……」と説明する。もっともこの程度の説明では、ここで問題にしている、なぜ「まあ」が男性語的かといった答えとしては完璧ではない。さて、試験の後に、「できた?」「まあまあ」といった会話がなされることがある。この「まあまあ」はおそらく、「できた、というほどではないが、許される範囲ではないか」といった意味合いだろう。つまり、許容範囲や限界点という区切り目を意識しての言葉である。この区切り目を設定したり、基準を設けたりするという行為は、あるいは意識は、そういった基準を設ける権利や力が自分にはあると思っているからである。この意識が、かつて、あくまでかつて、ずーッと昔の日本社会では男性こそがもちうるものだったのだ、念のため繰り返すが、昔は。今は? 「まあ、そこにおかけなさい」と女性に言われて、「はい、恐れ入ります」と言って、男性が緊張して椅子に座る、といった情景はおかしくはないのか、なるほど、そうだよね、ハ、ハ、ハ、……、ハア。まあ、それが平和だよなあ。

(2013-8-9)


図師照幸の日本語を歩く (169)まあ①

(169)まあ①

日本からやって来たばかりの女子学生の言葉遣いを聞いていると、このさわやかなロンドンにいても熱中症にかかったようなめまいを覚えるときがある。もっとも、ぼくは熱中症なるものにかかった経験はもち合わせてはいないが。簡単にいえば、男なのか女なのかわからないような言葉遣いを聞くと頭がくらくらしてくるのである。そこで、「君たちは、〈まあ、すてきなネクタイですこと〉などという言葉遣いはできないのか」と恐る恐る訊いてみる。彼女たちは一瞬、〈このおっさんは(いや、じーさん、かな)は何か訳が分からないが、とてもとても奇怪なことを今、口走ったりしなかったかい?〉というような目でお互い、確かめ合うのだった。そしてその直後、「エエーーーーーーーーーーーーーッ」と「エ」と「ッ」の間がとてつもなく長い言い方で、それも声をそろえて、ぼくを打ちのめすのだ。「センセー、今、平成ですよーーーッ、25年ですよーーーッ」(そんなこと言われなくても平成だってぐらいは知っているわい、25年、というのはよくわからなくなっているが。しかしだ、平成になると、男も女もおんなじ言い方をするようになると、例えば中学校の光村図書の国語の教科書などには書いてあるのかッ)と心の中だけで怒る。「センセー、まあ座りなよ」などは男子学生から言われてもムカッとするし、直接叱れるが、なんと、この言葉を女子学生が遣ったりするのだ。そうか、最近は<なでしこ>がたくましい足でボールを蹴ったりする時代だものなあ、と少し納得しそうにもなる。いやいや、そんなことでは武士道に反する、などとぼく自身もよくわからぬ論理に頼ったりする。いかん、いかん。少し落ち着いて……。そうだ、「まあ、そこにおかけください」などという表現はどうだ。これは男の言葉だろう。「まあ、ここはこれぐらいにして……」などもそうだろう。「ええッ、どうしてですかーーーーーッ?」 どうしてもなにも、女性がこういう言い方をしたら変だろう、と言いかけて、でもどうしてだろう、と考え始める。(以下、次号)

(2013-8-8)

図師照幸の日本語を歩く (168)茶色

(168)茶色

研究所が毎年初夏に開催する運動会に、研究所で日本語を学ぶハンサムな英国人青年Pくんもやって来た。無論、腰痛のFJ先生は大はりきりである。競技種目の一つ、二人三脚に彼と出ようと早々と画策していた。運動会実行委員にそれとなく、「私も二人三脚ぐらいなら出てもいいなあ」とささやく。「あれッ、大丈夫なんですかあ? ちょっとだけだけど走るんですよ?」「何言ってんのよ、こう見えても昔はかけっこは早かったんだから」「センセー、かけっこって、なんですかあ?」「いいから、いいから。そういえば、Pくんも出たいと言ってたなあ。……」「Pくんって?」「あの茶色のTシャツを着ている背の高い英国人がいるでしょ、向こうに」「えッ、茶色のTシャツですかあ?」 その会話を聞いていたMN先生がジャムサンドイッチを頬張りながら、「FJ先生が言っているのは、あのベージュのTシャツの、彼のことよ」「ああ、ベージュの彼ですかあ。茶色って言われたので、……」 MN先生をにらみ付けるFJ先生のまなざしはもはや騎馬戦状態であった。因みに、二人三脚は時間の関係で急きょカットされた。*FJ先生に限らず、外来語のベージュを茶色の一種と考える人はまだまだ多い。しかし、ピンクを赤のカテゴリーに入れたり、オレンジを黄色や赤のカテゴリーに入れたりする人は少なくなってきている。色はあるところを境にして、緑が青になるように、その境目はずいぶんいい加減で、人によって、言語によって異なるようである。そう、年齢によっても、つまり、時代によっても変わっていく。

(2013-7-17)

図師照幸の日本語を歩く (167)暖かい

(167)暖かい

研究所で日本語を学ぶハンサムな英国人青年Pくんがコーディネートルームにやって来た。アイスクリームの差し入れをしてくれたのだ。「今日はとっても暖かいですからね」と言いながらPくん、今日もジャムパンを頬張るMN先生と故郷の富士山を「ウチの山」と自慢するMYさんとに配った。確かにここ数日、素晴らしい晴天が続き、いよいよ「ロンドンの夏、来たる」といったところである。日本のように湿気がなく、実にさわやかである。しかしながら、この「暖かい」は気になる。日本語の「暖かい」には、寒さから逃れた心地よさといった語感がある。MN先生がなぜか2個目のアイスクリームを食べながら、「Pくん、こういう天気のときは、<あたたかい>よりも<あつい>のほうがいいですよ」と教える。英語のwarmをこの時期には天気予報でもよく耳にする。日本の中学校英語などで教わるwarmは確かに「暖かい」であり、日本語教師もそう教える人が多い。けれども、日本の英和辞典(新英和中辞典・研究社)などの一般にもよく用いられている辞書にも、「warmは日本語の<暑い>に当たる場合がある」とちゃんと書いてあるのだ。しばらくして、Pくんに心を寄せる腰痛のFJ先生が講義を終えてもどってきた。「あ、Pくん、来てたの? 今日は何? 日本語についての質問?」「いえ、今日はとっても暑いので、アイスクリームを持ってきました」「うわあ、うれしい。どこッ? どこッ?」 きょろきょろ見回すFJ先生の脇で、MN先生が小さな声で一言、「とけるともったいないと思って、……」 凍ったような冷たい風が吹いたのだった。

(2013-7-10)

図師照幸の日本語を歩く (166)マニュアルことば

(166)マニュアルことば

イタリア人の教授と日本に出張したとき、二人で東京の喫茶店に入った。あ、少食で才女のTSさんによれば、喫茶店とは最近言わないらしい、つまり、その、カフェに入った(昔のヒット曲「学生街の喫茶店」の立場はどうなるのだ)。すると、お店の女の子が(この言い方はいかにもオジサンだと、TSさんは馬鹿にする)「いらっしゃいませーぇ」「何になさいますかーぁ」「大にされますかーぁ、小にされますかーぁ」などと、とても人間の声とは思えない、そう、機械から出てくるような奇妙な声で訊くのだ。ぼくはこれが嫌いだ。イタリア人教授は声なんかどうでもいいといった顔で、女の子の顔にニヤニヤしながら見とれている。イタリア人は大統領だけではない独特の性格というか、何と言うか、とんでもない特徴を持っているのだろうか。さて、そういったことを考えながらコーヒーを飲んでいると、あるおばあさんが悲壮な顔で入口から飛び込んできた。「トイレ、トイレ、……」と小声で言っている。女の子が例の調子で訊く。おばあさんの様子などは全く見ていない。「いらっしゃいませーぇ」「あのーぅ」「何になさいますかーぁ」「トイレ、……」「大にされますかーぁ、小にされますかーぁ」 噴き出したぼくに、イタリア人教授が「どうしたんだ、訳してくれ」とせっつくのだが。

(2013-7-2)

図師照幸の日本語を歩く (165)利用と必要

(165)利用と必要

他の政党の党首を公のメディアで「バカ」「化石」などということばでののしる人が市長であったり政党の党首であったりしていいのかな、とぼくは真面目に心配になる。あの「ツイッター」なるものではどんなに汚いことばでも遣っていいことになっているのだろうか。市政において教育問題を取り上げ、教育委員会を攻撃し、いじめ問題に真剣に取り組むそぶりを見せながら、彼の言語行動はインターネットで陰湿ないじめを繰り返す青少年のそれと同じではないか。そういった子どもたちの問題あるいじめ行動をそそのかしているといわれても仕方ないだろう。子どもたちやあまり知性のない大人たちは、氏の攻撃的かつ卑劣で下品な言葉遣いを真似るに違いない。実際、彼の政党に属する議員がひどいことばを書き込んだとして処分されたではないか。橋下市長を真似てしまったとその議員は云った。間違いなく市長や政治家失格だろう、この橋下徹なる人物は。極めて危険な存在である。どうしてこのまま〈放置〉されるのだろう。■話題となった「たかじん」の番組をインターネットで見た。ひどかった。番組構成も彼と討論するコメンテーターの質も。どうやらこの番組は、逆境の橋下氏を援護射撃するために作られていたように思われる。討論番組を装ったただの娯楽番組ということなのだろうが。橋下氏は自己弁護に終始し、論点をそらすことに勝機を見出そうとしていた。対するコメンテーターはうまい具合にかわされているばかりで、そういう意味では橋下氏の方が長けていた。このコラムの先週号でも書いたが、もっと丁寧に彼の言動を検証する必要があった。この番組でも実は、橋下氏があわてた場面があった。橋下氏が「当時どの国の軍隊も女性を利用した」と云ったとき、隣に座っていたコメンテーター(弁護士)が「でも、〈利用した〉というのと〈必要だった〉というのでは違うでしょう?」と発言した。橋下氏はその瞬間、まずいと思ったのだろう、「まあ、それはことばの……」というとすぐに他の話題へと話をそらした。ここが勝負どころだったのだ。■橋下氏のこの慰安婦問題に関する見解や認識は、この〈利用〉と〈必要〉といった2語に集約される。[①戦時下では、闘う兵士の精神をコントロールするためにどの国の軍隊においても女性を性処理の対象として利用してきた。②つまり、そういったことは必要だった。③だから、沖縄の米軍兵士たちにも性風俗の女性たちを利用させるようにさせたらよい。] 橋下氏の発言はこれだけで、また彼の頭の中にあった論理もまた、これだけだった。彼は、得意気に自分のこの愚かで卑劣な論理を、あたかも優れたものであるかのように記者たちに披露した。ところが、彼の予想に反してこの発言はメディアの餌食となる。この発言が問題となり、攻撃されるようになってから彼は、必死で理論武装をしようとする。睡眠時間も惜しんで勉強したに違いない。しかし、もともと①②③といった非常にシンプルな思いしか持っていなかった彼がどのように取り繕うとしても、うまくはいかない。いわゆる〈見透かされてしまう〉のである。彼の失敗は、①から②が当然導き出されると愚かにも考えた点にある。〈利用〉したかもしれないが、それを〈必要〉だったとする考え方、価値観に彼の卑しさがあるのである。あるいは政治家としての倫理観の欠如がある。〈利用〉した事実があったとしても、それは〈過ち〉であり、あってはならないことであり、〈必要〉と認めてはいけないことだったのだ。

(2013-6-21)


図師照幸の日本語を歩く (164)誰だって

(164)誰だって

「銃弾が雨嵐のごとく飛び交う中で命をかけて走っていくときに、精神的にも高ぶっている猛者集団をどこかで休息させてあげようと思ったら、慰安婦制度が必要なのは誰だってわかる」と述べたのは、弁護士で、関西の大都市の市長であり、ある政党の共同代表でもあるH氏だ。彼のこの発言をめぐって、さまざまな議論が起きている。その歴史観や政治観等についてはここでは取り上げないが、H氏がこの自らの発言について、「自分自身がその必要性を認めているとは一言も言っていない」と弁解し、「あたかも自分が必要だと言っているように報道されたのはひどい誤報だ」とメディア等を批判している点に興味をもった。たとえば「日本の首相が安倍さんだということは誰だって知っているよね」と言うとき、この「誰だって」にこの言葉を発している自分を含めないということが、そういった論理が成立するだろうか。「誰だって知っているけれど、ぼくは知らない」と言いたかった、という意味合いが成立するだろうか。「みんな慰安婦制度が必要だったと思っていると思うし、ぼくだって必要だったと思っている」と発言したと受け取るのが自然だろう。にもかかわらず、そういうふうに解釈するのは、H氏によれば「頭が悪く、バカ」なのだそうだ。そんな言い方をされたら、「誰だって」不快になるのではないだろうか。ぼくもまた不快になり、気の弱いぼくは「誰だって」とみんなを仲間にしてそう言うのだ。ん? ということはこの市長さんも気が弱いので「誰だって」と言ったのだろうか。けれども言ったあと、その内容が激しく攻撃されたので、「誰だって」とは言ったが、「ぼくが(自分が)」とは言わなかったとその攻撃をかわそうとしているのかな? もしそうだとしたら、誰だって「なあんだ」と思っちゃうんじゃあないかなあ。威信(維新)がなくなっていくよねえ。

(2013-6-18)


図師照幸の日本語を歩く (163)1000円からお預かりします

(163)1000円からお預かりします

日本出張中の6月1日(土)、ホテルの部屋に届けられた朝日新聞のb2面に、読者のアンケート結果をもとにした「気持ちが悪い日本語」が特集されていた。「わたし的には」など、この欄でも取り上げた表現がRANKING20にいくつもみられる。トップは「1000円からお預かりします」。このよく聞く表現について、ベストセラーとなった「問題な日本語」シリーズの著者・北原保雄さん(元筑波大学学長・国語学者)は、「まずは1000円から、仮にお預かりします」というようなニュアンスを込めて使われ始めた表現ではないかとみる、のだそうだ。悔しいことに、ぼくの貧しい頭では、この北原さんの説明ではスッキリしない。北原さんのこの日本語が「問題な」に思えてくるのだ。むしろ、そのあとに紹介されている「兵庫県の女性(36)」の解釈が心地よい。この「から」に、「お釣りがありますよ。まだ帰らないで」という意味が含まれている、とその(36)はみる。とてもすばらしい。そこで「ぼく的に」、もっとわかりやすく、まとめてみることにしよう。この表現は「1000円からお買い上げの額を差し引く形でお預かりいたします」が原形。このうち「お買い上げの額を差し引く形で」が省略される。なぜか。レジでの支払いという状況下ではその行為が明らかであるからである。あえて言う必要はないからだ。ではなぜ、「から」が残るのか。(36)の言うように、お釣りがあるよ、と言いたいのだ。「から」がある限り、「(差し)引く」が存在する。引いた結果として、お釣りがイメージされる。算数なのだ。1000円のモノを買ったお客が1000円丁度を支払った時には「から」は使えない。「ちゃんとお釣りを払いますからね、安心してくださいよ、お客さん」と言っているのである。

(2013-6-10)


図師照幸の日本語を歩く (162)賞味期限

(162)賞味期限

研究所で日本語を学ぶハンサムな英国人青年Pくんがコーディネートルームにやって来た。ジャムパン友の会の会長であるMN先生は今日もジャムパンをランチにして頬張っている。「あ、センセー、今日もジャムパンですかー」「まあ、そうだけど(余計なお世話だ)」「ちょうどよかった。センセー、教えてください。この日本のチョコレートのパッケージに書いてある賞味期限というのはどういう意味ですか」 丁度そこへ腰痛のFJ先生、登場。「あ、Pくん、来てたの。なになに、なーんでも私に訊いて」「Pくんが、賞味期限の意味を知りたいんだって」「(ムムッ)で、Pくん、何の賞味期限ですか」「あのー、このチョコレートに書いてあるんですけど」「あ、それはね、その日までならおいしく食べられますよ、って意味ですよ」「あ、そうですかあ。じゃあ、これは昨日が期限だから、もう駄目ですねえ」 MN先生、「何言ってんの、昨日まではすごくおいしいけれど、今日はまずまずおいしい、明日もおいしいし、来週ぐらいまでは十分大丈夫、って意味ですよ」と説明する。「アハハ、アハハ」と力なく笑うFJ先生。 FJ先生がさっき食べていたカップヌードルが1週間前に期限切れだったことをMN先生はちゃーんと知っているのだ。「で、この言葉は人間にも使うんですか」とPくん、ついに言ってはいけないことを口走ったのだった。そこへ通りかかった20代の学生、「言うよ、言うよ。使う、使う。あのおばさんはもう賞味期限が切れている、とか。ねえ、FJセンセー、使いますよねえ」「えッ、まあ、どうかしらね。使うの? MN先生?」「まあ、わたしよりもFJ先生の方が詳しいんじゃないですかあ?」「あッ、スイマセン、スイマセン」と学生が謝る。FJ先生とMN先生が同時に、「なんで、謝るのよッ!」

