(300)ことば・言葉

それにしても、とNくんは思うことがある。どうして言葉についてあんなに考えているんだろうな、と思うのだ。ロンドンの先生のことである。いや、先生の友だちもみんな、言葉にいやに敏感なのだ。下やんにも「そう思いませんか」と訊いてみた。「ま、病気みたいなもんだな、あれは。だけどな、こういう話、聞いたことないか?」と下やんが話し始めた。昔、先生がまだ10代の頃のことだ。いろいろと思うことがあって、突然、夜汽車に乗って、遠くへ出かけた。その列車は早朝、駅に着いた。誰もいない駅のベンチに腰かけて、先生はひとり、「疲れた」とつぶやいた。するとどこにいたのか年老いた男が近づいてきて、<生意気、言うんじゃねえ。疲れたって言葉は、必死で生きている者の言葉だ、お前のような青二才が使うような言葉じゃねえ>と叱った。<はい>と素直に応えた先生、そうだ、その通りだ、と思ったんだそうだ」 Nくん、こっくりと肯いた。大くんが独り言のように言う、「そうだよなあ、言葉って、……」 吉田先生もハイタニ教授も居酒屋の畳の上で、膝を抱いて肯くのだ。「だ、だからさ、インターネットの書き込みの、人を汚く罵るような言葉や、ただただ人を傷つけるための言葉遣いをする者や、まるで愚かなチンピラのような言葉遣いをする者のことを、<かわいそうだなあ>って言うんだよね、先生」 吉田先生とハイタニ教授の送別会も終わりに近づいた。出会いが必ず連れてくる別れは、たまらなく寂しい。心優しい者たちはその時の訪れを感じている。*このコラムも300回である。コラムの登場人物はもちろん、みんなずっと魅力的な人間で、もっともっと面白い人たちである。もうすこし、日本語の息遣いの中を歩きたいと思っている。 (2021.4.26)

299)めくじらを立てる

「東京五輪、どうなるんでしょうかね」とNくんがポツリ。心優しいNくんはスポーツマンでもある。走ったりするのはある事情から苦手だが、格闘技には自信をもっているとのことだ。特に得意なのは何かと訊くと、「指相撲」なのだそうだ。呆れたように下やん、「おはじきはどうだ?」とからかう。下やんが得意とするのは「ラジオ体操」らしい。なにしろ、「ラジオ体操第一」だけでなく「第二」も覚えていると胸を張る。笑いをこらえていた日本一の保育園の園長の大くん、「体操したらハンコを押してもらうんスか?」 では、大くんはといえば、なんと「ジャングルジム」が得意なのだそうだ。誰よりも早くのぼることができるという。吉田先生とハイタニ教授の送別会がまだ続いており、話題はどんどん広がっている。この二人、弓道の師匠と弟子の間柄でもある。ハイタニ教授が弓道の道着を着ると、実にりりしい。吉田先生が着ると、実に楽しい。「東京五輪、始まりからいろいろとあったもんなあ」と吉田先生。「東京に誘致する段階から問題がありましたよね」とハイタニ教授。東京五輪招致を巡り、当時のJOC会長について贈賄容疑の捜査を仏検察当局が行っている問題だ。「お・も・て・な・し」だけで東京に決まったわけではないようなのだ。最近ではモリ前五輪委員会会長の女性差別発言も話題になった。「でもさあ、あの程度の発言にめくじらを立てる必要はないよなって、結構、居酒屋で飲んでるおっさんたちは言ってたよなあ」と下やん。「イ、いけませんヨ、やっぱり」とハイタニ教授。「ン? あ、そうか、ハイタニくん、有名なフェミなんとかだもんね」と吉田先生。実はここに集まっている連中、口は悪いが心優しく、女性に対してはとびきり優しいのである。「Mよ(正しくはNくんである)、おまえもフェミなんとかなんだろ?」「も、もちろんですよ、ぼくはそのフェミですよ」「ぼ、ぼくもそのフェミロンです」と大くん。「おい、大よ、それをいうならフェロミストというんだぞ、覚えとけよ」と下やん。だれも「フェミニスト」といえないようだ。あ、酒に酔っているからでは、もちろんない。*めくじらを立てる=「他人の欠点を探し出してとがめ立てをする。わずかの事を取り立ててそしりののしる。目角に立てる」(日本国語大辞典)。つまり、あまり品性のない輩のふるまいである。 (2021.4.19)

298)左党

送別会は続いている。吉田先生とハイタニ教授が東京を去るのである。とびきりの善人で、心優しいみんなは、情に厚い者たちでもある。短足組の組長、下やんがポツリ、「あ、あの、なんだな、やっぱり、……」。奥さんの前では絶対的に愛妻家であるNくんが、「ええ、そりゃあ、……」。日本一の保育園の園長の大くんも、「…ッス」。そうなのだ、みんななんとなくさみしいのだ。そして、その言葉を口にするのが照れ臭い。「そ、それにしてもだなあ、こんなにみんな大酒呑みとはだなあ」と吉田先生。「ええ、左党結集、といったところでしょうか」とハイタニ教授。「みんな知ってると思うけれども、あのロンドンの先生の吞みかたといったらものすごかったんだぞ。開店したばかりの小さな小料理屋さんで店にあるすべてのビールを飲み干し、それから店を変えてウイスキーを一人で一本空け、そのあと気分を変えようとワイン屋に行き数本空けるといった具合で、一緒に飲むとあくる日は間違いなく激しい二日酔いで……」と吉田先生が懐かしそうに話す。「英国の先生宅を訪ねた向井先生という、ロンドンの先生にとって大切な友人が、日曜日は朝からワインのボトルが空くというので、一緒に行っていた奥さんが、こんな人と付き合っていて大丈夫か、うちの夫はと心配されたそうだよ」と下やん。「Mよ(Nが正しいのだけれど)、おまえだって、先生には鍛えられただろ?」と吉田先生。「いやあ、そりゃあ、ぼくの親があの先生のもとでは肝臓がボロボロになるんじゃないかと心配して、近くの神社にお参りをしていたようです」「いや先生も結構あくる日、お酒が残っていることもあって、授業にやって来て、<今日は自習>といって、教壇の椅子に腰かけて、バケツをトイレから持ってこさせて、ゲーッと吐いて、それをぼく、トイレに捨てに行かされたこと、ありました」とハイタニ教授。「いやいや、もっとすごいのがだな、……」話はどんどん過激になる。ロンドンの先生はそういったことはもちろんなく、極めて静かに嗜むほどしかお酒は飲まない。それにしても、この左党のすさまじい呑みかたはいつまで続くのだろうか。*左党=「(酒杯は左手に持つからとも、また鉱山で、左を鑿(のみ)手、右を鎚(つち)手というのに起こるともいう)酒を好み飲む」人たちのこと(広辞苑)。(2021.4.11)

297)メッチャ

東京を訪れていた吉田先生とハイタニ教授がそれぞれの地元(下関と尾道)に帰ることになった。当然のごとく送別会(宴会)である。緊急事態宣言は解けたけれども、会食は自粛した方がいいかなと思っていたが、国のお役人たちや政治家の皆さんは盛んに宴会をやっているようだから、まあ、いいだろうということになった。脚の短さを胴の長さでカバーするNくんが幹事で、日本一の保育園「ともそだち」の園長、大くんが事務局長なのだそうだ。早速、企画書をボスの下やんに提出する。企画書といっても、その中心となるのは、特別の日なので今日は半ドン、つまり午前中で仕事は打ち上げたいというものである。「なに-ッ!」と、その企画書に目を通した下やんが叫ぶ。(やっぱり、だめか)とうなだれるNくんと大くん。「正午に仕事をやめて、居酒屋につくのが12時半だろ、念のために1115分には仕事は終わりということにした方がいいんじゃないか」と下やん。思わぬ、いややっぱりか、の展開に二人が目を合わせる。「で、どこにするんだ、店は?」と下やん。こういった打ち合わせも実は、勤務時間である。「<田吾作・東京店>はどうでしょうか」とNくん、故郷の村から進出した、おらが<田吾作>を提案する。「うまいか」と横から障子破りの、いや型破りの教育者、吉田先生が割り込む。「肴がメッチャ、うまいんです」とNくん。「当然、MNが正しいのだが)、おまえの顔で、同郷割り、つまり勘定は割り引いて、安くしてくれるんだろうな」と吉田先生。「なるほど、Mくんは(教授まで、Mと)関西、確か奈良でしたね、だからですね」とハイタニ教授。*ハイタニ教授が「なるほど」と納得したのは勘定の割引ではなく、「メッチャ」という言葉遣いについてである。程度を表わす副詞の「とても」は関西・大阪では「メ(ッ)チャ」がよく用いられる。他に、「ゴッツ(ウ)」がある。ただこの「メッチャ」は、もはや全国区となりつつある。東京の「チョ-(超)」は廃れた。札幌は「ナッマラ」、名古屋は「デラ」、広島は「ブチ」とさまざまだが、この「メッチャ」に今、勢いがある。「とても」に比べるとずっと感じが出るのだろう。ロンドンの先生はでも、使わないだろうなあ。 (2021.4.2)

296)雁首を揃える

緊急事態宣言が解除されたとかで早速、Nくんと大くんが居酒屋で陣取った。「とりあえず」のビールジョッキを空けたところに、吉田先生とハイタニ教授が加わった。焼き鳥や枝豆、様々なつまみが運ばれてくると、当然のごとく、下やんがやって来た。「おッ、雁首を揃えているなッ」 下やんも楽しそうだ。よくもまあ、こんなに話すことがあるものだと呆れるが、揃いも揃って善人ばかりである。人の悪口や、ねたみなどの気持ちの悪い発想は一切ないので、気持ちがいい。Nくんは今年の夏こそは水虫を克服するぞと決意を述べ、大くんは夏までに20キロは体重を減らしたいと大きくなったお腹をさすりながら無駄な約束をする。下やんだって負けてはいない、4月からは絶対、一週間に一度はお風呂に入るようにすると、周りが少しソーシャル・ディスタンスをとりたくなる話題を披露する。吉田先生、大声で笑っていたが、オレはもっと健康的な思いを持っているぞと他の連中の注目を集める。オレはだな、外に出る前に必ずトイレに行って、途中で苦しくならないように心がけようと思っているとのたまった。どうも、話題がみんな汚い。残ったハイタニ教授、ぼ、ぼくはですね、さっきの下川さんの「雁首」について今、考えているところなんです。他の連中、聞こえなかったふりをして、飲み物を焼酎に変えようと声をそろえた。*雁首=「首または頭の俗語」「(形が雁の首に似ているからいう)キセルの火皿のついた頭部」(広辞苑)。けれども、その首が下を向いてうなだれているように見えるところから、そろって誰かに叱られるようなときにこの言葉は向いているようにも思われるのである。ハイタニ教授、そのあたりが気になっていたのだろう。 (2021.3.21)

295)つらつら

偉大なる教育者、吉田先生の素晴らしさは、常に自然体で、かつまた純粋であることだ。そのようにロンドンの先生が言っていた。なるほど、と思うNくんである。教育者としての純粋さはまず、もちろん、学ぶ者に向けられる。吉田先生はいかなる時も生徒第一で考え、行動する。生徒のことに駆け回るときは、お風呂になんかひと月入らなくても平気である。一貫している。一貫していると言えば、日本一の保育園「ともそだち」の園長、大くんも同じである。保育児のためなら夜、何日も眠らなくったって頑張ることができる。その代わりあくる日、きちんとお昼寝はするのだが。もう一人の教育者、日本を代表する方言学者、ハイタニ教授もまた、一貫している。研究のためなら、北は北海道から南は沖縄までどこにだって出かけていく。愛用の男性用オーディコロンと手鏡、いやボイスレコーダーを片手に。われらが大将、下やんも一貫している人間の代表だ。旨いと聞けば、タクシーに乗ってでもそのラーメン屋に飛んでいくし、カラオケでは「青春時代」は絶対に歌うことにしている。何しろ、一貫しているのだ。そして、Nくん。愛妻と向き合うときは、愛妻以外は目に入らないし、他の場で美しい女性を見つけると、猪突猛進で、その人に気に入られるよう努力する。その場の女性に対して一貫しているのである。そういうことを彼らはそれぞれ、午後のけだるい時間、紅茶をすすりながら、不思議に同じことをつらつらと考えているのであった。*つらつら=「【熟々】つくづく。よくよく。念入りに」(広辞苑)。日本国語大辞典には、「万葉集」の例から「連連」の意とする説も紹介している。 (2021.3.14)

294)酌み交わす

「フーテンの寅」を現実に持ってきたような愛すべき善人、気は優しくて短足で、涙もろくて胴長の下やん、無類の酒好きである。そしてまた、一升瓶が口の中に入るのではないかと思われる型破りの教育者、同じく短足を誇る吉田先生、とにかくスマートで、ハンサムで賢くて、教え子の現役大学生と結婚するほど純粋で熱情的な方言学者のハイタニ教授、むろんわれらが短足胴長会会長でサキイカ大好きのNくん、日本一の保育園「ともそだち」園長で、お尻の下が踵(かかと)と間違えられるほど立派な短足の大くん、揃いも揃って大酒呑みである。その点ロンドンの先生は、嗜(たしな)むほどしか飲まない上品な紳士である。夕刻5時を過ぎると、みんな落ち着かない。それぞれが咳ばらいをしたり目配せをする。それだけで、今夜の呑み会の幹事が決まってしまうのだから、素晴らしいコミュニケーション能力である。5時半になると同時に椅子から立ち上がり、とっくにしておいた帰り支度に時間を奪われることなく、居酒屋へと向かう。大きなテーブルを囲んで座り込むと、5分後には大ジョッキのビールが空になる、しかも同時に。「いやあ、こうやって飲み交わすと、今日の激しく密度の濃い仕事の疲れが取れますねえ」とNくん。他の者たちはさすがに大きくうなずくことができず、メニューに目をおどらせる。「おいッ、」と吉田先生が叫ぶ。「あ、先生、トイレでしたらあっちですよ」と大くん。「なにッ、だれがトイレだッ」 2杯目のビールを空(から)にした下やんが、実に楽しそうに笑う。「Mよ」と吉田先生。(ぼくはNだって)と思いながら「はいッ」と返事する。「飲み交わす、ですね」と脇からハイタニ教授。「そ、そうだよね、飲み交わすなんて言い方、失礼だぞッ」と下やん。「そうですよ、こんな大先生たちに。飲ませていただきます、と言わなくちゃ」と大くん。「あ、いや、そうではなくて…」と困ったようにハイタニ教授。*「飲み交わす」ではなくて「酌み交わす」が正しい。「飲み交わす」では交互に飲むことになって、場は盛り上がらないだろう。(2021.3.7)

293)赤の他人

激しくドアが開くと、「おいッ!」と吉田先生。「あ、あっちだなッ。空いてるなッ」「はいッ」とNくんが応える。「いやあ、危機一髪だった、アハハハハ」 手をふきながらトイレから戻った吉田先生、机の上のお菓子に手を伸ばす。日本一の保育園「ともそだち」の園長先生である大くんが持ってきた草加せんべいである。「吉田先生ッ、久しぶりです」とさわやかでハンサムな公立大学教授、ハイタニ先生が吉田先生にあいさつする。熱いお茶を飲みながらせんべいと格闘していた吉田先生、「ア、オ、ハイタニ君。ど、どうしたんだ、大学、首になったか。カミさんに逃げられたか」「……」「ハイタニ先生は、学会での発表のついでに顔を出してくださったんですよ」とNくん。「そ、ついでに、お土産も持ってきてくださったんです」と下やんが付け加える。「あ、このせんべい、ハイタニ君のお土産か」「いやそれはぼくのお土産で、……」と大くん。「じゃあ、ハイタニ君のお土産はどこにあるんだ」「……」 いやはや賑やかである。ハイタニ先生の話によると、学会発表の他に、知り合いのおばあさんが入院されたということで、近くの大学病院にお見舞いという用事もあったようだ。しかも、全くの赤の他人のおばあさんであるにもかかわらず、ハイタニ先生は時々そのおばあさんのお世話をしているということだ。天涯孤独のそのおばあさんが、ハイタニ先生が社会人向けに行った講演を聞きに来ておられたときに気分が悪くなって、会場から病院に運ばれたのだそうだ。ここにも善人がいた。下やん、Nくん、大くん、それに吉田先生、ハイタニ先生、たまらないほど心優しく、脚の短い、あ、いやハイタニ先生は長いが、そういう人たちが集まっている。「ところで、なんで赤の他人というのかな、緑の他人とか、白い他人とかは言わないよな」と下やんがつぶやく。みんな、「えッ」といった表情で下やんの方を振り向く。*赤=「〈の〉を伴って連体修飾語として用い、〈全くの〉〈はっきりした〉の意を表す」(日本国語大辞典)。「あか(赤)」は「あか(明)」と同語源と思われ、つまり、「はっきりとした」とか」明らかな」といった意味に用いられる。(2021.2.28)

292)矢先

「コンニチワー」と声が聞こえ、入り口を見ると、金縁の眼鏡をかけた紳士が立っている。紳士といっても若い。若いと言っても20代や30代ではない落ち着きがある。知性や教養もあふれるようにこぼれ落ちている。何よりハンサムだ。「あ、あのう、どちらさまでしょうか」とNくんが訊く。大くんも下やんもポカーンと口を開けている。「あ、あのう、先生の教え子のハイタニです」「ハイタニ? あッ、ロンドンの先生の教え子で公立大学の教授をされている、ハイタニ先生ですか?」「ハイ、ハイタニです」 ロンドンの先生によれば日本を代表する方言および日本語学者である。「ちょっと東京に来る予定があったので……。あ、これお土産です」「あ、どうも」とすかさず下やんが手を伸ばす。それにしてもさわやかでカッコいい。今日はなぜか顔が見えないが、もう一人の大人物のお客様、吉田先生とは世界の違ったセンセイである。いきなりトイレを貸してくれとは叫ばない。「あのう、吉田先生もこちらに来られていると聞いたのですが」「あ、吉田先生は今、洗濯するのは面倒なので、新しい下着を買ってくると言って、出て行かれました。もう一週間着替えていないとかで」「あ、あ、そうですか」「ぼくの奥さんに洗ってもらいますからといった矢先に出て行かれまして」とNくん。「そうですか。吉田先生らしいですね。ところで、その〈矢先〉という言葉の使い方ですが」(ムム、こ、この人も、あの種類の人間か)四人とも固まるのだった。*矢先=「事のまさに始まろうとするとき、またはその直後」(広辞苑)。この説明であれば、Nくんの言葉遣いに誤りはなさそうだが、「予定の行動にかかろうとする、ちょうどその時」(新明解国語辞典)といった説明の方が的確。わずかの違和感だが、見逃さない方がいいだろう。 (2021.2.21)

