(100)キャベツ

前回、焼肉について書いたが、食べることとなればやはり、小食の才女、TSさんについて触れなければならない(と、N君がせっつく)。焼肉を食べる際、TSさんが同席すると、TSさんの心優しさが感じられるからである。N君の隣に座ったTSさん、そろそろ食べごろだなとなるとすかさずN君の取り皿によそってやる。本当に心優しい才女である。キャベツ、キャベツ、キャベツ、キャベツ、キャベツ、肉。N君の皿は瞬く間にあふれんばかりとなる。そして、ついでにといった風情でTSさん、自分の取り皿にも控えめによそう。肉、肉、肉、キャベツ。何しろ小食なので、TSさんの皿にはまだ十分に余裕がある。ぼくはできるだけ関わり合いを持たないように、店の店員さんと最近の景気なんかについて語り合うのである。*キャベツはcabbageで、ヨーロッパから渡来、甘藍(かんらん)という文字が当てられる。トマトは蕃茄・赤茄子(あかなす)。食べ物だけでなく、たとえば大学の町・オックスフォードは牛津、ケンブリッジは剣橋、ロンドンは倫敦など、なかなか味がある。**このコラムもなんと100回である。N君を始めとする登場人物は実在するのかとよく聞かれるが、食べ過ぎて「苦しい」とのた打ち回るN君も、それを心配しながらチーズケーキを頬張るTSさんも、たくましいMN先生も、腰痛のFJ先生も、その他の登場人物もみんなみんな、よく食べよく眠り、よく働きよく遊ぶ、ぼくのすばらしい仲間たちである。つまり、同じ空気を吸って、生きているのである。(2011-4-8)

(99)系

日本出張中に食べたいと思う食べ物の一つに焼肉がある。いろいろな人たちとの会食であるが、いつもなぜかN君が同席している。そして例のごとく、こまめに動いてくれる。N君は優しいのである。「せんせー、やっぱ、最初はビール系で?」「カルビ系は多めでいいですよね、ざっくりと?」「キムチもマストで?」 彼は韓国語でも話しているのだろうかと、めまいを覚えながら、ぼくの食欲が少しずつ減退していく。少し前はいちいち注意をしていた。「ビール系って、ビール系の日本酒なのかッ!」などと。すると、優しいN君が微笑みながら答えるのだ。「せんせー、日本酒には純米大吟醸とかはありますが、ビール系のものはないと思います」 (云われなくてもわかっておるワイッ!)だからこの頃は逆らわないことにしている。ひそかに血圧の降下剤を口に含みながらひたすら耐えるのだ。*系:ある関係をもって、つながりをなすもの(日本国語大辞典)。ビールそのものをさすのに、「ビール系」は気持ちの悪い誤用。(2011-4-7)

(98)桜

研究所英国本部のあるチャールトンのバス停のそばに、見事な桜の木が数本ある。今、満開である。この桜はいわゆるミザクラ(桜桃)で、サクランボが生(な)る。毎年ぼくは背伸びをして、それをもぎ取り、口の中に放り込む。このサクランボに因(ちな)んだものとしては、「桜桃忌(おうとうき)」がある。39歳で入水自殺した小説家・太宰治の忌日(6月19日)である。塩漬けにした桜の花や蕾(つぼみ)でつくる桜湯も好きだ。桜餅もいい。馬肉を桜というのはその肉が桜色をしているからである。ところでこの桜という名前の由来については、実にたくさんの説があって面白い。サキムラガル(咲簇)やサキウラ(咲麗)の約、あるいはよろずの花の中で優れて美しい意からサキハヤ(咲光映)の約などがある。(2011-4-5)

(97)天災・天罰・天恵

職業に貴賤はないが、昨今の政治家たちの言動を見ていると、この者たちは賤しい(卑しい)と指差されてもよいのではないかとさえ思えてくる。今回の地震・津波のあと、東京都知事は「これは天罰だ。日本人の我欲に対して天が下した戒めだ」と云った。現代の日本人の持つあきれるほどの私利私欲の醜さについて常日頃憤りを覚えていたのであろうが、それと今回の災害とを結びつけて語る稚拙さには、作家あるいは知識人としての知性は微塵も感じられない。さらに酷いのは大阪府議会議長である。府知事との政策対立に絡めて、今回の天災が自分に有利になると感じた彼は、なんと「天の恵みだ」と云い放った。このような者たちがまつりごと(政治)を行っている限り、その復興もままならぬのではないかと案じていたら、国会の委員会で、内閣の副大臣が今後の見通しを訊かれて、「神のみぞ知る」と答弁した。避難所では寒さや食料不足、さらには精神的な疲労感から死んでいく人も多いと聞く。天はおそらくこの者たちの不真面目さを見逃しはしないであろう。 (2011-3-29)

(96)この際だから

今回の地震・津波は英国に住む日本人にも大変な衝撃と悲しみを与えた。未曾有の被害となるという。1923年の関東大震災では、14万人の死者が出たそうだが、その翌年、復興のために立ち上がった被災者の間でさかんにつぶやかれた言葉に、「この際だから」というものがあった。この言葉をつぶやきながら明日を信じようとしたのである。ニューヨークでは今回、日本人や日系人たちが「上を向いて歩こう」を歌って募金活動をしたという。言葉には力がある。あきらめず、前を見つめて歩き続けたいと思う。(2011-3-21)

(95)小食・少食

才女・TSさんは小食であるらしい。いや、本人が云うのだから間違いないだろう。会食の場では確かに一人前しか食べないし、会食のあとラーメン屋さんにN君が誘った折も、N君のようにラーメンを何杯もお代りしたりはしない。ラーメンを食べながら、餃子を一皿食べるぐらいである。ラーメン屋さんから帰る途中ケーキ屋さんに立ち寄っても、イチゴのショート・ケーキとモンブランをそれぞれ1個ずつしか食べないのだそうだ。そのあとは必ず、コンビニには立ち寄るが、せいぜい缶ビールとサキイカを買う程度で、それで夕食は終わるのだそうだ。ただ、一時間後の夜食としては、おでんを5、6個食べたりするそうだ。「私は小食なのに、どうしたわけかなかなかやせないんです」と云うTSさんの横で、なぜかN君がニヤニヤしている。考えてみれば、この「多い・少ない」、あるいは「大きい・小さい」はずいぶんあいまいな量りであるのである。(2011-3-9)

(94)盗人の昼寝

才女・TSさんの一言で、N君が怒った。N君、お昼休みにごろんとオフィスのソファに横になり、漫画「サザエさん」を読んでいた。それを見た才女が「盗人の昼寝ね」とつぶやいた。それを聞いたN君、起き上がると叫んだ、「誰が盗人なんだッ。大体、眠っていたわけでもないし、〈サザエさん〉に出てくる敬語表現について調べていたんじゃないか、それを……」 ついさっき、来訪者からもらったカステラをTSさんのほうが一切れ多く食べたことで、そうでなくても機嫌の悪いN君だった。「だから、盗人の……」「まだ言うのか、ぼくは盗人じゃあないぞ。君のほうがカステラたくさん食べたじゃあないか」 平和な昼下がりである。*「盗人の昼寝」:盗人が夜稼ぎのために昼寝をすること。どんな行為にもそれなりの理由はあるというたとえ。(広辞苑)(2011-3-7)

(93)おけらになる

才女・TSさんの目を盗んではN君、パチンコ屋に通っている。TSさんは何しろ才女であるからもちろん、とっくにお見通しなのだがN君、ばれていないと思っている。昼休みに不自然な数のチョコレートをオフィスに持ち帰ったときには、「いやあ、ぼ、ぼくって、もてるんだなあ。バ、バレンタインデーのチョ、チョコレートをこんなにもらっちゃったよ」と1月半ばにのたまった。仕事中、ズボンのポケットからパチンコ玉が転げ落ちたときには、「あれッ、これ、なんだろう? 不思議な物体がぼくのポケットを棲家(すみか)にしていたようだ」とN君にしては難しい言い回しでとぼけようとした。「ふーん、その不思議な物体、もっとうるさいところに住んでるんじゃないの?」とTSさん、さすが才女である。ある日のことである、うつろな目でN君が戻ってきた。「ぼくはおからになっちゃったー」と、今にも泣き出しそうである。N君が「おから」であることは以前からだれもがよくわかっていたが、これはきっと「おけら」の間違いだろう。それにしてもなんと的確な言葉遣いであることか。*「おけらになる」とは「無一文になる」の意。「おけら=けら(螻蛄)」という昆虫の姿が、人が降参して両手を挙げた形に似ているので。(2011-3-1)

(92)寸暇を惜しむ

日本出張中、かのN君と電車に乗る。隣に腰掛けたN君、すぐに靴を脱ぎ、靴下を脱ぐと、足の指の間を熱心に掻き始めた。うッ、この男とぼくが連れであることがばれないようにしなければ、と防御本能で脂汗が浮かぶ。周りの乗客がN君の足元を見つめ、気持ち悪そうにしている、当然だが。ぼくはカバンから重松清の小説を取り出すと、その世界に逃げ込もうとした。するとN君が大きな声で云ったのだった、「先生、寸暇を惜しまず、お勉強ですか」と。関わり合いになりたくなかったが、気がつくとぼくは、「それはおかしい」とN君に注意していた。N君が云う、「でも、水虫がかゆくて、……」と。「それもおかしい」とぼくは、またしてもN君の怖ろしい世界に引きずり込まれていくのだった。 *「寸暇を惜しまず、お勉強ですか」というのは誤用。「寸暇を惜しんで、……」が正しい。(2011-2-22)

(91)サヨナラ

日本出張中、コンビニに何度も行った。N君が案内する。深夜であるにもかかわらず、いつも何人かの客がいる。雑誌コーナーには立ち読みをする客が必ず数人いる。ふと目をやると、「えッ」と驚く書籍がある。『イヤな自分とサヨナラする方法』というタイトルで、これだけならそう驚くこともないのだが、このタイトルの脇に「お坊さんが教える」とあったのだ。「サヨナラだけが人生だ」とは太宰の言葉だが、まさか「死になさい」と書いてあるわけではないだろうが、この組み合わせにぼくは笑った。その脇で、なぜぼくが笑っているのかがわからないN君が若い女性のあられもない写真がたくさん載っている雑誌を片手にニヤニヤしていたのだった。ところでこの「サヨナラ」である。「さようなら」の変化したものだが、「さようならば」というのがもともと。「そうであるなら、それならば」の意である。「さようなれば」から転じたともいわれ、仮定と確定の違いがあるが、別れる際の挨拶言葉や別れそのものを示す意としては同じである。(2011-2-15)

(90)準備と用意

FJ先生の姿が見えない。朝礼のときのことである。「家を出ようとしたときに、ぎっくり腰になったとかで……」、なんとなくうれしそうにMN先生が報告する。周りの先生たちもなんとなくニヤニヤしている。どうやらこのぎっくり腰なるものは周りに快感を呼び起こすものであるようだ。当人は痛いだろうに。遅れてやってきたFJ先生に大丈夫かと訊くと、「ええ。ちゃんと準備をしていましたから」とのこと。ん? なんか変だな。ぎっくり腰の準備とはどういうことだ。そういえば、かのN君が横断歩道で3歳児の乗る三輪車とぶつかったときも同じ違和感を覚えた。「いやあ、びっくりしました。でも、大怪我をせずにすみました。ちゃんと準備していましたから、ぼくは」とN君。三輪車とぶつかって大怪我をするところだったと心配するN君にも驚くが、この「準備」という言葉の遣いかたが気になる。「火事や地震に備えて用意する」とは言うが、「準備する」とは言うまい。「準備」は概ね、あらかじめわかっていることや予測できることに対して用いるが、「用意」は不測の事態に備えるといった意味合いがある。(2011-1-21)

(89)気の置けない人

N君が訊く、「先生のお友達のA教授ですが、どんな方ですか」と。「いや、なかなか気の置けない男だよ」と答える。N君、困った顔をして云う、「では、私は、今回は、……」「どうしたの」「いやあ、私はどちらかというとフランケンシュタイン(フランクのつもりらしい)のほうですから、堅苦しいのは苦手ですし、やっぱり今回のお供は他の方に……」「えッ、彼はほんとに気の置けないヤツだから、大丈夫だよ。それに今夜はすき焼きをつつきながらの会食だから」「えッ、すき焼きですか。じゃあ、どうでしょうか、すき焼きをいただいたらすぐ私は失礼することにして、そのころTSさんに来てもらい交代させていただいたら……」「TSさんは食事はどうなるの?」「まあ、そのすき焼き屋の近くのマクドナルド辺りですませておいてもらって。いや、ダブルバーガーにチーズもついた、……」「……」「あのォ、ビッグマックのほうがいいでしょうか、やっぱり、……」聞いていたTSさんのコップが倒れて飲んでいたインスタントコーヒーがN君が愛用している白いかばんの上に飛び散った。偶然だろうか。少し、怖い。*「気の置けない人」というのは、「気遣いをしなくてもよい人。堅苦しくない人」の意。近年、「気を許せない人。油断できない人」の意で用いている人がいるが、これは誤用。 (2011-1-20)

(88)あられもない

日本に出張して驚くことの一つに道行く人たちのおしゃれな姿がある。若い女性が着飾るのはわかるが、男性も、しかも中年とおぼしき年齢の方までがずいぶんおしゃれに気を遣っているなあと感心させられることが多い。いいことだ。けれども、中身の成熟度の感じられない中年がおしゃれだけに心を砕いている姿はいただけない。若者には醸(かも)しだすことのできない趣きが中年のおしゃれの核に感じられなくては。ところで、このおしゃれであるが、若い女性が電車の中でお化粧をしている場面に何度か出くわした。満員の電車の中で、一心不乱に手鏡(コンパクトというのだそうな)を見つめながら格闘している姿を初めて見たときは、これは何かお笑い番組の一シーンでも撮っているのかなと辺りを見回しカメラを探したが、そうではなかった。「あはは……」と声を出して笑いかけて、周りのとがめるような視線にその声を飲み込んだ。「あられもないなあ」と小さくつぶやいたぼくのそばにいたN君、「あられですかぁ、次の駅に売っているかもしれませんから、探してみます」とのたまった。ああ!*「あられもない」:文語「あられもなし」。「あら」+「れ」+「も」+「なし」と分解。「あら」は動詞「あり」(=ある)の未然形。「れ」は可能の助動詞「る」の未然形。この後に打消しの助動詞「ず」の連体形「ぬ」が省略されている。「も」は助詞、「なし」(=ない)は形容詞。存在可能なことではない、あり得べくもない、つまり、とんでもない、はしたない、の意。 (2011-1-11)