(2013-5-8)


図師照幸の日本語を歩く (161)遺憾

(161)遺憾

いつからだろう。新聞やテレビのカメラのフラッシュを浴びながら、ずらっと並んだ恰幅(かっぷく)のいい大人たちがそろって頭を下げる風景が日常化したのは。いろいろな不祥事が起きた時、その組織のトップの連中が「申し訳ありませんでした」と薄くなった頭のてっぺんをカメラにさらすのである。大きな組織であればあるほど、末端の社員の不祥事にどうして自分が頭を下げて謝らなければならないんだといった社長連中の不快感がありありと漂う。このあと、部下たちを激しく怒るんだろうなと思わせる。先日は神戸大学や同志社大学等の学長たちが謝った。学生がテーマパークでくだらぬいたずらをして迷惑をかけたというのである。このニュースを聞いて、日本の大学生は子供扱いをされる存在なのだなと驚いた。選挙権を持つ大人であるはずの大学生がプライベートな時間にやったいたずらについて、学長が謝るなどということは少なくとも英国の大学ではない。恥ずかしくて英国人の大学教員や学生には言えない。大学は知的な者たちが大勢いるところなのだろうが、教授連中はもはや判断力や誇りを失い、知的でも何でもないのだろう。ところで、謝っているような困っているような、いったいどっちなんだ、という言葉がある。「遺憾」という言葉である。ぼくはこの言葉が大嫌いだ。自分は当事者ではなく迷惑を被っている方の人間であるが、何かコメントしなければならない立場でもあることはあるので、「極めて遺憾」。もともとはこの言葉、「思い通りにいかず心残りなこと。残念。気の毒」(広辞苑)の意。この広辞苑の説明は面白いなあ。「思い通りにいかず心残りなこと」といえば、そのことに自分も何らかの関わりを持っていることがわかるが、「気の毒」となると、これは全くの他人事である。ゆえに便利なのだ。もしもぼくがこの大学の学長であるなら、次のように言うだろう。「いやあ、こういったくだらぬことにエネルギーを費やす輩が本学にいたとは全く恥ずかしい。と同時に、本学の名誉や誇りを傷つける輩には大いに憤りを覚える。もっと筋の通った行動や、社会性や政治性や芸術性をもった、本当の意味でこの腐敗した世の中をあっと言わせる行為を期待したいものだ。この程度の子供じみたいたずらでは、メディアの人たちだって面白くもなんともないだろう」と。無論頭を下げたりはしない。薄くなった頭頂部をさらすなんてとんでもない。

(2013-4-23)


図師照幸の日本語を歩く (160)大丈夫

(160)大丈夫

①「どう? ここの料理?」「大丈夫です」「えッ、あんまりうまくないか?」「いや、大丈夫です」②「そこのあたり、水は漏れていないか?」「えーと、大丈夫です。漏れてません」③「これはいいカバンなんだけど、ちょっと古いかなあ。もしよかったら、使って」「大丈夫です」「……」■これらの会話のうち、違和感を覚えるものがあるだろうか。いずれも最近よく耳にする言い方なのだ。②には問題を感じないが、①と③はいけない。①の場合、ここの料理はうまいと思っているから御馳走しているのに、「大丈夫」と言われると、口に合わないものを無理に食べてもらっているのかなと心配になる。「大丈夫」には「心配いらない」といった語感があるのだから、「心配いらない」といわれる程度の、あまりうまくない料理という意味合いに受け取れるのだ。しかし訊いてみると、結構うまいという意味らしい。③は、親切で提供したカバンである。ちょっと古いけれどもいいカバンだから、といった意味合いを込めたのに対し、「大丈夫」と言われると、古いのを我慢して使いますから心配いりませんと言われたようで快くない。こちらが「申し訳ない」と謝らなければならないような気がしてくる。しかし、そういう意味ではないということだ。■このような言葉遣いについての繊細さの欠如は、昨今甚だしくなっているように思われる。休みの日に小津安二郎の「東京物語」(映画)等の作品を見続けているが、日本語も日本人も間違いなく劣化しつつあるように思えてならない。

(2013-4-16)


図師照幸の日本語を歩く (159)公人

(159)公人

関西の人気市長が新聞社系の週刊誌に噛み付いている。確かに週刊誌的世界の暴力性には(いや、メディアのすべてがもはや堕しているといってもいいように思うことがあるが)目に余るものがあり、市長の怒りにもうなづける面もあるが、その内容や正当性はともかく、この市長の言葉遣いには危惧するところ大である。市長は教育委員会などのあり方に関する教育問題にも積極的に取り組んでおり、教育行政の改革者としての自負心を強く持っているに違いない。しかし、自らを「公人」であるとする彼の言動の激しさ(これは週刊誌の暴力性と同質)には、教育の方向性を示そうとする者としての品格が著しく欠けていることを指摘しないわけにはいかない。テレビのバラエティ番組やブログの無責任なつぶやきの刺激性やウケ狙いといった卑俗性が強く漂うのである。若者たちは残念なことにそういった言葉の海を泳いでいる。それらの言葉の持つ破壊力が言葉本来のエネルギーだと錯覚している。市長がカメラの前で涙ながらに強く糾弾したいじめや体罰問題のかなりの部分に実はこのような、人を攻撃し、罵倒する言葉が関与していることに、彼は気付かなければならない。磨かれた言葉には論理性があり、コミュニケートすることでお互いがわかりあおうとする意志や生産性がある。それが、市長の言動には感じられない。相手を打ち負かすことで勝者となり、それを彼自身が批判するメディアで取り上げられることで、人気を得ようとする。市長にとって乱暴な言葉遣いを支持する者たちの一票は安易に集めることのできる大切なものかもしれないが、公人としての責任と誇りを持つなら、自らの言葉遣いについては厳しく省みる真面目さが必要だろう。ブログに書き込まれていく無責任な者たちの言葉遣いに、ぼくは暗澹たる思いにうなだれこそすれ、明日への希望などを持つことはできない。公人たる市長には明日の希望に責任があると、そう思うのだ。*公人=公職に在るという立場で、その行動が問題とされる人。(新明解国語辞典・三省堂)

(2013-4-10)


図師照幸の日本語を歩く (158)お帰りなさい・再考

(158)お帰りなさい・再考

「日本語を歩く153」で、「お帰りなさい」について考えた。その際、大辞林(三省堂)の説明がほぼ妥当だろうと紹介した。「よくお帰りなさいました」が省略された形「お帰りなさい」が生まれ、「ませ」は「なさい」を命令形と勘違いして付いたというものである。「お帰りなさい」についてはこの解釈でよいのではないかと思っていたところ、筑波大学学長を務めた国語学者・北原保雄さんの『達人の日本語』(文春文庫2005)の帯の宣伝文句に「なぜ、〈いらっしゃい〉は命令形なの?」とあるのに目をとめ、買って読んだ。「お帰りなさい」について北原さんは、「すでに帰ってきている人に対してであるが、すぐそこまで帰ってきてはいるがまだ帰ってはいない人として、「お帰りなさい」と呼びかけているのだろう」と説明する。この結論に至るまでに、北原さんの論理は右往左往する。宣伝文句から、スカッとした論理で説明がなされているのだろうと期待したのだったが、この説明では語用から考えてもかなりの無理がある。北原さんも上記の説明の後に、「そうとでも考えなければ、説明のしようがない」との、帯の宣伝文句とはかけ離れた悔しさをのぞかせている。さて、「お帰りなさい」については、次のように考えよう。「ようこそお帰りなさりました」→「お帰りなさいました」(イ音便化)→「お帰りなさい」(「ました」の省略) つまり、この「なさい」は命令形ではないと考えるのがよい。残るは「お帰りなさいませ」の「ませ」である。大辞林のように「勘違い」で終わらせれば楽なのだが。

(2013-4-3)


図師照幸の日本語を歩く (157)遅かりし由良之助

(157)遅かりし由良之

勘三郎が死に、団十郎が死んだ。勘三郎の才気と天真爛漫な華やかさにはほれぼれしたし、団十郎の骨太の迫力には圧倒された。上手い下手では片づけられない独自の芸風がそれぞれにあった。そういえば、ロンドンのレストランでばったり出会った演出家の野田秀樹とワインを飲みながら歌舞伎役者について語り合ったとき、野田の二人についての評は興味深かった(ここには書かない。いや、書けない)。ぼくは団十郎の息子・海老蔵には華と同時に狂気を感じていたが、それらの言葉ほどかっこよくない事件を彼はしばらくして起こした。まあ、いろいろ経験してみるのもいいよね。さて、歌舞伎「仮名手本忠臣蔵」の四段目に由来するこの言葉、主君の臨終の間際に到着した大星由良之助の無念を表わす。しかし、間に合ったことは間に合ったのであるから、間に合わなかったときに用いる現代の用法は厳密にいえばややおかしい。本来の意味とはやや異なって用いられ、伝えられていくことばは結構あるのである。

(2013-3-19)


図師照幸の日本語を歩く (156)擬態語

(156)擬態語

前回「うるうる」について書いたが、日本国語大辞典の説明から読み取るに、「潤(うるお)っている」の「うる」を重ねて作った擬態語であろう。このような擬態語にはいろいろあるようで、源氏物語に登場する「あざあざ」というのもその一つだ。「来し方あまりにほひ多くあざあざとおはせしさかりは、……」(御法)の「あざあざ」は、「あざやか」の「あざ」を重ねたもので、「紫の上」のあざやかな美しさの形容である。研究所のMA(修士課程)で擬態語を研究し、今は母国語教室(子どもの未来研究室)で日本語を教えるSN先生は毎週土曜日、8歳前後の子どもたちの日本語と英語の混じった擬態語と格闘している。日本語の擬態語は英語の3倍から5倍もあるといわれているが、何しろ英国の犬はワンワンと鳴いてくれないのだから大変だ。それを聞いた下やん、「なにッ、イギリスの犬はワンワンと鳴かないで、英語で鳴くのか?」と娘のさくらちゃん(千葉大生)に訊ねたのだそうだ。それからもうひと月になるが、さくらちゃんが口を利いてくれなくなったと嘆いている。「TSさん? 俺、なんかへんなこと云ったのかなあ?」

(2013-3-6)


図師照幸の日本語を歩く (155)うるうる

(155)うるうる

重松清の小説を読んだ下やんの目が赤い。「いやあ、まいったよ。うちには坊主みたいな娘しかいないけど、やっぱ父親としてはこういった親子の情を描いた小説を読むとウルウルしてくるなあ」 下やんはカタカナが似合いそうな云い方でウルウルを繰り返すのだった。読書家で才女のTSさんが同調する、「そうですよね、清って最高でしょう?」 聞いていたNくんが発言、「キヨシって、氷川きよしのこと? あの、本部の、腰痛の、FJ先生が好きな?」「何云ってるのよ、FJ先生が好きなのは前川清!」「違うよ、前川清が好きなのはジャムパン愛好家のMN先生じゃないか」 下やんがため息をつく、「どうしてこいつら、デモクラシーがないのかなあ、ボク、悲しい」 どうやらデリカシーのことを下やん、言っているようだ。ぼくの方こそほんとに悲しくて、目がウルウルしてしまうのだった。*うるうる=最近若者がよく使う表現で、若者言葉の一つだろうぐらいに思っていたが、広辞苑にも、日本国語大辞典にも載っていた。「うるおってしっとりとしているさま。また、つやのあるさまを表わす語。特に、目が涙でうるんでいるさまにいう」(日本国語大辞典) 古文の「目のうるうる、如何。小児のなかむとする時は、目のうるうるとなりて、涙のうかぶ也」(名語記 1275)にも登場する。

(2013-3-5)


図師照幸の日本語を歩く (154)馬

(154)馬

牛肉100パーセントと表示された大手スーパーマーケットの冷凍食品のハンバーガーに馬の肉が紛れ込んでいた。調べてみると、他のあちこちの商品にも同じような偽りの表示がなされていた。なにしろ馬をこよなく愛し、かわいがる英国民である。知らぬ間に、何とあの愛すべき馬の肉を食っていたとは。ヨーロッパ中の牛肉に馬肉が潜んでいた。日本やフランスでは食す馬肉である。それがどうしたと言いそうになるが、表示に偽りがあるのは確かにいけない。どこの馬の骨とも知れぬ者の仕業だろうと笑ったが、すぐに業者が特定されたようだ。ところで、この馬である。いやはや大変な数の慣用句がある。「馬と猿」、「馬を鹿」、「馬の目」、「馬の小便」。どういった意味か、おわかりだろうか。馬という言葉の由来は、日本国語大辞典(小学館)によれば、「マ(馬)の字音から出た。ウ(ム)は発語の音」。あるいは、馬自体が大陸から伝わったので、蒙古語や満州語、韓語、支那語などと同語源とする説がある。ところで、英国人のJA先生は、数年間の熊本での教師生活を終えて帰英する時、叔父さん(もちろん英国人)へ馬肉の燻製を買って帰り、何食わぬ顔で食べさせたそうだ。誠実そうなJA先生が陰で一人、微笑する姿を思うと、冷たい汗が流れるのだった。

(2013-2-19)


図師照幸の日本語を歩く (153)お帰りなさい

(153)お帰りなさい

ロンドンから日本に戻る。3週間経って、日本からロンドンに戻る。今のぼくには後者が「帰る」だろう。「帰る」というのは、本来自分が所属すると意識するところに戻ることで、ぼくにとっては26年間住むロンドンが、それに当たる。ところで、帰って来た者を迎える挨拶ことばに「お帰りなさい」というのがある。広辞苑(岩波書店)は[「帰る」の丁寧な命令形]と説明する。要するに、「帰れ」というのを丁寧に言っているというのである。帰って来た者に「帰れ」と言っているという説明は極めて陳腐であり、ぞんざいである。日本国語大辞典(小学館)も同様の説明で、いわば逃げている。新明解(三省堂)もだめ。「お帰りなさる」に「ませ」が付いて「お帰りなさりませ」となり、「お帰りなさいませ」とイ音便化し、「ませ」が省略された、とここまではまず考えられるが、「ませ」がわからない。「ます」の命令形であるから厄介だ。この命令の形がなぜ必要で、生まれたのか。大辞林(三省堂)がまずまずの説明をしている。「よくお帰りなさいました」が省略された形「お帰りなさい」が生まれ、「ませ」は「なさい」を命令形と勘違いして付いたというのである。今日のところは、そういうことにしておこう。ただ、この「ませ」については再考が必要だろうなあ。

(2013-2-13)


図師照幸の日本語を歩く (152)右翼

(152)右翼

日本では衆議員選挙が終わったようだ。こちら(英国)のメディアでも盛んに報道されたが、それによれば、「右翼政権」の復活だという。この右傾化は英国でも強まっている。[UKIP] (ユーキップ) という右翼政党の支持率が急上昇しているのだUnited Kingdom Independence Party (英国独立党) で、欧州連合(EU)から英国は脱退すべきであり、白人中心の国家再建を、と主張する。現政権のConservative Party (保守党)も多文化主義 (multiculturalism) を否定し、右へ右へと傾いていく。では、左といわれる前政権党の Labour Party (労働党)は何をしているのか。こちらも少しずつ支持率を回復しつつあり、ここが二大政党制の歴史を感じさせる英国なのである。右が強まれば、左も頑張るのである。日本はどうか。右だ左だといった認識はないのではないか。政策論争が中心に据えられた選挙だったのだろうか。どこかの元気だけはいい人気者市長が「政策なんかどうでもいいんです」と叫んでいたのが、安物のワインを飲んだ後味の悪さに似て、笑うに笑えない。「愛する日本」がくれぐれも「愛される日本」であってほしいと遥かな異国で願っている。*右翼=「(フランス革命後、議会で議長席からみて右方の席を占めたことから)保守派。また、国粋主義・ファシズムなどの立場」(広辞苑)。「最右翼」というと政治色が消え、「もっとも有力な候補」の意味となる。