291)めぼしい

日本一の保育園「ともそだち」の園長先生である偉大なる教育者、大くん、胴は長いが脚の短さでバランスをとっている心優しいNくん、そのバランスと優しさに加えて安心感のある大きな顔の下やんが、言葉もなく沈んでいる。13日の深夜、福島沖でまたしても起きた大きな地震のニュースに、三人ともうっすらと涙を浮かべている。被災者のことを思うと、たまらない気持ちで言葉を発することができないのだ。「そ、それにしてもだ、……」 下関から東京にやって来ているもう一人の心優しい吉田先生が、ポツリと言った。「東京のニュースは、いったいなんだ、あれは?」「えッ、なにか?」 Nくんが訊ねる。「うん、日曜日の朝のニュース・ショーを見ていたら、その放送局の記者が被災状況を報告してだな、<まだ、今のところめぼしい数字は報告されていない>とのたまったのだよ。いや、多少細かい言葉遣いは正確ではないが、確かに<めぼしい>とその記者は言ったんだよ」「えッ、そんなあ、……」 大くん、Nくん、下やんの三人が、声をそろえた。「うん、ひどいよなあ。テレビも新聞も結局のところ、被害に遭った人たちのことを心配などしていないんだよなあ。自分たちの飯のタネぐらいにしか思っていないんだよなあ」 吉田先生は、肩を落とした。 *めぼしい=「目立っている。いちじるしい。ねうちがある。」(広辞苑)。この説明では実際の、この言葉を用いての表現意図がうまくあらわされていない。「見てすぐほしいと思ったり、他の物よりは価値があると判断したりする様子だ」(新明解国語辞典)のほうがより適切な説明である。つまりこの記者は、ニュースとしてもっと価値のある、刺激的な報告、例えば重症者や、死者の報告がまだ届いていないと言いたかったのだ。その報告の方が、ニュースとしての価値(news value)があると、つい本音を漏らしたのだ。被害が大きく、悲惨なほうが、テレビや新聞等のメディアにとっては価値があって、ありがたいということだ。ウーン、実に残念だ。そして悲しいし、もっと正直に言えば、怒りさえ覚える。(2021.2.14)

290)まなじりを決す

日本一の保育園「ともそだち」の園長先生である大くんが上機嫌で登場。保育園の20代の美人保育士の先生から、「大先生って、教育愛そのものって感じで、素敵ですね」と言われたのだそうだ。その話を聞かされた、胴が長い代わりに脚が短いというバランスの取れたNくんと、その上に顔がとびぬけて大きいというコンビネーションの下やん、大くんのお土産の草加せんべいを食べながら、「フーン」という気の抜けたあいづちを打った。そこに突然、「おいッ、トイレはッ、…あ、あっちだったなッ」と吉田先生が現れた。ホテルを出る前にトイレに行って来ればよいのに、と三人は思った。手ぬぐいで手をふきながら戻ってきた吉田先生、当然のごとくせんべいをかじると、「ん? お茶がないな、ぼくの」と一言。あわててNくんがお茶を運んでくる。「おッ、気が利くなあ、Mくん」(ぼくはNなのだ。それに気が利くも何も、要求されたから持ってきたのだ)Nくんは吉田先生に微笑みながら、心の中でそう思うのだった。「ところでだ、君たちどう思うかい? 例のオリンピックの林会長の女性蔑視の発言を」(林ではなく、森だ) 三人は思うのだった。「ああ、あれは、その、いかんですね」と下やん、さすがお腹が出ている、いや、貫禄がある。「それにしても、委員会理事の、あの、なんだっけ、女三四郎の彼女、気持ちいいねえ」「ああ、森さんが辞めたら、オリンピックに光が見えてくる、とかいうセリフでしょ」「なかなか言えないよねえ」 いったい誰が言っているのかわからないほどに盛り上がる。「きっと、彼女、<まなじりをつりあげて>言ったんだろうなあ」「それを言うなら大くん、<まなじりを決す>じゃないか」「おッ、Mくん、よく知っているじゃないか」と吉田先生がほめる。 *まなじり(眥)を決す=目を見開く。怒ったり決意したりするさまにいう」(広辞苑) (2021.2.07)

289)追突

「いやあ、まいったよ、……」とオフィスに入ってきた下やん、ニコニコと出迎えた吉田先生に言葉を飲み込む。「どうしましたか、下やん」と吉田先生。「あ、い、いやあ」と頭をかきながら、目でNくんを探す。「あ、Nくんなら大くんと一緒にお買い物に行っちゃったよ」「お買い物?」「うん、のどが渇いたなあ、と言ったら、二人して出かけて行っちゃったから、ぼくが留守番」「あ、どうもすいません。あのバカ、二人で行くことはないだろうに……」「いやいや、二人とも優しいねえ、とそう言ったら、下川さんがとっても優しくて、それがうつっちゃったとか言ってたよ。アハハハハ」 大きな笑い声だ。「今朝は何時にいらっしゃったんですか」「ん? 730分だったかな」「早いですね」「やっぱり時差があるのかなあ。下関と違うなあ」(同じ国内で、時差なんかあるはずないじゃないかと思う下やんだったが)「はあ、そうですねえ」そこへ、Nくんと大くんが戻ってくる。「あ、下川さん、今日は早いですねえ、まだ10時ですよ」「……」「吉田先生からお土産ということで、下関のウニをもらったんですよ。ウニだけではと、飲み物を買いに行ってきたんです」「そうか。で、なにを買ってきたんだ?」「ウニにはビールよりも日本酒だろうと大くんが言うので、辛口のを買ってきました」「お、おまえ、勤務中だろ」「ええ、だから1本だけ買ってきました」「一本?」「ええ、一升瓶一本」「……」「そうか、君たち控えめで立派だなあ」と吉田先生。「……」 下やん、その考え方に、圧倒される。「ところで下やん。部屋に入ってきたときに、まいったとか言っていたけれど、どうかしたの」「あ、ああ、それが。もうちょっとで死ぬかと思って」「なになに、それは面白そうな話じゃないか」「……」「死にそうになったのは下川さんですか」 ニコニコした大くんが訊く。そういえば、大くんからの今日の土産は何だろう。「それがな、オレの前を走っていた車が信号で止まるときに、急にバックしてきて追突されるかと思ったんだよ」「で、追突はされなかったんですか」 残念そうなNくんである。「まあな」「まてよ」と吉田先生が大きな唇を上下に開く。立派な辛子明太子が口の上下に一つずつ並んでいる。「その追突という言葉の使い方は間違ってないか」(またか、めんどくさいなあ)と思う下やんだった。 *追突=この状況だと「車が前から追突する」ということになるので、厳密にいえば間違い。「追突」の「追」は「追う」という意味だから、後ろからの衝突に用いるのが正しいだろう。(2021.1.31)

288)ございます

「おいッ、トイレはどこだッ」とその人は突然現れた。「つ、突き当りを右です」と勢いに負けたNくんが反射的に応えた。「危ないッ」とその人は言うと、トイレに駆け込んだのだった。「お、お、おいッ、どうしたんだ、今のッ」と慌てた下やんが訊く。「いや、あの、その、ぼ、ぼくにもわからないんです」とNくん。GODIVAのチョコレートをお土産として持ってきていた日本一の保育園の園長である大くん、とっさに帰ろうとする、持ってきたチョコレートをカバンに入れて。「おいッ、大よ、おまえ何してるんだ?」と下やん。「あ、いや、あの、危険が飛び込んできたので……」「だからといって、チョコレートまで持って帰ることはないだろうよ」「そ、そうですね、どうぞ」 しばらくして、腰に下げた手ぬぐいで手をふきながら、その人が戻ってきた。みんな緊張する。「いやあ、駅弁が良くなかったのかなあ、まるで水だよ、水。シャーッ、と。かろうじてセーフ。アハハハ。」 そう言いながらその人は、チョコレートの箱に手を伸ばし、一つ口の中に放り込んだ。唇が厚い。「あ、ヨ、ヨシダ先生」「おお、生きていたかあ、Mくん」「Nです」「お、おい、こちらの方は誰だ?」と下やんが、小声で訊く。「あの―ッ、ロンドンの先生の後輩というか、仲間というか、弟のような人というか、とにかく、大切な方ですよ」とNくん。その人の名前は吉田先生。いつだったか、先生が公開講義をされる福岡・博多の会場に、自分が仲人をしたという若い先生を連れて現れた。「おいッ、この先生が、オレの先生なんだ」とその若い先生にロンドンの先生のことを紹介した後は、いったん姿を消すと、仕事の終わった先生を囲んだスタッフの会食の場ににぎやかに現れた。「おいッ、トイレはどこだッ」とその居酒屋のスタッフに訊くとトイレに駆け込んだ。(あ、あの時もそうだった)とNくんは思い出すのだった。「いやあ、あなたが下やんで、きみがMくん(ぼくはNなのにとNくん)。きみは何だ、脚の短いきみだよ」「だ、大です」「ん? そうなんだよ、でも水みたいでさあ。いやあ、苦しかったなあ。アハハハ」。ところで、ロンドンの先生は元気?」「お元気でございます」とNくん。「ん? その日本語、おかしくないか?」(コ、コイツも先生と同じ種類の、ああ、大変だ)と思う下やんだった。吉田先生、東京での研究会に出席するため、下関からやって来たのだという。ものすごい善人で、人情もろく、優しくて、脚が短くて、唇が厚くて、家族思いで、金八先生のスケールが小さく見えるほどの生徒思いで、とロンドンの先生から聞いている。「きみは立派な先生だよ」と先生が言うと、吉田先生は声を出して泣いた。先生も泣いていた。吉田先生、しばらく東京にいるとかで、「毎日顔を出すから、安心しろ」と言って帰っていった。*「お元気でございます」は吉田先生が言うように確かにおかしい。「ございます」という言葉は元は「ござります」。イ音便化して「ございます」となった。尊敬語としての「ござります」がその敬意を下げていき、「ございます」は丁寧の意味のみとなる。よってこの場合は「お元気でいらっしゃいます」が無難。(2021.1.24)

287)番茶も出花

「さくらがさあ、……」 下やん、ぼんやりとつぶやく。「どっか、もう咲いてました?」 とNくんが訊く。「そうかあ、もう花見かあ」 日本一の保育園「ともそだち」の園長である大くんも応える。今日も来ているのだ、ミカンをたくさん持って。みんなそのミカンを食べながら話している。「お前ら、バカか? 今頃桜が咲くはずはないだろッ」「いや、どっかに咲いたとかいうニュースが流れていたような、……」 Nくんである。「小生のお嬢様のことだよッ」「あ、あ、そうでした。お嬢様のお名前でした」 とNくん、謝る。謝るスピードは、結婚してついた得意技なのである。「さくらお嬢様がどうかされたんですか? まさか、家出?」 と大くん。「えッ、それは心配ですねえ。番茶も出花というぐらいですから、さくらちゃんのこと心配でしょう?」 とNくん。「いやあ、Nくん。番茶も出花って、18歳の女の人のことをいうんじゃないんですか?」「あッ、そうか。<娘十八、番茶も出花>っていうもんね」「そうだよ、さくらちゃんは大学を卒業してもう何年か経つから、十八ってことはないでしょ」「でも、家出したとなると大変だなあ」「あのなあ、おまえらどうしてそんなに物事を先走りして、無茶苦茶に考えるんだよ。オレはな、さくらが一人で暮らしたいなんて言い出したもんだからさ、考えているところなんだよ。それになんだあ、<番茶も出花>って、何となく引っかかるんだよなあ、その言い方」 *まず、「娘十八、番茶も出花」は間違い。「鬼も十八、番茶も出花」が正しい。「鬼でも年頃になれば美しく見え、番茶も出ばなはかおりがよい。どんな女でも年頃には女らしい魅力が出るという意」(広辞苑)。とても誉め言葉とは思えない。さくらちゃんは奥さんに似て大変な美人であるから、確かにNくんや大くんの用い方はおかしい。 (2021.1.17)

286)ゆめゆめ

「何をボーッとしてるんだ?」 下やんがNくんに訊く。「ホント、どうしたんですか?」 今日もやって来ている 日本一の保育園「ともそだち」の園長である大くんも何となく愉快そうに訊ねる。「いやあ、この前の大くんの夢の話じゃないんですが…」「おッ、おまえもやっちゃったか?」「Nくん、顔は引っかかれなかったんですか?」 うれしそうな大くんである。数日前、夢の中に現れた幼稚園の頃の同級生の女の子の名前を寝言で口走って、愛妻から顔に3本の傷をいただいた大くんである。「違いますよ、まったく。ぼくは大くんと違ってそんな男じゃありませんから」「そんな男って、ぼくも無罪なんですから…」「じつは、最近、時々、下川さんが夢に現れるんですよ」「なにッ、オ、オレが? オ、オレは、なんだ、その、悪いけどな、男には興味がないんだよな」「えッ、違いますよ。ぼくの夢に現れる下川さんは、ちょっと家で何かあって、今晩泊めてくれって突然やって来るんですよ。そして、ずっと家にいるんです」「ん? あり得ないことではないな。ま、そういう時はあたたかく迎えてくれよな。長くても一回当たり、一週間だからな」「それにしても面白い夢ですねえ」「ま、心構えとしてはいいんじゃねえか。オレはそう思うけどな」「冗談じゃないですよ。そういう時は大くんのところにしてくださいよ」「あ、ぼくンところは、顔に筋ができちゃうから…」
「今夜こそは、夢夢、下川さんが現れませんように、とお祈りをして眠るんですが、お祈りが効かなくて…」「まあ、気にするな、頼むぞホントに、そういう時は」 大くんのお土産のスイス製のチョコレートに噛り付きながら、下やん、まじめに頼むのだった。 *ゆめゆめ=「夢夢」と書くのは間違い。夢には関係がない。「努々」と書くのが正しい。「(禁止の語を伴い)決して決して」の意(広辞苑)。「努々、下川さんが現れませんように」 と使う。 (2021.1.10)

285)お年玉

「おッ、ミンスパイじゃないか、懐かしいなあ」と下やん。「ほんとだ、ミンスパイだ」とNくん。年が明け、オフィスにやって来た日本一の保育園「ともそだち」の園長である大くんのお土産だ。3人ともロンドンでの暮らしを懐かしんでいる。ミンスパイはイギリスのクリスマスには欠かせないお菓子である。「でも、クリスマスから日数が経っているが、大丈夫か、これ?」「大丈夫ですよ(下川さんなら)、日持ちのするお菓子ですから」と大くん。「でも、だいじょうぶかなあ」「だいじょうぶですよ、Nくん(なら、特に)」 ミンスパイに合わせて紅茶を飲みながら、「ところでお前たちさ、例のお年玉とかいう困った習慣だけどさ」と下やんが切り出す。「えッ、いやあ、下川さん、ぼくたちもう大人ですし、そんなア、形だけでいいですよ、ね、大くん?」「そうですよ、大きいの1枚ずつで十分ですよ、下川さん」「お前らッ、アホか。なんでおまえらにこの下川様がお年玉をやらねばならんのだ」「あ、違うんですか。子どものようにいつもかわいがってもらっているので、そうかなあって思って、つい、パパ」「何がパパだッ、気色悪い。娘がだな、クリスマスプレゼントとお年玉を合わせて、現金じゃなくてバッグが欲しいなどと」「ぬかしたんですか?」「他人様の娘のことを、ぬかす、とはなんだッ」「おっしゃったんですか?」「おっしゃったんだよ、これが」「でもまあ、エコバッグだったら結構安いもんでしょ、数百円であるんじゃあないですか?」「それがだな、トンネルとかいうブランドのやつが欲しいとカタログを見せられたんだよ。おどろいたぞ、ま、ま、丸がたくさん並んでいてな」「それ、トンネルじゃなくて、シャネルじゃないですか?」「あ、それだよ、なんだあれ、霊感商法か何かなのか?」「シャネルかあ、高いだろうなあ。あ、でも、もう、さくらちゃん、働いているんですよね。高給取りだし、お年玉なんていらないんじゃないんですか」「お年玉って、何歳までやるようにって、法律で決まっているのか、おまえら知ってるか。決めてるのは、憲法か、それとも非常事態宣言か」「うーん」 考え込む3人の善人たちだった。 *お年玉=今も日本ではこのお年玉なるものは配られているのだろうか。日本を離れて30年以上も経つ筆者にはよくわからない。さて、このお年玉、起源は中世まで遡るようである。近世になると、都市部では金銭や扇、薬などがお年玉として配られたが、全国的には小餅を配っていたようである。(参考:日本大百科全書・ニッポニカ) 高額のお年玉が当たり前のようになったころから、子どもたちにとってあまり教育的ではない贈り物となったように感じられる。*今年もよろしくお願いいたします。 (2021.1.3)

284)気質

クリスマス・プレゼントに娘のさくらちゃんから手袋をもらった下やん、機嫌がいい。子羊の革製で、とても柔らかい。下やんの手にはほんの少しだけ小さいMサイズだが、大丈夫、大丈夫と思って着けていると次第になじんでくるのだ。とにかく善人の下やん、人に優しくしてもらうと、世界中の人がみんな良い人に思えてくるのだった。クリスマスに、奥さんの親戚が何人かやってきた。下やんの性格を受け継ぎとびきり優しいさくらちゃん、午前と午後にやってきた親戚のおじさん二人にもプレゼントをやった。さくらちゃんは民間の科学研究所で働く研究員で、奥さんに似て頭がいいのだ。給与だってとてもいい。午前中にやって来たおじさんが、さくらちゃんからのプレゼントをその場で開けて喜んだ。いい感じの手袋だ。下やんは自分のに似ているな、と少し思った。なあに、気のせいだ。午後2時過ぎにやってきたのは奥さんの弟で奥さんに似て足が長くかっこいい。さくらちゃんがやったプレゼントを開けると、手袋だった。子羊の革製、Mサイズ。ぴったりのサイズだ。なあに、気のせいだ。しばらくして、奥さんに頼まれてデパートに買い物に行った下やん、ついでに立ち寄った紳士用品売り場でばったりNくんに会った。「どうしたN、買い物か?」「あ、下川さん、お買い物ですか?」「まあな、デパートにジョギングに来るやつもいないからな」「あれ、下川さん、いい手袋してますね。あそこの3つセットの特売で買ったんでしょ。ぼくもね、3つ持ってると汚れたりしたとき便利だなと思って買ったんですよ、実は」「……」「一つカミさんのお父さんにあげようとしたら、うちのカミさんから叱られましてね。セット売りのものの一つをプレゼントするなんて、わたしの父に失礼でしょ、って」「そ、そりゃ、そうじゃ、じゃ、ないか、N」「やっぱりそうですかねえ。いいモノだったらセットであろうが単品だろうが、関係ないって思うんですがねえ」「ま、そうはそうだがな」「カミさんの父親って、江戸っ子気質(きしつ)でしてね。結構うるさいところがあるんですよ」「オ、オレだって、その気質(きしつ)だぜ。セットの片割れなんか、人からもらったんじゃあ、気に食わねえもんな、ハハ、ハハ、ハ、ハ、……、ハア」 *気質=「きしつ」と「かたぎ」の二通りの読み方がある。「江戸っ子気質」や「職人気質」などのような、同じところの出身者やその職業に携わる人に共通する性質は「かたぎ」と読み、その人独自の性質を表すような場合は「きしつ」が適当。たとえば、「思いやりのある気質」「頑固な気質」など。(2020.12.26)