(87)ビーフ

かのN君がクリスマス・ホリデーを利用してロンドンにやってきた。仲の良い才女・TSさんも一緒だ。二人はスコットランドへも足を伸ばし、エディンバラのホテルから写真入の便りをよこした。はるかな草原に数多くの牛の草を食む姿が写っている。列車の車窓から撮ったのだろう。手紙には「イングランドからスコットランドへ向かう途中、数多くのビーフの群れを見ました」とある。新年早々ぼくは頭の痛みを覚えたのだった。*beefは牛肉のこと。牛の総称はcattleであるが、一般には雌牛の意のcowsを牛の総称として用いている。雄牛はa bullで、食肉牛をan ox (oxen) とさまざまに言い分けている。いつも英語のほうがこのように細かく表現するかといえばそうとは限らず、日本語の「稲・米・飯(ごはん)」はすべてriceですませてしまう。それぞれがそれぞれの生活や文化の上で、どのような意味を持つかによって、つまりは重要性によって細分化されていくといった現象である。(2011-1-5)

(86)食間

日本出張中は勝手が違うせいかいろいろな失敗をしてしまう。主治医から飲むようにいわれている薬をつい飲み忘れたりするのだ。そう話したら才女のTSさんが気を遣ってくれて、薬を飲んだかどうかを細かく確認してくれる。才女は優しくもあるのだ。N君も一緒に大阪で食事をしているときの話である。才女が云った、「先生、お薬を飲んでください」と。口の中にこれ以上入らないくらい焼肉を詰め込んでいたN君、ビールでそれらを一気に飲み込むと才女に向かってあわてて云った、「なに云ってんだよ、先生の薬は食間に飲むヤツだよ」。才女はあわてず微笑みながら云う、「だから食事をしているその間に飲む薬でしょ」。N君、「あっ、そうか、そうだよね。先生、早く飲んだほうがいいですよ」。ぼくは幸せなのだが、なぜか頭が痛くなるのだった。*【食間】は通常、食事と食事の間を意味する。ところがである、広辞苑にはそうとしか書かれていないが、日本国語大辞典を引くと、まず最初に「食事をしている間。食事中。」とある。なんと、才女の解釈も成り立たなくはないのである。英語では、between mealsduring a mealのようにはっきりと区別できるものであるが。(2010-12-21)

(85)コミット・オミット・メリットとポチのおしっこ



外来語というのはもともとは外国の言葉で、日本に伝わって日本語になったものという意味である。であるから、ほとんどの日本人に理解され、日常的に使われていなければ外来語ではない。外国語をカタカナ表記したに過ぎない外来語もどきがあふれている。日本はますます高齢化社会となっていくらしいが、言葉の輸入が加速化してしまうと、認知症(この言葉は嫌いだ!)でなくても同じ日本人の話す言葉がわからなくなってしまうのではないかと心配する。涙ながらに聞いたある老人の話である。孫に頼まれて買ってきたシャンプーの名前がメリットで、三世代同居家族にもメリットがあって、すべての家庭内行事にきちんとコミットしないとオミットされてしまうとため息をつく老人たちは幸せなほうらしい。頑固一徹ではいけないとほんのちょっと前までオムツをしていた息子が親に向かって説教をする。何事にも風呂敷を使わなくちゃあと息子の嫁が言うので、よく意味がわからなかったけれどとにかく風呂敷がたくさんいることになるのだなと三越に行って買い込んだら、フレキシブルとかいうことだったらしくて悔しいことに嫁の親にまで笑われた。あの親だって、モチベーションをポチのおしっこと勘違いしていたじゃないか。とにもかくにも、ああ、困ったことだ。 (2010-12-14)

(84)こんこん

11月に雪が降るなんて、ロンドンでおよそ24年間暮らしているぼくも初めてだ。英国中が寒さに震え上がっている。雪のために空も陸も交通が麻痺している。いろいろと困っている人たちが大勢いるんだろうなあ。そういった人たちには申し訳ないが、ぼくは雪の降る風景が好きだ。大雪もささやかな雪もそれぞれに情趣を感じる。「雪やこんこ、あられやこんこ」という歌があった。懐かしいなあ、あのころが。この「こんこ」、「こんこん」と同じだが、雪やあられの降るさまをいう他にもいろいろな意味がある。咳の声や堅いものが打ち当たって立てる音、これらはいわゆる擬音語(擬声語)で、雪やあられのそれは擬態語である。狐の鳴き声を「こんこん」と表し、そこから狐自体を「こんこん」という場合もある。もっとも実際は、狐の鳴き声は「こんこん」とは程遠いが。N君に少しだけ話を聞かせたら、ぼくは「タヌキも好きですけど」と、やっぱり。(2010-12-7)

(83)風上に置けぬ

N君が新聞のスポーツ面を読みながら、「うーん、大したもんだ」と感心している。「ん?どうしたんですか」と才女のTSさんが訊ねる。「いやあ、ゴルフの遼君だけどね、若いのに立派だよね。精神力が求められるゴルフであれだけの成績を残せるとは、ねえ。ぼくが遼君の年齢のときと比べてもなかなか大したものだよ、うん」「えッ、まあ、そうですねえ、……」 TSさんはN君が石川遼と自分とを比べようとするその神経の太さというか不思議さに恐怖感を抱いている。「ぼくにとって石川遼は風上にも置けない存在だなあ」とN君、しきりにうなづきながらつぶやいている。TSさん、何が何だか分からなくなって、頭痛がする。どうやら勝手にライバル視しているようなのだが。*【風上に置けぬ】いやな臭いを放つものが風上にあると風下にいるものが迷惑をするという意から、卑劣な人間を軽蔑して云う。(2010-12-1)

(82)オンナノコ

日本出張中、ホテルで何気なくテレビドラマを見ていたら、会社の上司が電話で、「では、オンナノコに取りに行かせますので……」と言っていた。その上司に呼ばれた女性は立派な大人で、オンナノコというには何か違和感を覚える。なんだかバカにしている感じだ。けれども誰もがそう呼ばれて嫌な感じをもつとは限らないのだそうだ。研究所の女性スタッフたち、オンナノコと呼ばれたがっていると、いつだったかN君が、えへら、えへらと笑いながら言っていた。N君、そういったことにはすこぶる観察眼が鋭い。この「ノコ」の部分に若さが表現されているというのだが、ああ、そうか、女性スタッフを見回してみると、そういった表現だけでもしてほしくなるというのも分からないわけではないなあ、ついつぶやいた。その日、オンナノコがいれてくれたお茶の苦かったこと、苦かったこと。反省。(2010-11-22)

(81)しもやけ(霜焼)

「霜焼の手にオルガンの蓋(ふた)を開け」(西山小鼓子)という俳句がある。蓋を開けるのは凛(りん)とした女教師だろうか、それとも清楚な美少女だろうか。その小さな手の甲(こう)がかすかな赤みを帯びている。「霜焼」は晩冬の季語である。しかしながら、今朝のロンドンはよく冷えた。まだ手袋は早いだろうと思っていたが、今朝は手袋をしてくればよかったと悔いた。晩冬どころか、これから冬に向かおうというのに。ところでこの「しもやけ」、かつては「しもくち(霜朽)」といっていたが、中世末期に「しもばれ(霜腫)」があらわれ、その後うまれた「ゆきやけ」と混淆(こんこう)して出来た語といわれている。「しも」が原因を、「やけ」が症状のありさまを表している。むろん今朝のN君の鼻が赤いのは、昨夜焼酎を飲み過ぎた二日酔いによるもので、風情などとは程遠いのである。ああ(2010-11-15)

(80)三四がなくて

日本出張中の大阪のホテルに教え子が訪ねてきた。ある公立大学の先生をしているHK君である。HK君は方言研究、日本語研究に取り組む秀才で、彼と語り合う時間はとても楽しい。同席したN君に、「あの有名なN君とはあなたですか。いつも〈日本語を歩く〉を読んでいますよ。有名人に会えて光栄です」と挨拶した。困ったことにN君、その気になった。「いやあ、それほどでも……」お酒を飲みながらHK君と話をしていると時折、N君が口をはさむ。HK君が「私は一に日本酒、二にビール、三四がなくて五にワインですねえ」と好きな飲み物を挙げると、すかさずN君、「私は一にビール、二に日本酒、三に焼酎、四にワイン、五にウイスキーですねえ」 N君が話すたびにぼくの酔いは醒めていくのだった。*HK君にとって、日本酒とビール以外はあえて挙げるほどではないがまあ、ワインかなあという意味で用いられた「三四がなくて」。N君、五まで挙げなくてはと思ったらしい。読者諸氏の思われている通り、N君にとってはお酒であれば、この順位はもともと関係ないのである、何であっても。(2010-11-08)

(79)紅白

日本出張の際、福岡の博多に行った時のことである。N君、この街に来るとうれしくてたまらない。あの豚骨ラーメンをたっぷりと食べられるし、魚もうまい。仕事をしに来ていることなど全く忘れている。何しろポケットから出したスケジュール表が、なぜかラーメン屋さんのリストだったりするのである。そのN君がしかられた。研究所の卒業生で、大先輩のOM先生との会食の席である。OM先生はいま、福岡のG日本語学校の教務主任を務める第一線の日本語教師である。G日本語学校の日本語教育を日本一にしようといつも頭の中はそのことでいっぱいである。さて、たっぷりと酒を飲み、得意な芸能の話題を始めたN 君であったが、年末の紅白歌合戦の出場歌手についてOM先生に訊いた。「OM先生の若い頃の出場歌手というと、三波春夫とか村田英雄とか、そういった人たちですか、へへ……」 これはまずいぞと思ったぼくであったが、この後の展開にも興味があったので知らんふりを決め込んだ。「なにッ? じゃあ訊くけど、N(「君」が省略されていた)、紅白の紅って、どういう意味?」「はあ、赤という意味だと思いますが……」(声が震えている) 「ではどうして赤白歌合戦と云わないの?」「えッ、……」 良い質問だ、さすがOM先生である。OM先生が勝ち誇ったように胸を張る。N君は震える手で、それでもなお、料理されても身をよじらせる烏賊(イカ)の刺身に箸を伸ばしている。すると突然、OM先生がはにかむような笑顔でぼくに訊いた、「先生、どうしてですか?」*「紅白の垂れ幕」「紅白まんじゅう」というように、「紅」は鮮やかな赤の意で、晴れやかな時の赤に用いる。「赤」は赤色全般を指す。よって、信号の色は赤で、紅ではない。(2010-11-01)

(78)下手

コンピュータのワープロ機能(ワード)で文章を書こうとして変換キーを押すと、同音異義語の候補が並ぶ。便利なものだが、結局その語の読みを知っていなければ入力ができないのだから、その語にはたどり着くことはできない。そう思っていたところが、「下手」という語を入力したいとき、「へた」と読むべきところを「したて」と誤読して入力しても、何とかその語が出てくるのではないかと思いついた。実験してみるとやはりそうだ。ということは大変な誤読あふれる文章も読み手にはばれない場合があるということだ。そう思って注意して聞いていると、面白い場面に出くわした。「ほんとに、人がシモテに出れば調子に乗って……」、N君が怒っている。どうやら「したて(下手)」のことらしい。N君が舞台の上に出て行ったわけではない。このような怒りかたをしても、相手は笑ってしまうだけで迫力はないだろうなあ。N君がコンピュータで文章を書くときは、「したて」というところを「しもて」と書いて変換させても、彼の思っている漢字が現れるのだから、なかなか間違いには気付きにくい。「一見さんお断り」とあっても、「いっけんさん」と呼ばれているのかもしれない。まあ、平和なことだ。 (2010-10-03)

(77)住めば都

好青年・N君の故郷は奈良の山奥らしい。子どもの頃は熊と相撲を取って遊んだというのが自慢である。誰も信じてはいないが。そして偶然だが、あの才女・TSさんもその隣町の出身らしい。TSさんによれば、彼女の住んでいたところはN君の住んでいたところと違って、新宿のように高層ビルが100も200も立っているのだそうだ。し、信じることにしよう。さらに、あの心優しきTD先生の奥さんのJ子さんも奈良が故郷である。今度からスタッフの採用にあたっては、奈良の方は避けようかなあ、あまりに個性的で優秀なので。ところで、N君に東京の住み心地を訊いてみた。なぜか親指と人差し指で顎を支えてポーズをとったN君、「住めば都というじゃないですかあ。やっぱり東京は首都ですからねえ。いいですねえ」とTSさんに同意を求めた。TSさん、にっこりとうなずいた、ように見えた、た。【住めば都】どんなさびしい田舎や不便な所でも、住み慣れれば住みよくなって、離れにくいものだということ。(日本国語大辞典)【住まば都】住むなら都がよいということ。(同) (2010-10-02)

(76)小耳にはさむ

またまた、かの好青年・N君の素晴らしき勘違いの話である。どうやら恋をしているN君であるが、その詳細、つまり相手が誰であるかとか、どのような段階まで進展しているかなどといったことはできるだけ訊かないことにしている。今は頭を奇妙な形で疲れさせる余裕がぼくにはない、仕事が山積みなのだ。目も合わせないようにしている。ところが、である。N君、さっきからじっとぼくを見つめている。危険だ。しばらくしてぼくは、コンピュータで疲れた目を休めようと窓の外を見ようとした。えッ! そこになぜかN君の顔があった。「よしッ!」N君は気合を入れるとぼくに云った、「センセー、ちょっと、折り入って小耳にはさんでいただきたいことがあるんですが……」 最初から、ぼくはめまいがした。目薬では治らない。【小耳にはさむ】聞くとはなしに聞く。偶然に聞く。(広辞苑)(2010-10-01)

(75)片棒を担ぐ

日本出張中のことである。ぼくはコンピュータと格闘しながら、新しいプロジェクトの開発に取り組んでいた。その仕事が深夜に及んだある日、才女のTS さんがおでんを作ってオフィスに現れた。優しい気持ちによる差し入れである。もちろんそれを運ぶという力仕事はN君の役目である。感激するぼくであった。N君が云った、「いやあ、先生にそんなに喜んでいただいて、片棒を担いだ甲斐がありました」と。おでんに添えられた辛子はそれほどでもなかったのだが、涙があふれて仕方なかった。N君はそのぼくを見て、さらに嬉しそうにうなずいていた。ああ。【片棒を担ぐ】一緒にある企てをする。荷担する。多く、悪い仕業に云う」(広辞苑)(2010-09-30)

(74)過大な努力

尖閣諸島沖で起きた中国漁船衝突事件について、インターネットで新聞各紙のニュースを読んでいたら、産経新聞の記事に次のようなものがあった。<石原知事は「中国がアジアにとって迷惑な存在だったら、皆で防がないといかん。日本も過大な努力をしなくてはいけない」とした。>さあ、大変だ。石原都知事に従えば、日本は、これは過ぎるのではないかと思われるようなことまでやらなければならないようだ。「過大」とは「大きすぎること」で、「すぎる」のであるからよくないと考えられることである。石原知事はよくないこともやれと云っているのだろうか。いくらなんでもこれは新聞記者の聞き間違いではないか。右寄りの石原知事ではあるが、著名な作家でもあり、このような明らかな誤用をするとは信じがたい。N君がそれを聞き、「ぼくにも都知事になる可能性があるかもしれない」と「過大なる期待」を、いや「異常な期待」を口にした。恐ろしい状況になったものである。(2010-09-20)