(2012-12-19)

図師照幸の日本語を歩く (151)裏

(151)裏

日本事務局で今日もがんばるTSさんはしかし、ここのところ元気がない。今年も押し詰り、紅白歌合戦の出場者が発表された。モップ、いやスマップの、せんたく、いやキムタクもいいが、なんといっても演歌である、TSさんにとっては。特に小林幸子の大ファンで、大みそかのあの恐ろしい、いや素晴らしく派手な衣装が楽しみだった。それが今年は、ない、ないのだ。小林幸子の歌を聴きながらお父さんやお母さん、おじいちゃんやおばあちゃん、よくわからないおじさんやおばさんたち、近所の人たち、みんな集まって年を越す、これが何よりの楽しみだったのだ。石川さゆりは出るようだと聞いても、幸子でなければならないのだ。TSさんが落ち込んでいると聞いた下やんが、「裏番組に出るらしいと聞いたけど、……」とぽつりと言った。「えッ、裏番組って?」「そりゃあ、紅白の裏番組といやあ、コント55号の野球拳、……」 極端に古い冗談を言いかけた下やん、泣き出しそうなTSさんの顔を見て、言いかけた言葉を飲み込んだ。まずい、TSさんが音付きで泣き出したら大変なことになるのだ。数か月前、みんなでケーキを切って食べた時、自分のケーキの大きさが小さいと言って泣き出し、そのものすごさにパトカーがやってきたほどだ。「いや、ほら、竹下景子さんが司会する番組、あるじゃない毎年。あれに出るようだという噂だよ、ほんとに、確かに、きっと、おそらく、たぶん、……」 TSさんが大きく息を吸い込んだ。間違いなくパトカーの出番である。TSさんの故郷ではテレビ東京は映らないのだった。*裏=「表面と反対の隠れている方(にあるもの)↔表」(広辞苑)。かつて日本海側を裏日本と読んでいた。失礼な話だ。日本の首都・東京が太平洋側にあるからか、アメリカに向いているほうを表と呼びたいからか。NHKの紅白が表で、他局の番組が裏というのも、おかしな話だ。「裏口入学」「裏街道」「裏金」「裏切る」「裏目」……と、裏の付く言葉にはろくなものがない。唯一「裏千家」ぐらいが誇らしげだが。

(2012-12-11)


図師照幸の日本語を歩く (150)てもいい

(150)てもいい

腰痛のFJ先生はクリスマスが大好きである。何よりプレゼントである。あげるのはあまり好きではないが、いやむしろ嫌いだが、貰うのがいい。まずはワイン、日本酒、焼酎といったアルコール飲料が好ましい。気取った化粧箱などに入っているよりも本数が多いのがいいそうだ。次に食べ物である。お酒の類とのコンビネーションを考えてくれると、その人にはセンスがあるとの評価を得る。花束や香水はあまりうれしくはない。ただ例外もある。あの研究所で日本語を学ぶハンサムな英国人青年Pくんがくれるものはどんなものでも歓迎である。日本から帰ったPくんがワインの小瓶をくれた時にはダイヤの指輪でも貰ったかのように大騒ぎした。機内で配られたラベルの剝げかかったワインではあったが。いつもジャムパンを頬張るMN先生の場合は、電子レンジで簡単に作れる食材がいいという。あるいはシワになりにくく、洗濯後にすぐ乾く衣類、何回はいても匂わない靴下、などなど。故郷の富士山を「ウチの山」と自慢するMYさんは、何より漢方薬がほしいという。西洋の薬は信用せず、漢方薬さえあれば飲まなくても治ると信じているらしい。さらに、馬刺しが好きな英国人のJA先生も話題に加わった。「ぼくは何もなくてもいいです。でも、いろいろたくさんあってもいいです」 口の周りにジャムをくっつけたMN先生がつぶやいた。「欲がないのか、欲張りなのか……」 *「たくさんあってもいいです」はおかしい。この言い方は明らかに間違っているが、ここまでではなくてもこのような言い方をする若者が増えている。「ぼくが行ってもいいですよ」といった申し出の仕方も、あまり好ましくはない。「ぼくが行きます」とか、「ぼくに行かせてください」という言い方のほうが気持ちいい。なぜか。これはクリスマスプレゼントである。自分で考えてほしい。*このコラムも150回である。感謝。

(2012-12-04)


図師照幸の日本語を歩く (149)飲んじゃった

(149)飲んじゃった

研究所で日本語を学ぶハンサムな英国人青年Pくんがコーディネートルームに飛び込んできた。故郷の富士山を「ウチの山」と自慢するMYさんが「どうしたんですか」と訊ねる。「のどが痛いです。咳が止まりません」 今日もジャムパンを頬張るMN先生が「これを飲みなさい」と優しく対応する、珍しく。冷蔵庫から出されたドリンクは、腰痛のFJ先生が講義の後に飲もうと入れておいたはちみつ入りの高級品である。Pくんの咳が止まり、MN先生、大いに感謝される。「今日もいいことをしたなあ」と一人満足するMN先生だったが、講義から帰って来た腰痛のFJ先生が冷蔵庫を開けるとドリンクがない。「あれーッ、ドリンクがないッ」「いま、あのP君が来て飲んでいったけど」とMN先生。「え、Pくん、来たの?」「のどが痛いって言ってたから、あげちゃった」「あ、……、そう」「悪かった? ずいぶん喜んでたけど」「そう?じゃあ、いいけど、でも、あれ、高かったんだけど……。飲んじゃったのかあ」「感謝されたよォ、すごく、わたし」「なにッ?」 *「飲んじゃった」=「飲んでしまった」=「飲む+て+しまう+た」 いわゆる「てフォーム」に「しまった」が付いたもの。「手帳をカバンにしまう」の「しまう」が「てしまう」になると、「飲んでしまう」と動作の完了を表したり、「とうとうあの人も去ってしまう」のように残念さや後悔の念が完了にされることになる。

(2012-11-27)


図師照幸の日本語を歩く (148)ために

(148)ために

日本から戻るとロンドンは寒かった。すぐに咽喉がやられ、頭が痛くなり、鼻水が出始めた。研究所で日本語を学ぶハンサムな英国人青年Pくんが、「大丈夫ですか」と優しいことばで心配してくれる。それを聞いていた腰痛のFJ先生がゴホン、ゴホンと咳をした。「あ、FJ先生も風邪ですか」とPくん。「うん、ちょっとね」と嬉しそうにFJ先生。「熱いお湯にレモンとはちみつとウイスキーを入れて飲むといいですよ、ぼくの80歳になるおばあちゃんはいつもそうしています。風邪がひどくならないために」とPくん。会話を聞いていた故郷の富士山を「ウチの山」と自慢するMYさんが「そう、そう、私のおばあちゃんもそうしていた」と口をはさむ。馬刺しが大好きな英国人のJA先生が「ソウイエバ、ウチのグランマも」と話題に加わる。さらにジャムパンを頬張るMN先生がにやにやしながら、「万国共通で、おばあちゃんはそれを飲むんだ、風邪のとき」とダメを押す。FJ先生が怒りの表情で真っ赤になる。「あ、熱もありそうですよ、FJ先生」とPくん。*「風邪がひどくならないために」はおかしい。「ために」にはいろいろな意味があるが、「ため」は本来「利益・幸福」を意味し、それらを期待するところから「目的」の意味に用いられる。よって、「風邪がひどくならない」というようなネガティヴな目的、いわば「予防」のような意味としては遣いにくい。このような場合は「ひどくならないように」がいいだろう。

(2012-11-20)


図師照幸の日本語を歩く (147)すっげえ気持ち悪い

(147)すっげえ気持ち悪い

日本出張から戻った。滞日中は忙しくて、本屋でゆっくり本を選ぶ時間がない。それでもわずかな時間を盗んで、日比谷のホテルの近くにできたばかりの本屋をのぞく。東京駅八重洲口の前にある大きな本屋の支店だ。少し期待できる。ビルの3階にあるその本屋に着くと、まずは、ある詩人の詩集を買おうとそのコーナーに向かう。ジャンルごとに整理された見出しに確かに「詩」と表示されているのだが、詩集なんて全くおいていない。コンピュータで店員さんに調べてもらう。「ありません」との答え。何しろ詩人の名前を何度も訊き直されるわけだから、その途中から、(まず、ないな)と諦めてしまう。雑誌コーナーに向かう。『ユリイカ』はありますか、と訊ねる。店員はスポーツ雑誌のあたりを探し始める。「いや、自分で探します」と文芸誌のほうへ向かう。ああ、とため息が出る。けれども、『ユリイカ』はあった。1冊だけだったけれど。もう時間がない。重松清の文庫本などは駅や空港で時間があいたときに買っておいたから、まあいいか。その重松清の『ビタミンF』にはせつない話が詰まっているが、中学生の娘が父親に向かって「すっげえ気持ち悪い」と云う場面がある(「パンドラ」)。飛行機の中でよみながら、慄然とする。あるいは、「やめろよ、マジかよ、なに考えてんだよ、信じらんねーよ、てめえ、ぜってー殺す、ばーか」という言葉を、自分に親切にしてくれる大人に向かって投げつける少年がいる(「ゲンコツ」)。「ムカつく」「キレる」といった言葉も同様に、暗く屈折した精神が透いて見える。この種の言葉をためらいなく、あるいは自然に遣える者たちはやはり病気なのだ。他の言葉が思い浮かばないという前に、そういった言葉に身をゆだねることに恥ずかしさも愚かしさも感じないのだ。しかし病気なのだから、「治る」という希望が持てないわけではない。けれどもまた、病気の自覚のない者はより重症になっていき、気がつくと孤立していくことになるのかもしれない。言葉は怖い。

(2012-11-12)


図師照幸の日本語を歩く (146)何

(146)何

Nくんが日本に帰るのと入れ替わりに、研究所で日本語を学ぶハンサムな英国青年のPくんが日本から戻って来た。「これでまた、腰痛のFJ先生の化粧品の消費量が2、3倍になるわよ、きっと」とジャムを塗っただけのサンドイッチをほおばる体育会系のMN先生がつぶやく。つい、ジャムが化粧品に思えて気持ち悪くなった。Pくんは日本がずいぶん気に入ったようだ。「FJ先生のお母さんには結局会えませんでしたが、お元気ですか」「ん、まあね。気にしなくてもいいのよ、母のことは、おばあちゃんだし……」「そうですか。FJ先生はお母さんが若い時の子どもだと聞きましたが。そのお母さんがおばあちゃんだとすると、……」「ん、……」 このPくん、研究所のスタッフにお土産をいろいろと買ってきてくれた。お土産を見せながら、「これ、何円(なにえん)だと思いますか」とジャム・サンドのMN先生に訊いた。「何ッ、なにえん?」 口からはみ出したジャムを器用に舌でからめとりながら、MN先生のまなざしが厳しくなった。ここで優しく教えると好感をもたれるチャンスだと思った腰痛のFJ先生が云った、「なにえんではなくてね、Pくーん、なんえんっていうんですよ、わかるー」 その言い方を聞いていたMN先生が、口に入れたばかりのジャム・サンドを吐きそうになる。「そうですか、でも、何新聞(なにしんぶん)とか、何者(なにもの)とかいうのはどうしてですか、FJ先生」とPくん。(日本でさらに力をつけてきたな、あな、あな、あなどれないぞ、これは)と身構える腰痛のFJ先生、「いい質問ですねえ、Pくーん。日本から戻って来たばかりだから、疲れているでしょ、今度教えてあげるからね」 それを聞いていたMN先生のジャム・サンドがぽとりと落ちた。*「何時(なんじ)」「何枚(なんまい)」「何個(なんこ)」のように、「なん」と読むときは後に続く語が数量の単位を意味しており、後に続く語の内容や、様子、あるいは名前などを意味するときは「なに」になる。「何」が単独で用いられるときは、「何」につく助詞で「なに」「なん」の読みを区別する。これは自分で整理してみよう。

(2012-10-08)

図師照幸の日本語を歩く (145)どんと

(145)どんと

Nくんはまだ、ロンドンにいる。なぜか、どうしたわけか、間違いなく、いる。もしかしたらぼくの感違いや錯覚ではないかと期待して朝を迎えるのだが、研究所のドアを開けると、いる。後、およそ10日ほどで日本に戻るのだそうだが、時間の経つのがこれほどまでに遅く感じられるのはどうしてだろう。体調、食欲、声量、視力、すべて絶好調の彼に比して、ぼくの頭痛も、胃の痛みも、不眠症も、耳鳴りも、フル回転で作動している。「センセーッ、オッハーッ!」(「先生、おはようございます」の意らしい)と迎えられる朝の恐怖は、ジェットコースターで逆さまに大地に突っ込むのではないかという恐ろしさよりも数段すさまじい。このNくん、こちらはまったく、絶対に、これっぽっちも望まないにもかかわらず、いろいろと話しかけてくる。「センセーッ、グワーッと日本人が来てましたヨー、スタジアム。ヤッパ、オリンピックですネエー」と、この種の言葉を聞くとぼくの頭痛薬が確実、着実に減っていくのだ。「メッチャ(とても、の意)混んでたんで、脇からどんとぶつかられて……。ほら、センセーッ、ここ、ここ。痣(あざ)になってるんとちゃうかなー、ちょっと見てくださいよ、センセー」とズボン(今はパンツというのだそうだ)を下ろしそうになるNくんを、ジャムを塗っただけのサンドイッチをほおばる体育会系のMN先生が、「おいッ」と右の人差し指をNくんの顔の前で振って制してくれた。腰痛のFJ先生も、「ッたく、もう、……」と云いながらNくんをにらむ。日本の、少食のTSさんから先日、「Nくんの帰国は、延ばしてもらってもかまいません、あと半年ぐらい……」といったメールが届いていたが、そうだろうなあ、TSさんも今、折角正常な毎日を送っているんだもんなあ。いや、冗談じゃない、そんなことしたらぼくの生命に関わる。*「グワーッ」「どんと」:擬声語・擬態語=「どんと駒子は体をぶっつけた。島村は一足よろけた」(川端康成「雪国」)はサイデンステッカー Seidensticker の訳では ̏ She threw herself against him. He reeled back a step or two.̋ となり、「どんと」は against のみで処理されている。bump against としないところが、名訳と称せられるゆえんか。擬声語・擬態語の類を無視した形で翻訳するのが、英語訳の特徴の一つと言えなくもない。

(2012-09-27)


図師照幸の日本語を歩く (144)気の毒

(144)気の毒

腰痛のFJ先生のお母さんは、日本の湘南に住む、ラジオ体操でいつも元気なお母さんである。娘のFJ先生が好感を持っているという英国人の青年がこの夏日本にやってきているというので、是非とも会いたいと思った。青年とは、研究所で日本語を学ぶハンサムな英国青年のPくんのことである。日本事務局の、少食のTSさんに頼んでアポイントを取ってもらった。Pくんに会う1週間前からFJ先生のお母さんはラジオ体操の回数を増やし、体を鍛え、体調を整えることにした。なぜ体を鍛えなければならないのかとか、ラジオ体操を一日に何度もやることが効果的であるのかとか、そういった疑問は寄せ付けないほどの殺気が、FJ先生のお母さんには漂っていた。いよいよ明日、東京の帝国ホテルで会うことになったお母さん、念のため今日は特別に5回もラジオ体操をすることにした。ところが4回目のラジオ体操をしていた午後4時29分、突然腰のあたりが不思議な音をたてた。すると、腰が下方方向に向かって落ちるような感覚に襲われた。ストン、と落ちた。運ばれた病院のベッドで天井を見つめながらお母さんは考えた、(もうラジオ体操は止めたほうがいいかもしれないな。今度からテレビ体操にしよう)と。このニュースを聞いた腰痛のFJ先生、私の腰痛は遺伝であるに違いないと確信した。傍らで、ジャムを塗っただけのサンドイッチをほおばるMN先生が「お気の毒ーッ」と楽しそうに叫んだ。*【気の毒】=「他人の苦痛・難儀についてともに心配すること。同情」(広辞苑・第五版)►【気の薬】=「心の保養になること。おもしろいこと」(同) MN先生の思いはこちらか。