283)ゆめゆめ

日本一の保育園「ともそだち」の園長である大くんの奥さんは栄養士さんである。Nくんの奥さんは元CA(最近はスチュワーデスさんのことをこういうのだそうだ)である。下やんの奥さんは「ミス〇〇」である。〇〇が何だったか、思い出せないのだが。三人そろって、過ぎた美人の女房を持っている。三人とも、あの半沢直樹なんか比べ物にならないほどの土下座をして結婚してもらったのだった。あれっ、土下座したのは半沢直樹じゃなかったかな? とにかく三人とも幸せだった。とはいえ、三人ともあのフーテンの寅さん同様惚れっぽくて、ついつい美しい女性や、可愛い女の人を見かけるとしばらくはその人のことで頭の中がいっぱいになる。何しろ、頭の収容能力がどちらかといえば小さい方なので、他のことは考えられなくなる。むろん、ただただ思ったり考えたりするだけで、実害はない。ところが、である。友人の結婚式の引き出物の残りのバウムクーヘンを下げてやってきた大くんの左頬に3本の生々しい筋があった。下やんが心の底から嬉しそうに訊く、「大よ、やっちゃったか、今朝? 聞いてもいいぞ」「ぼくも、ぼくも」とNくん。話はこうだ。大くん、夢を見た。自分が幼稚園児の時の夢だ、今は園長をしていて幼い子どもたちと毎日格闘しているので、ま、自然な展開である。幼い大くん、近所に住んでいた小百合ちゃんのことが好きだった。小百合ちゃんのお父さんが吉永小百合のファンで、その名前を付けたようだ。夢の中で大くん、気に入った絵本の取り合いっこをしてケンカになった、小百合ちゃんが泣いた。優しい大くん、「ごめんね、小百合ちゃん」と声をかけた。その「小百合ちゃん」というところだけが、実際の声になって、つまり寝言になって奥さんの耳に届いた。その数分後には、奥さんの前で大くん、正座をしていた。口下手の大くん、うまく説明ができない。奥さんが立ち上がり、一通のはがきを持ってきた。昨日届いたようだ。幼稚園の頃の同窓会をやろうという案内で、差出人は幹事の小百合ちゃんだった。間が悪いといった絶体絶命の危機である。「うん、うん」「ふッ、ふッ」 下やんとNくんのかみ殺した至福の声が響く。「いいか、大よ。昔から云うだろ。ゆめゆめ思ってしまうような女性は危ないって」「下川さん、どういう意味ですか、それ」と大くん。「夢にまで出てくるような女性には気をつけろって意味だよ、大くん」とNくん。「そうかあ、勉強になるなあ、お二人と話していると」と感心しながら、まだ少しひりひりする頬を撫でる大くんだった。 *ゆめゆめ=「副詞「ゆめ」を重ねて強めた語。強く注意をうながす語。禁止の語句と共に用いる。決して決して…するな」(日本国語大辞典) 「夢」とはもともと関係がない。*過ぎた美人=気になったのでこちらも補足しておく。これは、この三人にはふさわしくないほど美しい、過分の」といった意味で、「かつては美しかったが、もうそれは過去のことで、今は美人ではない」といった意味ではない。くれぐれも誤解なきよう。(2020.12.20)

282)お茶目

柿の皮をむきながら三頭身のNくんが云う、「ロンドンの先生も食べたいだろうなあ」。日本一の保育園「ともそだち」の園長である大くんも云う、「先生の好物ですもんねえ」。「いや、ホント、今の時期に日本にやってきたら毎日のように柿を食べてたもんなあ」と口をモグモグさせながらもう一人の三頭身の下やん。今日もやって来た大くんのお土産は柿である。海の牡蠣(かき)、山の柿が好きだというのは有名であるが、他にも好物が多い先生のために、いろいろと走り回った者たちは数知れない。わざわざ先生の好きなワインの銘柄を探し歩いた学生もいた。ある県に招かれて講演をした際は、冬にもかかわらず「白熊」というかき氷が食べたいと突然、云い出して、県庁の職員が走り回ってやっと一軒のレストランを見つけた。食べ終わった先生に感想を求めたその職員に、「いやあ、ありがとう。でも、まずい」の一言。そういった話に一区切りがついたとき、大くんが云った、「うちのお茶目な娘がですね、今年はパパにもサンタさんが来るといいねって、云ってくれましてね。涙が出るほどうれしかったですよ」「去年はプレゼント、なかったんですか?」とNくんが訊かなくてもいいことをあえて訊く。去年は奥さん、自分へのプレゼントを買ったら予算をオーバーして、大くんには<心のこもった笑顔>をくれたそうだ。「おい、大よ。お前の娘、まだチビ助だろ。そんなうちから、カラーコンタクトレンズを入れさせて、おまえいったいどんな教育しているんだ?」と下やん。「えッ、コンタクトレンズって、なんのことですか」「お前の娘、茶色の目をしているんだろ。それとも何か、生まれつきか。あれッ、おまえの娘って、父親は外国の人だったっけ?」「下川さん。<お茶目>って、茶色の目って意味じゃありませんよ」 Nくんが間に入る。「無邪気でかわいいってことですよ」と大くん。「じゃあ、どうして茶色い目っていうんだよ」 *「ちゃる)」という「ふざける。おどける」といった意味の言葉がある(日本国語大辞典)。これに「茶」という漢字を当て、「娘」という意味を表す「め」が付いたものと思われる。とすると、「お茶目な娘」では、「め」と「娘」がダブってしまうが、ま、娘だから愛嬌というところで。(2020.12.13)

281)友達

Nくんの奈良の山深い田舎の村から一人の青年がやってきた。村唯一のレストラン、「田吾作(たごさく)」で働くシェフ、五十六くんである。五十六くんのおじいさんが付けてくれた名前である。立派な名前だ。ただ、この名前、<いそろく>とは読まず、<ごじゅうろく>と読むのだという。村役場に届けたおじいさんは、尊敬する山本五十六(やまもと・いそろく)の名前をてっきり、<ごじゅうろく>だと思っていたようなのだ。それで、この青年、ゴジュウロクくんとして生きることとなった。名字は「蜂質(はちしち)」である。つまり、「8×7=56」である。Nくんの幼馴染(おさななじみ)である56くんは初めて東京にやってきた。56くんが東京に行くというので村では壮行式を執り行った。鼓笛隊(計3人)も出し、おじいちゃんやおばあさんは小旗を振って盛大に見送った。56くんのお母さんは、今生(こんじょう)の別れになるかもしれないと、一日2回やってくる列車の駅で、涙を流したのだった。なにしろ、東京に行ったことのある村人は、役場の助役さんとNくんだけだったのだ。村長さんも東京に行ったことがなかったのだから、東京はまさに未知の都会なのだ。東京に行くことが決まった時村長は、役場ではパスポートが発行できないが、と心配したくらいである。56くん、郷土の奇人、いや偉人であるNくんを頼って東京にやってきたのだった。用はといえば、銀座コージーコーナーのイチゴのケーキを写真にとることと、その味わいを調べるためである。レストラン「田吾作」でも2021年の創業6年を記念した一大プロジェクトとして、イチゴケーキをメニューに加えることに決めたのである。「田舎の友達のハチシチ・ゴジュウロクです」とNくん、下やんに紹介した。お昼のコンビニ弁当を食べ終わり、左手はつまようじでシーシーと音を立てながら歯間を掃除し、右の人差指で鼻の穴の掃除をしていた下やん、その特殊技能を邪魔されて機嫌が悪くなりそうだったが、56くんが手にしているお土産らしい包みに目を止めると、「ああ、いらっしゃい」と笑顔を作った。「で、連れは、どこにいるのかな?」と下やんがNくんに訊いた。「えッ、彼だけですけど」「今、友達って言わなかったか?」「はい」「友達って言ったら二人以上いるんじゃないか? <たち>って言うんだから」「あ、あ、あ、……」 56くんは、(やっぱり、東京の人は洗練されているなあ)と感心するばかりであった。*友達: たしかに「達」は「名詞・代名詞に接続して複数形を作り、または多くをまとめていうのに用いる」(広辞苑第7版)。がしかし、「複数の意が薄れ、軽い敬意を表す」(同)とも書かれていて、「源氏物語」における用例が挙げられている。つまり、かなり昔から、一人であっても「ともだち」といっていたようだ。ところでこの「達」であるが、常用漢字の音訓読み(本表)には〈たつ〉しかなく、〈たち〉という読みはかろうじて「付表」で「友達(ともだち)」として特別に認められる形になっている。「父さん」の「とう」、「母さん」の(かあ)などと同じ扱いなのだ(「新しい国語表記ハンドブック 第8版」三省堂)。よって、「私たち」や「学生たち」などは、「たち」と表記するのが無難である。 (2020.12.05)

280)一縷の望み

今日もなぜか当たり前のように日本一の保育園「ともそだち」の園長先生である大くんがオフィスに座っている。Nくんと下やん、三人合わせて短足トリオと周りのスタッフは呼んでいる。安定感のある三人である。人柄の良さもとびきりで、あのフーテンの寅さんが三人いるようなものである。大くんの今日のお土産はドーナツで、熱いほうじ茶で味わっている。「ワクチンができそうですね」と大くん。「ウン、やっとだねえ」とNくん。「長いトンネルの先の<一抹の希望>ってとこだな」と二つ目のドーナツに手を伸ばしながら下やん。「えッ」とNくん、下やんをにらむ。「な、なんだよッ。まだ二つ目だぞ。一人二個はあるじゃねえか」と下やん、にらみ返す。「そうじゃないですよ」とNくん。「なにッ。一、二、三、……。ほら、一人二個は食えるじゃないか」「いや、そうじゃないんですよ」と大くんも加わる。「<一抹の希望>って、おかしいですよ」「何がおかしいんだよ、わずかな希望じゃねえか、ほかに対策がないんだからさ。<マスク・手洗い・3密を避ける>という呼びかけしか政府の連中、何もしねえじゃないか」「それはそうですよね。政治家って、楽ですよねえ。呼びかけていればいいんですから」と大くん。保育園でも家でも徹底した感染対策に取り組んでいる。家に帰ると奥さんから全身に殺菌スプレーが噴霧される。さらに、家の中でも大くんのみマスクが義務付けられている。なぜだろうとは訊けない。大くんの家でも奥さんが絶対なのだ。この点でもこの三人は共通する。「いや、そうじゃなくて、下川さん。<一抹の希望>という言葉がおかしいと言っているんですよ、ぼくたち」 大くんである。「チミたち、知らないのか、この言葉?」「いやあ、なんか変ですよ」 Nくんである。なんとなく自信のなくなった下やん、「ま、とにかく、このドーナツの穴がだな、どうして空いているかといえばだな、……」 *〈一抹の不安〉〈一縷(いちる)の望み〉が正しい。 (2020.11.29)

279)小人数

都知事がコロナ対策として5つだったか、6つだったか〈小〉を守ろうと呼び掛けたそうだ。日本一の保育園「ともそだち」の園長先生である大くんがぶぜんとした顔でやってきた。お土産は焼き芋である。「芋を食うとさあ、なんというか、小生の内臓が反応してさ、ほら、ね」「やめてくださいよ、下川さん」「お前だって、やってるじゃないか」「Nくんのもくさいなあ」 オフィス中が毒ガス状態である。「なんですか、あの<>を守ろうとかいう呼び掛けは」 大くんが口火を切る。ガスに火がつきそうで怖い。「都知事とか首相とかいうのは、言葉遊びが仕事なのかねえ」「ほんとですよね、なんか国民や都民がバカにされているような、いやな感じですよねえ」「しかも呼びかけだけやっていて、政策なんてものはこれっぽっちもやってくれないんだよなあ」「今の首相は記者会見、全くやってないだろ」「原稿を読むだけで、記者の質問には答えないんですよねえ」「で、あの都知事の〈小人数〉なんですが、あれは〈コニンズウ〉なんですか、〈ショウニンズウ〉なんですか」「先週の話では、大小の関係で<最小限>が正しいということだったんだから、〈少人数〉ではなくて〈小人数〉がいいんだろうなあ」「いや、〈多人数〉に対しては〈少人数〉でもいいわけでしょう?」「そうだよ、今言っているのは〈大人数〉に対する〈小人数〉の〈小〉を〈コ〉とよむか、〈ショウ〉と読むかってことでしょ?」 *「小人数」は〈コニンズウ〉あるいは〈コニンズ〉と読み、「少人数」は〈ショウニンズウ〉と読む。(2020.11.22)

278)最小限

「よしッ」と下やんが気合を入れた。驚いたNくん、カバンを抱きかかえて部屋の出口へと小走りで向かう。きっとまた、下川さんがよからぬ決心をしたに違いなく、巻き込まれては大変だと。「おいッ、どうしたんだッ、N」「いや、あの、その、この……」「Nよ、小生は決心したぞ。このコロナ下では、できるだけエネルギーの消耗を防ぎ、万一に備えなくてはならない。だから、今後、小生ができるだけ動かなくていいように、仕事のほとんどは、Nにやってもらうことにする。いい案だろ?」「……」「たとえばだ、小生の書類のコピー取りはすべて、Nにやってもらうことにするし、昼飯はNに買ってきてもらう。支払いもしてもらって、小生は一向に困らないが、まあ、これは我慢しよう。何しろ、小生は優しいからな」「あ、あのう、動かないということは、体に悪いんじゃないでしょうか」「ん、いいんだ。おまえの体を考えて、あえて小生は、様々な仕事をおまえにさせてやろうと思うんだ。何しろ、小生は優しいからな」「でも……」「気にしなくてもいいぞ。とにかくエネルギーの消耗を最も少なくしようということだ。<最少限>で暮らすってわけだよ」「あのう、……」「なんだ、礼は要らないぞ。お前にとってはこれからいろいろと体を動かすことで、健康な毎日が送れるってことだ。何しろ小生は優しいからな」「いや、あのう、サイショウゲンというのは<最小限>が正しいのでは、……」「バ、バカだなあ。最も少ないという意味じゃないか。<最少限>が正しいんだよッ」「そうかなあ、なんか違うような気が、……」「いいから、いいから、早速だけれどな、コンビニに行って、つまようじを買ってきてくれないかな。さっき食べた豚肉が歯に挟まって気持ち悪いんだよ」*サイショウゲン=Nくんのいう〈最小限〉が正しい。反対語は<最大限>で、〈大〉と〈小〉の対比となっているのだ。(2020.11.13)

277)リンゴのような

大くんは日本一の保育園「ともそだち」の園長先生である。忙しくて大変なんです、と言いながら最近よく、下やんやNくんを訪ねてくる。二人のことが大好きなのである、脚も同じく短いし。そしていつも、お土産持参である。今日は立派なリンゴを10個も持ってきた。もちろん、下やんもNくんもお土産がやってくるのは、いや大くんがやってくるのは大歓迎である。「ぼくの娘たちのほっぺと同じ真っ赤なリンゴです」と大くん、子煩悩(こぼんのう)でもある。少し寒くなってきた。寒くなると子どものほっぺは赤くなる。「それがさ」と下やんが語り始める。「オレの知り合いに広尾でレストランを経営しているフランス人がいるんだけれどさ」「えッ、そこでごちそうしてもらえるんですか」とNくん、身を乗り出す。「いつですか、何としても日程を調整します、ぼくも」と大くん。「あ、あのなあ、おまえたち」「あのう、ぼくの美しい奥さんとかわいい息子も一緒でいいですか」とNくん。「ぼくのところもちょっと人数が多いですが、きっと大丈夫です、行けます」と大くん。「おいッ、いい加減にしろッ」「あ、やっぱり、家族はだめですか?」と二人が声をそろえる。「誰が、ごちそうしてやるって言ったんだよ。おまえら、いい加減にしろよ。オレだって、そのレストランで食事をしたこと、ないんだぞ。ものすごく高い店なんだぞ。オレのカミさんは友達といったことあるようだけれど。とにかく、オレが言いたいのは、リンゴのことなんだよ」「え、リンゴ?」「オレたちはリンゴのようなほっぺ、と言ったら、赤いほっぺだと思うだろ?」「そうでしょう」「それがさ、フランスで、リンゴのようなほっぺと言ったら、リンゴのように丸いほっぺ、という意味らしいんだよ」「ええ―ッ。でも、赤いほっぺでもあるんでしょ?」「いや、フランス人が思い浮かべるリンゴの色は緑色らしいんだよ」「じゃあ、リンゴのような色をしたほっぺと言ったら、顔色の悪い子ども、となるんですか」「ああ、そうらしいぞ」*下やんが言うように、フランスでは、「リンゴのような」という形容は形について用いて、色ではないようである。しかも、リンゴの色は一般的に緑色と捉えられているらしい。ところで英国でリンゴの色というと、赤と緑の二派にわかれているようだ。(2020.11.07)