(73)かわいい子には旅をさせよ

心優しいTD先生は机の下に大きい貯金箱を置いている。ブタの形をしたもので相当な量のお金が入るだろう。お金を貯めてどうするのかと訊くと、愛する息子のA君をフランスのディズニーランドに連れていくためだという。「かわいい子には旅(たび)をさせよ、って云うじゃないですか」と朗らかに笑う。頭痛に耐えながらこの話をTT先生にする。プッと吹き出したTT先生は「そんな意味じゃあないですよねえ」と、さすがである。そして、クラシック・バレエのそれなのか足を奇妙に配置させたまま、云った、「小さいうちは靴下よりも日本の足袋(たび)の方が足のために良いってことですよねえ」と。ぼくはしばらく寝込むことにする。ああ。
*「子供は、甘やかして育てるより、手許からはなしてつらい経験をさせ、世の中の辛苦をなめさせた方がよい」(広辞苑)(2010-09-20)

(72)胸騒ぎ

N君の顔が赤い。「ん? どうかしたの?」と訊くと、「えへッ」と応える。気持ち悪いので無視していると、何も訊いていないのに、「えへッ、えへッ」とゾッとするような笑顔をこちらに向けてくる。やっぱり訊ねてほしいようなのだ。仕方なく訊いてやる、「どうしたの?」「いやあ、訊かないでほしいですねえ」「そう、わかった、じゃあ訊かない」「先生って、冷たいなあ」 意地でも訊くものかと知らんふりをしているとまた、「えへッ、えへッ」とこの奇妙な動物は鳴くのだ。同僚の才女TSさんによれば、朝からこの調子なのだそうだ。TSさんの話では、近くのお弁当屋さんの若い女の子が、N君が弁当を買いに行くと必ず決まって鶏の唐揚げを一つおまけしてくれるのだそうだ。「どうやらぼくに気がありそうだ」というのがN君の推察で、「このままだと何か起りそうな胸騒ぎを覚える」のだそうだ。「それは困ったねえ。ストーカーか何かで追いかけられそうってこと?」と訊くと、「どうして先生は悪い方に取るんですか? とっても可愛い子で、そんなことをするような子じゃないんですから」とニタニタとよだれを垂らしながら笑う。「胸騒ぎがする」というのは、「よくないことが起こりそうな予感がする」ということなのだが。ところでその女の子であるが、TSさんによればお弁当屋さんのお孫さんで、小学2年生だという。N君(30歳)のことを考えるとぼくは、胸騒ぎがして眠れない。(2010-09-11)

(71)弱冠

前号(70「酒池肉林」)を読んだ日本に住むN君からメールが届く。 「いかがわしいパーティーだと思っていました、ぼくも」とのこと。同僚の才女TSさんが広辞苑で確かめて、N君に示した。もちろんTSさんは才女であるから、「酒池肉林」も、近所の酒屋さんの近くにある池のことも、肉屋さんの近くにある林のことも、全部よく知っていると胸を張ったらしい。ぼくにはよくわからない高度な話である。ところでN君である。友だちが弱冠30歳で会社の社長になったと興奮気味に云うので、「すごいじゃない、その友だちは20歳なんだね」と念のため確認する。「いえ、30歳です」との応え。「弱冠」とは本来、「(古代中国で男子20歳を<弱>といい、元服して冠をかぶったことから)男子の20歳の異称。また、成年に達すること」(広辞苑)なのである。「年が若い」という意味でも最近は用いるようになっている(「弱輩」「弱年」)が、ことばの本来的な意味は大切にしたい。その友だちの会社、今まで友だちのお父さんが社長だったが、高齢のため息子である友だちに社長のイスを譲ったらしい。唯一の社員であるお母さんとの3人の組織らしい。「弱冠なる社長」ではなく「若干なる社長」の方が適しているかもしれないなあ、などと冗談を云ったら、N君が真面目な顔をして云う、「いえ、お父さんは今まで使っていた椅子をそのまま使うそうで、友だちもいままでと同じ椅子だそうです」と。いやはや高度である。(2010-09-02)

(70)酒池肉林

ある日の夕方のことである。ぼくの友人が電話をかけて来て、「酒池肉林のパーティーを開くから来ないか」と誘う。ぼくには先約があったので、(やらなければならない仕事を後回しにしているために退屈そうにしている文献室の)TD先生に、「代わりに行ってこいよ、酒池肉林のパーティーらしいよ」と勧める。「えッ、あッ、あのう、いいんですか、行っても」。なぜだかTD先生の顔が赤い。舌ももつれている。TD先生が不思議な興奮と共に出かけた後、TD先生の優しい奥さんのJ子さんから電話があった。「彼はぼくの代わりに酒池肉林のパーティーに出かけましたが……」と伝えると、激しい音と共に電話が切れた。あくる日の朝、TD先生の顔に絆創膏が貼られており、「どうかしたの?」と訊くと、「勘弁してくださいよォ、家内がァ、いやァ、ほんとにィ」と、云っていることがよくわからない。「信じてくれないんですよォ」。どうやらぼくが「酒池肉林」と伝えたことがよくなかったようだ。でも、どうしてだろう。「酒池肉林」の何がよくなかったのだろう。「お酒や肉といったお料理が豊富な豪華な酒宴」という意味なのだが。(2010-08-31)

(69)通

江戸時代の美学に「通(つう)」というものがある。広辞苑によれば、「ある物事について知り尽くしていること」「人情や花柳界の事情などをよく知っていて、さばけていること。やぼでないこと。また、その人」とある。そこへ例の、そうN君が登場して云う、「あ、オタクのことですね」。「特定の分野・物事にしか関心がなく、そのことには異常なほどくわしいが、社会的な常識には欠ける人」(広辞苑)というのがオタクと呼ばれる者たちであるようだが、「通」とオタクが同じであるなどとんでもない。オタクという者たちにはジメジメして匂いを放つような薄暗さを感じるが、「通」は「粋(いき・すい)」と同じでむしろ華やかで格好良く、社会的に日陰に追いやられてはいない。足の裏に虫を飼っているN君がボリボリ掻きながら云う、「ぼくは水虫用のいろいろな薬について、えへッ、まあ誰よりも詳しいと思うんですが、どっちでしょうか、ツウですか、それともオタクですか、先生?」 知らんッ!(2010-08-21)

(68)あんパン

日本出張中はよく「あんパン」を食べる。コンビニをのぞくと数多くの菓子パンが並んでいるが、何といっても「あんパン」である。濃い牛乳との相性が極めて良い。この「あんパン」、書物によって誕生年にズレがあり、1874年とも1875年ともいわれる。明治の初めに誕生したが、東京銀座の木村屋の発明である。「何だ何だ喧嘩かと喰べかけの餡パンを懐中に捻じ込んで」と樋口一葉の「たけくらべ」にも登場する。ところで、「あんパン」が季語であることをご存知の方がどれだけいるだろうか。坪内稔典「季語集」(岩波新書1006)によれば春の季語なのだそうだ。草餅(よもぎ餅)が春の季語というのはわかるが、「あんパン」にも季節があったとは。途中から話に加わったN君、何を勘違いしたのか、のたまった、「えーッ、先生、アンパンなんかして大丈夫ですか?骨がボロボロになると聞いていますが」。どうやらシンナー遊びを差す俗語のアンパンのことを云っているようだ。1970年の中頃から流行り始めた遊びで、ビニール袋でシンナーを気化させて吸う姿が袋に入った「あんパン」を食べる姿に似ていることからそう呼ぶようになったらしい。それにしても、いつもながら、N君の語彙力の偏りには脱毛、いや脱帽である。(2010-08-16)

(67)確実・絶対

わからないことがある。選挙の開票速報の際に流される「当選確実」である。開票率5パーセントで「当選確実」が出されることがある。まだ95パーセントも残っているのに、どうして「確実」なのだ。開票に従事する者たちはひょっとするとこっそりのぞいていたのか。いやいやそんな、N君が考えそうなことはあるまい。この「当選確実」を過ぎると、「当選」になる。つまり、「確実」はあくまで可能性が極めて高いということで、決定ではない。広辞苑氏はいう、「確かで、間違いのないこと」と。しかしまだ、何となく頼りない。似たことばに「絶対」というものがある。「どんなことがあっても必ず」(広辞苑)という意味だそうだが、怪しい。福岡空港で本屋をのぞきたかったぼくはN君にカバンを託した。「とても重要なものがたくさん入っているので」とN君に預けたのである。ベンチで待つN君は云った、「しっかり注意して見ていますから、絶対大丈夫です」と。10分程経ってから戻ってみると、N君は鼻に提灯を膨らませながら熟睡していた。口からは涎が垂れている。幸せそうないい寝顔だ。彼の隣にはぼくの大切なカバンが不安げにポツンと腰かけていた。(2010-08-09)

(66)二階から目薬

コンピュータを見つめている時間が長いせいか、目が疲れる。コンタクトレンズを入れた目が乾いて、つらい。たびたび目薬をさすのだが、楽になるのはそのときだけで、すぐまた乾くのだ。ところでこの目薬だが、英国製に比べて日本製が断然いい。清涼感が全く違う。そこで、日本出張の際は大量に買い込むことにしている。N君に手伝ってもらい、薬局に行く。ぼくが目薬のコーナーでどの目薬にしようかと考えているとき、N君はなぜか必ず栄養ドリンクのコーナーにいる。お店の人にいろいろ質問をしながら、不思議な笑い声を立てている。N君の連れだとは思われたくないので、絶対に彼には話しかけないことにしている。ところが、大きな声でN君がぼくを呼ぶのだ、「センセー、このドリンク、イイそうですよー」。頭と性格に効く薬はないのかなあと、ぼくはため息をつく。さて、目薬である。「二階から目薬」ということばがあるが、今の水性の目薬なら何とか命中させることもできるかもしれないが、このことばができた江戸初期の目薬は軟膏だったので、まず不可能。「思うようにならずもどかしいこと」(日本国語大辞典・第二版)の意で、「二階から尻あぶる」ともいう。(2010-08-03)

(65)二の足を踏む

住み慣れた日本を離れ、いざ海外へとなると、「二の足を踏む」人が多いと聞く。今朝届いた卒業生からのメールもそうだ。研究所の日本語教師養成課程を卒業したSAさんはタイにある日本語学校で働こうと在学中に志願した。日本の有名私立W大学が開校した日本語学校だ。書類審査を通過し、面接試験を経て、めでたく合格した。さあいよいよとなった時、SAさんは本当にこれでよいのかと自問した。常に真摯に物事に向かい合うSAさんらしい迷いだ。「二の足を踏み」かけたSAさんはしかし、そういった思いと「並走」しながら、「がむしゃらに努力していきたい」と決意した。清新な日本語教師の誕生である。ところで、この「二の足を踏む」である。「(一歩目は進みながら、二歩目はためらって足踏みする意から)思いきって物事を進めることができないさまをいう」(日本国語大辞典・第2版)ということだが、一歩目を踏み、さらに二歩目を踏むということだから、前進していくということではないかとの質問を受けた。なるほどもっともな考え方だと云いたいが、この「足踏み」するということばの意味がやっかいなのだ。「足踏み」には「場所を動かずに、歩く時のように両足をかわるがわる上下すること」(同)という意味もあり、これでは前へは進まない。足を上下に動かすだけで、前へは進まない、つまり前へ向かっていこうとは思うのだが、ためらいがある、というもどかしい状況である。(2010-07-26)

(64)tattoo

日本に出張した際泊まったホテルで散髪をする。ホテルの一室を改造したような散髪屋さんで、椅子は二つしかない。ホテルが誇る庭園を見下ろしながら、薄くなった髪を刈ってもらうのである。刈り取った髪の毛を頭の隙間にもう一度植えてくれないかな、などと愚かなことを考えていると、どこからいらっしゃったのですかと訊かれた。イギリスのロンドンからですと答えると、先日はサッカーのベッカムの髪を切りましたとのこと。むむ、この椅子に座って彼はどんなことを考えたのかな。彼もこのホテルに泊まったということだが、はて、彼は確か入れ墨をしていたが、ホテルのプールやスパには入れたのだろうか。というのは、たいていのホテルのプール等には「入れ墨をした人お断り」の表示があるからだ。ベッカムは特別なのかな、でももしベッカムを特別扱いにしているところを登り竜なんかの本家本元の入れ墨の怖い方が見ていたりするとちょっともめるだろうな。ところで昇り竜のような迫力のある入れ墨ではなく、「○○命」などのような、恋しい人の名前に「命」という文字をくっつけて入れ墨にしている女性がいるのだそうだ。「N君命」なんていうのは、いややっぱりないだろうなあ。江戸時代の遊郭から起こったというこの入れ墨であるが、客寄せの手段だったという説もあって、名前の部分はもぐさで焼いて次から次へと変えていくというたくましい女もいたそうだ。この「命」、「あなたは私の命です」といった激しい情愛を感じさせる意味ではなく、「……のみこと」の意で、敬称の「様」のようなものだとする説もあるが、それでは趣に欠ける。二の腕に彫られた自分の名前を見て、女の愛に心を震わせるか、体が震えるか。訊いてもいないのにかのN君、ぼくだったらどうかなあとつぶやくのだった。ああ、怖ろしい。(2010-07-20)

(63)そ、そんな、……

会議中、スタッフのそれぞれの癖を分析する。たとえばTT先生の場合、癖というか得意技というか、会議開始後2、3分もすれば彼女の頭は大きく前後に揺れ始める。大きく肯(うなず)くことを繰り返すのである、だれも話をしていないときでさえ。あるいはTD先生の場合、彼の腰掛ける辺りにはいつも小さな地震が起きているらしく、右の脚が小刻みに震え続ける。彼の関心はずっと遠くの事柄にいっているか、何にも向けられていないかのどちらかであることがよくわかる。MN先生は他の人が発言している最中に左の腕にはめた時計を何度も見ることで、長いなあ、早くやめてほしいなあと無言の要求をする(圧力をかける)。FJ先生は自分に関係するやや心地よくないことが話題になると下の顎(あご)をこころもち前に突き出して不敵な微笑みを作る。これがなかなか怖いのだ。MY先生はといえば、答えるべきことで、しかし答えにくい案件には無言で時が過ぎるのをじっと待つ。忍耐強いのだ。KJ先生は、MR先生は、AJ先生は、MJ先生は、ときりがないが、この観察は結構面白いのである。長い会議も退屈しない。さて、お待ちかねのN君であるが、先ほどからTSさんに叱られている。「会議中にチューインガムを噛むのはやめてください。下品です」「まあ、少しぐらいは」「だめです、これからもしガムを噛んでいたら罰金として毎回千円をいただくことにします」「そ、そんな、……」TSさんは潔癖なのだ。ところで、この「……」である。印刷用語ではリーダーと呼んでいるようだが、大正時代から使われるようになった。最後まではっきり言わないであいまいに済まそうという日本人の言語生活においては重宝されているが、最近のメール・コミュニケーションの時代にあってはさらに便利なツールとなっている。つい一昨日のことである。日本の大学教授をしている友人からメールが入り、その文面はただ「……」とある。いよいよ彼も息絶えようとしているのかと期待、いや心配していると、「間違って送ってしまいました」との追伸あり。馬鹿もの!(2010-07-05)