(2012-09-10)


図師照幸の日本語を歩く (143)駄目

(143)駄目

少食のTSさん、研究所で日本語を学ぶハンサムな英国青年のPくんの滞日中はほとんど毎日、ランチ用の弁当を作ってやった。もちろん体育会系のMN先生が得意とする食パンにジャムを塗っただけのシンプルすぎるサンドイッチではない。心を込めて、卵焼きや塩鮭の焼き物、蓮根や里芋、鶏の旨煮、さらには炊き込みご飯の上に日の丸の小旗も立てた。この話、ロンドンに住む腰痛のFJ先生にも届いた。(ナニーッ、生意気なッ)と腰痛のFJ先生、腰に手を当てながら苦虫を噛み潰した。Pくんがロンドンに戻ってきたら、もっとおいしい弁当を作ってみせると意気込んだ腰痛のFJ先生、日本の湘南に住む、ラジオ体操でいつも元気なお母さんに料理の本を送ってくれと頼んだ。しばらくして届いた本は『独身男性が始める料理の第一歩』というものであった。本と一緒に、精神安定剤も入っていた。女心を大いに傷つけられた腰痛のFJ先生、しかしながら、母親の確かな観察眼に納得もしたのだった。「ご飯の炊き方」「包丁の持ち方」等々、なるほど、なるほどと、腰痛のFJ先生、素直にページをめくるのだった。そんな真剣なFJ先生を脇で見ながら、体育会系のMN先生が面白がった。「じゃあ、MN先生、包丁、ちゃんと使えるの?」「包丁なんて、持ってないもーん」「……」 ロンドンに出張中のNくんも、少食のTSさんのことが気になってしようがない。だいたい自分は、手作りの弁当なんて作ってもらった覚えがない。国内を一緒に出張するときのランチはたいてい駅弁で、少食のTSさんが1200円の豪華弁当で、Nくんはおむすび2個である。「センセー、もうぼく、駄目になっちゃいそうでーす」と嘆くNくんを、体育会系のMN先生が優しく慰めた、「大丈夫、大丈夫、いざとなったらFJ先生だっているからさ」 *【駄目】=囲碁用語。「好ましくない結果になること」(新明解国語辞典・第五版)►【駄目押し】=「親・先生たちの得意技」(図師)

((2012-08-30)

図師照幸の日本語を歩く (142)たら

(142)たら

研究所で日本語を学ぶハンサムな英国青年のPくんが、夏休みを利用して日本を旅行した。東京では少食のTSさんにも会った。「日本に行くんだったら TSさんに会ったらいいよ。東京をいろいろ案内してもらったら」とサンドイッチ作りに専念する体育会系のMN先生が助言したのだった。そのとき、腰痛のFJ先生は(余計なこと助言して)と心の中で舌打ちした。もしもTSさんに関心が移ったら どうするの、と不安になったのだ。この「移る」という言葉であるが、「だれから移るのか」は定かではない。ともあれPくんはTSさんに浅草や新宿、銀座など、いろいろと案内をしてもらった。一緒に居酒屋に行っては、ロンドンに出張中のNくんのごく日常の振る舞いを話題にしては大いに笑った。もちろんNくんのことばかりを話したのではない。日頃Nくんとは話せない文学や芸術の話、世界経済や中東問題を話題にしようと思ったが、中東料理と中華料理との違いがわからなくなり、これらの問題はまたの機会にしてと、もっと夢のある話題を選んだ。「もし宝くじで3億円が当たったら何がしたいか」と少食のTSさんはハンサムな英国青年のPくんに訊いた。日本の女性はユニークな人が多いなあと思いながら、「北アフリカの飢餓で苦しんでいる人たちに寄付をしたい」と答えた。それを聞いた少食のTSさん、あくる日から北アフリカの飢餓問題について必死で勉強を始めた。ただ、コンピュータのインターネットで飢餓問題について調べながらいろいろなお菓子を食べ続けるものだから、1週間で3キロ太った。TSさんからNくんへのメールもハンサムな英国青年のPくんのことで埋め尽くされている。飢餓問題についても書かれている。さらには、「世の中には食べ物や飲み水がなくて死んで行く人もいるのだから、決してぜいたくなものを食べたりはしないように。英国はポテトがおいしいのだから、それで十分よ」などと余計なことまで書き添えてある。事情を聞いた腰痛のFJ先生、その夜、サイダー(リンゴ酒)を飲みすぎて、腰痛が悪化した。
*【たら】=上記の文章中、「たら」が頻出する。一つ一つ分析すると、その働きに違いがあることが分かる。今回は読者諸氏への課題である。考えてみよう。

(2012-08-22)


図師照幸の日本語を歩く (141)内助の功

(141)内助の功

Nくんがロンドンにやって来た。出張である。前回はなぜかピョンヤン経由だったそうだが、今回はそういった危ない橋は渡らなかったようである。そう云うと、「何云ってんですかー、センセー。ぼくだって飛行機でやって来たんですから、橋なんか渡ったりしませんよー」と笑顔で応えるのだった。彼が到着した日から、なぜか頭痛がする。胃も痛い。日本で留守番するTSさんからは何度もメールが送られてくる。「無事着きましたでしょうか」「元気でしょうか」「きちんと食べているようでしょうか」「気温の差があって風邪などひいていないでしょうか」「歯は毎日磨いているでしょうか」「休む前にちゃんとおしっこはしているでしょうか」などなど。大したもんだ。将来の夫に対するきめ細かい心配りに、めまいがするほどだ。「Nくんはああ見えて繊細ですから、そこのところよろしくお願いします」「Nくんは一日10時間以上もパチンコの機械に向き合うことができるぐらい粘り強く、生真面目でコツコツがんばるほうですから」「Nくんは脚は短いですがそのぶん胴が長いので、安定感があると思いますし」「いつもゲームで遊んでいますので、コンピュータにも強いと思います」 いやはや、Nくんの長所(らしいこと)のオンパレードである。Nくんとギネスを飲みながら、「君は幸せだねえ。こんなに君のことを心配し、応援してくれる人がいるんだから」と手元の紙に「内助の功」と書いて、「まだ結婚しているわけではないが」とそれを見せた。いやあ、と照れながらNくん、小さな声で呟いた、「ウチスケのイサオ……」 *【内助の功(ないじょのこう】=「内部から与えられる援助。特に、妻が家庭内にいて夫の働きを助けること」(広辞苑)。TSさんは家庭にいるわけではないが、そういった思いやりを感じさせるメールが続くのだった。Nくん、確かにコツコツと貧乏ゆすりの音を響かせながら、コンピュータに肘をぶつけてもその痛みに耐える強さを持ち、頑張っている。

(2012-08-15)

図師照幸の日本語を歩く (140)一旗揚げる

(140)一旗揚げる

ロンドン・オリンピックの真っ只中である。日ごろでも様々な言語の飛び交うロンドンであるが、オリンピックが始まってからは、本当に凄まじい。ところで、サッカー(英国ではフットボールというのだが)の試合の際、北朝鮮の旗と韓国の旗を取り違えたというミスが話題になった。かんかんに怒る北朝鮮の役員の気持ちもわかる。もしイギリスの旗が揚がるところでフランスの旗が使われたら、プライドの高い英国民は激しく怒るであろう。この旗であるが、海外で暮らすぼくには、日本の国旗はとても美しく感じられる。やはり、理屈抜きに胸を打つのだ。戦争という悲惨な歴史と日の丸との関係についてもよく理解しているつもりだが、ならば朝日新聞はなぜ社旗を変えないのか、などと思ってみたりもする。日本の下やんが逐一、日本選手の活躍をメールで知らせてくる。今オリンピックが行われているところが、ぼくの住むロンドンだということがよくわかっていないようである。この下やん、いつか一旗揚げてみせると頑張っている。還暦を過ぎた今も、その意欲は衰えていない。下やんの口癖である「一旗」を幼いころから聞き続けたお嬢さんのさくらちゃんは、「一旗」のことを最初は、お子様ランチのチキンライスの上に載っているあの小さな旗だと思っていた。私のお父さんは自分にお子様ランチを食べさせるために懸命に働いてくれるのだと涙が出たのだった。けれどもその旗を、隣に座るお母さんがさっと捨ててしまうのを見て、頭の中が混乱し、この混乱が大人になることなのかなと納得しようと努めたのだった。そのうちに、お父さんの言う「一旗」が、アメリカ大統領のお嫁さんになりたいとか、アカデミー賞の最優秀主演女優賞を取りたいとかいう私の夢と同じものだとわかった時、別の種類の涙が出たのだった。*【一旗揚げる】=「奮い立って新たな運命をひらく。新しく事業などを起こす」(広辞苑)。私はこの旗を揚げることで、自分の夢を実現するために努力することを誓うぞといった意味なのだ。

(2012-08-02)

図師照幸の日本語を歩く (139)目から鱗(うろこ)が落ちる

(139)目から鱗(うろこ)が落ちる

少食のTSさんは読書家の才媛でもある。最近読んだものだけでも、「寿司屋のかみさん うまいもの暦」、「鮨屋の人間力」、「食べなくても食べた気になるグルメ道」、「同僚にムカつくときのバカ食いのすすめ」、「漱石は何を食べていたか」「愚かな男を操縦する力をつけるビタミンの取り方」「牛肉と豚肉とどちらが美容に効くか」、などなど。大したもんだと感心する。同僚のNくんだって負けてはいない。TSさんが読書に没頭するわきで、「かっぱ巻きを鉄火巻きだと思い込んで食べる賢いすしの食べ方」「自分のお金を払わずに鮨を食べる会話術」「同僚にお金をかけずにプレゼントするケーキ店の無料サービス情報」「何を食べれば脚が伸びるか」などを読むのだ。二人を見ながら下やんがつぶやく、「まったく、最近の若い奴はろくなもん読まないなあ」と。下やんの手には「何とか残す最後の努力 日本毛髪協会」が握られている。「マクラノソウシ」といえば、「2週間に一回はコインランドリーで洗ってます」、「セマキモン」といえば、「もう受験勉強はこりごりですよ」、「ヘンシン」といえば、「そんなあ、もうぼくたち大人ですよ」と返ってくるのである。いやはや、大したものである。そして、それぞれの者たちの口癖が、「いやあ、目から鱗が落ちますね」というもの。数ページ読んでは、「目から鱗が……」の声があちこちからもれてくる。いったい目にはどれほどの鱗が入っているものなのか。恐る恐る訊いてみた。「その〈目から鱗〉だけれどね、どうしてそう云うかはもちろん、知っているんだよね」 三人が瞬間、顔をあげる。TSさんが「いまちょうどいいところなので、先生」、「そうですよ、邪魔しないでくださいよ、読書の時間を」とNくん、「そりゃあ、そうだよね、読む時は読む、食べるときは食べる、飲むときは飲む、寝るときは寝る、といったけじめが大切だよね」とよくわからない言葉でまとめる下やん。なるほど、そうか、そうだよね、そうだよ、そうだよ、あはは、ハア……。*【目から鱗が落ちる】=出典は新約聖書。イエスの弟子を迫害していた男が失明するが、その弟子が男に触れると、鱗のようなものが目から落ちて視力が回復したとある。「あることをきっかけとして、急にものごとの真相や本質がわかるようになる」(広辞苑)

(2012-07-25)

図師照幸の日本語を歩く (138)柄(がら)

(138)柄(がら)

O市の市長が市職員の入れ墨(刺青・いれずみ)は公務員としては許されないと怒っている。市の児童福祉施設の男性職員が子どもたちに腕の入れ墨を見せて威嚇していたことからその怒りが始まったという。なるほどぼくも、入れ墨はあまり好きではない。ピアスにしてもそうだが、痛そうなのだ。注射一本に逃げ回るぼくには、とても恐ろしい。だが、しかし、である。ぼくの住むこのロンドンでは、tattooと称するファッショナブルな入れ墨はまったく珍しくない。猫も杓子もしているのである。(これは少し大袈裟だった、いまだ入れ墨をした猫は見たことはない。) 日本出張の際、定宿にしているホテルの理髪店で髪を切った。本当は切るのではなく増やしてほしいのだが、それはさておき、理容師さんが「ついこの前、あのサッカーのベッカムさんの髪を切りましたよ、ここで」と話してくれた。同じホテルに泊まっていたらしい。ということはである。ベッカムはこのホテルのスパを利用したのかな、とつい気になった。このホテルのスパは、熱海からわざわざ温泉の湯を運んでおり、売り物の一つなのだ。だが、である。あの全身にものすごい入れ墨をしているベッカムははたして、スパに入ることが許されたのだろうか。「入れ墨お断り」の表示があったように思うが。入れ墨をしている人は「ガラが悪い」とみなされる。ガラ、柄である。九州の地方自治体から講演を依頼され、出張した折、Nくんと温泉に入った。できれば同じお湯には浸かりたくないと離れた所にいたが、逃げても逃げても追いかけてくるNくんの背中にゴミか何かが付いているのに気付いた。目を凝らすと、文字が書いてある。な、な、なんと、Nくんは入れ墨をしているのか、と驚いたぼくは叫んだ。「き、き、きみは……」「白身の中でーす」「き、きみは、入れ墨なんかしているのか、柄が悪い。不真面目だッ」「センセー、よく見てくださいよーッ、ぼくは不真面目なんかではありませーん」 背中を向けたそこには「まじめ」と平仮名で書かれていた。しかも、「ま」の文字が半分剥がれかかっていた。安っぽいシールを貼っていたらしい。*【柄(がら)】=「①なり。体格。②その人の地位・能力・性格・品位など。③織物などの模様。④(接尾語的に)そのものの性質や置かれている状況」(広辞苑)。②の基準は曖昧で、「柄が悪い」とは言うが、「柄が良い」とは言わない。海辺のサングラスはいいが、職場でのサングラスは「柄が悪い」ということになる。基準や枠をはみ出すかどうかが問題で、いかにも日本的語である。

(2012-07-18)

図師照幸の日本語を歩く (137)大の女

(137)大の女

少食のTSさんがため息をついている。いや、食べ過ぎたのではない。TSさんは何しろ少食だから、先ほどの昼食も、おむすびを5個とコロッケを4個、それにバナナを3本とゆで卵を2個で、軽くすませたところだ。せっかくきれいに5・4・3・2とまとめたが、最後の1を何にするかで迷っているのである。イチゴのケーキにするか、ドーナツにするか。イチゴのケーキは下やんの奥さんの手作りだそうで、「毒でも入っているといけないのでオレは食べないから、あげるよ」とくださったもの。ドーナツは、ドーナツ屋さんを開店したばかりのNくんのお兄さんが奈良から送ってくれたもので、これを食べないとNくんの機嫌が悪くなる。どちらも曰く因縁があるのである。ため息が8回を数えたところでNくんが云った、「たかが食べ物ぐらいで、大の女が深刻にため息なんかつかないでほしいなー」と。少食のTSさんはまた、素直な女性でもある。「そうだよね」と云うと、二つともぺろりと平らげたのだった。*大の女=誤用。【大の男】は、「一人前の男のことを強調していう語」(広辞苑)。では、「一人前の女のこと」を「大の女」とはなぜ、いわないのか。この「一人前の男」と「一人前の女」とでは、その語の意味するところが何となく違うようなのだ。「一人前の男」のほうは社会的に自立したというような意味になるが、「一人前の女」には身体的、肉体的な成熟の意味合いが生まれてくる。さらに、「大男」と「大女」とでは明らかに、「大女」には侮蔑の意味合いが感じられる。いやはや、何とも困った日本語である。

(2012-07-11)