276)やっぱ/やっぱり/やはり

日本一の保育園「ともそだち」の園長先生である大くんとNくん、そして下やんに共通するのは、優しさと思いやりにあふれているということと、スラっと長い胴体と安定感のある短い脚である。あ、それから、美しい女性を見るとすぐに惚(ほ)れるが、直接話ができるチャンスがあっても顔を真っ赤にして何にも云えない純情な、繊細なところである。「やっぱ、女の人は心ですよね、Nくん?」「そりゃ、やっぱ、心だよ、大くん。でもぼくの奥さんは、その上に美しいんだけどね」 この二人の会話を聞いていた下やん、「チミたち、まだ、人生というものがわかってないねえ。女性の心なんてものほど移ろいやすいものはないんだぞ、わかるか? 短足」と一言。「じゃあ、心はあんまり大切な要素ではないと?」「ん? そうはいっていないんだよ、小生は。最近は簡単に心が大切だ、なんていう輩(やから)が多いけれど、心って、なんだ?」「そりゃ、メロンを切った時、ぼくに渡されたものの方が少し大きかったときとか」「ぼくがお風呂に入るとき、いつもほど垢(あか)が浮いていないときとか」「へへッ、おまえら、アホか。そんなこと当たり前じゃないか、何がメロンだよ、何が垢だよ」「でも小生さん、この前、愚痴っていたじゃないですか。メロンを食べようとしたら自分の分が残ってなくて、奥さんの食べ残しをもらったとか。お風呂に入ろうとしたら、湯船の表面がきれいに垢で覆(おお)われていたとか」「バ、バカだな。あ、あれは一種のジョークだよ。ま、カミさんがオレに甘えたんだよ、ちょっと」「そうなんですか、では、洗濯物は別にして洗われているようだっていうのも、やっぱジョークですか」「き、決まってるだろッ。それにしても、チミたちの、その、〈やっぱ〉という言い方は下品じゃねえか?」「えッ、〈やっぱ〉って、おかしいですか?」 *やっぱ=〈やはり〉が促音化した〈やっぱり〉がくだけた形に変形したもの。下やんが云うように、あまり上品ではない。いや、やはり少し下品。とはいえ、ドキュメンタリー映画「i新聞記者」についてのパネルディスカッションに東京新聞や朝日新聞の記者とともにパネリストとして参加していた野党の参議院議員のレン〇〇さんは「やっぱ、……」と云っていた。発言内容はよかったので少し残念。(ついでに、このレンさん、(「一矢報いる」の)「一矢」を「イチヤ」と云っていた。最初意味が解らなかったのだが、「イッシ」のことだと後で解った) ところで、この〈やはり/やっぱり/やっぱ〉は、その発話時点の発話者の心理状態だけでなく、その前後の状況やなりゆきまで含意する副詞なのだ。これが〈てっきり〉となると、事前に予想していたものが現れ、それが裏切られるといったふくらみが生まれるのである。「あの時の優しさが、てっきり続くと思っていたのだが、……」 ん? だれの言葉だろう?  (2020.11.01)

275)自動詞と他動詞

四頭身の保育園の園長先生である大くん、毎日とっても忙しくてと言いながら下やんやNくんとタイ焼きを食べながらのんびりとした時間を楽しんでいる。三人とも安定した体形で、つまり、腰から足の裏までの距離が素晴らしく短いので、「のんびり」という言葉がよく似合うのである。「Nくん、息子さん、大分大きくなったでしょう?」と大くん。「うん、ぼくに似て、すくすくと」、Nくんが応える。「おい、大よ、オレには訊かないのか」と下やんが口をはさむ。「え、下川さんのとこはお嬢さんでしょ、それにもう立派な大人じゃないですか」「なにッ、あ、子どものことか」「何考えていたんですか、いったい」「いや、その、なんだよ、娘だって、子どもだからな」「では、お嬢さん、もう大きくなられたでしょう?」「バカだな、お前、もうそういう歳じゃないよ、娘は」「でしょ?だから訊かなかったんですよ」「……」「ところで大くん、この前、GoToトラベルっての利用して、旅行に行ったんだって?」「ええ、佐渡に行ってきましたよ」「なにッ、お前、そんな……」「下川さん、そんなって、何考えてるんですか。新潟の佐渡ですよ」「あ、あ、そうだろッ。サドと言えば、佐渡島に決まってるじゃないか。何言ってるんだよ、まったく」「荒海や/佐渡に横たふ/天の川」とNくん、教養がほとばしる。調子に乗って一言、「芭蕉の<細道の奥>に収められているんですよね」「いやあ、Nさん、それは違うでしょ、<細道のいきどまり>でしょ、それは」「チミたち、バカか。それは<細道の闇>というやつだよ」と下やん、名誉挽回を図ろうとする。「あッ、そうか」と大くんとNくんが納得する。(「奥の細道」が正しいのだが、……) 「以前、確か先生が、あの句はあり得ない自然現象を詠んでいるとか言ってましたよね」「ああ、聞いたことがあるなあ、焼き肉屋で」「そうそう、あの時の焼き肉はうまかったなあ、おごってもらったし」どうも脱線する三人組である。「それはそうと、この<横たふ>というのは<横たえる>という意味でしょ。ということは、何が、何を、横たえるんですか、Nくん」と大くん、なかなかの質問。「あ、それは、えーと、荒海が天の川を佐渡に横たえる、ということでしょ」「なになに、それはどういうことだよ?」と下やんが突っ込む。「だって、<横たふ>、つまり、<横たえる>というのはほら、た、他動詞でしょ。だから、……」「なるほど、なるほど」と大くん。「ん、<横たえる>というのは確かに、他動詞だろうが、<横たふ>は本当に他動詞なのか。じ、自動詞とかいうものじゃないのか」「えッ、自動詞なんですか」Nくんと大くんが声をそろえて、訊ねる。「いや、その、そうじゃないかと、ボクちゃんは思うんだよね」とひるむ下やん。*横たふ=ハ行下二段活用の他動詞というとらえ方に加え、ハ行四段活用の自動詞ととらえる見方もある。この芭蕉の句は後者と捉える方が解釈に当たってはよいだろう。「目の前には荒れた海が音を立てている。この向こうには流人の悲しみや苦しみ、恨みといったものを抱きしめている佐渡島がある。その島へかけて澄んだ夜空に天の川が横たわっている。それははるか高い天空に、ただ冷たく、あるいは優しく輝いている」といった意味だろう。これは自然現象としては成立しないらしいが、俳句の二物取り合わせといった技巧によるフィクションであり、しかしながら優れた観念世界が現出する。他動詞が自動詞のように用いられているといえ、日本語の自他の問題の一つと言える。下やん、さすが。 (2020.10.25)

274)コンピュータ/コンピューター

脚がしっかりと短く、その代わり胴は十分に長いNくんは、最新機器にめっぽう強いらしい。下やんはといえば、彼もまた劣らず強いということだ。いずれも自己申告である。さて、この二人が、珍しく仕事に打ち込んで10分ほどたったところへ、Nくんに負けないプロポーションの大くんがタイ焼きを手にして現れた。ほぼ四頭身の彼の顔は真っ黒に日焼けしている。「やあ、やあ、やあ、みなさん、お元気ですかあー」とまるでアントニオ何とかという元プロレスラーである。心の優しさや温かさは、下やんやNくんと同じくとびきりの青年である。といっても子どもが女の子ばかり3人もいるパパでもある。突然の来客に、10分も懸命に働いた二人は充実感を感じながら、タイ焼きを、いや大くんを温かく迎えた。「ヨー、大よ、久ぶりだなあ、相変わらずチビどもと格闘しているか?」と下やん。チビどもというのは、この大くん、保育園を経営する園長先生なのである。もちろん、素晴らしい教育愛にあふれた保育園である。大げさでもなく、東京一、いや日本で一番の保育園である。「はいッ、やってます、頑張ってます」と元気がいい。「大くんは脚は短いけれど、心の大きな園長先生だもんなあ」とNくん。「脚の短さはお二人には負けますけど。子どもたちはかわいくてたまんないですねえ」「で、今日はどうしたんだ? カミさんとケンカでもしたか?」と下やん。「そんなことあるはずないでしょ。ケンカなんかできるはずないじゃないですか。ぼくは負けるとわかっているケンカはしないことにしてるんですから」「じゃあ、どうしたの?」とNくん。「実はコンピュータのことでちょっと訊きたくて」「ん?」「えッ?」「コンピュータ?」「ええ、お二人はコンピュータについてお詳しいと聞いていますので」「お前のいうコンピュータって、コンピューターのことか?」「ええ、コンピュータです」「いやだから、コンピューターのことかって訊いているんだよ」「はいッ、コンピュータです」*コンピュータ/コンピューター=かつてはたしか、「コンピューター」といっていた(表記していた)が、いつの間にか「コンピュータ」が一般的になってきているようだ。どうしてだろう。そういえば、「ドアー」だったものが「ドア」になっている。これはどうしたことか。これらのことばはいわゆる外来語というものだ。つまり、もともとは外国のことばで、日本語になったものだ。だから、その言い方や表記の仕方に揺れがあるのは当然といえば当然だ。ベルギーのブリュッセルは、英国ではブラッセルだ。コロナのウイルスは、英国ではヴァイルスである。だから、どちらがどうこうとは言えないかもしれない。とはいえ、まったく基準がないというわけでもない。「英語語尾の長音符号を省略する際の一般方針」(文部省・1952)というものがあって、「英語の語尾のerorarなどに限って、長音符の省略」が認められているのだ。基本的に、原語の発音に依拠していると考えられる。さらに、日本語独特の発音の影響、たとえば、一語の中に二回長音がある場合は、二つ目は省略されるなどが起きていると考えられる。下やんやNくんのこだわりも、大くんのこだわりのなさも、等しくイイのである。(2020.10.18)

273)なるほど

ずいぶん長い。もう10分も続いている。下やんのご高説である。新しい政権が日本学術会議が推薦した学者6人を会員として認めなかったという<事件>についてである。ロンドンに住む先生の話によれば、このこと、海外でも結構な問題となっており、日本という国の品格にもかかわるとか。下やんもその「品格」について泡を飛ばしているのだ。Nくんとしてみれば、下やんの人柄の良さ、思いやりの深さ、そういったものについては心から尊敬し、立派だなあと思っているのだが、「品格」となると、うーんとうなってしまうのだ。とはいえ、ここは静かにしておこうと思っている。ようやく話が終わったようだ。合いの手を入れなくては。「なるほど」とNくん、下やんを向いてそう言った。しばらく静寂。ん? どうしたのかな、とNくん、不安になる。「Nよ、なるほど、と言ったか、いま?」「あ、は、はい」「なるほどって、どういう意味だよ?」「いや、あの、下川さんのおっしゃる通りだな、と」「なるほど、とおまえが言うとだな、なんとなく、オレは面白くないんだよな」「えッ、ど、どうしてですか」「<なるほど›という言葉にはだな、ま、一応、わかったという響きはないか?」「いやあ、ぼくはそんなつもりは全くないですよ。しもかわさんでもこの程度は考えるんだ、と思っただけですよ」「な、なんだとッ」 *なるほど=「その状態や理屈を改めて確認し、または納得することを示す」(日本国語大辞典)などと説明されている。しかし、である。この<なるほど›には、下やんが言うように、「わかったよ、君の言うことは」といった、今はやりのことばを使えば、やや「上から目線」のニュアンスも漂うことがあるのだ。このことはしかと心得ておくのがよい。(2020.10.11)

272)ミントの味

スラっと脚が短く、その代わり胴がうんと長いNくんはいろいろなことに気を遣うカッコいい(と本人が思っている)青年である。エチケットには特に気を遣う。下やんとニンニクの強い焼き肉を食べた時などは、店を出るとすぐポケットから何やら小さなケースを出して、小さな錠剤を口に放り込む。「おい、なんだ、それ?」と下やんが訊く。「え、まあ、下川さんにはほんとは必要なんですが、まあ、似合わないものですよ」「なんだとッ、なんだ、それは?」「口臭を消す、ミントです」「ミントだと? オレだってそれくらい知ってるさ、あの、なんだな、あれだろ、あのカライヤツだろ?」「あ、知ってるんですか。へえー、それは、それは」「なんだ、その言い方は、焼き肉はおごってやったんだぞ、オレが」「え―ッ、割り勘だったじゃないですか」「何言ってんだよ、オレが20円余計に払ったじゃないか」「……」 *このミントの味である。「カライ」と下やんは言ったが、この辛さは、インド料理の辛さやタイ料理の辛さとは違う。塩辛の塩っ辛さとも違う。しかし多くの人はミントの味を「カライ」というのである。ということは、「カライ」はかなり守備範囲の広い言葉だということだ。ワインや日本酒の辛口というのがあるが、あれもよくわからない。決して辛くないのだ。確かに甘口とは異なる。つまりは、である。「カライ」という言葉は、「アマイ」ではないということではないか。甘辛というように、「アマイ」に対する味で、けれども「アマイ」ほどにははっきりした意味はなく、「アマクナイ」ものを「カライ」と言っているように感じる。「アマクナイ」といえば「スッパイ」や「ニガイ」もあるが、「甘酸っぱい」という言葉があるように、「スッパイ」は「カライ」と違って「アマイ」とも仲良くなれる。(2020.10.04)

271)昔話②

確かに先生が言うように、日本の昔話には不思議なものが多い、と下やんもNくんも納得する。とはいえ、そんなに細かく考える必要はないのではないか、とも二人は思うのだ。その点、文部省唱歌はおおらかでいい、とNくんは言う。「だがな、Nよ。今どきの若いヤツにはあの<ふるさと>って歌の、<ウサギおいし…>ってところを、<ウサギがおいしい>と思っているのが多いらしいぞ」と下やん。「え――ッ。おいしくないんですかあ?」「ん?……」「いや、ぼくは食べたことはないんですが、あの歌を聞いてて、おいしいんだろうなあ、一度食べてみたいなあって思っていたんですが。下川さん食べたことあるんですか?」「やっぱり、いろいろなことはきちんと考えるようにした方がいいようだな」 ところで、先生の話は続いたのだった、その夜、オコゼの刺身をNくんが必死で食べているときに。「あの、おじいさんがシバをとりに行く山だけれどね、何も高い山に登るって話ではないんだよね。大体、おじいさんが登れるはずはないしね。ところが絵本・桃太郎の中には、結構そびえるような山を描いていたりするんだよ」「そりゃあ、そうですよね。だいたい山で芝を刈るって、何ですか、この話。芝なんか生えていませんよね、山には」と、Nくん。「おッ、Nよ、お前、いいところに気づいたな。オレもそう思ってたんだよな。今なら、山を削って芝を植えて、ゴルフ場なんかにしているから芝を刈るって話は分かるけどな。Nはオレと話すようになって、だいぶ成長したなあ。ね、先生?」「……」「え、なにか、おかしい?」「あのね、ここでいうシバってものはだな、芝ではなくて、柴なんだよ。つまりだね、<山で柴を刈る>ってのはだね、薪や垣にするために、山野に生えていたり、朽ちて落ちている小さな雑木を集めるってことだよ」と先生。「ほら、みろ、Nよ。よーく考えてからモノは言わないと恥をかくことになるぞ。アハハ」と下やん。先生は日本出張の仕事の疲れよりも、特別な種類の疲れを感じるのだった。 (2020.09.27)


270)昔話①

Nよ、この間先生と居酒屋に行っただろッ、先生が久しぶりに日本に出張で戻ってきたときにさ」「ええ、あの時食べたオコゼの刺身、うまかったスねえ」「ああ、うまかったなあ。……。いやそうじゃなくてさ、あの時先生が日本の昔話のことで変なこと、しゃべってただろ?」「えッ、そうでしたか?」「ああ、かぐや姫の話とか、映画のE.T.のこととかごちゃ混ぜにしてさ」「あ、そうそう、勉強になりましたねえ」「そうか? なんか、この人どんな頭してるんだろって、心配にならなかったか?」「そうですかあ、ぼくは、なるほど、なるほど、と思いながらオコゼを食べて、いや話を聞いていましたけど」 先生の話はこうだった。かつて、40年ぐらい前に先生は、日本の昔話についていろいろと調べたのだそうだ。特に全国に存在する恩返しの話などを。居酒屋では恩返しの話ではなく、スピルバーグの名作映画「E.T.」が封切られてすぐ、ロンドン郊外の映画館で観たところから始まった。まったくあらすじなどを知らずに映画館に足を運んだのだが、感動したのだそうだ。けれども、その感動には普通の人の思いとは違ったある種の分析も伴っていたという。途中から、これは「竹取物語」(かぐや姫)のコピー(話の借用)だと思ったのだそうだ。だから、E.T.が空を見上げながら「Go Home……」 とつぶやくところなど、月を見上げて涙を浮かべるかぐや姫に見えたのだとか。映画が終わった時、先生の周りのあちこちから子どもたちのかすかな泣き声が聞こえてきた。E.T.が去っていき、残された子どもたち。そのスクリーンに映し出された子どもたちと同じ気持ちになって、すすり泣いているのだ。先生は立ち上がって、周りの子どもたち全員を抱きしめたくなったそうだ。「そのかぐや姫の話でさ、変なこと言ってただろ、先生?」 下やんが訊く。「えッ、ああ、……」 とN君が肯(うなず)く。「昔話にはよく、おじいさんとおばあさんが登場するだろ。そして、二人には子どもがいない。けれども子どもが欲しいなあ、と思っているんだよな。でもね、もうおじいさんとおばあさんになってしまったんだから、普通はあきらめるだろ。でも欲しいんだよなあ。これ、おかしいだろ? すると、川に洗濯に行ったおばあさんが桃を拾ってきて、その桃から男の子が生まれたり、山に竹取りに行ったおじいさんが根元の光っている竹の中から小さな女の子を見つけてきたりするんだよね。竹の中に入っていた女の子なんか10センチ足らずの赤ちゃんだぞ。どちらも普通の速度で大きくなると、大人になった時にはもちろん、おじいさんもおばあさんもこの世にはいないことになるよね。だからものすごい勢いで大きくなっちゃうんだよね」 先生の話は続いた。(次回に続く)