(62)回らない寿司

日本出張の際、横浜の大学から講演を頼まれた。N君が同行する。横浜駅に着くとN君が言った、「まだ時間がありますから、お昼(昼食)をとられた方がよいのでは」。ウン、よく気がつくなあと感心しながらN君について食堂街を歩く。N君が寿司屋の前で立ち止まる。なるほど、そういうことか。カウンターに並んで腰掛ける。ぼくがいくつか注文した後、N君が言った、「あのう、マグロとイクラとイカを一皿ずつ」。この「一皿」の意味するところがしばらくわからなかったが、寿司職人のおじさんが握ったマグロを差しだす時の言葉で、ぼくもようやく理解したのだった。「すいませんねえ、うちはここが回らないもんですから」とカウンターを小突いた。それに対してN君が訊いた、「こういうお店もお寿司屋さんというんですか」と。おじさんの包丁を握る手に力が加わったのをぼくは確かに見た。ところで、寿司を数える際、「カン」という助数詞を用いるが、この「カン」の正体がよくわからない。「巻き寿司」の「巻」であるという人もいれば、昔の金銭の単位である「貫」から来ているという人もいる。いずれもそれらしく聞こえるが、決め手には欠けるのである。(2010-07-05)

(61)狐と狸

ロンドンの街を徘徊するアーバン・フォックス(狐)が増えているように感じる。D.H.ローレンスの作品The Foxを思い出すが、官能的な小説世界とは異なり、幼い子どもが襲われるなどの被害が報じられている。「牝狐(めぎつね)」とは「男をだます悪賢い女をののしっていう語」(広辞苑)で、あまりお近づきになりたくはない。一方、狸は「とぼけた顔をしながら実際には悪賢い」(広辞苑)にも関わらず、腹鼓(はらつづみ)を打つとされるなど、かわいげが感じられる。「狸おやじ」もどこか間の抜けたところがあるのではとの油断をさせる。いずれも決して歓迎されざる生き物であるが、何を勘違いしたのかN君が「ぼくはキツネの方が好きです。でも、できれば天麩羅にしてもらえませんか」と嬉しそうに宣(のたも)うた。そうか、そういえば似ているな、ウドンとグドン。(2010-06-21)

(60)鳩

我が家のファイアープレース(暖炉)の中からなぜか鳩のなく声が聞こえる。昨日もその前も火を入れたのだからまさかそんなことはあるまいと思うが、子どもたちはネスト(巣)でもあるのではと心配する。ク・ク・クウというなき声を聞きながら考える。この鳩という文字の[九]という部分は泣き声を表しているのだが、最近退陣したばかりのかの国の首相も泣いただろうかと。さらに、[鳩首]ということばがあるが、何でも約(つづ)めて表現する若者の言葉遣いを真似てみれば元首相を指すことになろうか。この[鳩首]、「人々が集まって相談すること」(広辞苑)の意だが、むしろ、追い詰められ、孤立した首相の喘ぎが痛々しかった。「鳩」には「あつまる、あつめる」(字通)の意がある。(2010-06-21)

(59)鉄砲

子どもたちが幼い頃、田村魚菜という有名な料理人がやっている河豚(ふぐ)料理店に連れて行った。おなかのすいていた子どもたちは大皿にきれいに盛られた(貼りつけられた)フグ刺しを瞬く間に、数分でたいらげた。「パパ、このお刺身、なんだか薄いね」と幼稚園年長組の長男が言い、年中組の次男は「足りない」と目で訴え、2歳の長女は「パパ、これは何かの間違いでしょ」と笑っている。日本酒でゆっくり味わおうと思っていたぼくは、油断したのだった。さてこの河豚であるが、福岡や下関では「ふく」と呼んで、「福」に掛ける。大阪では何と「鉄砲」という。「あたると死ぬ」という駄洒落である。さすがは笑いの都、大阪である。さらに「あたる」である。「命中」という語があるが、この「中」には「真ん中」という意味とともに「あたる」の意がある。世に根拠なく人の悪口を触れまわるろくでもない、気持ちの悪い人間がいるが、その「中傷」の「中」もこの「あたる」の意である。「鉄砲」に「あたって」死んだとしても、だれも悲しまない悲しい人間である。(2010-06-14)

(58)虫

日本国語大辞典で「虫」を引くと、何と66もの慣用表現が見出しとしてあげてある。これに類似表現を加えると軽く100を超えてしまう。「虫」そのものの説明の一つに「人間の体内にいるとされて、身体や感情などにさまざまの影響を与えると考えられたもの」(日本国語大辞典)とあるが、この意が慣用表現を量産する。「虫が好かない」「虫がいい」「虫の居所が悪い」「本の虫」「浮気の虫」などというが、この表現の豊かさはなんとなく気になる。これはおそらく日本人の無責任さに由来する。つまり、感情に左右された軽はずみな行いを、自分の身に巣食った虫のせいにして、責任をとろうとしないのである。本来の自分は誠実で極めて冷静なのだが、どうも身に取り付いた虫がいけねえや、というのである。だから、その虫は追いだすことも封じ込めることもできるのだ。この話を聞いていたN君が、なるほどと云いながらぼりぼり頭を掻いている。どうやら虫を飼っているようで。風呂にはいれッ(2010-06-07)

(57)がんばる

古い歌だが、さだまさしに「関白宣言」というものがある。結婚する前に妻となる女性に申し渡しておくといった威勢のいい歌だ。ところがこの歌には「関白失脚」という続きがあって、結婚した後、意に反して尻に敷かれている男の哀れな様が描かれる。どちらの歌にも実は愛情があふれている。「関白失脚」の最後には、自分が死んだ後も頑張って生きていってくれといった家族への思いが綴られ、「がんばれ」ということばが何度も何度も繰り返される。ここまでくるといつも、涙が浮かぶ。ところで、この「がんばる」生き方が最近は流行らないようだ。「がんばる」ことによって鬱病(うつびょう)に陥る人間が増えたので、「がんばらない生き方をしよう」との呼びかけが盛んだ。身近にもTD先生のように軽やかに時流に乗った人がいる。さて、この「がんばる」であるが、漢字を当てるとすると二種類あるようだ。一つは「眼張る」で、「目をつける。見張る」(広辞苑第5版)という意味である。もう一つは「頑張る」で、「我意を張り通す」「どこまでも忍耐して努力する」「ある場所を占めて動かない」(同)という意味を持つ。後者の意で用いることが多いが、もともとは前者から変化していったのであろう。この語は日本人の精神性を表しており、to persist, to hang on, to do one’s best などの訳では十分とはいえまい。(2010-06-03)

(56)新しいの料理

日本出張中の今夜、日本事務局のスタッフと中華料理店に行く。安くてうまくてボリュームがあるこの店はぼくの好みで、中国人のコックさんが作り、中国人のウエートレスが給仕する。ロンドンのレストランではそれぞれの国の料理はそれぞれの国の人が作るというのは当たり前だが、日本では多くはどの国の料理も日本人が作る。店舗の改装を終えてリオープンの今夜、思ったよりも混んでいない。スタッフは改装前と同じだ。まずはビールだなと思っていると、気のきくN君が素早く注文。彼のメニューを見つめる目つきが鋭い。たじろぐぼくだったが、なんとか体勢を立て直して料理を選ぼうとする。そこへウエートレスの方が近づいてきて云う、「新しいの料理もあるよ」。なるほど。永年日本で暮らすという彼女の日本語にもいろいろな修正すべき点があるようだ。炒められた新鮮なエビを頬張りながら、形容詞の名詞修飾の形と助詞「の」の機能等について考える。おそらく助詞「の」の便利さが勝っていることで、このような表現が頑固に残っていくんだなと思っていると、「センセー、これ、この赤いのソース、辛いですよー」とN君が興奮して云う。口の周りに赤いチリソースをつけたまま恐ろしい勢いで食べ物と格闘するN君を見ながら、ぼくは悲しいの気持になったのだった。(2010-05-17 東京にて)

(55)というひと

「私ってこんな時、緊張してしまう人なんです」 「ぼくは時間の守れない人は許せない人なんです」 こういう言い方をする輩が増えている。どうやらこういった言い方をする方が何となく知的であると勘違いをしているようなのである。自分のことを客観的に分析しているんです、と言いたいのだろうか。もっとひどい輩になると、かくのたまうのだ、「私って酸っぱい味が苦手な人でしょ?」 知らないッ  さっき会ったばかりなのに君の好みなんか知るものかッ。いや、つい興奮するほどいやな云い方なのだ。自分が口にしている食べ物について、「おいしいかもしれない」などという、頭の中がどうなっているのか分からない、あいまいな言い方をするのと同じで、自分のことさえまともなことばで表すことができない者たちは、これからいったいどうやって他の人間とコミュニケートしていくのだろう。 そういうぼくに深くうなづきながら、N君が云う、「ぼくってこういう若者ことばがきらいかも知れない人でしょ?」 (2010-05-10)

(54)いっぺん

講義や教育実習指導のために教室に向かうMN先生はいつも、まず両手の指をぽきぽきと鳴らして気合を入れる、「よしッ、一丁鍛えてくるかッ」。いつも気合の入っているおしとやかな彼女は神戸の出身で、同僚の関西出身の先生たちと話すときは関西弁という外国語(のような日本語)を遣う。バレエに打ち込む古いTT先生は、いやクラシック・バレエに打ち込むTT先生は大阪の出身だが、好きな野球のチームを聞かれると「巨人です」と標準語(を用いて関西訛り)で答える。この二人にある時、云われた。「センセエ、いっぺん明石焼きを食べてみてください、おいしいでっせエ」(正確には書きとれない)。脅されたので、いや勧められたので食べてみた。なかなか、うまい。ところで、この「いっぺん」である。大阪にいるぼくの友人もよく云っていた、「いっぺん来てみてくださいよ」と。ぼくは訊いた、「一度だけ?」。いやいや、この遣い方の「いっぺん」ということばは、どうやら数量を表す意味からは離れて、「ちょっと」「軽く」「ともかく」「試みに」とかいった意で、「一つやってみるか」の「一つ」と同じなのである。(2010-04-28)

(53)下戸

「下戸の肴荒し」(げこのさかなあらし)と云うが、クラシック・バレエに打ち込むTT先生はお酒を飲まない代わりによく食べる。よくしゃべり、よく動き、よく眠る。すこぶる健康で、風邪をひいたことがない。「何とかは風邪をひかない、ということじゃないんですか」とMN先生が笑うが、そうかもしれない。いやいや、そうではない、青汁も飲んでいるし、とにかく健康なのだ。ところでこの「下戸」であるが、お酒の飲めない人の意で、反対語は「上戸」(じょうご)である。日本国語大辞典の[語源説]によれば、「百姓の戸口の多少を飲酒になぞらえたもの。もと民戸の上下についていったものを、儀礼の際の瓶数の多少から飲酒の多少にもいったもの」とある。家族構成人数の少ない家という意で下戸と云っていたのが、飲酒にも使われるようになったということだ。FJ先生は上戸であるが、「肴荒し」も相当なもので、天は二物を与えたとMN先生がまた笑う。 (2010-04-21)

(52)ぼく的にいえば

最近のことば遣いの中で、とても気持ち悪いのが「ぼく的に云いますと…」というものである。本人は真面目に話しているつもりなんだろうが、この表現と出くわした瞬間、「こいつはアホか」と思ってしまう。「あ、知性のかけらもない人間なんだな、この目の前の生き物は」と思ってしまうのだ。なんとテレビのアナウンサーまでが使っていることがあり、誰も注意しないのかと驚く。この〈的〉であるが、明治の初期に洪水のごとく押し寄せた外国語の形容詞を何とか日本語で表そうとした時、つまりたとえばromanticということばを日本語でどう表すかと考えた時、「浪漫的」と中国語で「~の」にあたる助辞〈的〉をつけて表せばなかなか便利だし、座りもよいと盛んに遣い始めたのだった。広辞苑は「名詞に添えて、その性質を帯びる、その状態をなす意を表す」と説明する。「N君の食欲は病的だ」「科学的な教養といえばTSさんに勝る者はいまい」などと遣うのであるが、「人数的には揃った」や「父さん的にはそう思うのだろうが、ぼくには受け入れられない」という表現にはなじまない。えッ、それは先生的な考えにすぎないって? フン!(2010-04-14)

(51)電気

暗いので電気をつける、などとよく云うが、考えてみるとこの〈電気〉ということばはかなりいいかげんだ。この場合の電気は蛍光灯などの照明機器のスイッチをオンにするという意味だが、ぼくの好きな落語の小話には次のようなものもある。「おばあちゃん、カミナリは電気だってね」「嘘おっしゃい、ランプの時代からありましたよ」 アハハ、いいよねえ、落語って。小説などにはこんなものもある。「軟らかな寿代さんの手は敬二の手に触れて、電気を敬二の全身に走らした」(徳富蘆花「黒い眼と茶色の目」) ああ、なんて繊細なんだ。このような時代もあったんだよなあ、かつては。日本国語大辞典ではこの〈電気〉を、「精神的な衝撃」と説明している。ただ、この衝撃だが、精神的であれば何でもいいわけではなく、限られた領域の衝撃でないと使いにくいように思える。手が触れて走る電気をぜひとも経験してみたいものだが、いやいや、感電死という危険もあるのでくれぐれもご用心。(2010-04-07)