図師照幸の日本語を歩く (136)親分

(136)親分

日本エッセイストクラブ賞を受賞した作家の黒川鍾信さんが、いろいろな作品の中にぼくを登場させている。『神楽坂の親分猫』(講談社)もその一つ。日本出張中のぼくは、東京・神楽坂のしっとりとした、ある和風の家に泊まる。ぼくはそこで最も広い、二間続きの、映画監督の山田洋次さんの仕事部屋で寝起きするのであるが、そこに一匹の猫が登場する。その猫の目を通して、そこをうろうろするさまざまな人間を面白おかしく描いた快作である。山田さん以外に、作家の野坂昭如、中島らも、村松友視、漫画家の滝田ゆう、ノンフィクション作家の本田靖春、歌手の氷川きよし、映画監督の内田吐夢、エッセイストの青木雨彦、落語家の金原亭馬生、などなど。そういった錚々たる兵(つわもの)と一緒に取り上げられ、大いに恐縮しているぼくはいつも、「ジェントルマン」として描かれる。そのためぼくは、布団の中でも両手をそろえて行儀よくしている。お風呂は一つの岩風呂に交代で入るのだが、ぼくにはいつも一番風呂があてがわれる。ある夜、11時過ぎに戻ったぼくに女将さんが云った、「センセー、お風呂をどうぞ。皆さんを待たせていますから」と。そしてさらに、「他の人が入るとお風呂が汚れますから」と大きな声で云ったのだった。無論すべての部屋に聞こえただろう、何しろ襖(ふすま)で仕切られただけの部屋なのだから。*【親分】仮親ともいわれ、頼りにする。「親方」ともいうが、「親分」には任侠のにおいがする。職人仲間のかしらは「親方」と呼ばれる。

(2012-7-3)

図師照幸の日本語を歩く (135)トシマ

(135)トシマ

【初老】ということばについて広辞苑は、「①老境に入りかけた年ごろ。②40歳の異称」と書く。「これはおかしい。ずーと昔の時代の定義だ」と憤ったのは、FJ先生とMN先生とMY先生と……。無論、純粋にことばの定義についての異議申し立てである、アカデミックな立場から、たぶん、おそらく、きっと。盛り上がっていたそのとき、研究所で日本語を学ぶハンサムな英国青年のPくんがやって来た。腰痛のFJ先生の腰が少しだけ回復する。「Pくん、質問ですか。他の部屋でじっくり説明しましょうか」「いや、一つだけですから」「そーお。遠慮しなくてもいいのに……」「赤川次郎の小説を読んでいたら、年増ということばが出てきたんですが……」「トシマ? 地名ですか?」「いや、どうでしょうか? 一年、二年のネンに、増えるという字を書くんですが……」「……」「電子辞書を家に忘れてきたので文献室に行ったら、TD先生が、そのことばだったらFJ先生かMN先生に訊いた方がいいよって、おっしゃったので……」「なにッ。TD先生が?」 FJ先生とMN先生のことばがきれいに重なる。「どういう意味なんでしょうか」「あッ、わたし、早くサンドイッチを食べないと、講義が始まるわ」と云ってMN先生がキッチンに消える。今日もジャムを塗っただけの特製サンドイッチらしい。「あッ、わたしも……」「他の部屋でじっくり説明してもらった方がいいでしょうか」 *【年増】娘盛りを過ぎて、やや歳をとった女性。江戸時代には20歳過ぎを言った。(広辞苑・第五版)**娘盛りを大分過ぎ、女盛りにある婦人の称。江戸時代は二十代の後半、昭和に入ってからは三十代の後半を指した。現在では花柳界以外ではあまり用いられない。(新明解・第五版)

(2012-6-20)

図師照幸の日本語を歩く (134)大食漢

(134)大食漢

5月の日本出張の際、友人に訊かれた、「最近、エヌさんはお元気ですか」。一瞬、エヌさんとは誰のことだろうと考えた。「えぬ」というペンネームの、詩を書く仲間(某国立大学の学長を務めた)がいたが、彼のことではないだろう。友人は笑いながら、「ほら、あの、面白い……」とぼくの肩をたたいた。たたかれないと思い出すことができないくらいぼくは年老いたのだろうか。あ、そうか、Nくんのことか。「さん」と「くん」とではかくもイメージが違うのか。そういえば最近、Nくんがおとなしい。いや、本人は困ったことに、いたって元気なのだが、これまた困ったことに、本部の先生方も負けず劣らずぼくの感覚を混乱させるので、Nくんの登場する機会が少なくなっていたようだ。いやはや、すこぶる元気なのだ、NくんもTSさんも下やんも、困ったことに、本当に。NくんとTSさんと3人で、神楽坂の焼肉屋さんに行った。個室に通されるや否や、Nくんの闘いは始まった。1時間ほど経過して、「いや、もうお腹いっぱいだ」とぼくがデザートのシャーベットを注文したとき、Nくんはカルビ3人前と、ロース3人前を追加注文したのだった。そのときすでに彼は、20人前(皿)の肉を平らげていた。カルビ、ロース、タン、……。追加注文を聞いていたTSさん、「わたしはもういいわ」としとやかに云った。TSさんはそのとき、12人前ぐらいを召し上がっていた。さすが少食のTSさんである。その風景に吐き気と寒気を覚えたぼくはひたすら二人の食事が早く終わることを願った。「先生、日本の焼肉は口に合いませんか。1人前しか召し上がってませんが。まあ、ぼくたちは少し大食漢ですからねえ、少し。アハハ、……」 *大食漢:あくまで男のおおぐらいの者についていうことば。なお、この話、実話である。

(2012-6-13)

図師照幸の日本語を歩く (133)好きと嫌い

(133)好きと嫌い

ハンサムなPくんは研究所で日本語を学ぶイギリス人である。Pくんの日本語力は目覚しく上達しているが、それはPくんの探究心によるところが大きい。漢字一つを覚える際にも、「どうしてこの字がこのような意味を表わすのだろう」と考えるのだ。象形文字はわかりやすかったが、会意や形声となると難しく、考え込む姿が目立つようになった。日本語を教える腰痛のFJ先生に言わせると、そのPくんの表情がなんともいえずイイのだそうだ。漢字講座を担当するサンドイッチ作りのうまいMN先生がPくんの質問を受けることが多くなって、それが腰痛のFJ先生には少し面白くない。今日もMN先生がいつもの、食パンにイチゴのジャムを塗っただけの(MN先生に言わせるとシンプルかつ上品な)サンドイッチを頬張っているところへPくんが現れた。「うわッ」というMN先生と、「オー、ノー」というPくんの声が重なったのは、MN先生自慢のサンドイッチからはみ出したイチゴジャムがMN先生の顎から下に滴っていたからである。チャンスとばかりに腰痛のFJ先生が云った、「今、MN先生はお食事中だから、わたしが……」「そうですか。あのー、〈好き〉という漢字と〈嫌い〉という漢字についてなんですが……」「うん、うん。〈好き〉というのはこう書いて、〈嫌い〉はこう書きます」「いや、字はわかるんですが、それぞれなぜこの字が〈好き〉で、この字が〈嫌い〉という意味になるか、教えて欲しいのですが……」「あ、あ、そう。MN先生、もうすぐ食事が終わると思うから、後でまた来てくださいね」 *〈好〉は会意で、[女+子]。慈しみ、好む対象としての女と子が組み合わされている。〈嫌〉は形声で、音符は兼。女が二人集まった様であるが、それがなぜ嫌ったり、疑ったりする意となるのか。わかるような、わからぬような。

(2012-6-6)

図師照幸の日本語を歩く (132)せまい

(132)せまい

ハンサムなPくんは研究所で日本語を学ぶイギリス人である。Pくんが入学してきてから、腰痛のFJ先生の服装が変わった、と料理の得意なMN先生が面白がっている。今日も食パンにジャムを塗っただけのサンドイッチと称するランチに舌鼓を打ちながら話題にしている。腰痛のFJ先生、きのうの放課後、研究所の近くにあるO2ドームにPくんを誘ったのだそうだ。O2は世界のスーパースターたちがコンサート等を催す英国屈指のイベントホールだが、中には数多くのレストランも入っている。その一つ、お寿司ののったお皿が動いてくるお寿司屋さんに腰痛のFJ先生はハンサムなPくんを招待した。Pくんはできればお皿の動かないお寿司屋さんの方がよかったが、ご馳走してもらえるのだから贅沢はいえない。腰痛のFJ先生、レストランに行く前に家に戻り、洋服を着替えてきた。10年前のものだったがほとんど新品で、華やかなイエロー地に大胆な花柄といったお気に入りのワンピースである。ある事情があり、ここ7、8年、着ることをやめていたが、昨日はこれを着るぞと決意していたのだった。なんとかその事情を乗り越えて、レストランにやってきた。二人仲良く並んで食事を始めたのだったが、いつもは他の人の5倍ぐらいは皿を積み上げる腰痛のFJ先生、どうも調子が悪い。「センセー、どうしたんですか。おいしくないんですか」「いや、わたしは、少食でね。気にしないでどんどん食べなさい。あ、その皿ね、一番高い色の皿ね。いや、いいのよ、でもその色ばっかりじゃなくて、いろんなものを試してみたら?」 Pくんの前にはどんどん皿が積み上げられていく。腰痛のFJ先生はほとんど食べていないにもかかわらず、ワンピースのボタンがはじけそうになっている。「センセー、ご馳走様でした。きょうはエセックスのママと一緒にレストランに来た子どもの時のことを思い出しました。ママは家ではたくさん食べるのに、レストランではあまり食べないんです。たぶん、狭いドレスを着るからだと思いますが、……」 プチッとボタンの飛ぶ音がした。* 狭い:面積や幅が小さくてゆとりのないさまに使う。立体には使えない。「窮屈な」という意味で使ったのだろう。

(2012-4-16)

図師照幸の日本語を歩く (131)うるさい

(131)うるさい

研究所で日本語を学ぶイギリス人のハンサムなPくんは日本の歌も好きだ。それを聞きつけた腰痛のFJ先生、Pくんに話しかけた。「Pくん、日本の歌が好きなんだって? 日本の歌のことは何でもわたしに訊きなさい。わたしは日本の歌に関してはちょっとうるさいのよ。だれの歌が好きなの? ひばり? 美智也? それとも、春夫かしら?」「あのー、ぼくの好きなのはEXILEとかなんですけど……。先生がおっしゃっているひばりとかいうの、最近のでしょ、きっと。新し過ぎてぼく、わかりませーん。それから、先生、どうしてうるさいんですか? コンサートで踊ったりして騒ぐんですか? すごいですねえ」 二人の会話を聞いていたMN先生が優しい微笑を浮かべながら云った、「そう、FJ先生、春夫の歌に合わせて踊るの得意なのよ。特にオリンピックのときなんか」 腰痛のFJ先生、キッとMN先生を睨みつけながら、「あ、そう、エクササイズが好きなの。わたしもちょっと好きだけれど、……」 すかさずMN先生が云う、「そうそう、FJ先生、エクササイズが好きなのよ、腕立て伏せとか」 *うるさい:「煩い」あるいは「五月蠅い」。同じことが繰り返されて、嫌になることをいうが、転じて、嫌になるほど隙のないすぐれた状態にも使う。

(2012-4-16)


図師照幸の日本語を歩く (130)くせに

(130)くせに

研究所で日本語を学ぶイギリス人のPくんの好物は納豆である。甘納豆ではなく、あのネバネバした、いかにも外国の人が敬遠しそうな納豆である。ロンドンにある居酒屋にいくと、まず注文するのがこの納豆。研究所で日本語を学ぶイタリア人やフランス人の友人はそのため、Pくんの傍に座るのを嫌がる。匂いが苦手なのだ。日本語を教える腰痛のFJ先生はそのPくんがお気に入りで、となりにはいつも腰痛のFJ先生がサロンパスの匂いを漂わせながら座ることになる。ハンサムでかっこいいPくん、気持ちも優しく、腰痛のFJ先生にも笑顔で話しかける。「ぼくはイギリス人のくせに納豆が好きなんですが、センセーは女のくせにお酒が好きですねー」「な、な、なによ。女のくせにって。女だって、お酒の一升や二升、普通呑むのよ、最近は」「センセーは最近の女でしたかアー。そうでしたかアー」「きみね、そのアー、と延ばすのをやめなさい。それから、〈くせに〉ということばは相手を非難するときに使う言葉だから、私のような繊細な女性に使うのはいけないのよ」 腰痛のFJ先生、6杯目のコップ酒をあおりながら、先生としての威厳を持って注意する。Pくん、少し緊張して訊く。「センセー、繊細って、なんですか? 強いとか、怖いって意味ですか」腰痛のFJ先生の持っていた割り箸が折れた。*くせに=非難の意があるため、通常は自分のことには使わない。自分のことを言うときは「なのに」の方が適当。もちろん相手に向かって言うときはよほど注意して使わないと、失礼になる。

(2012-3-28)

図師照幸の日本語を歩く (129)槍が降ろうが

(129)槍が降ろうが

研究所で日本語を学ぶイギリス人のPくん、日本に行く計画を立てた。今年の夏のホリデーの2週間を日本観光で楽しもうというわけだ。オックスフォード大学を卒業し、英国のメディアで働く彼は32歳、大の日本ファンである。着ている物はほとんどユニクロで、ランチは自分で作ったおにぎり。バスタブには日本の温泉の入浴剤(粉末)を入れる。昨夜は指宿(いぶすき)のお湯にしたそうだ。奥さんにするのは日本人女性以外は考えられないとも宣言している、無謀なことに。とにかく徹底した日本マニアなのである。しかし、Pくん、まだ一度も日本に行ったことがない。そこでようやく今年、日本旅行を計画した。そのために綿密な計画を立てた。何しろ勉強好きなPくんである、この数ヶ月で日本に関する30冊近くの解説書を読破した。ところが最近、憂鬱なPくんである。昨年の大地震と津波はこのロンドンでも大きく報じられた。そして最近、大きな地震が近々また、起きそうだというニュースが報じられ、Pくんの母親が日本に行くのに反対しているのだ。Pくんが日本語を教える腰痛のFJ先生に云った、「ぼくは、雨が降ろうが槍に突き刺されようが、絶対ッ、日本に行きます」と。FJ先生は腰をさすりながら励ました、「大丈夫、誰も槍で君を突き刺したりしないから。危ないし、痛いし」と。*雨が降ろうが槍が降ろうが=no matter what/which/when/why/how の意。直訳すればeven if rain falls or spears fallか。どちらも〈降ら〉ないとことばとしてのリズムがなくなる。

(2012-3-21)

図師照幸の日本語を歩く (128)朕(チン)

(128)朕(チン)

漢字の得意なNくんである、そうだ。自分で云うのだから間違いないだろう。優しいTSさんが敬意をもって訊ねる、「常用漢字っていうのがあるじゃない?」「えッ、ジョウヨウカンジ? ああ、ジョウヨウカンジね、ジョウヨウね、ジョウヨウ、……。」「どうしてね、朕という漢字が含まれているの?」「えッ、なにッ? チン? チンって、……。あッ、そりゃあ、おかしいことないよ、世の中には珍しいと思うことがたくさんあるからね、そんな時、珍という漢字があった方が便利だしね」「いや、そのチンじゃなくてさ」「なに、じゃあ、どのチンだよ? ……、えッ、TSさん、そりゃあ、いけないよ、一応女性の君が、恥ずかしげもなくそんなこと、云っちゃあ」「なに? えッ、なに云ってんのよ? そもそもそのチンって漢字、あるの、常用漢字に?」「えッ、どのチンさ?」「いやだあ、淑女の私に云わせるの? セクハラだわ、これ。それになによ、一応女性って?」 勤務中の会話である。二人の会話を聞きながら、下やんが鼻毛を抜いている。*朕(チン):天子(天皇)の自称。「私」の意味。憲法に使われているため、常用漢字に入れる。「印」の意味の「璽(ジ)」も同じ理由で収める。

(2012-3-6)