269)注意書き

コロナ騒動が起きる前は、先生は年に数回、日本に戻ってきた。ホテルにばかり泊まるのは嫌だと例のごとくわがままを言って(ア、これは内緒)、東京・神楽坂に宿を見つけた。見つけたというより、先生が先生の友人の作家に頼んで用意させた。往年の大女優・小暮美千代が妹に買ってやった家である。その妹は元ミス東京で、かなりの美人だ(った)。格子戸をくぐり抜ける洒落た家で、野坂昭如などの小説家や映画監督がそこに籠って執筆する特別の宿になる。ジブリの宮崎駿さんなども原作をそこで書いた。先生が泊まる部屋は、「男はつらいよ」(寅さんシリーズ)の監督・山田洋次さんの部屋だった。あの高倉健さんを呼んで、「幸せの黄色いハンカチ」の映画に出てくれないかと監督が頼み、頼まれた健さんが、大喜びで階段を駆け降りた2階の部屋である。東京映画祭が開催される頃になると、フランス人やアメリカ人の映画関係者などもそこに泊まった。先生はそこで、山田監督に次いで「センセイ」と呼ばれた二人目の稀有な泊り客となった。それぞれの部屋のプライバシーなどというものはない。ふすまで仕切られた部屋なのだ。トイレも、一人しか入れないお風呂(岩風呂)も共同である。映画関係者は汚いと、おかみさん(元ミス東京)はぼくを一番風呂に決めていた。だから、先生が夜晩く宿に戻ると、それまで他の泊り客は待たされていた。外国の人も泊まるので、お風呂には日本語と英語、フランス語で注意書きが書かれていた。トイレにも手書きの注意書きが貼ってあった。「備え付けのトイレット・ペーパー以外は流さないでください」と書かれてあった。ある朝、フランス人の泊り客がトイレに入ったままいつまでたっても出てこない。その友人が心配して、トイレのドアの外から訊いた。「どうかしたのか?」「困ったよ。排泄したものは流してはいけないのか?」 *注意書きは、難しい。(2020.09.13)

268)あなた

東京で日本語を勉強しているイギリス人のメアリーさんはとびきりの美人で、下やんのお気に入りである。自分の奥さんの次に美しいと思っている、と他人には言っている。Nくんもメアリーさんの顔を見るだけで心臓が激しく反応し、顔が赤らむほどなのだが、決して奥さんの前では話題にはしない。わざわざ身の危険を招く必要はないと肝に銘じている。ただ二人してどうもしっくりしない言葉遣いがメアリーさんにはあるのだった。「あ、メアリーさん、おはようございます。元気ですか」となんとかしてその姿を見つけては声をかけると、「はい、元気です。あなたは?」と返ってくるのだ。なるほど、正しい日本語だ、たぶん。日本語の教科書にだって載っているではないか。人称代名詞のうち、二人称(対称詞)は「あなた」と教えている日本語教師が多い。英語の先生だって、「you = あなた」と確かに教えてくれた。下やんが中学生の頃だったか、出された国語審議会の建議「これからの敬語」にはちゃんと、「これからは<あなた>を使うようにしたい」と書かれている(1952年)。しかし、と二人とも考えこむのだ。「オレたちはさ、相手に対して<あなた>と言うことって、あんまりねえよな、N?」「そ、そうなんですよね。ま、家では奥さんが<あなたア~>って、子どもが生まれる前は呼んでくれてましたが」「……」「下川さんは違いました?50年ぐらい前のことですが」「ん? ボ、ボクの場合は、恵治というのが名前だから、<ケイさま>とか、<ケイジさま>と呼ばれていたなあ」「……」 *あなた=広辞苑には「近世以後、目上や同輩である相手を敬って指す語。現今は敬意の度合いが減じている」とあるが、これではどうも現在の用いられ方には合わない。文化庁の調査(1995)でも、「相手の呼び方」として「あなた」を用いる人は少数派だ。たいていは相手の名前を呼ぶのである。つまり、よほど心して教えないと、外国人の日本語学習者の多くが、英語のyouと同じような感覚で使ってしまいそうなのだ。(2020.09.06)

267)母語と母国語

下やんは自称バイリンガルである。「下川さんはバイリンガルなんだそうですね」「ん? まあ、そういう風にみんなボクのことを言っているようだなあ、ウン、ウン」「すごいなあ、どうやって習得したんですか」「どうやってって、自然にだよ、ボクの場合。なんとなくというか、まあ、一種の才能というか」「たとえば、<写真を撮っているんですか?>というのはどう言うんですか?」「そりゃあ、<写真ば、とっとっと?>だな、簡単だよ」「えッ、……」「ん? どうかしたか?」「いや、あの、バイリンガルというのは……」「おまえ、バイリンガルというのも知らないのか。二つの言葉が使えるのをバイリンガルって言うんだぞ、覚えておけよ。ボクの場合はだな、福岡のことばと東京のことばの二つってわけだ」「あ、あ、……、はい」「ところで、研究所の英国本部では<母国語教室>ってのをやっているだろ? ロンドンで暮らす子どもたちに日本語を教えているようだが、あの<母国語>というのと<母語>というのとでは何が違うか、お前知っているか?」「あの<母国語教室>で学ぶ子どもたちはそのほとんどがお母さんかお父さんが日本人で、もう一方の親がイギリス人やフランス人といったような、そういう子どもたちですよね。そして、そのほとんどがイギリスで生まれて、イギリスの学校に通っているわけで、つまり一日のほとんどを英語で生活しているっていう子どもたちですよね。そういう場合は、その子どもたちのいわゆる<母語>は英語で、しかしながら、お母さんやお父さんの祖国は日本で、つまりお母さんたちは日本語を母語としているわけで、そういう環境で学ぶ日本語は<母国語>と呼んだ方がいいんじゃないかっていう意味だと思うんですが」「なるほど、……。いや、少しはわかっているじゃないか」「もしかして下川さん、知らなかったってわけじゃないですよね?」「なんば言うとるとね、そげんなこと知っちょったばい。ハハ、ハハ、ハハ」 *この〈母語〉という命名はすばらしい。英語でも mother tongue というが、子どもが母語とする言葉は子ども自身が選んだものではない。母親を選ぶことができない状況で生まれてくる赤子と同じように、その人間の母語は多くの場合、運命的に与えられるものである。下やんの母語(?)である福岡の言葉も、ご両親の温かいまなざしを浴びながら育つ過程で身に付けた言葉ということになる。(お詫び:ここで用いた福岡の言葉は正確でない恐れがあります。ごめんなさい)(2020.08.29)


266)茶髪

「あ、……」 Nくんの口はポカーンと開いたままである。「ん? ああ、まあな、わかるか?」 「シ、下川さん、ド、ドーナツ、いや、どーしたんでちゅか?」「うん、まあ、なんだ、昨日の夜、いつものようにカミさんや娘が入った後のちょうどいい具合にぬるくなった風呂に入った時だ。どうやら娘が使ったらしい髪を染める、何て言うんだ、チューブに入ったのが転がっていたからさ、髪にちょっと塗ってみたんだよ。ちょっとだけだったけど残っていたからさ、もったいないだろ、残っているのにそのまま捨てたんじゃあ。資源を大切にしなくちゃな、地球の将来ってものを考えたってわけだよ。Nよ、おまえもいろんなものを大切にしろよ」「そ、それで、そのほとんど残っていない髪の毛をチャパツに染めたってことですか」「なにッ、これがあのチャパツってやつなのか?」「ええ、ほとんど残っていない髪でも、染めればきっと、チャパツというと思います、どんなに少ない髪でも」「おまえ、いちいち髪が少ないと余計なことを言うなよッ」「あ、はい、つい正直なもので」「そうか、これがチャパツか。ちょい悪の中年って感じかな、へへ」「中年というよりも、……」「ところでNよ、そのチャパツって、どんな字を書くんだ?」「そりゃあ、茶色い髪って書きますよ」「そうか、なんとなく変な感じがするんだよな」「茶髪と書いたら、チャハツじゃないのか」「えッ、どうしてですか」「整髪や理髪店、これはみんなハツだろ? パツと読むのは、洗髪とか間一髪とか、髪の前に<ン>とか<ッ>とかがきたときじゃねえのか?」「あ、そういえば……。でも金髪は……、あ、<ン>ですね」「すごい、下川さん、そうですよね。どうして茶髪はチャパツって読むんですかね」 *音声的なルールから言えば、下やんが言うように「チャハツ」が正しいだろう。「白髪」は<ハクハツ>と、「斜辺」は<シャペン>ではなく<シャヘン>と読むのだ。おそらく、金髪と同じイメージを持つ茶髪は、そのイメージから金髪の読みに引きずり込まれたと考えられようか。(2020.08.23)

265)元祖・本家・宗家

ロンドンから先生が出張してきて、一緒に北海道・札幌に行ったNくんと下やん、ラーメン横丁でランチをとることになった。ここではやはり、食べ物にうるさい下やんが案内する。「ふむ、ふむ」と一軒ずつ確かめていく。先生もあとに続く。「もうそろそろ入ろうよ、おなかすいたよ」と先生が下やんに声をかける。「いやいや、せっかくだから一番うまいお店に入りましょう」と下やん。「わからないから二三軒入ったらどうでしょうか、ぼくは大丈夫ですよ、56杯」とNくん。数多くのラーメン屋さんが軒を並べているが、どの店もなかなかの宣伝文句で甲乙つけがたい。「元祖札幌ラーメン」「本家札幌ラーメン」「宗家札幌ラーメン」などなど、その違いがよくわからない。「下川さん、いったいどこがどうなのか、どうやって見分けるんですか?」「ん?まあ、なんだな、そこのところがだな、いわゆるひとつの、つまりは、結局のところ、……」と下川さんが云っているすきに先生、そばのお店に入っていった。「オレもここがいいと思っていたんだよな」と下やん。先生はみそバターラーメン、下やんはホタテバターラーメン、Nくんはカニ・いくらラーメンを注文。食べ始めたところで先生がお店の大将に一言、「いやあ、このラーメン横丁にはいろいろなお店が並んでいるので迷いましたよ。元祖とか本家とか、その違いが判らなくて」「いやあ、みんな勝手に付けているんですよ。わたしはあんなの全く気にしませんけどね」と大将。「偉いなあ、我が道を行くといった境地ですねえ」と先生。「いちいちあんなの気にするのは自分の味に自信がないからですよ」と大将が胸を張る。「偉いッ。それにしても隣の店の宣伝文句は変わってますよねえ」「えッ、何て?」「いやあ、大したことありませんよ、ただ、<隣よりおいしい>との一言です。大将なんか気にしないでしょ」「えッ、ホントに?」慌てて出ていった大将が戻ってきて、「どこに書いてあったんですか」「いやあ冗談ですよ」と先生が涼しい顔で答えた。下やんとNくん、黙って下を向く。*観光地に行くとよく見かけるこれらのことば、確かにわかりにくい。広辞苑によれば、「元祖=創始者」、「本家=いえもと、宗家」、「宗家=本家」とあり、やはりわからないのだ。(2020.08.16)

264)不測の事態

心優しい二人である。下やんは豪雨で大きな被害に遭った九州の人たちのことがずっと気になっている。下やんの故郷、牟田(おおむた。福岡県)も毎日のようにテレビで報道された。ボランティアとして福岡まで飛ぼうかと考えたが、万一コロナまで運ぶことになってはいけないと考え直した。Nくんは猛暑の先に控えている台風が心配だ。美しいと自他ともに認める奥さんとその奥さんに似て可愛い息子を守らねばと目を充血させている。それにしても、と二人とも思うのだ。コロナがなければ今頃、東京ではオリンピックやパラリンピックが行われていたのじゃないかと。本当にできたのだろうか。首相はその際、メディアに現れるのだろうか。今はさっぱりで、記者から「逃げるのか」ということばを投げつけられる事態である。ところでこの二人、「不測の事態に備えなければ」ということばが最近、口癖となっている。「不測の事態に備えて、缶ビールを買いだめしておかなければ」「不測の事態に備えて、スルメを買っておこう」などと。この心優しくたくましい二人には、不測の事態だって軽く乗り越えることのできる常人にはない力が感じられるのである。*不測の事態に備える=これは論理的におかしい。「不測」とは「思いがけないこと。はかり知ることができないこと。よそくできないこと」(日本国語大辞典)という意味であるから、「備える」ことはできないのだ。だから「考えられる限りの予想を立てて、その非常時に備える」というのが正しいのである。が、しかし、「不測の事態に備える」というこの言い方には、まじめさや、健気さや、そういったものが感じられるのでもある。(2020.08.11)

263)腸(はらわた)が煮えくり返る

今年のお盆休みに家族で故郷の村に帰る計画を立てていたNくんが怒っている。久しぶりに母親孝行をしようと楽しみにしていたのだ。美しい妻に似て賢く、かわいい息子の介利くんもおばあちゃんに会えると喜んでいた。なにしろ「GO TO トラベル」という割引キャンペーンで行けば、うんと安上がりで旅行できるのだ、いやそのはずだった。ところが、である。東京に住む人には適用できないと突然決まった。すでに村に一軒だけある「レストラン田吾作」にも予約を入れておいたのだ。田吾作の特別メニュー「おらがデナー・スペッシャル」(ディナー・スペシャルのことらしい)も家族3人に母親、兄弟の分も入れて注文してあるのだ。むろん、兄弟には自分で支払ってもらうつもりであるが。さらに不愉快なのは、割引が適用されないだけでなく、「東京から出ちゃあダメ」というお達しなのだ。「下川さん、ぼくは本当に腹が煮えくり返っていますよ、今回は」「ん? そうか、残念だな。オレは千葉に住んでるからな。悠々と福岡まで割り引いてもらうことになったよ」「家族で帰省ですか」「ん、まあ、オレ一人だけどな」「ご家族は?」「カミさんは娘と、か、か、金沢に旅行するんだと。もう予約してあって、昨日知ったんだけれどな。ハ、ハハ、ハハハ」「……」 *Nくんのいう「腹が煮えくり返る」は間違い。正しくは「腸(はらわた)が煮えくり返る」である。〈はらわた〉が煮えくり返ってこそ、怒りは本物で、激しくなるというもの。(2020.08.02)

262)おひとよし

実は下やん、カミさんのことが大好きだ。カミさんに深刻な病気の疑いが起きた時、ロンドンの先生にどうしようと何度もメールを送って慌てたことをNくんはよく覚えている。「下川さんっておひとよしですよね」とNくんが下やんに云った。「な、なにッ?」と下やんが怒る。「おまえ、オレを馬鹿にしてるのかッ」「えッ、かまさ、いやまさか。いい人だなあと云ったんですよ」「おまえ、おひとよしって言葉の意味、知ってんのか?」「人、つまり、人間がいいって意味でしょ?」「あのなあ、おひとよしっていうのはな、一見おとなしくていい人間に見えるけどな、要するにいつでも人の言いなりになって、愚かな人間って意味なんだよ」「えッ、そうなんですか。じゃあ、どういえばいいんですかね」「好人物ということばがあるだろ」「あッ、そうですねえ、そういうことばがありましたよね。……。下川さん、今、広辞苑を引いたら<好人物>の説明は <気だてのよい人。お人よし。結構人>と書いてあるんですが、……」「なにッ、ホントか?」 *これは下やんの勝ち。広辞苑の説明は杜撰(ずさん)である。日本国語大辞典も同様。違いをきちんと書く必要があるだろう。(2020.07.26)

261)玄人はだし

下やんは歌が好きだ。歌うのが好きなのだ。何しろ下やんが歌うところがNHKの7時のニュースで流されたぐらいなのだ。「青春時代」という歌をマイクを持って熱唱していた。ニュース番組で歌う姿が流された人間はそう多くはないだろう。どういった報道であったのかはもう覚えていないが、なんにしてもすばらしい「事件」である。Nくんも好きだ。カラオケ屋さんで、演歌を、と所望されると、「いやあ、ボクは、……。そうですか、わかりました」と曲番号をすらすらとそらんじる。「兄弟舟」という曲を振りを付けて歌い上げる。いやはや、二人とも雰囲気は玄人はだしなのだ。<くろうとはダシ>ではなく、<くろうと はだし>と読む。二人に共通するのは、情感たっぷりな歌いぶりと、マイクを持つその手の小指がなぜかぴんと立っているところである。このことばで褒められた日から二人とも、カラオケ宴会の際はなぜか、靴下をはかずにハダシに靴を履いて来るのだった。*実は二人が解釈した、この〈ハダシ〉は正しいのである。「(玄人がはだしで逃げ出す意)玄人が驚くほど、素人が技芸に優れていること」(広辞苑)。えッ、歌自体はうまいのかって? 彼らの歌を聞いた人はみんな笑顔になるという、実に楽しい歌唱力の持ち主なのだ、二人とも。(2020.07.18)

260)糸目(いとめ)

前の法務大臣だった衆院議員と参院議員の妻が逮捕され、起訴された。首相が総裁を務める自民党から1億5千万円をもらって、お金をばらまいたのだ。このお金、国民の税金である。とにかく善良そのものの下やんとNくん、例のごとく憤っている。「美しくて優しい奥さんも怒っているんですよね、我が家では」とNくん。「オレのとこもそうだよ、太陽のようなオレの奥さんも」「えッ、下川さんにとって奥さんは太陽のようにすばらしいんですか?」「あ、うん、まあな。1億5千万キロぐらい離れていてほしいって意味でな」「……」「それにしてもなんだな、選挙に受かるためには、金に糸目は付けないって、すげえなあ」「え、その糸目って何ですか?」「おまえ、こんなことばも知らないのか?」「あ、はい。で、どういう意味ですか」「先生がいつも言っているじゃないか、何でも人に訊くんじゃなくて、まず自分で調べてみようとするのがいいんだって。辞書を引いてみろ、書いてあるから」「……」「調べたか? ちゃんと説明されているだろ? ちょっと読んでみろ」「上がり具合を調節するために、凧(たこ)の表面につける糸、と日本国語大辞典には書いてあるんですが……」「そうか、そういうことだよ、……。分かったか? わかったら、わかりやすく説明してみろ」「……」 *凧の上がり具合を調整するための糸を付けないというのが「糸目をつけない」ということ。「物事をするのに対して制限をくわえる。多く、打消しの形で、金品を思いのままに使うこと」(日本国語大辞典)。(2020.07.10)

259)刺身

「経済を前に進めないといけない」という政府のかけ声に従って、またしてもNくん、下やんと二人、居酒屋へと向かった。(日本という国を支えるために今日は飲むぞ)と決意したのだ。(コロナなんかに負けないぞ)とも思っている。(国のためだ、今夜はしっかり下川さんにおごってもらおう)と力が入る。「おい、Nよ、なんだか今夜は勇ましいな、おまえ」「あ、はいッ。お国のためですから。下川さんお願いしますよ」「なにッ、どういう意味だよ。オレがお国のために何をするってことだよ?」「いや、まあ、とにかく、トリアエズを頼みましょう、ビールを」「う、うん」「それから、お国のためですから、刺身なんかどうでしょうか」「さ、刺身はいいんだが、そのお国のためって、なんだよ、さっきから」「まあ、まあ、まあ。ところで下川さん、前から変だなあって思っていたんですが、この<刺身>って、おかしくないですか? 刺しているわけでもないのに。切っているんですよね、これ」「ああ、それはだな、オレのように高貴な人間はだな、刺身を食うときに箸で突き刺して食べるから、そういうんじゃねえか」「えッ、それって、おばあちゃんからいけない食べ方だって小さい頃、厳しく言われましたけど、……」「おまえの奈良地方とお江戸では作法が違うんだよ」「下川さん確か、福岡だったですよね」「……」 *かつては魚の種類がわかるように、その魚のひれを切り身に刺して盛りつけたからという説もあるようだが、むしろ、スルメの忌詞(いみことば)として〈あたりめ〉というのがあるが、それとおなじで、〈切り身〉の〈切る〉ということばを避けたと考えられる。「忌詞」というのは、「不吉な意味や連想をもつところから、忌みはばかって使用を避ける語」(広辞苑)の意味。(2020.07.05)