(50)ニューハーフ

日本出張中、名古屋から深夜の新幹線に乗った。東京行きの上りである。ぼくの席は車両の中ほどで、荷物を棚に載せて座ろうとすると、通路を挟んだ隣に絶世の美女が座っていた。うわーッ、と声が出そうなほどの美人である。割と混んでいたが、ぼくの席の隣も、そして美女の隣もあいていた。ともに窓際である。美女の前の席にも人はいなかったが、座席には荷物が置いてあり、列車が動き出すと男たちがどやどやとやってきた。別の車両の売店で買ったのか、飲み物を手にしている。大阪から乗ってきたのだろうか、男たちは独特の雰囲気を持っていた。なんだろうな、と思ってみていると、美女が立ち上がった。「あのう、私、ファンです。いつもテレビで見ています」と男の一人に挨拶した。そうか芸能人なのか、だけど、もちろんぼくは、彼らを知らない。途中、新横浜の駅ではホームから多くの若者が携帯電話のカメラでのぞきこむように、そして被写体の前に立ち(座り)ふさがるぼくのことがあからさまに迷惑そうに、彼らの写真をとった。ぼくの座席の方がホーム側だったのだ。どうやら人気者らしい。ところで、である。その美女の話であるが、その芸能人の男に挨拶した際、妙なことばをつかった。「ニューハーフの○○でーす」と聞こえた。すぐにぼくはカバンから電子辞書をとりだして、彼らにわからぬように広辞苑で調べた。「ニューハ」まで押すと、現れたのは「ニューハンプシャー」のみだった。なんだろう、なんだろう、と気になりながら、疲れと列車の振動から迂闊にも眠ってしまった。目を覚ますと、ニューさんの隣にはかの芸能人が座り、極めて親しげな、ここには書けない光景があった。後日ぼくは、博学のN君にそのことばを教わることになるのだが、「男と女」以外にもう一種存在するとは知らなかった。「男と女」のような関係を論理学では[矛盾概念]と呼ぶ。この対立関係は、一方を否定すれば他方であるというような関係である。それに対して、たとえば郵政の民営化に対して「賛成か反対か」というような関係は[反対概念]と呼ばれる。賛成と反対以外に「どちらでもない」といった立場が成り立つような関係である。ゆえに、「美しいと醜い」や「大きいと小さい」などは[反対概念]である。さて、かの芸能人の正体もしばらくして知ることとなった。なんだか高校の理科の、科目名の一つだったと記憶している。(2010-03-31)

(49)うちには入らない

お酒の好きなF先生はかがみこむとじっと見つめた。さあて、どれにするか。スーパーの棚の下に並ぶボトルの中から今夜の晩酌用のワインの物色中である。たまたま出くわした学生のSさんはその時の迫力を「真剣勝負」と表現した。F先生が好きなのは日本酒、焼酎、ワイン、ウォッカである。ビールも好むが、「ビールのようなアルコールの弱いものは酒のうちには入らない」というのが口癖だ。シャワーから上がるとテレビの前にどっかと座りこみ、胡坐をかいて、枝豆の代わりのクリスプス(ポテト・チップス)をつまみながら、ナイター(野球)の代わりのフットボール(サッカー)の試合を見る。その時のワインが最高だと、F先生は云う。ときどき学生の教育実習の時の不手際が頭に浮かんだりするが、彼は、いや彼女はそれを振り切って至高の時間に入ってゆく。ところで、彼女の「酒のうちには入らない」という表現は面白い。では、ビールは何なのだ。「そんなのは勉強のうちには入らない」、「電子レンジでチンしたものなんか料理のうちには入らない」などなど、よく用いる表現である。「あいつは男のうちには入らない」といえば、その人間は女なのか。いや、それでもやっぱり、男なんだろうなあ。つまり、自分の男といった概念から云えば、あいつのような者を男として認めるわけにはいかぬと云いたいのだ。でもやっぱり男なのだが。(2010-03-24)

(48)たまらない

心優しいTD先生の愛妻・J子さんが銀行の預金通帳を見ながらため息をつく、「たまんないなあ」。その脇で鼻の下を長く伸ばしたTD先生が、雑誌に特集された美人女優のグラビア写真を見ながらため息をつく、「たまんないなあ」。二人の様子を見ながらもうすぐ3歳になる息子・Aくんが頬杖をつき、行く末を思ってため息をつく、「たまんないなあ」。同じ屋根の下に暮らしながら三者三様の「たまらない」思い、いや ぁ、日本語って、たまらなく面白いですねえ。 (2010-03-17)

(47)じーじ

心優しいTD先生はもうすぐ3歳になる息子・Aくんが可愛くて仕方がない。たしかにAくんは可愛い。なにしろ父親の弟である叔父さんにそっくりなのだから。このAくん、最近どんどん言葉を覚えてTD先生を喜ばせている。「パパ、食器洗っといて」 「パパ、アイロンは丁寧にかけてよ」 「もうッ、パパ、しっかりしてよ」等々、その内容は少し気になるが、おしとやかな愛妻J子さんの口真似をしてTD先生に話しかけてくる。 TD先生は思わず「はいッ、すいません」と応えそうになったりする。さて、TD先生、ここのところちょっと困っていることがある。Aくんは千葉に住むTD先生の両親が大好きなのだが、その両親のことを呼ぶとき、「じーじ、ばーば」と呼ばずに、「じじー」「ばばー」と呼ぶのである。「よおーし、今日はきちんと教えるぞ」と、いつものように仕事はそっちのけで早々と帰宅した。日本語教師としてこのままではいけないという日頃見られぬ意欲が、帰宅途中の短い脚をもつれさせたほどだ。これで大丈夫だろうとしっかり教えたあくる日である。帰宅してみると、いつも優しくおしとやかな愛妻のJ子さんがAくんをお風呂に入れている。バスルームからは母と子の幸せな会話が聞こえてくる。「ねえAくん、今度日本に戻ったら、じじーとばばーに△▼を買ってもらおうねー」「……」(2010-03-10)

(46)知っていない

日本事務局の才女・TSさんは何でも知っている。とにかく知らないこと以外は全部知っているというぐらいの才女なのである。ランチの、あごが外れそうな厚さのハンバーガーにかじりついていると、優秀さでは引けを取らない同僚のN君がほんの1時間前に仕入れたばかりの [言葉は身の文](ことばはみのあや)ということわざについてTSさんに訊いてきた。「このことわざの意味、知ってる?」 TSさんはあわてた。どうやらN君はこのことばの意味を知らないで訊ねているのではなく、知った上で私を試すように訊いているようだとすばやく悟ったのだ。なにしろTSさんは才女なのだから。これはN君のよくやる手で、どういうわけか彼の優越感に結び付くようなのだ。あくる日にはすっかり忘れてしまうくせに、とTSさんは心の中で舌打ちした。「……」「ねえ、知ってる?」「えーと、……」「ねえ、ねえ、知ってる?」 私はあなたの「ねえ(姉)」なんかじゃないよ、とくやしさのあまりくだらない負け惜しみさえ浮かんでくる。「ねえ、知ってるの?」「知っていない」「そうかあ、知らないのかあ、そうかあ」 ラーメンを4杯続けてたいらげた時も、こんな幸せな顔をしたんだろうなあ、とTSさんは思った。「ことばはその人の品性や人柄を表すということだよ。そうかあ、知らなかったのかあ」 なぜか嬉しそうに胸をそらして向こうに歩いていくN君のズボンのお尻に穴があいているのを、才女はしばらく黙っておくことにした。ところで、である。才女の言った、「知っていない」は少しおかしい。〈自動車は走っているか〉と訊かれて〈走っていない〉と応えることはできるが、〈知っているか〉と訊かれて〈知っていない〉と応えるのはおかしい。〈知らない〉と応えるのが自然だし、適当である。〈走っている〉ということばにはそのことばを発した以前から〈走る〉ということが行われており、ことばを発したまさにその時、その〈走る〉という行為が継続している意があるが、〈知っている〉ということばはちょっと趣が異なるのだ。〈知る〉ということについて整理すると、〈知った〉瞬間から〈知っている〉ということになり、〈知った〉結果の状態を〈知っている〉は表しているのである。〈知る〉までは〈知らない〉のである。また、〈知っていない〉ということばには、近いうちに知ることになるといった〈知る〉ということばの持つ意味合い(予定できない行為)と矛盾するイメージが加わり、使いにくい。動詞にはいろいろな種類があるのだ。 ところでN君、ズボンの穴には気付いたかな。(2010-03-03)

(45)たら

愛すべきMKさんは『サザエさん』は嫌いだという。MKさんは東京G大学(国立・教員の養成が主な大学)の准教授である。彼が研究所で日本語教育について学んだ際、キャンパスの芝生の上でのパーティーのワインに少しだけ酔ったMKさんは「マスオさんがかわいそうだ」とのたまった。先ごろ亡くなった藤田まことの「必殺」同様、ムコ殿の悲哀があるではないかというのである。な、なるほど、と思う。MKさんの口ぶりには鬼気迫る迫力があるのである。しばらくしてMKさんはポツリといった、「ぼくも家ではマスオさんなんだよなあ」。ぼくはMKさんのような身につまされる状況ではないので、そしてこの漫画の登場人物たちのことば遣いが丁寧なので、好きだ。先日、女優の竹下景子さんと東京でお酒を飲んだ時、「今度私、『サザエさん』に出ます」と聞いた。「ああ、いいですね」というと、「フネです」ときっぱり。「……」。いや、いや、フネだってぼくは好きだ。優しく、包容力のあるお母さん(おばあさん)ではないか。『サザエさん』に登場する人はみんな好きだ。特にタラちゃんが可愛い。ところで、この<たら>である。『サザエさん』とは全く関係ないのだが(相当強引な前書きであるが)、条件や仮定を表す<たら>である。「日本に行ったら、真っ先におそばが食べたい」「日本に行ったら、真っ先におそばを食べた」 この二つの例文を比べてもらいたい。<たら>の後に書いてある事柄(「後件」などといったりするのだが)の時制が違うのだ。さらに、「日本に行くなら、お土産に紅茶を買っておいた方がいいよ」というと紅茶を買うのは日本に行く前であるが、「日本に行ったら……」とこの後件とは並び立たない。この<たら>、なかなかの曲者であるようだが、もともと助動詞の〈たり〉なのであるから、じっくりそのあたりを整理してみればわかる。それはそうと全巻揃えていたマンガ『サザエさん』が人に貸すうちにいつの間にかどんどんなくなってしまっている。おーい!(2010-02-25)

(44)食い足りない

またまたN君の登場である。そして、またまた博多のラーメンの話である。4杯の豚骨ラーメンをたいらげたN君、まだ食い足りないと、ぼくと別れた後、もう一軒のラーメン屋さんを目指した。やはりぼくのホテルのそばにある『八ちゃんラーメン』である。ここも『ダルマ』にひけを取らない有名店である。『ダルマ』からは歩いて10分、N君はラーメン道を極めるために一人向かったのであった。深夜2時、彼の眼は血走り、いったい何のために博多にやってきたのかはとうに忘れている。油がこってりと浮き、差し出される時には必ずおじさんの親指がスープに浸かっている丼(どんぶり)が彼の唯一無二の目的である。それ以外は彼が博多にいる理由はもう存在しない。ところで、この〈食い足りない〉ということばであるが、この肯定語は〈食い足りる〉となるのだろうか。〈大きくない〉の肯定語は〈大きい〉となるのだから。いやいや、〈食い足りる〉といった表現はあまり聞かない。〈つまらない〉も〈つまる〉とセットではない。では、〈大きくない〉と〈食い足りない〉とでは何が違うのか。〈大きくない〉と言っても必ずしも〈小さい〉という意味になるわけではない。つまり〈大きくはないが、小さいわけでもない〉という意味にだってなれる。〈食い足りない〉と言えば、〈まだ満腹にはなっていない〉という意味に限定される。基準がはっきりしており、〈食い足りないか、そうではないか〉のどちらかなのだ。ゆえに、〈食い足りない〉の反対語は〈食い足りないのではない〉となる。〈つまらない〉は〈つまらないのではない〉。ことばが表す範囲の問題である。もっとも、たとえばかつては〈つまる〉と言っていたのではないかと思われ、現代語になるにつれて言わなくなったのではないか。ところでN君、勇んで向かった『八ちゃんラーメン』はお休みだったようで、あくる日の彼の落胆ぶりは目も当てられないほどであった。こらッ。(2010-02-13)

(43)すごい

日本出張の際、N君と福岡・博多のラーメン屋さんに行く。卒業生たちとの懇親会で刺身や焼き物などをおなかいっぱい食べ、飲んだ後、ホテルに戻ろうとすると、N君がタクシーに乗り込んでこようとする。「君のホテルは別方向でしょ」「いえ、先生をホテルまでお送りします」「だいじょうぶだよ」「いや、心配ですから。それに、…」「それに、って」「それに、もしかしてこの後どこかに寄られるのではと期待して、いえ、心配して」「どこかって?」「たとえば、『だるま』とか」『だるま』というのは、ぼくの宿泊するホテルのそばにあるラーメン屋さんで、博多ではうまい店として知られている。店に入ると、深夜というのに混んでいる。冷たいビールを飲みながらのこってりとした豚骨ラーメンはさすがにうまい。N君はあっという間に平らげて、ぼくに気持ち悪く微笑んでいる。彼の丼をみるとスープがまだだいぶ残っている。「あのぉ、…」「いいよ、替え玉しなさいよ」替え玉というのは、スープはそのままにして、麺だけを追加するお替りのことである。なるほど、最初からそのつもりでスープを残していたのだなと感心したのだが、「バリカタ」(とてもかための麺)、「ハリガネ」(針金のようにかたい麺)、「コナオトシ」(ほんの瞬間お湯をくぐらせた程度の最もかたい麺)と、彼は次から次へと替え玉をしたのだ。途中で、お店の人がスープまで替えてくれたほどである。結局、計4杯分をたいらげたのであった。昼間の仕事中はゆっくり休んでいたので、この程度を食べるぐらいの体力はあるのだろう。ところで、テレビから流れるCMに「すぐおいしい。すごくおいしい」といったものがある。インスタントラーメンの元祖・チキンラーメンのCMである。この〈すごくおいしい〉といったことば遣いは正しいが、最近は〈すごいおいしい〉という輩が増えている。〈すごいいいやつ〉〈すごい高い店〉などなどよく耳にする。形容詞の副詞的用法となるのだから〈すごく〉が正しいのだが、なぜ〈すごい〉となるのか。〈すごい〉と〈おいしい〉が並列的に並んでいるわけではなく、ただ〈すごい〉という感情表現を文法的に制御できない幼稚さの表れということができよう。 (2010-02-09)

(42)立派な

東京と大阪の面白い比較に、言語表現の違いがある。大阪で「痴漢、あかん!」という警察の防犯標語は、東京では「痴漢は立派な犯罪です」となる。「いやあ、それほどでも」とまさか痴漢が照れたりはしないだろうが、この「立派な」という言葉は面白い。前号の「きちんと」に共通する。比べながら読んでいただければ、その共通点に気付くだろう。ところで、東京の言葉が地方の言葉に比べて優れていると勘違いしている者がまだまだ沢山いるが、そんなことはない。いろいろな言葉のエネルギーを味わうのは楽しいことだ。楽しむ力が知性なのだ。(2010-02-01/日本出張中・東京神楽坂にて)