図師照幸の日本語を歩く (127)議員の日本語

(127)議員の日本語

日本出張中のぼくは、国会中継とニュース以外のテレビ番組はほとんど見ない。かつてはいろいろ見ようとする意欲があったのだが、あまりに面白くなくて、貴重な時間がもったいないと思うようになったのだ。国会中継を見るのも無駄といえば無駄だが、テレビに映った議員たちの表情を見、ことば遣いを聞いていると、これはコメディ番組かなといったおかしさがある。主役の質問者と答弁者の他にも、楽しむ材料がいろいろあるのだ。たとえば、質問者の傍に座る議員たち。テレビに映っていることを明らかに意識したその表情は拍手をしてあげたくなるほど緊張していて、実にいい。録画していて後で見るんだろうなあ、有権者の目も意識しているんだろうなあ、と思わせるくらい表情に力が入っている。主役の議員たちよりも疲れるのではないだろうか。かと思えば、テレビには映らないだろうと思われるところに陣取る議員の中には、時たま議場の様子を映すテレビカメラが、コックリと舟を漕ぐ姿や太い指が顔の中央に胡坐をかく鼻の穴の清掃にいそしむ様子をしっかり映すことがあるのに気付かぬ者もいる。カメラマンがそういったものだけを狙って中継する番組を作ったら面白いだろうなあ。議員を叱咤激励する投書よりも効果があるのではないだろうか。さて、この議員さんたちがよく用いる用語(漢字)の読み間違いをいくつか紹介する。■①早急に=「そうきゅう」が多いが、もともとは「さっきゅう」が正しい。今は許容。②依存=「いそん」。「いぞん」はやや許容。③既存=「きそん」。「きぞん」とは読まない。

(2012-2-29)



図師照幸の日本語を歩く (126)別に

(126)別に

いつだったか、ぼくが日本に出張しているときだった。売り出し中の女優さんが、インタビュアーの質問に、無愛想に「別に」と応えたその態度が問題になっていた。テレビなどのメディアでは、いわゆるバッシング bashing が連日繰り広げられた。「生意気だ」というのである。その過剰な報道振りの方がぼくには奇異であったが、いずれにしてもなんと平和なことかと思ったのだった。その女優さんが飛びぬけて美形であったことが、そうではない女性を中心として反発の対象となったのだと自称・芸能評論家としてのNくんが解説する。なるほど(コンビニで)週刊誌を何誌も丁寧に読み込むNくんのことばには、そんなことどうでもいいよと関心のなさを正直に表すことを許さぬ(困った)迫力がある。「ところで、この〈別に〉を、〈特に〉に言い換えたらどうだろうか」とNくんに訊いてみた。「いやあ、センセー、なに云ってんですかあーッ、E様は〈別に〉と云ったんですよおーッ」「いや、だからね、それをたとえば〈特に〉と云っていたらどうなってたんだろうなあ、と思ってね」「何で今、〈特に〉について考えなければならないんですかあーッ。そういうとこ、センセーの悪い癖ですよおーッ、ホント」「……」 そばにいたTSさんに「君、どう思う?」と訊いてみた。TSさんがニコッと笑って応えた、「別に」と。すると、 Nくんがすかさず云うのだった、「TSさんの場合は、反発されないからいいんですよ、誰からも。ねッ、TSさん?」 TSさんが握っていたボールペンが二つに折れた。■「別に」も「特に」も、「特別には……ない」を縮めたことばだが、「特に」は「特に日本酒が好きです」などと後に肯定表現を持ってくることができる。「別に」がやや意固地になって、拒絶や拒否のニュアンスがあるのに対して、「特に」にはそれほどの感情を感じない。

(2012-1-17)

図師照幸の日本語を歩く (125)渋い

(125)渋い

明けましておめでとうございます。今年も日本語の世界を楽しく歩きたいと思います。■大晦日、Nくんは紅白などは見ない。神社に行き、手を合わせ、頭を垂れる。賽銭だって奮発して50円玉を、さっと、少し未練を感じながら放り込むのだ。隣の男がひらひらと紙幣を入れようとするのをみると不愉快になり、自分のお願いしたものが後回しにされるのではないかとちょっと神様を疑ってみたりもする。初詣がすむと、初日の出を迎えるために山に登る。今年はTSさんも誘って連れてきた。初日の出を山に登って迎えるという自分はなかなかシブいと胸を張るNくんだったが、TSさんがヒールのある靴で息も切らせずさっさと登っていくのをみて大いに自尊心が傷ついた。確かに周りを見るとみんないやに軽装なのだ。赤ちゃんを乳母車に乗せて押している女性もいる。いくら15分程度で頂上に着く程度の山(丘?)とはいえ、ムードというものがあるだろう、とNくん、舌打ちをする。頂上には売店もあって、TSさんに何か買ってあげるとするか、と気持ちを変えようとするNくんだったが、紙コップに入ったインスタントコーヒーが1杯で800円というのに驚き、「きっとまずいよ、あんなの」とやや頬を引きつらせた笑いで買うのをやめる。TSさんはご来光を拝みながら心の中でつぶやくのだ、Nくんってシブいなあ、と。■シブい(渋い)というこの言葉は若者もよく使う。もともとは渋柿のあの味を意味するが、「渋い顔をする」「金払いが渋い」などのネガティヴなものの他に、「なかなか渋いいい声だ」とか、「渋い色のいい着物だね」などとポジティヴな場合にも用いる。

(2012-1-10)

図師照幸の日本語を歩く (124)可能性・危険性

(124)可能性・危険性

Nくん、実は少林寺拳法の有段者である、そうだ。そういえばどことなく格闘技をたしなむ風情がある。たとえばOの字に器用に曲げられた短い脚などはいかにも、とうならせる。あまり見かけなくなったかつての電信柱が一本、きれいに通り抜けることができそうな見事なO脚である。この凛々(りり)しいN君のすがたにいつも笑っている、いや見とれているTSさんであるが、気になることがある。豪放かつ小心な下やんと三人、居酒屋でお酒を呑んだりしたときに、酒癖の悪い見知らぬ客などが変にからんでくることがある。そういう時はまず下やんが、「いい加減にしろッ!」と相手を怒鳴りつける。先輩の貫禄である。相手が「すみません」となれば、下やんが「わかればそれでいいんだよ」とさらに貫禄を見せる。「なにをーッ」とくると、下やん、Nくんにさっと交代する。先輩の貫禄である。Nくん、さすがに、脚に、いや腕に自信があるからか、じっと相手を睨みつける。そのときTSさんは思うのだそうだ、相手を傷つける可能性があると。もし傷つけたら大変だと心配するのだ。大抵はこのあとNくんがにやっと笑って、「すいませーん」といっておしまいになるのだが。■「相手を傷つける可能性」は「危険性」の方が適切。「成功する可能性」とはいい、可能性には期待感が多くの場合含まれる。

(2011-12-14)


図師照幸の日本語を歩く (123)落語家・噺家

(123)落語家・噺家

落語協会の会長を務める柳家小三治は自分のことを噺家といい、談志は落語家といった。「小三治」は名の通り、柳家の留め名である「小さん」の次の名であり、通常ならば小三治が小さんを継ぐ。しかしながら5代目小さん(人間国宝)のあとは小さんの息子が継いだ。この6代目の襲名披露(新宿末広亭)にはMN先生やNくん、TSさんも連れて行った。滞日中の貴重な時間を使ったというわけだ。けれども、この6代目、さっぱりなのだ。彼の著書『ぜいたくな落語家』は末広亭で売られ、一番最初にぼくが、あの愛すべき橘家圓蔵(もと月の家円鏡)から買った。が、少し読んだら面白くないので止めた。小三治は、いい。かなり、いい。やはり小三治が継ぐべきだったな、と思う。まあ、そんなことはどうでもいい(が、少しこだわってもいる)。6代目だって、きっとうまくなる(はずだ)。問題はこの噺家という言い方と落語家という言い方のどちらが適切かということである。談志にはそれほどのこだわりはないようだが、小三治は「自分は落語家というより、噺家だ」とこだわっている。落語のことを初め「オトシバナシ」と読み、明治中期より一般に「ラクゴ」と読むようになったというのが広辞苑の説明である。いわゆる「落ち」のある話である。小三治がこだわる「噺家」ということばの響きには職人の香りがする。天才・談志と職人・小三治、それにやはり亡くなった名人・古今亭志ん朝、あ、それから自ら逝った関西の鬼才・桂枝雀の四人会なんて落語会があったら最高だろうなあと思う。今となったらかなわぬ夢だ。あちらの世界ではできるかな、いやまだ小三治が残っているから、あちらでも無理だ。では何とか、小三治にも頑張って、早く向こうに行って貰わねば、……。いや失礼。

(2011-12-06)

図師照幸の日本語を歩く (122)馬鹿

(122)馬鹿

どうもいけない。体調がすぐれない。酒もやめてまさに静養に努めているのだが、一月経っても少し歩いただけでふらふらしてしまう。もっとも、講義やゼミの間は何とかなるのが不思議である。ま、大したことはないだろう、若いのだから。■談志が死んだ。落語家・立川談志がついに死んだ。ついに、というのはやや不謹慎だが、談志はここのところの高座ではいつも、「これが最後になるかもわかんないよ」などといっていたのだ。毎週一席ずつ談志の落語をDVDで楽しんでいたぼくは、この前の日曜日にロンドンの我が家で、一人で追悼落語会を開いた。演目は「居残り佐平次」と「芝浜」。そして、しんみり。■その死ぬ間際の談志に、石原慎太郎(都知事・作家)が電話をかけた。声の出ない談志に「おい、談志。おまえもそろそろくたばんだろ、ざまあみろ」と語りかけ、「ちょっと、でてこいよ」とか「馬鹿やろう」とかいったという。それに対し談志は「ハッ、ハッ」とあえぎながら涙を流した。二人の心の通じ合いに、そばにいた家族も涙した。■いつだったか、与党の政治家が震災で死んだ親友のことを「早く逃げればいいのに、馬鹿なやつだ」と悔やんだ。するとメディアや野党がそれを「ひどい」と攻撃した。気持ち悪いほど賤しいメディア連中の汚臭のする息遣いには辟易する。では慎太郎が攻撃されるかというと、どうもそうではないようだ。■この「馬鹿」ということば、すっからかんの本物の馬鹿には理解できない。サンスクリット語で「無知」を意味する「baka」に文字を当てたのが語源であるようだが、諸説あるいは俗説がいろいろある。

(2011-11-29)

図師照幸の日本語を歩く (121)方・人・者

(121)方・人・者

日本出張中に風邪を引き、帰英後もむしろ悪化して、このコラムを長い間お休みした。ごめんなさい。■日本出張中に耳にしたことばで気になったものに、「私は甘いものが嫌いな人ですから」というものがある。自分のことをいうのに「ひと(人)」ということばを使うのである。ずいぶん耳にした。あのN君も、「ぼくは子どものころから繊細で傷つきやすいと言われ続けてきた人ですから」などといい、TSさんもまた、「わたしはあまりに少食で、そんなことでは大きくなれないよ、もっと食べなさいといわれ続けてきた人です」などといっていた。ぼくの風邪がひどくなったのはおそらく、こういった言語環境にいたからだろう。■この「ひと」といういいかたにはある種の敬意が含まれている。「あいつ」とか「あの男」などというのを、「あの人」に言い換えてみるとその違いがわかる。さらに敬意を高めるには「かた(方)」が用いられ、逆に下げるには「もの(者)」が使われる。「わたしは隣に越してきた者ですが、……」などと自分のことをいうときに適している。高価な装飾品で着飾ったご婦人が自分の子どものことを「この方はちっともお勉強をしようとされませんのよ、オホホ……」などとのたまったりするのを聞くと、ぼくもまた「オホホ」と笑いたくなるのである。

(2011-11-16)


図師照幸の日本語を歩く (120)奇しくも

(120)奇しくも

■下やん(SKさん)の表情がすぐれない。下やんには一人の美しい奥さんと一人の可愛い娘がいる。いつのころからか家庭内の序列が、奥さん、娘(千葉大生)、下やんの順に定まった。そこへ昨年の夏、ウメ(梅)という家族が加わった。娘の名前がさくら(桜)で、今度はウメ(梅)だ。名付け親は下やんで、たいそう可愛がっている。ウメは可愛いオスイヌである。下やんが仕事から帰宅して自分で玄関の鍵をあけて中に入ると、ウメがかけてきて尻尾を振る。抱き上げるとうれしそうに下やんのほっぺをぺろぺろとなめる。奥の部屋からは美しい奥さんの美しいいびきが聞こえる。ところがほぼ1年経った最近、様子が変わってきた。下やんが疲れた体で帰宅してもウメが現れなくなったのである。ウメのいるところに行ってみても、おきていたはずのウメがとっさに寝たふりをするのだ。奥さんや娘には愛嬌を振りまくウメであったが、下やんにはけだるいまなざししか向けてこなくなった。どうやら家庭内の力関係を察知したらしいと下やんは嘆く。■「N、おまえ、ペットを飼ったことがあるか?」「はい、ぼくが小学生のころ、庭に迷い込んできたタヌキを爺さんが捕まえて、檻に入れたまま育てたことがあります」「TSさん、きみは?」「父が山でキツネを捕まえてきて、それを育てたことがあります。それがなにか?」「いや、もういい」「あのう、SKさん、ぼくはそんなに気にされる必要はないと思いますよ。ぼくのタヌキもキシクモSKさんのイヌと同じウメという名前だったんですが、2、3日続けて好きそうなエサをやったらよくなつくようになりましたから」「あのなあ、ここ3日間ほどな、おれとウメとはな、同じものを食べてもいるんだよな。しかも、おれが帰ったときには当然、ウメの食事は終わっているんだよな」「じゃあ、ウメの残りを、……」 *「奇しくも」は「クシクモ」と読む。「キシクモ」は間違い。古語・形容詞の「くし」の連用形に助詞の「も」が付いてできた語である。「くし」は「異」の意。「酒」を「くし」と呼ぶこともある。酒の持つ霊妙な力を示すところから。

(2011-09-29)



図師照幸の日本語を歩く (119)腹芸

(119)腹芸

■Nくんの実直さを心配するのは千葉県佐倉在住の下やん(SKさん)である。ぼくが日本各地で講演をしたり、新聞社や雑誌社の取材を受けたり、テレビやラジオに出演したりといった活動のプロデューサーである。後輩のNくんを可愛がる下やんであるが、Nくんの真っ直ぐな性格が時にNくんを苦しめたりするのではないかと思うのである。「おい、N、今日は呑みに行くぞ」「え、ありがとうございます。ご馳走になります」「割り勘にきまっとるやろうが、なに考えてるんや、お前は。後輩が先輩におごるってことがあってもいいんだぞ、たまには」■居酒屋である。ずいぶん飲み食いしたあとの二人の会話である。傍にはなぜかTSさんも満腹になったお腹をさすりながら座っている。「いいか、N、人間は真っ直ぐなだけではいかん」「はいッ。SKさんのようにいい加減にがんばりますッ」「なにッ、俺のどこがいい加減なんだッ! 俺には応用力があるってことなんだよ、わかるか、N。お前、腹芸って知ってるか?」「ああ、SKさんが時々宴会のときにされるふんどし一丁の裸になって、お腹のところにマジックで顔を描いて踊るあの芸ですか? TSさん、あれ大好きですよ、ね、ね?」「ん? あれは腹でする芸だ」「ですから、腹芸でしょ?」「もういい、こっちの頭がおかしくなる。帰ろう、会計して来い、立て替えとけ、今夜はお前が」「ああッ、あ、あ、あッ」「どうした」「ちょっと、お腹が、ああッ」「腹が痛いのか?」「あ、あ、あッ。とても立てない、動けない、払えない」「このヤロー、……」 *腹芸=広辞苑によれば、「言動や理屈によらず、度胸や経験で物事を処理すること」。外国人には次のように説明されたりもする。intuitive decision making, going on a gut feeling, negotiating without the use of direct words

(2011-09-21)


図師照幸の日本語を歩く (118)舌先三寸

(118)舌先三寸

TSさんはNくんの実直な人柄が好きだ。とにかく真っ直ぐで、曲がったことやものが嫌いだ。ラーメンも、札幌ラーメンのような縮れた麺はだめで、博多ラーメンのように真っ直ぐな麺しか食べない。冗談のような軽口が嫌いで、だから漫才の類は見ない。たまにテレビで漫才師が演じていたりすると、不真面目な連中だ、と怒ったりもする。あんなくだらないことを云うから人に笑われるんだ、とつぶやく。笑われるために演じているということがわからないようだ。新聞購読の勧誘の人がやってきたときも、いろいろと説明するのを嫌がり、「読んでください、と一言でいいんだ」と怒鳴った。それでその人が「読んでください」と云うと、「いりません」と一言で断ったのだった。「ぼくは口先三寸の人間は嫌いだ」とまるで高倉健のような雰囲気で云うのだった。TSさんも同じ思いを持つが、ただNくんのこのことばを聞くたびに何かが間違っているような気がいつもしている。*口先三寸ではなく舌先三寸が正しい。「(三寸ほどの小さい舌の意で、内実の伴わないという気持を含む)くちさき」(広辞苑)。一寸は3.03センチだから三寸といえば決して短くはないと思うのだが。