258)前・後

「どうした? いやに機嫌がいいじゃないか」 下やんがNくんに訊く。「あ、いやあ、アハハ、やっぱり、わかりますかア?」「なんだ、どうした、水虫が治ったか? それとも、とうとうカミさんが実家に帰ったか?」 「……」「なんだよッ、どうしたんだよ」「実は夕べ、小遣いを上げてくれないかってぼくの美しすぎる奥さんに恐るおそる頼んでみたんですよ」「今いくらもらってるんだ?」「一日752円です」「なんだ、その半端な額は?」(勝った。オレの方が148円多いぞ) ホッとする下やん。「よくわからないんですが、頭のいい奥さんですから、きっと高等数学の計算の結果だと思うんですが」「それにしても厳しいなあ、Nはコンビニで弁当買って昼飯にしてるだろ? そうするとちょっと一杯、というわけにはいかないなあ」「それはいいんです、飲みたいときは下川さんに心にもないお世辞を言っておごってもらいますから」「……」「それでね、下川さん。奥さんがぼくに言ってくれたんです、〈前向きに考えるわ〉って。やっぱり優しいなあ」「な、なにッ。おまえ、だいじょうぶか? 〈前向きに考える〉っていうのは、〈そのうちに忘れるだろうから、ひとまず聞いたよ〉ってことで、結局〈ダメ〉ということだろうが」「えッ、そうなんですか?」「それにしてもこの〈前〉って言葉、ややこしいよなあ」「はあ?」「おまえのカミさんが言った〈前向き〉の〈前〉って、これから、つまり未来のことだろ。でもな、〈この前〉とか、〈三日前〉って言うと、過去のことになっちゃうんだよな」「あ、そうですねえ」「未来のことは〈三日後〉と言うしな。しかもこの〈後〉、〈うしろ〉って意味だろ。で、〈うしろ〉は普通、過去だろうが」 *前=「目方(まへ)の意で、尻方(しりへ)に対する。空間的に前方または前部を表わす。時間的に前方、またはさかのぼっての事柄を表わす」。 後=「跡(あと)の意義が拡大したものという。空間的なうしろ。進行方向を持つ移動体のうしろ。時間的な後。時間の流れの中で、ある事柄が生じた時点を基準とした、後続の時間帯や時点。自分の過ごしてきた時間の流れの中で、現在、もしくはある時点よりふり返ってみた過去の時間帯や時点。」(いずれも、日本国語大辞典) 〈後〉には過去の意味もあると説明しているが、〈後先考えずに家を飛び出した〉という際の、〈後〉の使い方をいうのだろう。この場合の〈先〉が未来で、〈後〉は過去を示す。いずれにしてもややこしい。(2020.06.28)

257)死ぬ/亡くなる/亡くす

「先生からのメールによると、今日もコロナで、130人以上の人がイギリスでは亡くなったそうですよ、下川さん。しかも、これでも少なくなったそうです」「ああ、心配だよなあ。いつも、ぼくは元気だ、と言いながら、結構疲れているようだしなあ、髪も目立って少なくなってきているし。オレもだが」「そうなんですよ、酒量もずいぶん減りましたよね、先生」「そうなんだよな、ウイスキーだとボトル一本をあっという間に空けたり、日本酒は一升酒だったからなあ」「ま、とはいえ、先生は大丈夫ですよ」「そうだな、そうだよ」「それにしても、イギリスはひどい状況だなあ」「ええ、4月なんて、毎日1500人ぐらい死んでいたようですよ」「……。うーん、……」「ところで、下川さん、<死ぬ>と言ったり、<亡くなる>と言ったり、どう違うんですか」   
*平家物語に「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響あり」とあるが、生あるものは必ず、死ぬものらしい。〈死ぬ〉は〈無くなる〉の意で、この世から無くなってしまうということである。〈亡くなる〉は自動詞であるから、「自ら消えていく」という意味だ。〈死ぬ〉も自動詞だが、やや武骨だ。気になるのは、子どもを不慮の事故で失った親が、「わたしたちにとって、かけがえのない息子を亡くしてしまいました」という言い方である。〈亡くす〉は他動詞である。他動詞は目的語や対象を取るというが、行為者の存在を意識させるという意味合いがある。つまり、「わたしが、息子を、死なせた」という意味になる。辛い言い方だ。なぜだろう。なぜこういった言い方をするのか。自分の力が足りなくて死なせたんだ、もしかしたら、何とかしたら救えたかもしれないのに救えなかったのは、自分の責任だと、自らを責めたいのだ。悲しみや苦しみを自分を責めることで堪えたいのである。日本語のこういった精神性は、今もあるだろうか。ネットの卑しい書き込みや日常的な会話で乱暴なことば遣いをためらうことなくする輩が増えてはいないか。(2020.06.19)

256)知る②

「へえー、そうなのかあ」「どうしたんだ、N?」 「いやあ、<知る><領る>ということばと親戚だったとは知らなかったんで……」「そうだよなあ。オレも娘の辞書を借りて調べてみたら、確かに二つの字が並べてあったよ」 今日も二人してカップ麺を啜っている。「それが、<治る>とも書くようなんですよ」「つまり、なんだな。そのところを隅々まで支配するというか、把握するというか……」「ええ、そういうことで、このことばはかなり重いというか、簡単に使えないなあ、と思うんですよね」「そうだなあ、<知っている>なんて気楽に云うとちょっと違うなあと思われてしまうような気がするなあ」「ところで、下川さんはどんなことを知っていますか?」「なんだよ、いきなり。こういった話をした後、軽々しく使えるかよ。このことば」「そうですよねえ。ところで、下川さんは、たとえば目上の人から何か云いつけられた時に、<わかりました>と応えますか?」「おいおい、Nよ。そりゃあ、当たり前だろッ。<わかった>なんて云えるはずがないだろ」「なんか違うような気がするんですよねえ、ぼくは」「?」「要するに、あんたの云っていることはわかったよって云っているようで、なんとなく横柄な感じがして」「じゃあ、どう云えばいいんだよ」「たしか下川さん、奥さんから電話がかかってきたとき、<かしこまりました>って、云ってましたよね。あれはどうしてですか?」「あれは、その、つまりだな、まさに、……」「どうしたんですか?」「あ、もう休憩時間、終わりだぞ、さっさと仕事に戻れよ」「わかりました」「……」 *〈知る〉には様々な意味があるが、〈領〉がもともとであるようだ。〈わかる〉は〈分〉で、分ける、区別する、などから理解する意に繋がってきたようだ。〈かしこまる〉は〈畏〉や〈恐〉の文字が当てられ、つつしんで承諾するの意となる。下やんがあの美しくて、心優しい奥さんに〈かしこまる〉のはどうしてなのだろうか、不思議である。 (2020.06.14)

255)知る①

下やんに誘われて居酒屋に行ったNくん、2メートルの間隔をあけようと必死である。「おい、3メートルぐらいあいてるんじゃないか、オレたち? もっとこっちに来いよ。それじゃ、そっちの人に近すぎるだろッ」「えッ、まあ、こっちの人はきれいな女の人ですから」「……」「この美しい人と濃厚接触なんて、ちょっといいじゃないですかあ」 そばに座っていた女性が気味悪そうに帰ろうとする。「ほらみろ。だいたいおまえはコロナなんかよりも危険なんだからさ」「ああ、イイ男は危険な香りがするって云いますもんね」「まったく、おまえは。ところでNよ、おまえはいつ味を知ったんだ?」「し、下川さん。そんな話、こんなところで……。ぼくはカミさんが、は」「あ? なに考えてるんだよ、おまえは。酒の味はいつ知ったんだよって訊いてるんだよ」「あ、酒ですか?」「なんだと思っていたんだよ?」「いや、その、あの、コ、コロナの味かなって」「コロナって、味あんのか?」「ボクは20歳になってからですよ、酒を口にしたのは」「で、いつ知ったんだよ」「いや、だから、ぼくはカミさんが」「あのなあ、酒の味がわかるようになったのはいつからだって訊いているんだよ」「ああ。酒の味は最初からわかりましたよ、ビールとは違うなあとか、ウイスキーとも違うなあとか」「話が通じないなあ、ホントに。酒の味わいというかそういうものがわかるようになったのはいつなんだ」「下川さん、酒の味を知るとか、わかるとか、どう違うんですか」「〈知る〉と〈わかる〉は違うだろ?」 *知る=日本国語大辞典を引くと、〈知〉と〈領〉の字があててある。つまり、「物事をすっかり自分のものにする」という意味なのだ。「わかる」には「事実などがはっきりする。判明する。知れる」と説明されている。地理の先生が「英国の首都は?」と訊き、生徒が「わかりません」と答えると、教えてもらったのだけれど不勉強のために答えられない、の意味だろううが、「知りません」と答えれば、教えてもらっていないから答えられないよ、といった意味合いもなくはない。この二つのことばについてはもう少し考えてみたい。(つづく) (2020.06.07)

254)とばっちり

下やん、今朝は不機嫌である。どうしたのかと心配なNくんであったが、不用意にことばをかけるととばっちりを被る危険性があると、下やんの方はできるだけ見ないようにしている。すると首筋に力が入り、痛い。「うッ」 つい声が漏れた。「何だ、N?」「あ、いえッ」「どうしたんだ」「あ、今日はいい天気ですねえ」「雨が降ってるのにか?」「いやあ、昨日でした」「昨日も雨だったぞ」「一昨日が、……」「何だ、どうしたんだよ」「……」「おまえ、何か? オレに文句か何かあるのか?」「いえ、まさか、そんな、とんでもない、……」(どうもいけない。なぜか、自分の方で災難を呼び寄せているような)とNくん、焦る。「実はな、Nよ」「あ、はいッ」「きのうな、娘のさくらがだな。その、何というか、ボーイフレンドというのか、そういうヤツを家に連れてきたんだよな」「えッ、さくらちゃんが?」「そいつがだな、T大を出た秀才でな、父親が財務省の官僚でな、母親が大企業の社長の娘でな。田園地帯、いや田園調布にある大きなお屋敷に住んでいてだな」「えッ、えッ、え―――ッ」「しかもそいつ、背が高くてハンサムでだな、性格がすこぶるいいスポーツマンなんだ」「……」「オレにもだな、その田園のだな、一角に家を建ててやるから住まないかって、云うんだよな」「あ、あ、あ」「まだ、結婚とか許してもないのにだぞ」「許さないんですか」「おまえ、頭、大丈夫か」「断る理由が、あるのか」「そ、そ、そうですよね」「そうだろッ?」「で、許したんですか」「許そうとしたんだよ、オレは。ところがだな、オレの奥さんがだな、邪魔をしやがったんだよ」「えーッ、反対なんですか、奥さん」「いや、もうちょっとのところで、おれを揺り動かして、云いやがった」「えッ」「あなた、早く起きないと遅刻しますよって」「……」 *とばっちり=とばしり(迸)の変化した語。ある人がわざわいを受けた時に、たまたま近くにいたり、少しだけ関係のあった人に、本来受けなくてもいいわざわいの余波が及ぶこと。(日本国語大辞典)(2020.06.01)

253)みっともない

「辞めちゃいましたね、黒川さん」「ああ」「うれしくないんですか、下川さん?」「どうして?」「だって、定年延長等に憤っていたじゃないですか」「Nよ、そのあとの国会中継、見たか?」「いやあ、美しくて優しい奥さんと賢くてかわいい息子との時間を大切にしているぼくですから、国会中継まで見る時間はありませんよ」「そうか。オレはだな、美しすぎて優しすぎるカミさんと2メートルの間隔を保って見たんだよ、本日のディナーのシーフードカップヌードルを食べながら。カミさんは大盛のやつだけれどな。」「ということは、部屋の端と端に座って」「……」「それでどうかしたんですか、国会中継をご覧になって」「ボカぁ、知らないよ。法務省の森が延長してくれって頼むからさあ、やってやっただけでさあ。賭博麻雀だって、ボクちゃんには関係ないモン。訓告っていう処分が軽いって?だって、森と検事総長が決めちゃったんだもん、ぼくはそれを了承しただけでさあ」「そんなこと言ってるんですか、シンちゃん」「ああ。なんだか、黒や森の二人が可哀そうになっちゃってな。ぜーんぶ、他の人になすりつけちゃうんだよなあ、いつだって」「そうですかあ。そうなんですか。みっともないなあ」「ああ(深いため息)」「ところで、下川さん、ここに置いておいたカステラ知りませんか?」「ん? ああ、あれ?」「ええ、ぼくが買っておいたんですが、後で食べようと思って」「あ、あ、そうなの? あれはほら、HHさんがさあ、食べましょうっていうからさ、ボ、ボクは、やめようっていったんだけれどさあ、HHさんが勧めるもんだからさあ、ボ、ボクは……。*みっともない=見たくもなし→見たうもない→見とむない→みっとむない→みっともない、と変化したらしい。(日本国語大辞典)(2020.05.23)

252)どさくさに紛れて

下やん、「#検察庁法改正案に抗議します」に加わろうとするが、コンピュータの操作の仕方がよくわからない。「おい、Nよ。これ、どうしたらいいんだ、教えてくれないか」「えッ、なんですか、これ?」「チミ、チミ、チミはこれ、知らないのか?」「いやあ、仕事に打ち込んでいたもんですから、下川さんと違って」「……」「なんだか難しそうですね、漢字が多くて」「あのなあ、このコロナ感染のどさくさに紛れて、とんでもない法律を作っちゃおうって政府がしているんだよ、今」「まさか、そんなことはないでしょう? いくら感染対策を何にもしていない政府だからって、布マスクを配ることぐらいしか思いつかない政府だからって、そこまでおかしくはないでしょう?」「モリカケサクラにIR、それに広島の政治家夫婦だろッ。まだまだたくさんあるんじゃねえかあ。そういったものがきちんと調べられると、危ねえんだよ、シンちゃん」「ふーん、大変ですねえ、政治家って」「ロッキードやリクルート、いろいろあったからなあ」「ところで下川さん、その、〈どさくさに紛れて〉って、もともとどういう意味なんですか」「そっちかあ、お前が気になるのは」 *どさくさ=江戸時代のことである。佐渡の金山では、金を掘り出すための人足が不足した。それを補うために、博打に現(うつつ)を抜かす輩を捕まえては佐渡に送った。その時、佐渡をひっくり返して「ドサ」と呼び、語呂(ごろ)を整えるために「クサ」をくっつけてできたことばらしいが、はっきりとはしない。いずれにしても、まともな世界からどんどん外れていっているなあ、この政権。(2020.05.17)

251)陽性率

新型コロナウイルスの感染数が毎日発表される。「おッ、減ってきましたよ、下川さん」「ん? やせたか?」「いやいや、感染者数ですよ」「ふーん」「気にならないんですか」「まあな」「早くのびのびとパチンコがやりてえって、云ってたじゃないですか」「オレはもう、パチンコは卒業したよ」「でも、感染者数が少なくなったって、良いことじゃないですか」「じゃあ、何人検査して、その内の何人が感染してたって数字なのか、それ」「あ、いやあ、……」「あのなあ、ちょっと前に群馬県では一人も検査しなかったって日があったらしいじゃねえか。日本のPTAとか、何とかいう検査数は他の国に比べて極端に少ないんだろッ。検査した人でないと感染者にはなれねえんだぞ。おかしいだろ? 検査数がすくなければ、感染者数は少ないにきまっているだろ。ずーと1ヶ月も2ヶ月も、感染者数だけでなんだかんだといっているマスメディアも馬鹿じゃねえの。なんで母数を、つまり何人検査したかという数字と一緒に発表しないんだよッ」「すごいッ、下川さん、ワイドショーに出て、それ、云ってくださいよ」「オレが気に入らないのはだな、メディアだって、そのあたりは分っているはずなんだよ。にもかかわらずにだなあ、こんな数字のまやかしを平気で報道するってことはだなあ、本当は大変なことに日本という国は、なっているんじゃないかって、思うんだよな」「というと……」「Nよ、オレたち国民は知らないうちにコントロールされるロボットのようなものとして扱われているってことだよ」「そうか。あッ、下川さん、新聞によると、東京都が陽性率というのを発表するようにしたらしいですよ。これ、下川さんがおっしゃっている、検査数に占める陽性者数ということのようですよ」「やっとだよな。だけどな、Nよ。その検査数にはだな、病院に入院していた人が回復して退院するときに受ける数回の検査も含まれているわけだ。そういった人は陽性である確率は当然低くなるだろッ。そうすると、そのことも明らかにしないと、発表された陽性率ってものも、怪しくなるんだよ」「いやあ、数字って確かに怖いですねえ」「この率なんてもの、よく中身を見ないとな」「ところで、下川さん、下川さんがよく仕事をさぼってやっている競馬の当たる確率って、どのくらいなんですか?」「……」
*まだまだ続くコロナ感染、発表される数字や、用いられることばには、何とも不可解なものがたくさんあるように思われる。これは、ことばの問題だけに収まらないのではないかと危惧しているのだが。(2020.05.10)

250)困る

新型コロナウイルスの感染を避けるために家に閉じこもっていると、心の不安定によって苛立ちを覚えたり、うつ状態になったりといった症状が現れるらしい。そう報じているテレビのワイドショーを見ながら暗い気持ちになっているNくんは家の中をおそるおそる見渡す。相変わらず美しい妻と可愛い息子を確認すると、二人とも実に明るい。(マ、大丈夫だよね、うちは)と安心する。「パパーッ、さっさと食器を片付けてよ、よく洗ってから」と妻。(ウン、これはいつも通りだよね) 「明日、忘れずにゴミを出しておいてねッ、よく忘れるんだからア」(これも変化なし) 「ア、それから、掃除機をかけるときは先に物を片付けてからにしてよッ」 (ウン、ウン、日常) 「ア、それからね、ほら、ずーっと家の中にいるとさあ、介利(息子)だってイライラしちゃうからさあ、少しこの感染が落ち着いたら気分転換にハワイにでも連れて行こうと思ってるんだけど。いやいや、大丈夫、もう旅行会社に予約しちゃったから」「えッ、ハワイ? そうかあ、ハワイかあ、そうだよねえ、いいねえ」「ありがとう」「……」「パパはさあ、お仕事で忙しいと思ってさあ、二人で行ってくるからね」「……」「まだずっと先のことだけどさあ、だって、しばらくは無理でしょう? ほんとこのコロナ、困るわねえ」 *困る=□の中に木を閉じ込めている文字そのもので、身動きできない状態。例えばロンドンのロック・ダウンで家から出られない今の状況に重なる。 (2020.04.30)