(41)きちんと

母国語教室のK先生は子どもたちに向かって声を張り上げた、「きちんと書きなさい」 そういえば彼女はいつもきちんとしている。立ち居振る舞いは常にメリハリがきいており、なよなよした若者は油断すると張り飛ばされてしまいそうである。いや、極めて優しく、思いやりにあふれた知的な先生なのだが。廊下はほぼ直角に曲がり、腰かけているときはいつも背筋がピンと伸びている。教育に向き合う姿勢もきちんとしていて、授業の準備は周到である。ところでこの〈きちんと〉ということばであるが、これは多少厄介なことばでもある。特に外国人にはわかりにくい。たとえば、K先生が年始に挨拶にやってきた。今年もよろしくお願いします、と60度のお辞儀をして、お菓子をくれた。好物のどら焼きである。他のスタッフと一緒に食べていると、M先生が言った、「K先生はいつもきちんとしていますねえ」と。「盆暮れのきちんとした挨拶」といった場合の「きちんとした挨拶」とはどういったことを指すのだろう。おそらくお中元やお歳暮を指すのではないか。いずれにしてもこの〈きちんと〉は「きちんとした服装」とか「きちんとした態度」などと同じくほめことばであるが、「TD先生はどんなに忙しい時も毎日1時から2時までの1時間はきちんと休憩する」といえば、そう言った人のTD先生に対する思いはあまり好意的には思えない。この〈きちんと〉ということばには、どうやら、日本人の価値観や社会の仕組みといったものが隠れていそうである。(2010-01-18)

(40)雪

今年の冬は寒い。ロンドンで20年以上も暮らすぼくであるが、雪が毎日のように降るといった冬は初めてだ。鄙(ひな)びた温泉宿で雪を眺めながら熱燗でも、といったそういう時間がとても恋しい。ところでこの雪に関したものに、[雪と墨(すみ)]といったことばがあるのをご存知だろうか。「かきくれてふりくる空や雪と墨」といった句もある。物事が正反対であることをいい、[月と鼈(すっぽん)]や[提灯に釣鐘(つりがね)]などと同じような意味である。しかしながら、[月と鼈]や[提灯に釣鐘]と[雪と墨]とにはやや違いがある。前者には「比べられている両者には表面上似通ったところがあるが実際はまるで違う」といった意味合いがあるが、後者の[雪と墨]には共通する点は全くない。少し使い分けをした方がよさそうである。蛇足だが、[提灯に釣鐘]は、片方だけが重いということから、「片思い」といった意味に使われることもある。洒落である。(2010-01-11)

(39)新年明けましておめでとうございます

新年である。新しいということはとても気持ちのいいことだ。歯ブラシも髭剃りの刃も下着も靴下も何もかも新しいものにして、今年こそはと決意を筆でしたためる。ところで、この〈新年明けましておめでとう〉といったことば遣いについて、どこかの出版社の国語辞典の新聞広告が取り上げていた。〈あける〉ということばについての解説である。手元になくなってしまったのでその要点をうろ覚えながら書くと、「旧い年が明けて新年になる」といえばこの〈あける〉には「終わる」といった意味合いが加味されるが、であるとすると〈新年明けまして〉というのはおかしな感じがする。「新年が終わった」といった意味にとれなくもないからだ。これは「水を沸かす」「お湯を沸かす」といったことばと同じで、「明けた結果、新年となった」という意味だとの解説である。「穴を掘る」などと同じ生産動詞であると言いたいのであろう。けれどもこの説明はやや苦しい。ここでは、この〈新年〉と〈明けまして〉との間に少しポーズ(間)があると考えて、「新年です。旧い年が明けました(改まりました)。おめでとうございます」といった程度の解釈が自然で、素直だろう。 (2010-01-04)

(38)忘年会

忘年会の季節である。ここロンドンでは、忘年会というよりもクリスマス・パーティーである。なんでもいいのだ、飲めれば。飲む口実さえあれば。だいたいクリスチャンでもないむくつけき男どもがクリスマス云々は似合わない。ところで、いわゆる宴会には幹事なるものが存在する。どのお店でやるかなど結構頭を悩ますらしい。「あのお店はうまいけれど、高いからなあ」などと悩むのだ。この不景気、ちょっとでも安く済ませたいのはよくわかる。ところで、この表現を「あのお店は高いけれど、うまいからなあ」と言い換えたとする。「このお店が高くて、うまい」ということはどちらも同じだが、なんだか少し感じが違うように思える。いわゆる発話者が言わんとすることに違いを感じるのである。「あのお店はうまいけれど、高いから行くのはやめよう」という意味が前者には、「あのお店は高いけれど、うまいから行こう」といった意味が後者には、それぞれ含まれうる。逆接の「けれど」は曲者で、このほかにもいろいろないたずらをする。酔いの回った頭で考えてみたらどうだろうか。えっ、勘弁してくれ? そうだよね、今年ももう終わります。良いお年を。(2009-12-18)

(37)年末

気が付くと師走である。子どものころはわくわくするような季節だったが、大人になってからは何となく落ち着かない。ところで「年末」と言えば一年の終わりのころということになるのだが、「月末」はどうだろう。「月の終り。また、そのころ。つきずえ。」というのが広辞苑の説明であるが、これを「げつまつ」と読む場合と「つきずえ」と読む場合とではなんとなく意味に違いがあるように思われる。この「すえ」には「まつ」に比べて幅が感じられ、月の終わりの数日といった意味合いがあるが、「まつ」になると月の最後の日といった意味合いがより強くなる。「10月の末(すえ)に太郎に会った」と「10月末(まつ)に太郎に会った」とを比較してみるとわかりやすい。ゆえに、月単位の統計をとったりするときは「まつ」で整理する方がいいだろう。とはいえ、「年末」は「ねんまつ」と読んでも幅がある。「月の終り」と「年の終り」のスケール(尺度)の違いであろう。(2009-12-11)

(36)上手の手から

日本事務局のTSさんは国語の教員免許も日本語教師の資格も持つ才女である。さらに、水泳の指導者資格も有し、何とあのバタフライもできるというから驚きだ。加えて、こってりとした豚骨ラーメンを立て続けに3杯も食べられるという特技も持つ (これは余計なことだった、失礼!)。とにかく凄いのだが、いたって謙虚で、誠実で、いつも電子辞書を携帯し、出張中にぼくがつぶやく故事成語やどうでもいいような難しいことばを引きまくるのである。ある朝のことである。その日は東京から名古屋に日帰りでの出張の予定であった。新幹線の乗車券等はTSさんが所持しており、ぼくの泊まる宿まで迎えに来ることになっていた。そろそろだなと玄関で靴を履き、彼女の迎えを待っているのだがなかなか現れない。約束の時間が過ぎ、どうしたのかなと思っていると、宿の女将さんが電話がかかっておりますと知らせてくれた。「すいません、遅れました!」と彼女からの慌てふためく必死の声。「ウン、遅れたことはわかっているから」「すいません、遅れます!」「ウン、新幹線に遅れることもわかっているから。上手の手から水が漏れるということだねえ」「……」「君、何してるの、今?」「電子辞書を、ちょっと、……」「そうかあ、でも、もしできたらね、まずはこっちに来てくれないかなあ、乗車券を持って」(2009-12-4)

(35)ハンカチ

若い頃は暑い夏でも涼しい顔をしていたぼくは、歳をとるにつれて汗掻きになった。原因は大量に飲む酒のせいだろう。そのためぼくはハンカチを手放すことができない。いつもズボンの右と左に一枚ずつしのばせている。さて、ことばの問題である。[①先生はハンカチをズボンのポケットから引っ張り出して、額の汗をぬぐった。②先生はハンカチをズボンのポケットから引っ張り出すと、額の汗をぬぐった。]どちらも同じことを言っているのだが、少し違うようにも思える。違いを確かめるにはいろいろな方法がある。たとえば、これらの文を質問の形に変えてみる。[①先生はハンカチをズボンのポケットから引っ張り出して、額の汗をぬぐったか。②先生はハンカチをズボンのポケットから引っ張り出すと、額の汗をぬぐったか。]①は先生が「ハンカチをズボンのポケットから引っ張り出して、額の汗をぬぐったかどうか」を問うている場合と先生がハンカチをズボンのポケットから引っ張り出して、そのあと「額の汗をぬぐったかどうか」を問うている場合の二通りが考えられる。それに比べて②はどうだろう。先生がハンカチをズボンのポケットから引っ張り出したことは間違いなく、訊ねているのはそのあと「額の汗をぬぐったかどうか」ということにしぼられる。主節と従属節とからなる文にはこのような面白い特徴がいろいろと発見できる。ところでハンカチである。漢字では手巾と書くが、ネクタイ同様、女性からプレゼントされると男は何となくくすぐったい思いがするものである。ところが女性からもらったばかりのハンカチで、しかもその女性の目の前で豪快に洟(はな)をかんだ男がいるのだ。もちろんそれで日本事務局のN君の恋は終わったのだった。ああ、ハンカチよ。(2009- 11-27)

(34)魚偏

心優しいTD先生がうれしそうな顔をして所長室のドアをノックした。T先生のお寿司の件を知ったTD先生は「ぼくもごちそうしてもらおう」と思った。ただ、何か所長がなるほどと感心するようなきっかけが必要だ。TD先生は、漢字の指導の際見つけた面白い漢字について所長に話すことにした。ふつう魚は魚偏の漢字で表記される。ところが、フグ(河豚・鰒)と並び高級魚のオコゼは鰧と書くのだ。あるいは、虎魚とも書く。いかにも獰猛な顔をしたオコゼにふさわしいではないか。これにはきっと所長も驚くぞ。「あのォ、今日は漢字のことで、ちょっとォ、……」「漢字?」「お寿司屋さんの大きな湯呑にはよくお寿司のネタとなる魚の名前が漢字で書いてありますが……」「ん?」「ふつう、魚という漢字が左側、つまり偏のところにありますが、……」「そう。でもね、たとえばオコゼという魚の場合はね、そうじゃなくてね、こういう風に書くんだよ。ね、面白いだろ」「……」「で、何?」「はあ、何か他に面白い漢字はないかと思いまして、……」「そうか、でも今忙しいから、また今度にしてくれないかな」「わかりました」(2009-11-20)

(33)安くて買いました

さっきからM先生があきれている。会議が始まるとすぐ、目の前のT先生が大きな肯きを繰り返しているからだ。もちろん肯くような発言は誰もしていないのである。会議が終わり、M先生がT先生に言う。「よく寝ていたねえ」「寝てないよォ」「よく肯いていたねえ」「うん、うん、うん」またしてもM先生があきれている。F先生の口の動きが止まらない。「よく食べるねえ」「よく噛んでいるの」「よく噛まないと大きくならないからねえ」「そう、そう」またまたM先生があきれている。またしてもTD先生の姿が見えない。「よく休憩するねえ」「レベルの高い仕事をするための貴重な時間なんだよ」「レベルが低くてもいいから、早く書類を出してくれる?」「なんだっけ?」ため息をついているM先生のところにグリニッジ大学で日本語を選択している学生が顔を出す。M先生はグリニッジ大学の先生でもある。「先生、このTシャツいいでしょう。安くて買いました」「ん?」「M&Sで、安くて買いました」「て形の使い方がおかしいですよ」「えッ? うるさくて、眠れなかった、というのと同じでしょ?」順次動作、並行動作、手段・方法、原因・理由などと、「て形」の用法を表面的にしか説明していない先生がいるからこんな間違いが生まれるんだよなあ、とM先生はまた大きなため息をつく。「よおし、一丁鍛えてやるかあ」と指をボキボキ鳴らしながらその学生を空いた教室へと連れていく。周りの先生たちに緊張感が走る。M先生はバレーボールや陸上の選手でもあった、学生時代。(2009-11-13)

(32)ネタ

T先生はいつも清く、明るく、忙しい。観察をしてみると、他の人が一歩で進む距離を三歩かけて歩いている。つまり、3倍の忙しさである。肯(うなず)くときも「ウン」ではなく「ウン、ウン、ウン」であり、「そう」ではなく「そう、そう、そう」なのである。やはり3倍忙しい。T先生は大阪出身であるが、なぜか家族全員巨人ファンである。T先生はあらゆる習い事を経験し、今もバレーボール、いやクラシックバレエをたしなんでいる。研究所ではバレエ用の靴toe shoesを履いて走り回っている。さて、日本で、一緒にお寿司屋さんに行った時のことである。カウンターに腰掛け、好みのものを握ってもらっていたのだが、T先生が突然考え込んでいる。おや、眠っているのかな、と思ったが、口は確かに動いている。「ねえ、先生、どうしてお寿司をいただくときにネタというんでしょうかねえ」「えッ」「いえね、このトロとか、ウニとか、アワビとかなんですが……」(どうしてそんな高いものばっかり頼むんだよッ)「あ、そうか、これはタネ(種)をひっくり返したんですよね、きっと」(さすがだね)「倒語の一種ですよね」「もしよかったら、ぼくのもどうぞ。ぼくはもう満腹になっちゃったから」彼女の箸がぼくのお寿司を3倍の速さで彼女の口の中へ、胃袋の中へと運んでいく。数ヵ月後、T先生のご両親が訪ねて来られて、会食。お父さんのお言葉、「うちの娘は小食でして、……」ぼくはもちろん倒れそうになったのである。(2009-11-6)

(31)まるみえ

「ようやく霧が晴れてビッグベンが丸見えになった」と日本語学習者が言ったのを聞いて、日本語を教えるF先生が腕まくりをする。相当な迫力だ。「その丸見えの使い方はおかしいですよ」「あ、そうですか。でも先生、先生の好きな広辞苑には[残らずすっかり見えること]とありますが……」「えッ?」「ビッグベンが残らずすっかり見えている、ということでいいんじゃないんですか?」 F先生は大股で文献室に走る。途中、階段を踏み外しそうになって、腰を痛める。「アイタ、タ、タ……」 文献室のT先生が驚いて訊く、「先生、どうかしましたか?」「こ、膏薬、いや広辞苑を見せてくださいッ」(やっぱり、そうか。でも、おかしいのは確かだ。たとえば、である。「カーテンをし忘れたので部屋の中が丸見えだ」は、いい。では、何が違うかだが、そうか、丸見えは「見せたくないものが残らずすっかり見えてしまった」ときに使うべき表現で、ビッグベンは見せたくないものではないからおかしいんだ、よしッ) F先生のほくそ笑む姿に、T先生が一歩後退りする。F先生が広辞苑を超えた瞬間である。 (2009-10-30)