(2011-09-13)


図師照幸の日本語を歩く (117)とりあえずビール

(117)とりあえずビール

日本出張中の居酒屋である。「センセー、飲み物はなんにされますか? やっぱ、とりあえずビールで?」とNくん。「そうだなあ、ビールはそれだけでおなかいっぱいになっちゃうからなあ、どうしようかなあ」とぼく。「では、とりあえずビールということで。生ビール、三つ。大ジョッキで」とさっさと注文するNくん。冷たい日本酒が飲みたかったのだが、ぼくの話など聞いてはいない。TSさんには訊ねてもいない。「で、つまみはどうしますか? お刺身かなんか?」「ここ、おいしいお刺身があるのかなあ」「では、お刺身の盛り合わせをくださーい、特上を。枝豆も。あ、それから鶏の空揚げね」 やっぱり、聞いてはいない。そのあと次から次へと注文したが、テーブルの上に並んだものは全て、Nくんの好みの料理であった。ほとんどが油っぽくて、やや疲れ気味のぼくには食が進まない。「いやあ、食べましたねえ、今日は」とNくん。TSさんもげっぷをしながら両手でおなかをさすっている。ぼくが食べたのは最初のお刺身をふた切れと、枝豆三粒である。二人の食べるスピードもすさまじく早い。「ところでねNくん、なぜ〈とりあえずビール〉って云うの?」「いやあ、センセー、食後にいろいろ考えるのは健康上よくありませんよ、ねえ、TSさん」 真面目なTSさん、さっと電子辞書を取り出して調べる。ただ、首を傾げるTSさんの電子辞書のディスプレーに表示されている検索語は「ビール」であり、ぼくはまたしてもめまいを覚えるのだった。*とりあえず:「取り敢えず」「不敢取」。「他のことはさしおいて、そのことをまず第一にするさま。まずさしあたって。間に合わせとして。」(日本国語大辞典・第二版) ロンドンの居酒屋には「とりあえず」というメニューのあるお店がある。いわゆる「突き出し」で、酒の肴の小鉢である。この「突き出し」という語も、なかなか味のあることばである。調べてみてほしい。

(2011-09-07)


図師照幸の日本語を歩く (116)いかにも

(116)いかにも

夏休みである。奈良からNくんの甥(おい)が遊びにやってきた。小学4年生の桃太郎君である。名前はNくんのお父さんがつけた。世の中の悪事を退治する正義の味方なのである。東京は初めてなので毎日遊び歩いたのだったが、休みも残り少なくなり、夏休みの宿題が気になり始めた。そこで、心優しいTSさんが手伝ってやることになった。ところが、小学生の宿題だからといって侮るわけにはいかないなあと実感するTSさんだった。算数の鶴亀算にはてこずった。傍で口を出すNくんがとにかく邪魔だった。「なになに、国語の短作文の問題かあ。〈いかにも〉を用いて文を作りなさい、か。なるほど……」 桃太郎君、真っ赤になって考えるのだが、思いつかないようだ。Nくんが得意気に云う、「これは海に面していない奈良の子どもには難しいよねえ、TSさん?」「えッ?」「いいか、桃太郎、Nおじさんの云うことをよく聞くんだぞ。ほら、村にこの前、スーパーができただろ、〈スーパー・豊作〉。あそこで魚を売るようになっただろ? よく思い出すんだ。イカには何がある?」「えーと、吸盤、いぼいぼの」「そうだ、いいぞ。その吸盤は、イカだけにあるか?」「えーと、タコにもあるよ」「ウン、えらい。だから、〈いかにもたこにも吸盤がある〉と書けばいいんだよ」「そうかあ、やっぱりNおじさんは偉いなあ」 頭痛を覚えるTSさんだったが、いかにもNくんらしいといえば、納得がいくのだった。桃太郎君の始業式が心配である。*いかにも:「いかにもなる」という云い方がある。「どのようにでもなる」という意から転じて、「死ぬ」という意味に。ことばにはいろいろな意味・用法があるので、楽しみたい。

(2011-08-30)

図師照幸の日本語を歩く (115)早起きは三文の徳

(115)早起きは三文の徳

Nくんのぎっくり腰も治り、TSさんも一安心である。Nくん、若いのにこんなことではいけないと一念発起、毎朝5時に起きてジョギングをすることにした。今朝がその初日である。30階建ての超豪華マンションの脇の2階建て木造アパートの一室を飛び出すと、まだ半分眠っている都会の朝に軽快なシューズの音を響かせる。ぼくはまるで映画「ロッキー」のシルベスタ・スタローンのようだな、と思うNくんである。Nくんは確かに学生時代、指相撲クラブの副主将も務めたつわもの(兵)である。部員は二人だったが、指を鍛えるために、せっせとあや取りなどの基礎運動に汗を流したものだった。初日のジョギング・500メートルを無事終えたNくん、どうだという顔つきで出勤した。今日からぼくは今までのぼくとは違うぞ、といった力の入った表情である。TSさんが云う、「今日のNくん、なんかいつもと違う感じね」「えッ、わかる? ちょっと引き締まった感じでしょ? なにしろ、スタローンだから」「スタローンって、なに?」「いや、今朝から早起きをしてね、ジョギングを始めたんだよ」「なんとなく、違うわねえ、いつもと」「そりゃあ、云うじゃない、早起きは三文の得があるって」「あッ、そうか」と云うとTSさん、Nくんに鏡を差し出した。鏡に映ったNくん、左の眉の半分が、剃り落とされていることに気付いた。眠さをこらえて起きた朝、朦朧としながらひげを剃った際、どうやら眉の半分も剃ってしまったらしい。*早起きは三文の徳:「徳」が正しい。「早起きをすると良いことがあるということ」(広辞苑)で、「得をする」という意味ではない。

(2011-08-23)


図師照幸の日本語を歩く (114)印籠

(114)印籠

TSさんの食欲が落ちている。もともと少食だと本人が云っているTSさんであるが、たしかに最近は、食事のあと必ず食べるケーキが3個から2個に減っているし、ラーメンを食べる際に一緒に食べる餃子も2人前ではなくなった。ラーメン自体は大盛りのままだが。このままではTSさんがやせてしまうと心配した優しいNくん、今まではこっそり自分だけで食べていたチョコレートの3分の1はTSさんにもあげるようにした。しかし、どうしたのだろう、とNくんは考え込む。あれはぼく(Nくん)がぎっくり腰もどきになり、このまま死んでしまうかもしれないと思ったぼくがつい、「TSさんが好きだった」と告白してからのことだ。しかし、それが原因だろうか。病院で順番を待つ間に4、5人の女の子に同じように電話で告白をしたけれど、誰も食欲など落としてはいない。ガハハ、と笑われただけだ。そんなNくんの大きな勘違いをよそに、TSさんは落ち込んでいた。なんと、あの、水戸黄門がとうとうテレビから消えるというのだ。「人生、楽ありゃ、苦もあるさ、ダダダダーン、……」の主題歌も聞けなくなる。目の前でうるさいNくんには楽しか感じないが。いや、楽というより、おめでたいというべきか。「ね、TSさん、あんまり、気にしないでね、あれさ、なんとなく云ったんだからさ、エヘヘ」とNくん、美しい村娘に言い寄る悪代官のようにうるさい。「いっそ、印籠でも渡してやるか」とTSさんがつぶやく。「え、印籠が、どうしたって?」 *渡すべきは印籠ではなくて引導。「引導を渡す」は「もう完璧に、絶対に、どうしてもだめ、というような最後の宣告」。水戸黄門で頭の中が一杯だったTSさん、つい間違ったということだろう。

(2011-08-16)

図師照幸の日本語を歩く (113)ぎっくり腰

(113)ぎっくり腰

Nくんは安定した青年である。いや、精神的にというのではなく、体型的にといった意味である。他の人よりかなり長い胴を、かなり短い脚でしっかり支えている。そのNくんが今日、突然、病院に行くことになったとのメールが日本から届く。「食べすぎでおなかでも壊したのかな」と指をポキポキ鳴らしながらMN先生が心配する。「飲みすぎじゃあないですか」と昨日の芋焼酎のお湯割の晩酌の残り香漂うFJ先生が笑う。「まあ、大丈夫じゃあないですか、よくわかんないけど」とフリー・ペーパー「METRO」のスポーツ欄を読みながらTD先生がつぶやく。「申し訳ありません」と事情を知らないMY先生が、なぜか謝る。連絡によると、次のようなことだったようである。お昼にコンビニに行ったNくん、5個で200円といった安売りの肉まんを買って、うれしそうに帰ってきた。TSさんにも食べないかと勧めたが、何しろ少食のTSさんである、断った。実は30分前に同じ肉まんを買って、こっそり一人で全部食べたとは云えなかった。Nくん、ほぼ5分でその肉まんを全て平らげた。しばらくすると眠気が襲った。つい、うとうととしたNくん、自分のいびきのものすごさに飛び起きた。そのときである。「あれッ、今、何か、ギクッというような音がしなかった?」「うん、私にも聞こえた。でも、Nさんのほうから聞こえたけど」「そうだよね。ぼくの周りからだよね。あれッ、あれあれッ。痛くない?」「私は何も痛くないけど」「あれッ、かなり痛いけど、痛くない?」「どうしたの?」「いやあ、痛いよッ、腰がッ」「えッ?」「うわーッ、痛いよッ。TSさん、ぼくの腰、体から外れてないッ?」 病院に駆け込んだNくん、軽いぎっくり腰と診断された。病院に行く前にはNくん、「いろいろとお世話になったけれど、実はTSさんのことが好きだった」と告白した。それを聞いたTSさん、びっくりして腰を抜かした。*ぎっくり:「ぎくり」が促音化したもの。「きっくり」「きくり」と同じ。驚いたり、動揺したりするさまを云う。「びくり」などとほぼ同じ意。「物が角立って急に折れ曲がるさまを表す語」(日本国語大辞典)。「ぎくしゃくする」の「ぎく」も同根。

(2011-08-05)


図師照幸の日本語を歩く (112)今

(112)今

Nくんが帰省した。ふるさとは奈良の山村である。お見合いをするために帰ったのである。Nくん、緊張などしていない。今度で18回目のお見合いである。ベテランなのだ。趣味といってもよい。今度の相手は、前々回のお見合いの相手の友達のいとこが働いている職場の同僚だそうだ。もはやNくんを中心としたお見合いの輪は大きく広がっており、同窓会なんかが開けそうな勢いだ。お見合いは地元のヘルス・センターの喫茶店「杉の木の下で」で行なわれた。地元で唯一自動ドアのあるお店である。このお店でするお見合いも今回で6回目である。店のおばさんが「がんばってね」と励ます。にっこり笑顔を返すNくん、余裕の表情で席に着く。相手の女性がミルク・ティーを頼み、Nくんはコーヒーを注文した。運ばれてきたコーヒーに砂糖を入れていると、相手の女性が訊ねた、「今、何をされているんですか?」 Nくんが応える、「砂糖を入れています」 *今:Nくんの<今>は、広辞苑が説明する3番目の意味、「現に話をしているこの局面(で)」のことである。辞書の説明を読んでもらいたい、いろいろな意味をこめて、この<今>ということばは使われている。TSさんはため息をつく。19回目の見合いはいつだろうか。ああ!

(2011-08-02)

図師照幸の日本語を歩く (111)毎度おさがわせします

(111)毎度おさがわせします

Nくんは心根の優しい青年である。コンビニでデラックス弁当を買ったNくん、道を歩いていると、郵便ポストの脇にホームレスの男が座っている。その前を一度通り過ぎたが引き返し、買ったばかりの弁当を男に渡すと脱兎のごとく駆け出した。オフィスに戻ったNくんにTSさんが訊いた。「あれッ、弁当を買いに行ったんじゃないの?」「ウン、まあ、いつもデラ弁ではね。ちょっとおなかの調子も悪いしね、今日は昼抜きにしたんだよ。あんまりおなかもすいていないしね。アハハ……」「大丈夫?」「ウン、……」 Nくん、お茶をがぶ飲みしている。そこへ、廃品回収の車のスピーカーの声が流れてきた。「毎度おさがわせしております、ちり紙交換です。……」 しばらくするとまた、今度はホットドッグ屋さんの車である。「毎度おさわがせしております、おいしい、おいしいホットドッグはいかがですか。……」 椅子から立ち上がったNくん、窓からホットドッグ屋さんの車を見つめる。グゥー、という音が聞こえる。Nくんにまけず優しいTS さん、財布を持ってオフィスから飛び出すと、ホットドッグを買って戻ってきた。3本のホットドッグを手にしている。「おなかの調子が悪いということだから、ホットドッグはまずいかなあ。でも一本ぐらいはいいでしょう?」 TSさんの徹底した優しさに、Nくん、うれしいような、悲しいような……。*ホットドッグ屋さんの「おさわがせ」が、ちり紙交換屋さんの「おさがわせ」になった。いわゆる「転換」による間違いで、結構よくある現象である。秋から冬にかけて白い花を咲かせる「山茶花」は「さざんか」と呼ばれるが、これは「サンサクヮの転」(広辞苑)である。

(2011-07-22)




図師照幸の日本語を歩く (110)慇懃無礼(いんぎんぶれい)

(110)慇懃無礼(いんぎんぶれい)

昼休みにNくんの中学時代の友達が訪ねてきた。身なりも垢抜けていて、とても同じ村出身とは思えない。ただ、お土産にバナナを一房持ってきたのが、いかにもN君の友達らしいが。言葉遣いは丁寧で、滑らかである。「NくんはTSさんみたいな素敵な人と一緒に仕事ができて、うらやましいなあ」などとTSさんの前でぬけぬけと云うことだってできる。そう云われてTSさんも嫌な気はしない。特別のときのためにとっておいた英国の紅茶をウェッジウッドのティーカップに入れて、笑顔でもてなすのだった。その彼はひとしきり昔話をすると立ち上がり、帰る仕度をすると、「あ、そうだ」とふと思い出したように、彼が勤めている保険会社の保険のパンフレットを出して、「これなんかNくんやTSさんにちょうどいい保険だよ。この用紙に記入しておいてくれたら、今度の火曜日にまた来るから」とさりげなく渡して、帰っていった。「なかなか素敵な人ね」とTSさんがペンをとってその用紙に書き込みながら云うと、「なーに、あいつなんか、クラスで下から2番目の成績だったんだぜ。大したことない、ない」とNくん、TSさんの友達への優しい応対が気にくわない。TSさん、危うく、「下から2番目って、一番下だったのは、もしかして……」と訊きそうになって、言葉を飲み込む。「でも、言葉遣いもきれいだし……」「あいつはインキンだよ」「え?」「ほら、云うだろ、口先だけで心の中は実は馬鹿にしているような態度のこと、インキンオレイって」「……」 *慇懃無礼(いんぎんぶれい):「うわべは丁寧なようで、実は尊大であること」(広辞苑)。Nくん、意味はきちんとわかっていたのだが。それにしても心配なのは、もしかしてもう保険に入ったのかな?