249)文化

コメディアンの志村けんさんが亡くなった。飲み屋では「(ダチョウ倶楽部の)上島竜兵のお兄さん」で通っていると自慢していた下やんが泣いた。確かによく似ているが、赤の他人である。Nくんもショックを受けたようだ。2メートルの間隔をあけて、やはりワンカップ平幕を飲みながら二人でお通夜をした。この二人、本当に純粋で、純情なのである。志村けんさんについて、ある評論家が、「志村けんはいわゆる文化人になろうとせず、コメディアンを貫いた」と書いた。つまり、ニュースのコメンテーターであるとか、他のジャンルで活躍することがなかったということのようだ。Nくんが下やんに訊くともなくつぶやく、「文化人って、何なんでしょうかねえ」「……」「下川さんは文化人ですか」「な、なにッ?」「文化人という人たちでなければ、文化に関係しない人ってことでしょうか」「……」「そもそも、文化って何なんですか」「確か昔、受験参考書の一つに、『試験に出る英単語』というベストセラーになった本があったんだけどな。単語の語源について書いてあるんだけれど、農業はagricultureというだろ、あれはだな、agriというのが〈土〉を、cultureというのが〈耕す〉を意味するということのようなんだよな。だから、文化、つまりcultureっていうのは〈耕す〉っていう意味なんじゃないか」「へえー、そうなんです。で、耕すって、何を耕すんですか」「ああ、お前といると疲れるなあ、静かに酒を飲ませろよ」「文化庁って、あるじゃないですか。あれ、何ですか。文化についてどんな仕事を、何のためにやるんですかねえ」「オレら、庶民には関係ない、歌舞伎とか能とか、そういった上品な芸術について何かやってんじゃねえか」「ん? ということは、普通の人間には関係ないんですか、文化って?」「おまえ、普通か?」 *これは難問である。広辞苑は「①文徳で民を教化すること。②世の中が開けて生活が便利になること。文明開化。③(culture)人間が自然に手を加えて形成してきた物心両面の成果。……西洋では人間の精神的生活に関わるものを文化と呼び、技術的発展のニュアンスが強い文明と区別する」などと解説する。日本では、明治以降戦前までは精神的なものを、戦後はアメリカの影響を受けて物質的なものを含んで文明と文化との違いがあいまいになってきたといえるが、現在はあらゆる人間生活に関わるものを包み込んでいるようだ。とはいえ、都合よく使い分ける文化人がいることも確かである。(2020.04.25)

248)咲く

Nくんは今年、とても残念な思いであった。毎年彼は、故郷の村の、桜の花の咲くころに帰郷し、父が亡くなった後寂しく暮らす母や尊敬する兄たちと一緒に、花見の宴に酔うのが楽しみだった。しかし今年は、新型コロナウイルス感染対策のために、国からは自粛が要請され、村役場からも花見はするなと注意があったのだ。村人全員、老いも老いも、50代の若きも少し交えた総勢28人が集まっての盛大な花見は取りやめとなった。村に一軒だけある喫茶店「田吾作」も閉店しているようだ。開いていれば、レストランの庭なら花見をしたり宴会をしてもよいという総理大臣のお墨付きもあるのだから、大丈夫ではないかと期待していたのだったが。今年は小学校の同級生、守掛咲良さんも帰郷し、花見に参加する予定だったが、東京から戻ってくるのをやめて、代わりに大分の方に旅行に行ったようだ。とても残念だった。やむなくNくん、下やんと二人で、2メートルの距離を保ちながら、ワンカップ平幕という日本酒で乾杯した。「それにしてもNよ、お前、桜の花が好きだなあ」「下川さんだって、お嬢さんに〈さくら〉という名前を付けられたんでしょう?」「ああ、まあな」「やっぱり、奥さんと二人で、花札か何かやりながら考えたんですか?」「……」「それとも、お祭りの日に香具師(やし)の売っているものを誘いのために買う真似をする、あのサクラから連想されたんですか?」{……」「そうでないとすると、馬刺しからかなあ」 *咲く=「〈咲〉は本来〈笑う〉の意」(明鏡国語辞典)。「〈裂く〉と同源という」(新明解国語辞典)。この語の本来の意味としては、〈裂く〉に説得力がある。〈笑う〉も口が裂ける状態である。広辞苑や日本国語大辞典では、語源については触れていない。(2020.04.18)

247)やばい

テレビドラマの「相棒」や「渡る世間は鬼ばかり」、「やすらぎの刻」などに次々と出演し、活躍を始めた男優のMくんである。ハンサムで性格もすばらしい。そういう点ではN君そっくりである。彼は英国の大学を卒業し、英国の演劇学校で演劇について学んだ本格派である。お母さんも大のつく女優さんで、お父さんは著名な写真家である。その彼がもう少し若い頃である。訪ねてきて、ロンドンのぼくの家に泊まった。その夜、一緒に食事に出かけた。「ここはね、結構おいしいんだよ」とぼくが云う。運ばれてきた料理を口にした彼が思わず、「やべえー」と。(ん?聞き間違えたかな)と思いながら、「なんか、入っていたか?」と確かめる。「いや、……」「まずいか?」「いや、おいしいです」「えッ?」「とてもおいしいです」「でも、今、確か、やべえ、と云ったような……」「はい、とってもおいしいという意味です」「……」「今は、そう云うんです、ぼくたち若者は」「そうか、……」それからぼくは長々と彼に説教をしたのだった。きっと、その料理はとてもまずくなっただろうなあ。*やばい=広辞苑(第7版)によれば、「不都合である。危険である」という意味のほかに、「のめり込みそうである。〈この曲はくせになってやばい〉」とも説明されている。さらに新明解国語辞典では、「最近の若者の間では、〈こんなうまいものは初めて食った。やばいね〉などと一種の感動詞のように使われる傾向がある」と物分かりのいい説明もしている。明鏡国語辞典も「若者がプラスの評価に用いることもある」と説明する。「やば」というのはもともと香具師(やし。フーテンの寅さんの仕事)や犯罪者仲間の間で使われる隠語であり、「違法なことをするなどして、警察の手が及ぶおそれのある状態」(新明解)を意味する。そのことばのエネルギーをややくだけた(あるいはくずれた)言い方を面白がる若者が拝借したということだろうが、ぼくはあまり好まないなあ。(2020.04.12)

246)うつくしい

「ああ、憂鬱だなあ」 と下やん。「そうですねえ」 とNくん。新型コロナウイルスに二人してため息をついている。毎日発表される感染者の数や死者の数に気持ちが滅入っているのだ。二人とも純粋で、気持ちが優しいのである。だから、感染した人や死んだ人の遺族のことを考えると、たまらない気持ちになる。「いつまで続くのかなあ」「いつまで続くんでしょうかねえ」「なんとかならないのかなあ」「なんとかならないんでしょうかねえ」 二人のため息はもう20分以上も続いている。「でも、下やん、いや、下川さん、日本は他の国と違って、清潔ですし、うつくしいから、案外早く終息するのではないんでしょうか」「ん? Nはそう思うか?」「いや、そうであってほしいと、思ってるだけですが……」「うん、そうだよなあ。でも、本当に日本という国はうつくしい国なのかなあ。われわれ日本人はうつくしいものを大切にしようとしているのかなあ」「……」「オレは時々思うんだよなあ。みんな自分の家の中とか、自分の車だとか、いろいろ整理したり、飾ったり、磨き上げたりするけどさあ、一歩外に出ると平気で路上に物を捨てたり、中にはつばを吐いたりさあ、するじゃないか。街の風景だってさあ、店の看板なんか、目立たんがための、派手なものが、不調和に並んでいるだろッ」「そういえば、ロンドンに住んでいた頃の街並みは、調和がとれていて、緑が多くて、まさにうつくしかったですよね」「そうだろッ、そこのところがどうもよくわからないんだよ、オレは」「そうか、そうですよね。自分の小さな世界は大切にするけれど、みんなの世界は、つまり公共の場についてはあんまり気を遣わないような気がしますねえ」 コロナは、二人の奥深いところにある心を引き出したようだ。*うつくしい=もともとは、妻や子などの肉親に対する愛情表現であった。あるいは、枕草子に「うつくしきもの、瓜に書きたる児の顔」 とあるように、幼い子どもや小さいものに対する思いであった。つまり、身近な、ささやかなものに対する思いがうつくしいといったことばの本質で、もっと大きなモノや空間に対する思いではなかったのだ。日本人の〈うつくしい〉とは、自分以外を包み込む感性ではないのである。(2020.04.05)

245)ろくでなし

下やん、厳しい顔である。TVの画面の若者たちに怒っているのである。「ぼくたちはコロナにかかっても大したことないってことだから、ゼーンゼン、気にしてないんですよ、アハハ」「わたし的にワア、大丈夫だと思ってるからア」 若者たちは外出自粛や会食や宴会自粛を呼びかけられても街を闊歩(かっぽ)している。若者は確かに、どちらかと云えば軽症で済む場合が多いらしい。しかしながら、その若者が接触する高齢者や持病のある人たちは、命がけの毎日を送っているのだ。「ろくな連中じゃない。自分のことしか考えられないのか、こいつら。若者はバカ者だ」 それを聞いていたNくん、「そうですよねえ、ホントにろくでもないなあ。……ところで下川さん、ろくでもないってコトバ、よく使われますが、もともとどんな意味なんですか」「なにッ、チミはこんな非常時に、そんなどうでもいいことを考えているのかね?」「いや、コトバについては敏感でなくちゃいけないって先生がいつも言っておられるし、下川さんは知らないこと以外は何でも知っておられるから、……」「ろ、ろくでもないってことは、まともじゃないってことだ、不真面目だってことじゃないか」「そうですよねえ、で、この〈ろく〉って、何ですか」「そ、それはだなあ、……Nよ、おまえ、鹿鳴館っていうの知ってるか?」「あ、聞いたことがあります。たしか明治時代の社交場か何かですよね。すごいなあ、下川さん、明治時代から生きておられるんですかあ」「チミ、チミ、チミには年齢というものがわからないのか、ホントに。その鹿鳴館のロクって、鹿という字を書くだろ。つまり、ろくでもないっていうのは、馬鹿の鹿、そのうちの鹿の価値ほどもない大馬鹿ってことだよ」「すごいなあ、下川さん、とっさにそれほどの作り話ができるなんて、天才ですね」「いやあ、ボクはそれほどの者でも、……」「……」 *ろく=陸。碌は当て字。「直」「完」とも書く。陸地のように平らかであるというのが原義。物がゆがまないで、まっすぐなこと。姿、形が正しいこと。つまり、まっすぐに正しい状態を表す、ということで、「ろくでもない」と打ち消せば、まっすぐではない、ねじ曲がっているということになる。 (2020.03.30)

244)既存

NHKの23日朝の「おはよう日本」というニュース番組を見ていたNくんが「あれッ、あれッ、……」とつぶやいている。下やんが訊く、「うるさいなあ、どれだよッ?」「いや、あれやこれのことではなくて……」「なんだよ?」「いや、さっきからこの番組の女性アナウンサーが<既存>をキゾン、キゾンと読んでいるんですよ」「今はキゾンと云うんじゃないか?」「いや、研究所で勉強した時、確かキソンと教えてもらったんですよ」「ふうん、でも美しい女性はキゾンと読んでもいいことになっているんじゃないか?」「そうかなあ、うちの奥さんは美しいけれど、キソンとちゃんと読んでいるけれど……。あッ、下川さんの奥さんはどう読んでいますか? もし下川さんの奥さんがキゾンと読んでいたら、今の下川さんの論理が崩れるんですけれど……」 なぜか、Nくんの頭にたんこぶが、目に涙が残ったのだった。*既存=むろん、キソンが正しい。似た間違いに、依存がある。「アルコール依存症」「ニコチン依存症」「ギャンブル依存症」とよく用いられる語である。これは、イソンが正しく、イゾンと読むのは間違い。 (2020.03.23)

243)ジュースが飲みたい/ジュースを飲みたい

Nくんが愛息・介利くんの写真を見ながら下やんに話しかける、「下川さんもそう思いますよね」。いきなりなのだ。「いやあ、天才じゃないのかなあ。ねッ、ねッ」 下やん、コンビニで買ってきたおでんの大根を黙々と食べている。「昨夜、介利が訊くんですよ、パパに。パパって、ぼくなんですよ、アハハ」 下やん、コンビニでもらった弱弱しい割りばしでタマゴを二つに割ろうとして、誤ってタマゴを床に落としてしまう。「おいッ、いい加減にしろよッ、タ、タ、タマゴを落としちゃったじゃないか」「いやあ、昨夜、訊くんですよォ、介利が」 Nくん、今、目の前で起きている下やんの惨事が目に入らないようだ。「昨夜、ぼくの美しい家内が、介利に<お水、飲む?〉と訊いたんです。すると、天才・介利が〈ジュースを飲みたい〉と云うんですよ」 下やんは(落ちたタマゴはもう食べられないか)と懸命に考えている。「そこでぼくが介利に、〈ジュースが飲みたいの?〉と訊いたんです。すると、すると、」 (そうか、すぐにティッシュで拭いたし、だれも見ていなかった訳だし、Nは自分の話に夢中で目に入っていないようだし、よし、よし)とタマゴを頬張る下やんである。「〈違うよパパ、ジュースを飲みたいの〉と介利が云うんですよ。〈が〉ではなく、〈を〉だと」「すごいなあ、介利は将来、言語学者になるんでしょうかねえ、下川さん?」「ん? まあ、そうだなあ、……」「落ちたタマゴを食べる下川さんもすごいですよねえ」「……」 *「ジュースを飲みたい」も「ジュースが飲みたい」もどちらも使われている。この「たい」は形容詞型の活用をするので、「飲む」という動詞の連用形「飲み」に形容詞をつくる接尾語「たい」が付いたものと考えれば、「ジュースが」が正しく、「たい」を助動詞とみれば、「ジュースを」がいえる。(2020.03.14)

242)パンケーキ

Nくんが愛息・介利くんを連れて、滞日中のぼくのホテルにやってきた。大きくなったものだ、もうすぐ3歳になる。奥さんに似て可愛い。奥さんに似て賢そうだ。奥さんに似て良い子だ。せっかくだからとレストランに入る。「何でも好きなものを食べなさいね」とぼくに云われた介利くんの目の前に、色鮮やかなアイスクリームや生クリーム、イチゴなどのたっぷり乗ったパンケーキなどが並んだメニューが差し出された。介利くんの視線は、その中でも一番華やかなパンケーキに向けられている。それに気付いたNくん、「あ、ほら、こっちに、ほら、……」と地味で普通の子どもなら見向きもしない食べ物の別メニューに視線をそらそうとする。そして、小声でぼくに、「甘いモノは食べさせないように日ごろから家内に厳しく言われているんです」とささやく。(そうか、そうか)と理解したぼくは、「介利くん、やっぱりこっちのクリームがたくさん乗ったきれいな方がおいしそうだよねえ」と元の華やかなメニューを目の前に差し出す。「あッ、あッ、は、は、……」 Nくん、困る。「怖いんですよ、ぼくが怒られるんですよ」 「そうか、怒られるのかあ」「ええ」 けれども、介利くん、大人の会話なんて聞いてないモン、といった実にたくましい表情で、パンケーキのメニューを見つめる。Nくんは「ほら、お魚好きだよね」と必死である。「こっちを食べたいよねえ」とパンケーキを指さすぼく。しっかりとうなずく介利くん。「介利はほら、これ好きだよね」とNくん。「これ、おいしそうだよねえ」とパンケーキを勧めるぼく。介利くんも指でパンケーキを押さえて動かさない。「あはは、あはは、……」 介利くんがぼくを見てほほ笑む。(どうやら、このおじいちゃんは、パパに勝ったようだ)と。注文したパンケーキが運ばれてくる。アイスクリームや生クリーム、イチゴなどのフルーツが山のように乗っている。「あーッ、あーッ、あ、あ、あ」 N君が悶えている。おいしそうにモリモリ食べる介利くんである。「介利くん、これはね、野菜サラダって云うんだよ。云ってごらん、ヤ・サ・イ・サ・ラ・ダ」とぼくが教える。「ヤ・サ・イ・サ・ラ・ダ」と介利くん。うなだれていたNくん、突然、輝く。「そうそう、介利、これ、ヤ・サ・イ・サ・ラ・ダ。ママに訊かれたら、ヤサイ・サラダを食べたって、ね」 明るさを取り戻したNくんだったが、その夜、ママと介利くんの会話がバス・ルームから聞こえてきたのだそうだ。「今日、パンケーキ食べたよ。おいしかったよ」 *物の名前というのは実に面白い。我々は信号機の緑色を青と呼ぶが、アメリカ人は同じ色を緑と呼ぶ。(2020.03.03)

241)〇〇君

政治家のことばに興味を持ち始めたNくんである。一人で考えてもわからないときは、知らないことは何となく話題を変えてはぐらかし、つまりは何でも知っているような雰囲気の下やんに訊くことにしている。「あのう、……」「なんだ、また便秘のようなことか?」「は?」「くだらないことかって云ってるんだよ」「……」(訊くのはよそうかな)と思うNくんである。「なんだよ、忙しいんだからサッサと訊けよ」(とても忙しそうには見えないが)とも思うNくんである。「あのう、国会の予算委員会を見ていると……」「な、なにッ?」「議長を務めている委員長が発言者を指名するとき、〇〇君、と云うんですが、ちょっとぼくには違和感があって……」「どうしてだよツ、議員は男なんだろ?」「いや女性もいるんですが」「女性には〇〇さんとか、〇〇ちゃんとか云っているんじゃないのか?」 下やんに訊いたことを後悔し始めているNくんである。「首相に対しても安倍君などと云うんですが」「そりゃあ、昔からの知り合いというか、友だちというか、そんなところじゃないのかあ」「……」「それにしても、研究所の所長だけどさ、どうして俺のことを下やん、などと呼ぶのかなあ。下川さまとか、そう呼んでくれると気分が良いんだけどなあ」「あ、急用を思い出したので、また今度、……」 *国会における「○○君」=議長は首相を含むすべての議員を「〇〇君」と呼称する。明治23年の第1回帝国議会からの慣例である。アメリカ議会の「ミスター」を「君」と訳し真似たという説がある。ただ、もう覚えていない人も多いだろうが、旧社会党の委員長だった土井たか子さんが衆議院議長だったときは唯一、「〇〇さん」と「さん付け」で呼んだのが話題となった。そしてまた、この「君」には敬称としての意味合いもあることから、今も引き継がれているのである。一般の用い方とは少し異なるのである。(2020.03.03)