(30)台風

10月の日本出張中に史上最大といわれる台風がやってきた。高層のホテルの部屋の窓を通して不気味な風の音が一晩中響いた。日本全土で被害が相次いだ。秋の風物詩などと呑気なことばはさすがに聞かれなかった。かつては「野分(のわき)」と呼ばれ、枕草子に「野分のまたの日こそ、いみじうあはれに、をかしけれ」とあり、蕪村に「鳥羽殿へ五六騎急ぐ野分かな」の句がある。人類が地球や自然を冒とくしていなかった頃の作品である。ところでこの台風という表記である。「大風」と書けば分かりやすいが、なぜ「台風」と書くのか。「台湾地方で吹く風の意か」(大言海)という説もあるがはっきりしない。アラビア語のTūfān、英語のTyphoonの音訳ともいわれる。なお、「台風」は「颱風」の書き換えである。比ゆ的に、「あの人がこの騒動の台風の目だ」といったりもする。近い将来、スーパー台風なる恐ろしいものが日本を襲うことが予想されている。宇宙開発もいいが、こういった災害を最小限に抑える科学の発達が望まれる。(2009-10-23)

わかりました

日本事務局のN君は奈良出身の好青年である。細い目に眼鏡をかけ、すらっと長い胴体の代わりに脚は短い。その脚はまっすぐ立っても向こうが見えるように脚と脚の間に隙間が作ってある。便利なものだ。誠実な性格の彼は、いつもスーツを着用し、ネクタイをきりりと締めている。そのネクタイはエルメスやシャネルといった高級ブランドで、彼が毎日のように食するインスタントのカップ麵とのコンビネーションが絶妙である。かつて彼はぼくが何かを頼むと「わかりました」という返事を少し似合わない微笑みと共に返していた。「わかりました」ということばではなく、「かしこまりました」か「承知いたしました」のほうがいいと教えてからは、いつもかしこまっている。教えたことばには他に、「忘れていました」の代わりに「失念しておりました」というものもあるが、そのことばを覚えてからは、やはり「失念」ばかりくりかえしている。言語習得能力の優れた青年である。(2009-09-22)

とんでもございません

乱暴な言葉遣いをする若者にはゾッとする。つまり、その若者の将来が見えたような気がして哀れに思えてしまうのだ。「うるせぇー!」「むかつくー!」などという言葉を日常的に使う者がまともな恋をしたり、人の親になったりすることができるのだろうかと他人事ながら心配になる。けれどもまた、気持ち悪いほど丁寧な言葉遣いをしようとする輩にも時に閉口する。いや丁寧なのはいいのだが、雰囲気に合っていなかったり、その丁寧だと思って発せられる言葉遣いが日本語として間違っていたりすると気になってしょうがないのだ。たとえば、多用される「とんでもございません」である。おそらく「とんでもない」の「ない」を丁寧に言い換えたつもりなのだろうが、「とんでもない」は「情けない」などと同じ形容詞である。「情けございません」と言えないように「とんでもございません」は誤用なのである。「とんでもないことでございます」が正しいのだが、おそらくほとんどの人がこうは言わない。きっとそのうち、「とんでもございません」が市民権を得ることになるのだろう。とんでもないッ!(2009-09-15)

「守る」と「防ぐ」

政権交代とかで日本の社会はどう変わるのだろう。もうすぐ組閣とか。教育行政が充実することを望みたいが、政権が変わったことで注目されていることの一つが外交や防衛問題であるらしい。防衛か、そういえば隣国の情勢はどうなっているのかな。ところで、この防衛という言葉には「防ぐ」という言葉が使われている。「衛」というのは「守る」という意味だ。つまり、「外敵からの攻撃を防ぎ、国を守る」ということだろう。「防ぐ」と「守る」はよく似た言葉だが、その使い方は明確に異なる。日本語学習者への説明にはいろいろな方法があるだろうが、その一つ、構造的なアプローチの中からほんの少しだけ述べる。まず「守る」であるが、「N1ガN2ヲN3カラ守ル」という構文になる。それに対して「防ぐ」は「N1ガN2ヲ防グ」である。このNは名詞のことで、つまり、たとえば、「太郎が花子を悪ガキから守る」や「太郎が悪ガキ(のいたずら)を防ぐ」などとなる。「守る」のN3が「防ぐ」のN2に入る。難しそうな言葉を使えば、格支配ということに関係するが、まあ、ここまで。(2009-09-08)

たらふく

酒も好きだが、肴(さかな)もいい。けれども昔のように量は求めない。おいしいものをいくつかの種類、ゆっくり味わうというのがいい。若い時にはたらふく食ってもすぐに消化したが、今はそうはいかない。「たらふく」と言ってもタラの内臓を食べるという意味でも、タラとフグを食べるという意味でもない。「たらふく」というのは「タラヒフクルル」(日本国語大辞典第二版)が語源とある。つまり、「タラヒ」(足るほどに)「おなかが膨れる」という意味だろう。しばらくすると冬になり、フグの季節になるなあ。その前にマツタケなるものも世に出回る。日本では、だが。 (2009-09-08)

政治的

日本では、もうすぐ衆議院議員選挙だ。ずいぶん前だったが、日本に出張した際にある人から、○○党から立候補しないかと誘われた。全国区の上位に名前を載せるから必ず当選するというのであった。政治家になろうとは思わないので断ったが、教育行政には興味がないわけではない。それはさておき、「田中さんは政治的な人だからね」などという言い方を耳にすることがある。田中さんが政治的活動をしているというのではなくて、ある組織の中でそこの人間関係やヒエラルキー(上下階層関係)における力関係をうまく利用しながら関わっているといった意味である。多くの場合、人を揶揄(やゆ・からかうこと)したり、蔑(さげす)むときに用いる。政治というものが持つどろどろとした体質をいうのだろう。(2009-08-14)

ミケが子どもを産んだ

「隣のミケが子どもを産んだ」とはいうが、「隣の花子さんが子どもを産んだ」とは普通いわない。多くの場合、「隣の花子さんに子どもが生まれた」という。なぜだろう。ぼくには子どもが3人いるが、その誕生に立ち会ったことがない。子どもを産むとき女性は、大変な重労働に耐えなければならないらしい。力(りき)み続けるのだ。この力むときに発せられる声であるが、「ウーム」というものであり、ここから「産む」という言葉が誕生したとする説がある。なるほどそうであるとすれば、極めて生理的な、動物的な発声からこの言葉は生まれたことになる。ヒトという動物が人間という社会的、文化的な存在になっていくとき、できるだけ動物的、本能的、生理的なものから遠ざかるのが高度であると考える傾向があるのだが、ゆえに人間の場合は「産まれる」という言葉を使うのだろう。英語でもI was born. のように受身の形をとる。 (2009-08-11)

漱石の本

日本語の格助詞「の」の機能(どんな働きがあるかということ)については国語辞典や文法書等に詳しく説明されている。けれども、難しく考えることはない。たとえば、である。「漱石の本」と聞いて何を思い浮かべるかといえば、①まずは(夏目)漱石が著した「吾輩は猫である」「坊っちゃん」「草枕」などの作品であろう。②ついで漱石について研究し、誰かによって著された本、③そして漱石が所有している本ということになる。では、「太郎の本」と聞いたらどうか。太郎が持っている本、というのでおしまい。どうしてか。この格助詞「の」は名詞と名詞をくっつけるという働きをしているのであって、あとはその名詞と名詞の関わり合いで意味を解釈してくれといったものなのである。「漱石の本」においては、漱石が作家であり、その作家・漱石と生産物である「本」とが結びつけられたことによって、その「本」が漱石によって著されたという意味が生まれてくる(①)。さらに漱石は著名な作家であるので、漱石についての研究書等の意味が生じ(②)、人間と物との結びつきによって所有の意味も生まれる(③)。ところが「太郎の本」では、③の意味ぐらいしか生まれてこない。言葉の分析や研究においては、本来の働きと派生した働きとをしっかり区別して整理する必要がある。(2009-08-07)

あはれ

難しそうな言葉もその語源を遡れば、「なあーんだ」ということがある。たとえば、古典・古文の時間に国語の先生が、「をかし」などとともにいかにも重々しく教えてくれた「あはれ(アワレ)」という言葉である。「しみじみとした情趣」などと教わるのだが、そういった説明で中学生や高校生に「なるほど」とわかるはずがない。「情趣」という言葉の意味は「しみじみとした味わい。おもむき」(広辞苑第五版)ということだから、よほどしみじみとするのだろう。ま、とにかく、心が動くのである。いいなあと思うのである。いいなあと思うということは、驚いているということだ。驚くと、人間はア行で表現する。「あッ!」「いッ!」「うッ!」「えッ!」「おッ!」という具合である。この「あはれ」、実は驚きの表現の「あッ!」と「はれーッ!」とが組み合わさったものなのである。つまり、極めて動物的な讃嘆の肉声なのだ。ただし、何に対して驚くかが重要なのだ。「心なき身にもあはれは知られけり鴫立つ沢の秋の夕暮」(西行)などとうたわれると、なるほどしみじみとしてしまう。えッ? 研究所の女性スタッフの顔を見て、「あはれ!」って言えるかって? それは確かにもともと同じ言葉だけれど、別の意味に用いられる場合の、でも、ちょっとそれは、気持ちはわかるけれど、危険じゃないかなあ。(2009-07-28)

ビラとチラシ

日本の街を歩いているといろいろなビラが手渡される。できるだけ受け取らないように身構えるのだが、笑顔のきれいな女性に手渡されるとつい受け取ってしまう。受け取ったビラをどう処分するかはとても難しい。すぐにゴミ箱に捨てるのは配っている人を傷つけそうでできない。ひとまず鞄に突っ込んでいたりすると、その内容によっては思わぬところで思わぬ恥をかくことになる。ところで、このビラってなんだ?「(billの訛)宣伝広告のため、人目につく所に張り出したり通行人に配ったりする紙片。ちらし」(広辞苑第五版)。billの訛とは知らなかった。Bill, please.(アメリカではCheck, please.)とはレストランでの「お勘定をしてください」という意味だ。もっとも、新明解(第五版)は「片(ヒラ)の口語強調形」と説明する。では、チラシは? これはどうやら「散らし」のことらしい。となれば、ビラは貼っても配ってもいいが、チラシは貼らずに配るのみとなるのかな。(2009-07-23)

青年

ぼくの好きな車寅次郎( フーテンの寅さん)は若者によく「よおッ、青年!」と話しかける。寅さんが印刷工場の者たちに話しかける「労働者諸君!」というのもややおかしいが、これも面白い。ところで、この「青年」というのは一体何歳ぐらいの者を指す言葉だろう。「青春期の男女。多く、14、5歳から24、5歳の男子をいう。わかもの」(広辞苑第五版)ということだが、新明解(第五版)は「ふつう、二十歳ごろから三十歳代前半までの人を指す」と解説する。ここで何と十歳のずれが見られる。「少年」になるともっとややこしい。少年法では「満20歳に満たない者」だが、児童福祉法では「小学校就学から満18歳までの者」をいう。同じ国の法律でその規定が異なるのだから困ったものだ。さて、ぼくは自分のことを青年教師であるといつも思っているが、広辞苑の説明によればちょっと抵触しそうだ。ほんのちょっとなのだが。 (2009-07-18)

おビール

ウルグアイに住む親友が奥さんと一緒にロンドンにやってきた。セントラルに豪華なフラットを借りての短期滞在である。フラットの棚にJapanese for busy people Ⅱ (日本語のテキスト・講談社インターナショナル)が置いてある。ウルグアイ人で美人の奥さんは日本語の勉強を再開したという。ビール、日本酒、ワインと進んだところで、近くの居酒屋(日本食)に三人で移動。いわゆる「河岸を変える」というやつだ。その店の店員が訊く、「おビールは何になさいますか?」。ビールの銘柄を聞いているのである。いたずら心を出してぼくが応える、「うーん、そうだなあ、おキリンにするか、おアサヒにするか、迷うなあ」。連れが笑いをこらえている。確かに「おビール」はよく耳にするようになった。けれども、さすがに「おワイン」という人はいまい。アルコール一般をさして「お酒」はいいが、「お日本酒」や「おウイスキー」は気持ち悪い。「お花」はいいが、「お桜」や「おバラ」はだめ。「(お魚の)お刺身」はいいが、「おマグロのお刺身」は歯が黒くなりそうで食べたくない。そういうことを話すと、「テリー(ぼくのこと)はちっとも変わらないね」と笑われた。これは成長していないということかな、きっと。(2009-07-14)

人差し指

ウインブルドンのテニスの試合をテレビで見ながら足の爪を切っていて思った。これが親指であるとしてだな、隣の指は何だ? 手の指なら人差し指ということになるが、足の指に人差し指があるというのはなんか変だな。広辞苑(第五版)を引くと「(人をゆびさす指の意)手の指の一。親指と中指との間の指。食指」とある。「手の指の一」とあり、やはり足の指には用いないようだ。ところが日本国語大辞典(第二版)によれば、「親指のとなりにある指。親指と中指の間にある指」ということで、手に限るとは書かれていない。新明解(第五版)では「親指の隣の指」。ためしに新明解で「指」を引くと、「手足の先端の、五本に分かれ出た部分」とある。さらに「親指」を引くと、「手・足の一番太い指」。まてよと、「中指」を引く。「五本の指の真ん中の指」とのこと。ということは、足の指も人差し指であっていいのかなと首をかしげる。薬指はもっと変なことになるぞとニヤニヤしていたら、せっかくのビールがぬるくなった。(2009-7-5)

数人

はっきりしない数量を表す時、たとえば「数人」とか「数年前」とかいうことがあるが、そこで思い浮かべる数には人によって違いがあるようだ。広辞苑(第5版)によれば「三~四人から五~六人ほどの人数をいう語」とのこと。日本国語大辞典(第2版)やその他の辞書にも当ってみたが、ほぼ同じ説明がなされている。ところが岩波国語辞典(第6版)においては、「近ごろは三か四かの程度を言う人が多くなった」との注がある。「数人」と聞いて二、三人を思い浮かべる人もいれば、五、六人ととる人もいるのである。「恋愛の経験は?」「ほんの数回です」(2009-6-13)

ごめんなさい

日本の総務大臣が辞めた。辞表を出して辞めたのだが、実際は首相に辞めさせられたようで、新聞は「罷免(ひめん)」と書いた。この「免」であるが、「ごめんなさい」の「免」と同根である。「免」には大きく三種類の意味がある。広辞苑(第五版)は「①許すこと。許可すること。②まぬかれること。③やめさせること。官職を解くこと。」などと説明する。今回の場合は、③にあたる。謝るときの「ごめんなさい」は「御免なさってください」のつづまったもので、①や②の意味になる。「天下御免」という言葉があるように、この「御免」はもともとお上(幕府)によって何かが免じられているという意味で、そのため「御」がつくのである。女性に人気のある直木賞作家の宮本輝は作品の中で、「どの国の女も謝るということをなかなかしない」と書いている。女性はなかなか素直に「ごめんなさい」が言えないというのである。いや、これはあくまで宮本輝の言である。誤解なきよう。(2009-6-6)