(2011-07-20)


図師照幸の日本語を歩く (109)爪の垢

(109)爪の垢

Nくんが本を読んでいる。ちゃんと文字が並ぶ本である。TSさんが空を見上げる。今のところ青空だ。「大丈夫?」「え、なにが?」「いえ、大丈夫ならいいんだけれど。頭痛くない?」「痛くないけど、どうして?」「気分悪くない?」「悪くないけど。優しいなあ、TSさんは。でも、どこも悪くないよ、おなかはすいたけど」「なに読んでるの?」「本」「それは見ればわかるけど。なんの本?」「ウン、難しい本」「どんなこと、書かれているの?」「ウン、難しいこと」「だからさあ、どんな難しいこと?」「それがわからないから、難しいといってるじゃないか」「……」「ほら、大震災の被害者のために100億円寄付した人がいたでしょ? あの人、一代であんなに大金持ちになったんだって。あの人さあ、たくさんの本を読んでものすごく勉強したらしいんだよ、それでぼくもまあ、爪の汚れでもなめようかと思ってね」「それをいうなら、爪の垢を味わうでしょ」 *爪の垢を煎じて飲む:「すぐれた人に対した場合、せめてその人の爪の垢でももらってという気持で、その人にあやかるようにする」(広辞苑)。ここでは「煎じて飲む」ということが大切。つまり、垢を薬に見立てて、煎じて飲むと効果があるという話である。NくんもTSさんも十分立派な、心優しい若者なのだから、大金持ちになんかならないほうがずっと幸せなのだ。ちょっとだけ周りが苦労をするが。

(2011-07-11)


図師照幸の日本語を歩く (108)タッチの差

(108)タッチの差

Nくん、例のデラックス弁当の姫のことが今日も気になっている。実はあの後、一度も遭遇していないのだが、純粋なNくん、今日こそはと角のコンビニに通い詰めている。そして必ず、鮭の入ったデラックス弁当を買うのである。何もデラックスでなくてもよいと思うのだが、デラックスでないと彼女に会えないと信じ込んでいるのだ。あと10分で昼食休憩の時間である。もう1時間も前から、Nくん、壁時計にたびたび目がいく。「この時計、もう30分は経っているのに、30分しか針が進んでいないよぉーッ」と、よくわからないことを叫んでいる。そばで書類の整理をしている優しいTSさんが微笑みながら云う、「今日もデラックス?」「うん。きのうはタッチの差で最後のデラックス弁当に間に合ったんだけど、残念ながら彼女に会えなかったんだよなあ」「で?」「もし彼女が支払いのとき10円玉をまた落としたら、さっと拾えるように、何度も練習したからね。どうぞ、っていう低音で云う云い方も練習したし、2時間」「ふーん、10円玉を落としてくれるといいね」「おッ、ありがとう。今日こそは会えそうな気がしているんだよね。」「……」 *タッチの差:間に合ったときには使わない。「いつもの電車に、タッチの差で間に合わなかった」などという。

(2011-07-06)


図師照幸の日本語を歩く (107)契機

(107)契機

Nくん、今日は絶好調である。いや厳密に言えば、昼食休憩後、元気がいいのである。TSさんは、どうせまた、くだらないことが外出中にあったんだろうと無視することにした。Nくん、誰かに話したくてしようがない。「いやあ、いい日だねえ」「雨が降っているけど」「たまには雨もいいよ」「きのうも、おとといも雨だったけど」「あしたは晴れるかもしれないじゃない」「天気予報は雨だって」「……」「あさっても」「……」、かわいそうになった優しいTSさん、「どうしたの? なにかいいことでもあったの?」「えッ、聞きたいの? いやあ、話すほどのことでもないけれど……」「じゃあ、いいよ、話さなくても」「えッ、まあ、どうしてもということなら、話すけれどね」「……」「実はね、さっき角のコンビニでデラックス弁当を買ったときにさ、デラックス弁当を買ったとき、580円のデラックス弁当を。ぼくの前で支払いをしていた人の10円玉が落っこちちゃってさ、ぼくがさっと拾ってあげたんだよね。そして、やや低い声で、どうぞ、って渡してあげたらさ。……。あのう、聞いてる?」「ウン、聞こえてる」「その人がさ」「女の人でしょ? きれいな」「わかる?」「わかる」「そのきれいな女の人がさ、ありがとうございます、ってさ、微笑んだんだよね、微笑んだの」「……」「これを契機として二人は……」「今週、ずっと雨だって」 *契機(けいき):広辞苑を引いてみよう。難しい説明が載っている。広辞苑が挙げている例文の「事件を契機に改善される」はまずまず。このことば、物事の変化や発展のもととなる本質的な要因や変化・発展の通過段階をいう。つまり、ある流れがあらかじめあって、その流れに変化が生じる場合に使うのである。よってNくんの「契機」は、ただの「きっかけ」ぐらいにとどめておくべきだろう。もちろん、この「きっかけ」も、その後何かに結びつくことはないのだから、最終的には誤用となる。

(2011-06-27)

図師照幸の日本語を歩く (106)「くりかえす」ということ

(106)「くりかえす」ということ

日本語の言語表現で面白いものの一つに、相手の云った言葉を繰り返して、自分もその同じ言葉を遣って応えるというものがある。たとえば、こうである。昼食に大盛りの味噌ラーメンを二杯しか食べられない小食で才女のTSさんが青い顔をして外から戻ってきた。優しいNくんが訊く、「どうしたの?おなかがすいたの?」 TSさんがややむっとした顔で応える、「今、私のあとをずっとつけてくる変な男の人がいたの。コンビニでお買い物しているときも、ニヤニヤして私のことをじっと見ていたの」 Nくん、「へーッ、変なやつだなあ。TSさんに気があるのかなあ。気持ち悪いね」 ぼくも云う、「確かに、変な男だ」と。*解説がしづらいが、繰り返されたことで確認がなされる場合もあるが、繰り返されるたびに、その言葉の指し示す意味がずれていくこともあるのである。あるいは、わざと異なった意味で同じ言葉を用いるということも。いやはや、つまり、その、……。

(2011-06-22)


図師照幸の日本語を歩く (105)沢庵(たくあん)

(105)沢庵(たくあん)

日本出張の際どうしても食べておきたいものの一つは、茄子(なす)の浅漬けである。漬物はどのような種類のものも好きだが、ロンドンではうまい茄子の浅漬けには出会えない。デパートの食料品売り場で買い求めようとしても、日持ちがしないのでロンドンまで持ち帰ることが難しい。沢庵もいい。が、これもうまいものにめぐり合うのはなかなか難しい。ところで、この沢庵、その名の由来に諸説ある。「貯え漬け」の転であるというのもあるが、沢庵宗彭(そうほう)禅師が初めて漬けた故(ゆえ)というのがよく知られている。この沢庵和尚、漬物以外にはこれといった功績はなかったのかというと、いやいや大した和尚なのである。柳生新陰流の開祖・柳生宗厳(むねよし・石舟斎)の息子に柳生宗矩(むねのり)がいた。宗矩は三代将軍・家光の剣術指南役として有名だが、彼の剣術や武士道を極める上での師として、この沢庵がいたのである。彼の教えとは、「堪忍の二字、常に思うべし。百戦百勝するも、一忍に如かず」というものであった。宗矩を通して沢庵の思想が徳川を支えることになる。この「戦わない」という教えが、徳川の長き安泰の世を支えたのである。 ここまで話したところで、ずっと気になっていたポリポリという音が止んだ。「なるほど、そうだったンスか」とN君、ロンドンに持って帰ろうと思って買っておいたぼくの沢庵をほとんどたいらげてしまっていた。

(2011-06-14)

図師照幸の日本語を歩く (104)みたいな

(104)みたいな

一昨日の夕刻、日本から戻った。滞日中もっとも耳障りだった言葉は、「……みたいな」という言葉遣いである。テレビの街頭インタビューに答える数多くの老若男女が云うのである。「こんな政府は許せない、みたいな……」(スーツを着てネクタイを締め、一応まじめな顔をして憤っているようなのだが)、「AKB48の中では、なんといっても○○が一番かわいいしー、みたいな……」(AKB48自体がよくわからないのだ、ぼくには)、「親父みたいなジンセー送りたくないしー、みたいな……」(一つ目は正しいが、こんな言葉遣いをする愚か者が人生を語るな)などと。この者どもは何なんだ。自分の肺で呼吸をし、自分の心臓で血液を送り出しているのか。自信のなさ、曖昧さ、責任逃れ、ごまかし、そういった思いが一本ずつ額の血管を浮き立たせて、あわててぼくは血圧の薬を飲み込む。脇でN君(久しぶりの登場である)、「センセーみたく、いちいち気にしていたら、やっぱ、日本、住めませんよーォ」と温かい助言をしてくれる。ウン、そうだね、ぼく、とっととロンドンに帰るよ。*「みたいな」は助動詞「みたいだ」の連体形。①性質や状態が他の何かと似ていることを表す。「まるで子どもみたいなことを言っちゃあ、だめだよ」②例示して強調する意を表す。「君みたいな者にこの絵のよさがわかってたまるか」③不確かなまま遠まわしに断定する意を表す。……ようだ。「昨夜は雨が降ったみたいだね」(参考:日本国語大辞典.例文:筆者) **この③の乱れた用法が彼らの言葉遣いだろう。***「みたく」は、「みたい」を形容詞のように取り扱ったものだが、これもまた耳障りである。

(2011-06-07)

図師照幸の日本語を歩く (103)ぼさぼさ髪

(103)ぼさぼさ髪

研究所のあるCharltonの隣駅はWestcombである。BlackheathやGreenwich公園につながるなかなか趣のあるところである。どうしてこのような名前がついたのかは、きちんと調べればわかるのだろうが、髪を櫛で梳(す)いたような地形であるとか、波のうねりのような丘の様子とかが元になっているのだろう。その髪のことである。効果のない養毛剤を毎朝、気休めのために振り掛けているぼくとしてはあまり触れたくない話題であるが、かつてはぼくも、目覚めると「ぼさぼさ髪」になるほどだったのだ。肩までの長髪を誇ったのだ。それが、……。いや、そんなことはどうでもよい。絶対にどうでもよいのだ。問題は、この「ぼさぼさ髪」の「ぼさぼさ」である。「ぼさ」が「雑草などの茂み。やぶ」(日本国語大辞典)の意であるから、要するに整えられていない状態である。櫛などで梳かれていないのだから、英語で言えばuncombedとなろう。さらに乱れているのだからmessyともいえる。その両方を重ねて、つまり、uncombed and messy hairというのが「ぼさぼさ髪」というものである。こんなことをいちいち考えていると、聞こえるはずのない音が聞こえてくるのだ。ハラリとか、ハラリハラリとか、櫛を必要としない、messyにはなれない頭から、残り少ない髪の毛の落ちる怖ろしい音が。

(2011-05-11)

いやはや、大変な失態である。この原稿を担当者に渡した帰り、何気なく車窓から駅のプラットホームを見ると、駅名は [Westcomb Park] ではなく [Westcombe Park] と書かれている。かってに [comb] と思い込んで想像を楽しんでいたのだが、[combe] と [e] が付いていた。であればまったく意味が違ってくる。[combe] というのはいわゆるイギリス英語の表記で、米語では [coomb] と表す、「山腹の谷あい」の意である。よって、その地形をそのまま表したに他ならない。かの「日本の呑兵衛」先生からまたしてもお叱りのメールが来るかな、最近、酒が足りないのではないかと。

(2011-05-13)



図師照幸の日本語を歩く (102)孫の手

(102)孫の手

この春、ロンドンは快晴が続く。暖かく、道行く人の表情も柔らかい。そのためか空気が乾燥しており、自然発火の山火事が報じられてもいる。ぼくの皮膚も乾燥して、背中が痒い。かつては手を伸ばして自分の背中を掻くのに困らなかったぼくだったが、うーん、とどかない。本棚の角に背中をこすり付けていると、通りがかった学生の一人が訊く、「先生、どうしたんですか、何かのおまじないか何かですか」と。まさか学生に背中を掻いてくれと頼むわけにもいかず、こんなとき「孫の手」があればと思うのだった。この「孫の手」であるが、あの棒のことをよく「孫の手」などと名付けたものだと感心する。かわいい孫に背中を掻いてもらうというのは、年老いた者の幸せな風景のうちでも飛び切りのものだろう。ところで、この「孫の手」、これは実は「孫」とはまったく関係のない、ただの当て字なのである。中国の伝説に出てくる仙女・麻姑(まこ)の爪が鳥の爪のように長く、痒いところを掻くには適しているだろうという話から生まれた言葉である。とはいえ、女の爪よりもぼくは、かわいい幼子に小遣いをねだられながらも掻いてもらう、そのほうがいいなあ。安全でもあるし。

(2011-05-05)



図師照幸の日本語を歩く (101)系・再考/原田先生登場

(101)系・再考/原田先生登場

「日本語を歩く(99)」について、日本のある大学の先生から下記のようなありがたいお便りが届いた。なんと、今の日本には「ビールのような飲み物」がいろいろあり、N君が云った「最初はビール系で?」という言葉遣いはあながち間違いとはいえないというご指摘である。今年で、英国暮らし25年目にはいったぼくは、気付かぬうちに浦島太郎になっているようである。それにしてもこの自称「日本の呑兵衛」先生、日本の酒税に関する日頃の鬱憤を見事、この小さなコラムでまとめられた。N君がいわゆるビールそのものを「ビール系」で表したであろうことはちゃんと見抜いた上での、なかなかしゃれた筆力で、会ってみたいなあと魅せられた。でも相当な左利きのようであり、とっくの昔に肝の臓を酷使しつくしたぼくには少し怖いような……。

(2011-04-28)

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日本語を歩く(99)に寄せて

日頃は常に正しい図師照幸氏だが、今回は聊か的外れで殘念な氣がした。図師氏同樣、小生も「〇〇系」なる言ひ回しは好まない。然れども氏の教へ子N君の「最初はビール系で?」なる掛け聲は、強ち間違ひとは言ひ難い。図師氏は日本國をば離れ早幾年なる境遇であるから御氣附きで無いのは至極當然である。僭越ながら今回は小生がこツそりと傳授致すとしやう。日本國は英國などに比して奇妙奇天烈な酒税で以て酒造株式會社や酒呑み庶民を悩まし續けてゐる。分けても麥芽含有率25%以上の品名「ビール」に對する酒税は殆ど懲罰的の憾みすら殘る。それでゐて蒸留酒である各種焼酎(米、大麥、蕎麥、黑糖等)の酒税は異樣な迄に低く抑へられてゐる。1980年代には「日本の焼酎業者ズルいぞ」と許(ばかり)に蘇格蘭のウヰスキー生産者が歐洲共同體(現在の歐洲聯合)に陳情し、彼らの外壓が功を奏して現在に至ツてゐる。或いは功を奏し過ぎて、今では日本國で入手せる蘇格蘭産ウヰスキーは英國より安價なる珍事に言及す可きか。おツと、話がやや横道に逸れたが、日本の麥酒製造業者も負けてはゐなかツた。涙ぐましい程の努力を重ねビール系アルコール飲料たる「發泡酒」を世に問うたのだ。廿世紀末の事である。麥芽含有率25%未満でありながらビールの樣な見た目と味を堪能できるとあツて是が賣れに賣れた。然れども國税當局は「發泡酒」にも髙率の酒税を掛けてやらうかと虎視眈々と状況を見据ゑることにした。戰々恐々とした麥酒製造業者は今度は大麥の焼酎を炭酸で割る要領で「第3のビール」を開發した。廿一世紀初頭の事である。税法上は「リキュール類」に分類されるが、味覺音痴な人には酒税の髙いビールと變はらぬ味がすると評判である。したがツてN君の云ふ「ビール系」とは、本物のビールのみならず、税法上「發泡酒」であるビールもどきと、税法上「リキュール類」に分類される所謂「第3のビール」(是亦ビールもどき)を含むアルコール飲料(正邪混淆)を指すのである。

【日本の呑兵衛 原田俊明】

所長室からのメッセージ集

図師照幸の日本語を歩く

j0430553.jpg研究所所長・図師照幸が、日本語の世界を伸びやかに、楽しく歩きます。日本語の文法や語彙・意味に関する豊かな視点がちりばめられています。

濫觴

j0401237[1].jpg英国国際教育研究所で学ぶ皆さんへのささやかな、けれども真摯なメッセージとなって、教育や学問の世界での新しい宇宙を創造しようとする皆さんの磁場となるように創刊されたものです。

検証 教育問題への提言

kensho.gif教育に関わるさまざまな問題について、研究所所長・図師照幸が徹底的に分析し、斬新かつグローバルな視点から提言します。

大きな地球 フロントポエム

uta1.gif読者から送られてきた写真の世界を、詩人・図師照幸がまったく独自の想像力と創造力によってあたたかい言葉の世界に置き換えていきます。