溺(おぼ)れる者は藁(わら)をも摑(つか)む

ある日のことである。子どもの拒食症と不登校に悩む親が訪ねてきた。いろいろな方に相談に乗ってもらい、精神科のお医者さんにも見てもらったけれど状況は悪化するばかりで困っている。助けてくれないかというのである。「溺れる者は藁をも摑むといいますが、本当にそんな思いなんです」と親は憔悴し切った表情で頭を下げた。このことわざは、「溺れている者が必死になって何かに取りすがろうと、近くにある役に立たない藁をつかむ」(時田昌端「岩波ことわざ辞典」2000)という意味で、どうやらぼくは「役に立たぬ藁」であるようだ。その子どもは何とか助けることができてほっとしたが、藁としては後味に多少苦(にが)い思いが残る。このことわざは、英語の A drowning man will catch at a straw. の翻訳だという。(2009-5-30)

預金

▼銀行からお金を借りることを借金という。借りようとする人には担保等の提示が求められる。けれども、銀行がお金を借りるときは預金と呼ばれる。銀行にお金を預けるというのである。これは少しおかしくないか。▼銀行は預けられたお金を運用して利益を得る。銀行がその経営に息詰まると、場合によっては預けたお金が戻ってこないこともある。さて、なぜ<預金・預ける>というのだろう。銀行がお金を借りているのだからこれも<借金>というべきではないか。▼窓口に行くと行員が言う、「お預け入れでございますか」と。「え?」「預金でございましょうか」「いや、なに、お金を貸してやろうかと思ってね」「はあ?」「だからさ、この銀行にお金を貸してやろうかな、と思ってね。だけどこの銀行は大丈夫かどうかわからないからね、責任者を出してくれるかなあ。それから担保に当たるものもね」「……」▼お金の流れが異なるだけで、その中身は一緒なのだが、<預金>という言葉が使われるとなんだかお願いして預かってもらうようで、民間企業の銀行をまるで公的な、お役所のようなイメージに変えてしまう。お金を借りたほうが偉そうに胸を張って、貸したほうが頭を下げてお礼を言ったりしている。だれがこの言葉を使い始めたのかは知らないが、癪だけれど、頭いいなあ。(2009-5-30)

昔話

かつて、日本全国に伝わる昔話について調べたことがある。面白い発見がたくさんあったが、その一つは、こうである。昔々、あるところに、おじいさんとおばあさんが住んでいる。おじいさんとおばあさんの間には子どもがなく、いつも子どもがほしいなあと思って暮らしている。これはおかしい。もうおじいさんとおばあさんになってしまったのだから、子どもを授かるのは難しい。あきらめるのが自然だ。にもかかわらず、しぶとくほしいなあと願っているところから物語が始まるものだから、作者は無理をして竹の中に考えられないほど小さな赤ん坊を隠しておくなど努力する。普通に育ったのではその子が大人になった時にはおじいさんもおばあさんも他界していることになるので急激に成長させる。つまり、一種の化け物である。確かに他の星から来たエイリアンであり、最終的にはその星へと帰っていく。ところで、こういった物語の始まりに「昔々、あるところにおじいさんとおばあさんがありました」という表現が時折みられる。「ありました」ではなく「いました」が正しいのではないかと日本語教育について学んでいる者たちは思うに違いない。初級の学習者には「アル」と「イル」の使い分けについて教えなければならない。しかし、確かに「おじいさんがありました」と表記されているのである。実はこの「アル」はかつて、人間の存在についてもつかわれていたのである。伊勢物語の「昔男ありけり」のように。さらに調べてみると、なんとあの星新一のショート・ショートにもこの表現が見つけられた。しぶとく生き続けていたのである。立派。(2009-05-23)

とても40歳には見えない

日本に出張(帰国)する楽しみの一つはかつての教え子たちとの再会だ。居酒屋で近況を聞きながら、あるいは昔の思い出話をしながら、時に不覚にも眼頭が熱くなることもある。みんなぼくのくだらぬ冗談でさえあたたかい微笑みで受け止めながら聞いてくれる。「彼はとても40歳には見えないだろ?」「ええッ、うそッ? ホントですか?」「うそって、40歳に見えるってこと?」「いいえ、とても40歳には見えないですよ、20代に見えますよ」「だから、40歳には見えないだろって言ったでしょ」ぽかんとしているみんなに、「ね、日本語って面白いねえ」さて、どうしてこういうことが起こるのか、わかるかな? えッ、ヒント? ぼくはヒントを与えたりするのは嫌いだけれど、特別に。助詞「に」がしているいたずらですよ。(2009-05-16)

本格芋焼酎

5月5日こどもの日、日本に到着。シャワーを浴びて、ホテル近くの居酒屋で日本事務局のスタッフと「がんばるぞの会」で乾杯。生ビールを飲んだ後、焼酎を飲むことにする。ところが、メニューを見て考え込むことになる。たくさん並んだ焼酎の銘柄の頭に、「本格芋焼酎」と書かれているものもあれば、ただ「芋焼酎」と書かれているものもある。「あのー、すいませーん」とお店の方を呼ぶ。もちろんわがスタッフは、「私には関係ありません」といったふうによそを向いている。「この本格芋焼酎とただの芋焼酎とは何がどう違うんですか?」「本格芋焼酎の方が芋焼酎よりも本格なんです」「あのぅ、本格というのはどういうことなんでしょうか?」「……」そういえば北海道・札幌にあるラーメン横丁でも似たような質問をしたことがある。たくさんのラーメン屋さんが並んでおり、それぞれの店には客寄せの看板やのぼりが出ている。「元祖」「本家」「宗家」などなど、違いのわからぬ言葉が「札幌ラーメン」の頭にくっついていた。訊ねると、あるラーメン屋の大将が答えた。「ああ、ここのラーメンが元祖なんだなあ、と思って食べると元祖の味がわかるようになっているんですよ」。なるほど。(2009-05-09)

チンする

ぼくは飲むだけでなく食べるのも好きだ。愛する者と、たとえば美しい庭でも眺めながら、おいしい肴(さかな)ととびきりの酒を味わう。まさに至福だ。もちろん、世の中そううまくはいかない。ところで、料理である。ぼくは食べることの達人だが、料理は全くできない。実は、この料理という言葉について思うことがある。巷(ちまた)に「チンする」などという奇妙奇天烈(きみょうきてれつ)な言葉が横行している。電子レンジのスイッチを入れて食べ物を加熱したりすることのようだが、これは料理なのか。「チンする」ことで食べることのできるものが出現するのだから料理だという者がいるが、ぼくは認めたくない。そんなものは料理なんかじゃないと思うのだ。料理には時間と手間といった、いわゆる過程(プロセス)が必要だ。作品(料理)が完成していく過程で発生する匂いや音が必要なのだ。それらは愛情表現の伴奏である。「チンする」にはそれらがない。なんだか空しくて、わびしくて、さみしいではないか。だから、手間暇(てまひま)かけて料理をする人をぼくは尊敬する。もっとも、料理の世界のことは何も知らない。ある時、ロンドンのあるレストランで食事をしていたら、ぼくのテーブルまでわざわざ挨拶に来た女性がいた。「へえ、君は料理の仕事をしてるの。おいしい料理が作れるの?」とぼくが聞いたその人は、後で知ることになるのだが、今をときめく栗原はるみさんだった。知らなかったとはいえ、本当にごめんなさい。お詫びのしるしに、彼女の本を一冊買った。 (2009-04-27)

ジェット噴射

日本から小包が届く。卒業生からの贈り物だ。開けてみると、手紙とともにスプレーが入っている。養毛剤である。ぼくの薄くなった頭髪をからかう悪戯である。教え子の顔を思い浮かべながら苦笑する。かつては「ごますり機」をプレゼントしてくれたつわものもいる。ところで、そのスプレーの説明書には「ジェット噴射で地肌に届く」とある。それはおかしい、とぼくの分析癖が始まる。ジェット噴射であれば勢いがあって液材が地肌に届きやすく、効果が高まると言いたいのだろうが、それは論理的に間違っている。これを用いるのは頭髪が薄くなった者である。 ジェット噴射などの力なんか借りなくても、液材がすぐに地肌に届くスカスカの構造をしているのだから。そういった分析を口にしたら、スタッフの一人が言った、「いちいちそのように分析をされるから、また抜けるんでしょ」。ごもっとも。 (2009-04-20)

みどり・の・くろかみ

日本に出張すると、いろいろな発見がある。街を歩く。かつて様々な色に染められた若い女性の髪の色が落ち着きを取り戻し、黒に戻ったように感じる。とはいえ、「みどり・の・くろかみ」といった風情はない。この言葉を若者の前で使ったら、「みどりという名前の女性の黒髪のことですか」と聞かれた。唖然としていると「なんだか矛盾した感じですね」と追い打ちを食らった。どうやらこの「みどり」という言葉を勘違いしてとらえているようだ。この「みどり」という言葉は、いわゆる「緑色」を意味しているのではない。「瑞々(みずみず)しい」という言葉から転じたものである。「つやのある美しい黒髪」(広辞苑)という意味だ。「みどりご(緑児・嬰児)」という言葉があるが、これは「新芽のように若々しい児の意」(広辞苑)である。ところで、先に「風情」という言葉を用いたが、髪の色だけでなく、若い女性の、その醸し出される雰囲気に、初々しさや瑞々しさが感じられないのが残念なのである。いや、ぼくが歳をとったせいだな、これは。 (2009-04-13)

孟母三遷の教え

「孟子の母が、最初は墓所の近くにあった住居を、次に市場の近くに、さらに学校の近くにと3度遷(うつ)しかえて、孟子の教育のためによい環境を得ようとはかった故事。」というのが広辞苑(第五版)の解説全文。あれッ、住居を遷しかえたのは2度じゃないか。「遷しかえて」という言葉を好意的に解釈しないと変だ。「孟子の母が、最初は墓所の近くにあった住居を、次に市場の近くに、さらに学校の近くにと遷しかえて、三度も住居を定めて、孟子の教育のためによい環境を得ようとはかった故事。」といった説明のほうが親切だろうなあ。(2009-04-06)

空き巣・泥棒お断り

日本出張中の話である。東京・神楽坂にぼくの隠れ家がある。東京滞在中はその半分をここで過ごす。ぼくが使う部屋は映画監督の山田洋次さんの仕事部屋で、隣の部屋はNHKが朝の連続ドラマの脚本を書くための部屋、他の部屋にもいろいろな作家たちが蠢く。おかみさんは往年の大女優小暮美千代(故人)の妹さん。その界隈を散策しているとき、ある貼り紙に目がとまった。「空き巣・泥棒お断り」とあり、いくつもの住居に同じものが貼ってある。町内会で作って配った貼り紙だろうか。面白いのは文面である。かつては「押し売りお断り」というものがよく目についたものだが、 「空き巣・泥棒お断り」とはめずらしい。神楽坂の空き巣や泥棒はこの貼り紙を見て「断られちゃった」と空き巣に入るのをやめるのだろうか。ぼくならどんな貼り紙にするかなと歩きながら考えた。「空き巣・泥棒の方は裏口にお回りください」「空き巣・泥棒の方へ/ただいま留守にしております」なんていうのはどうだろう。(2009-03-20)

とぶ

「廊下をとばないでください」という貼り紙に違和感を覚える。「廊下でとばないでください」の誤りではないのか。だいたい、廊下で飛んだりするような人間がいるのだろうか。えっ、とスタッフの一人が驚く。[を] でいいと思いますが、との見解。山梨出身の彼女は標準語でも「走る」ことを「とぶ」というのだと信じていたのである。「ということは」と、例によってぼくの意地悪な質問が始まる。山梨では、運動会の時、走り幅跳びの選手をどんなふうに応援するの? とべッ、とべッ、とべッ、とべーッ! (2009-03-19)

かじる

日本では見かけないが、英国の教育現場では大いに活躍するブル・タックという接着剤がある。ホワイトボードでもガラス窓でもどこにでも掲示が可能で、簡単にはがすことができ壁面を痛めない。紙だけでなくなんでも貼ることができる。もちろん短所もある。教室のカーペットの上に落ちたブル・タックを踏みつけると、なかなか取れないのだ。チューインガムのようなものなので、学生が休暇中の教室の清掃・整備にあたっていたスタッフが困っている。そこに通りがかった別のスタッフが言った、「私がかじりましょうか」。「いや、そこまでしてもらわなくてもいいよ」とぼくが言うと、不思議な顔をしている。彼の出身の静岡では「かじる」というのはリンゴなどを歯で「齧(かじる)る」意ではなく、「引っ掻く」といった意味なのだ。背中がかゆいとき、みめ麗しいご婦人も「かじる」んだろうなあ。 (2009-03-13)

一生モノ

尊敬する伊藤克敏神奈川大学名誉教授が奥さんと二人で微笑んで立っている。わざわざ横浜駅まで出迎えてくれたのである。二人に連れられてレンガでできた倉庫跡を歩く。いろいろなお店が入っているが、どれもこれも若者向けのものばかりで我々にはちょっと場違いの感じである。「ちょっと早いけれど、食事にしましょうか」という誘いにのって伊藤先生のなじみのお店へと向かう。タクシーの中で伊藤先生がぼくに新しい腕時計を見せてくれる。「これは2年間、ノンストップで動くんですよ」と誇らしげな先生にぼくが応える。「2年間ですか、じゃあ、一生モノですね」。直後、伊藤先生はぼくの右足を踏みつけた。ま、3年は大丈夫だな、確かに。 (2009-03-06)

濡れ衣

日本出張中に見たテレビ番組はニュースと国会中継のみだった。日本の国会中継は新宿・末広亭で聞く落語より面白い。首相が胸を張って言った、「濡れ衣をかぶせないでほしい」と。「濡れ衣を着る」が正しく、「着せないでほしい」と言うべきだが、そんなことより何より、現政権のよりどころたる「郵政民営化」について、それは「悪事」であったと言っているのだから驚く。「自分は担当者ではなかったのだから、無実の罪を着せないでくれ」と大見栄を切ったのである。けれども実は彼が担当大臣だった。「自分が担当したんだから、そこのところはしっかり覚えておいてほしい」と強調した数ヶ月前のビデオ映像が繰り返し流れるのを見ながら、980円のコンビニの弁当をほおばった。(2009-02-27)

がけを上り下りする

日本出張で東京のホテルに泊まる。ホテルの周りを散策。川沿いの小さな公園の脇を通り過ぎる。土手に区役所の看板が張り付けてある。「危険ですからがけに上り下りしないでください」とある。見間違えたかなと思い、戻って確かめる。きっと近所の子供たちが「がけを上り下りする」のだろう。「公園に散歩する」といえば、公園が目的地で公園までの散歩であり、「公園を散歩する」ならば、公園の中を歩き回ることになる。区役所に電話して教えてあげようと思ったが、公衆電話が見当たらない。そばにいたスタッフが、またかと困った顔をしていた。(2009-02-20)