240)「住む」と「暮らす」

前の号で首相の用いた「募集」と「募る」の違いに頭を悩ませたNくん、それ以来、いろいろな言葉の違いがよくわからなくなってしまい、頭痛はひどくなるばかりである。それが、下やんには面白くてたまらない。「Nよ、〈たそがれる〉と〈落ちぶれる〉の違いがわかるか」「下川さん、ご自身のことをみんながどう言っているかを誰からきいたんですか?」「……」 この話はここで突然、止まった。Nくんの頭の上にはたんこぶが、目には涙が生まれたが。*さて、誰からも愛される下やんのことを前々号で、「寅さん」のような人物であると書いたが、この寅さん、「フーテンの寅」という通り、旅をしながら生きている香具師(やし。大道商人)である。ときどき葛飾柴又のおいちゃんのところに戻るが、そこに「住んでいる」とか、そこで「暮らしている」とはとても言えない。この「住む」ということばの意味は、「生物が巣と定めたところで生活を営む意」(広辞苑)とある。その意味を基にして、「①巣を作って生活する。②男が女のもとにかよって夫婦のまじわりをする。③居を定めてそこで生活する。④そのところに永くとどまる」(いずれも、広辞苑)などの広がりを持つことになる。①には、「棲む」「栖む」などの字を当てる。「住む」と同じ音を持つ「澄む」や「済む」も語源は同じで、濁りが静まり落ち着いていき、様々な用件等が片付き落ち着くという意味である。つまり、じっと落ち着くことを「すむ」というのである。では、この「住む」と「暮らす」との違いはどこにあるかということであるが、「じっと落ち着く」という意味の「住む」と、「そこで生活を営む」という意味の「暮らす」の違いである。「…に住む」と「…で暮らす」と助詞を比較してわかるように、「暮らす」には「営む」という行為が含まれている。「日が暮れるまでそこで過ごす」といった意味があるのである。(2020.02.06)

239)「募集」と「募る」

頭が痛いとNくんが言い出した。下やんが「頭痛薬でも飲んで早く治せよ。大事なイベントを控えているんだから」と助言する。「いや、薬を飲んで治る痛みじゃないんです」とNくん。「頭痛だろ?」「いや、頭が痛いんです」「お前なあ、頭が痛いことを頭痛っていうんだよ。小学校で習っただろッ」「いや、そうではなくて、昨日ニュースを見ていたら、国会で首相が、〈募ってはいるけれど、募集はしていない〉って答弁していたんですが、ぼくにはどこが違うのかがどうもよくわからなくて、考えていたら頭が痛くなって……」「お前なあ、いくらなんでもそんなことは言わないだろ? 聞き間違いじゃないか」「いや、ホントなんです」「ほんとに?」「ええ」「そりゃまあ、彼のことだから、可能性はあるが。云々(うんぬん)を堂々とデンデンと読んだ御仁(ごじん)だからなあ」「やっぱり、おかしいですよね」「立法府の長がそれじゃあ困るよなあ」「えッ、内閣総理大臣は行政府の長じゃないんですか?」「うん、それが、このお方は自分のことを立法府の長とおっしゃるんだよ、しかも何度も」「頭の痛みがひどくなってきましたよ」 *私たちは同じ意味の言葉をあえて言い換えることがある。何のために言い換えるのか。①社会言語学的理由によるもの。たとえば、敗戦→終戦、退却→転進、全滅→玉砕、便所→手洗い。②連帯性を維持するためのもの。これは、とくに昨今、仲間にしかわからない言葉に言い換えてSNSなどでコミュニケートする若者言葉などがある。③理解を助けるために用いるもの。シリツといってはわかりにくいので、私立(わたくしりつ)、市立(いちりつ)と言い分けるなど。まだまだ、いろいろ考えられるだろうが、上記の首相の例は、苦しい言い逃れ(ごまかし)のための稚拙な言い訳で、これによって窮地度が高まるのは必定。(2020.02.06)

238)屋根

千葉県に住む下やんは先だっての集中豪雨による被害者への思いやりを忘れない。何しろ優しい心の持ち主なのだ。友人が病んでいると知れば、福岡であろうが北海道であろうが駆けつける。飛行機が怖い下やんだが、神様、仏様、あるいはキリスト様に祈りながら、汗をびっしょりとかきながら、駆けつけるのである。そう、いわば「千葉の(あの、渥美清演じる)寅さん」なのだ。さてさて、集中豪雨によって被災した家屋の屋根を見上げながら下やん、「おかしい」とつぶやいた。無理やり同行させられたNくん、「いやあ、本当におかしいですよねえ、最近の自然現象は。やっぱり、地球の温暖化現象によるものでしょうかねえ」「なにを言っているのかね、Nよ」「……」「屋根の根、だよ」「……」「根というのは、根っこの根だろ」「はあ、……」「屋根の屋は、家屋の屋だろ」「ええ、……」「なんで家屋の上にあるのに、根っこの根を用いているんだ?」「なるほど。すごいですね、言語学者みたいですね」「まあ、それほどでもないが、ボクは」「すごいですよ、ほんとに。で、どのように考えられるのですか」「キミ、キミ、ここに来たのは、復旧作業を手伝うためにやってきたんだぞ、そ、そんなことを考える暇があったら、手を動かせよ、その短い脚と一緒に」「……」 *広辞苑はこの疑問に答えていない。日本国語大辞典は「屋根=家全体を指していたのが、家の上部の〈屋根〉だけを指すようになったのは、古代の建物が、屋根自体直接地面に接する造りであったのに、その後、柱や壁ができて軒先が地面を離れるものとなったことによる」と説明する。他に、このネは、本来「嶺」であったものが「根」と当て字で書き替えられたものだとする説もあり、はっきりしない。「尾根」は本来、「尾嶺」であり、「峰嶺」であるというのだ。はっきりしているのは、下やんの視線の鋭さである。(2020.02.06)

237)お疲れ様

下やんは今、むくれている。小さな声ではあるが、「ほんとに最近の若い奴は口の利き方を知らねえなあ」と言っている。なぜ小さな声なのかというと、ほんの少しだけ自分の、ことばに対する考え方に自信がないからだ。実はこういう話なのである。つい一時間前に下やんが担当しているプロジェクトの骨格がようやく出来上がった。下やんはとにかく頑張ったのだ。この数週間、夜しか寝なかったし、食事だって一日3度しかとらず、好きな酒も夜しか飲まずに打ち込んだ。努力したのだ。健康を維持するために、牛乳をやめて米で作ったライスミルクをストローで飲んで頑張ったのだ。水虫の痒さも我慢した。達成感があった。(やったぞ)と思った。その瞬間、「へッ、へッ」という笑いが下やんの口から自然に漏れた。その瞬間、善良なNくんが言ったのだ、「お疲れさまー」と。(なにッ)と下やんはカチンときた。(お、お、お前から「お疲れ様」と言われる立場のオレ様ではないぞ)と下やんは感じたのだ。(あ、あれッ)と、Nくん、下やんの形相に不穏なものを感じた。そこで、「ご苦労さまー」と言い換えた。今度は下やん、音声に出して言った、「カチーン!」「なんでオレ様がお前ごときにねぎらってもらわなければならないんだよォ」 危険を感じたNくん、「美しい奥さんと可愛い天使のような息子が愛する立派なパパを待っているので、今日は失礼しまーす」と言って、オフィスを飛び出した。*下やんのことばに対する感性は正しいと言える。本来、「お疲れ様」というのは「ねぎらい表現」で、上位者から下位者へのみなされる一方通行的な言語表現なのである。いや、「なのであった」というべきか。「ご苦労様」も含め、最近では違和感を持たないという人の割合が6割以上であるとの調査結果もあるという。 (2020.1.25)

236)カタカタ

下やんは家族思いである。奥さんとお嬢さんがそれぞれ一人ずついる。まあ、奥さんはたいてい一人であるが。この奥さん、大変な美人で、気が優しい。桃太郎を女性にしたような人である。夫や娘といつまでも一緒に暮らしたいと、健康には人一倍、気を使っている。健康に暮らすには筋肉を維持することが一番だと、ジムでキックボクシングを習い始めた。奥さん、スポーツも万能で、めきめきと上達しているようだ。ある日、下やんの姿がオフィスに見えない。「どうしたの」とN君に訊くと、「なんか、病院に行ってくるということでした」とのこと。風邪をひくカテゴリーの男ではないし、食べすぎかな、飲みすぎかなと心配していると、胸のあたりにギブスを付けた下やんが決まり悪そうに姿を現した。「どうしたの?」「いやあ、そのう、このう、……。ろッ、ろッ、肋骨にひびが入っちゃって……」下やんの右脚がカタカタと貧乏ゆすりをしている。気まずい時の下やんの癖である。「転んだの?」「いやあ……、そのう……、飛んできて……」「なにが?」「足が……」「どこから?」「あっちから……」「えッ?あっち?」「家内の……」「えッ、奥さんの足が飛んできたの?」「まあ、なんというか、実に見事というか、鮮やかというか……。いわゆる回し蹴りというシロモノが……」「どうして?」「犬も食わないというか、いわゆる、つまり、結局のところ、夫婦喧嘩と一般的には言うところの、夫婦間における争いというか、闘いというか、DVというか、……」「奥さんの回し蹴りが下やんの肋骨に見事に決まったってことか……」「難しく言うと、そういうことに……」「……」Nくんのかみ殺した笑い声が聞こえている。そのNくんをものすごい形相で見つめる下やんの足からもカタカタ、カタカタ、……。*カタカタ=いわゆる擬音語。広辞苑や日本国語大辞典には載っているが、新明解には見つけられない。「堅い物が触れて発する軽い音」(広辞苑第7版)。日本国語大辞典の説明もほぼ同じ。しかしながら、どうも不十分である。この音は連続しているはずであるから、そのことについて触れた説明が必要。せめて、「堅い物が触れて連続的に発する軽い音」といったように。 (2020.1.22)

235)腐れ縁(くされえん)

刑事ドラマが好きなNくんの奥さんは、元スチュワーデスである。今はフライト・アテンダントというようだが。美人でスタイルがよく、細かくいろいろと気が付く。食事の時はまっすぐ立って、「和食になさいますか、それとも洋食になさいますか」と訊く。さっきスパゲティをゆでていたのを知っているNくん、「洋食をお願いします」と答える。間違って「和食を」などと言ってしまうと、機体が乱高下してしまうので注意しなければならない。その奥さん、「やっぱりこの二人は腐れ縁という感じだよね」とつぶやく。N君、何のことだろうと一瞬、ポカンとする。あくまで一瞬でなければならない。長引くと、乱高下するのである。どうやら、奥さんお気に入りの刑事ドラマの主人公二人のことのようである。この二人の刑事、一人が極めて頭脳明晰で、「小さいことが気になる」ベテラン刑事である。もう一人は、なかなかの二枚目で、若い。けれども、先輩の顔を立てることには長(た)けている。(でも、腐れ縁ということはないんじゃないのかな)とNくんは思う。どう見たって、二人の仲は良さそうだし、楽しそうだし。「あ、あのう、腐れ縁というのかなあ、この二人って」「あら、知らなかった? この言葉?」「いや、あのう、そのう……」「仲が良すぎて、腐ってしまってもおかしくないような関係をいうのよね、こういうの。私たちもそういう感じよねえ」「え、ああ、……、そうだよね、……」甘口のぺネ・アラビアータという奥さん特製のパスタを口の中に無理やり押し込むのだった。*腐れ縁=「くされ」は「くさり」の意を兼ねた語。長く続いて離れようとしても離れられない悪縁。好ましくない関係を批判的、自嘲的にいう語。(日本国語大辞典) (2020.1.8)

234)たらふく

Nくんは子煩悩(こぼんのう)である。一人息子が可愛くてたまらない。大先輩の下やんがからかう、「お前、よく可愛がるなあ。目に入れても痛くないって感じだなあ」 (いや、とても目には入らない大きさだ)と思いながら、「ええ、ええ」とニコニコしている。「まるで我が子のようだろ」と下やん。「我が子ですよ、もちろん」「わかんないぞーッ」「なに言ってるんですか、ぼくにそっくりなんですよ」「そりゃ、大変だ」 たわいもない会話である。今夜はフグの鍋だとカミさんが言っていたから、早く帰って子どもと食べようと帰り支度をしていると、下やんが「おい、先月近くにできた店で鱈(たら)の鍋でも食べて帰らないか、みんなで」と誘う。(いや、今夜はフグなのだ、我が家は)「いやあ、今夜は帰ります、ぼくは」「なに言ってるんだよ、今夜はこの下川さまが奢(おご)ってやろうと言ってるんだぞ、しかも鱈の鍋だぞ。たらふく食わせてやるからさ。遠慮しなくてもいいぞ」(うちは、フグなのだ!)「タラだぞ、タラ」(フグだよ、フグ)「いやあ、今夜は……」「熱でもあるのか、おまえ」(そうか、その手があった)「ええ、ちょっと、なんとなく」「じゃあ、タラの鍋をたらふく食べればすぐ治るよ」(タラよりフグが)「タラフグ食べる食欲がなくて……」「たらふく、だろ、タラフグってなんだよ」(しまった)人の好いNくん、結局下やんに付き合うこととなった。悲劇は、ちょっとしたところに転がっているものである。*たらふく=日本国語大辞典によれば、「たらふく」は「鱈腹」の字を当てる。新明解国語辞典「足(た)らふ+く」からできた言葉であるという。「満腹でもうこれ以上は入らないというところまでたくさん食べる様子」とある。「満腹」よりはさらに「いっぱい」という感じがあるようだ。 (2020.1.8)

233)続・定義

Nくんはまだ考えている。考えるのが得意なのだ。好きなのだ。ただ、途中で何を考えていたのかがわからなくなることがよくあるので悩ましい。今、Nくん、前回話題にした「定義」について考え続けている。というのは、研究所の所長が日本に出張してきたときに聞いた話を思い出したからである。あるホテルで開かれた講演会の場だった。日本を代表するT大のK教授が「学力低下」について講演した。K教授はマスメディアにも盛んに登場する有名な大先生である。「今日は教育の専門家としてお話をします」とK教授は話し始めた。主催者のメディア社からぜひ参加してほしいと招待されたうちの所長は、講演台の真ん前でワインを飲みながら聴いていた。講演が終わり、会場から質問が出された。「日本の子どもたちの学力が下がったのは、ゆとり教育とか、土曜日を休みにするとか、そういったことをしたからなのではないか。あれは、先生たちがゆっくり休みたいからやったんじゃないのか」 所長は穏やかな顔でもう一口ワインを口に含んだ。心の中では、(バカ者ッ!)と叫んでいたに違いないが、K大先生がかわりに「バカ者ッ!」と叱りつけるだろうと思っていたのだ。ところがK大先生、「そうなんですよ、実は。土曜日休日を隔週にすれば、学力は上がると考えられます」 びっくりした所長の反射神経はすごい。というより、この種のことに関してはほとんど桃太郎侍なのだ。「K先生は教育社会学が専門だと理解していますが、データを重んじる科学ですよね。とすると、土曜日休日を隔週にすると学力が上がるということが証明できるデータかなんかお持ちですか」「いえ、持っていません」「今日は学力低下について話されましたが、そもそもK先生は学力とは何か、つまり学力というものをどのように定義されているのですか」「わたしは学力を定義していません」「学力とは何か、と定義しないで、学力が伸びたとか低下したとか言えるのですか」「わたしは教育の専門家ではありませんから、……」 会場がざわついた。聴衆は新聞社の代表や会社の代表などといったとても偉そうな人たち、いやきっと立派な人たちばかりなのだった。Nくんはこの話を思い出し、「定義」の意味がますます分からなくなってしまっているのだった。隣で、下川さんが鼻くそを丸めて、めくり忘れているカレンダーの4月の満開のサクラの写真めがけて飛ばしている。*所長は毎日の6時間授業や先生たちが試験をした後必ずと言っていいほど算出する平均点などもほとんど意味のないもので、そんなものでもって子どもたちを窮屈な世界へと追い込んでいる、とよく話している、ワインを片手に。(2019.12.11)

232)定義

「あのぅ、……」今日のNくんは控えめである。謙虚である。けれども卑屈ではない。これがNくんのいいところだ。「なんだあ、金かあ? 言っとくがNよ、そんなもの日本銀行に全部貸しているから、ないぞお」「いやあ、もちろん下川さんにお金を貸してほしいなんて間違っても言いませんよ」「……」「よくわからないんですが、反社会的勢力とか集団という人たちって、どんな人たちなんですか」「馬鹿だなあ、そんなこと小学生だって知っているぞ、やくざとか、暴力団とか、半グㇾとかいうけしからん奴らのことだろうが」「ぼくもそう思っていたんですが、内閣というところの偉い人たちが集まって相談した結果、定義できない、よくわからないというふうに決めたそうなんです」「なにツ、小さな子どもでも分かることがわからないって、しかも決めたというのかッ」「はい。そうなると、下川さんは普通の人ということになりますよね」「……」「定義しなければ、どんな人を指すかわからなくなるわけで、つまりは、そういう人はこの社会にはいないということになるのかなあ。あのお祭りの出店なんかで、客の真似をしてものを買う人のことをサクラと言ったりしますよね。ああいう人は反社じゃないんですよね」「ほんとに馬鹿だね、お前は。サクラに関わる人たちはみんな立派な功績のある人たちで、国が特別にお酒や食べ物やお土産をやって、もてなす、そういった人たちなんだぞ」「そうですか、じゃあ、山口県にはたくさん立派な人が住んでいるんですねえ」「そうじゃ、ねえか」*反社会的勢力:かつて内閣は定義していたが、つい最近定義しないと決めた。 (2019.12.10)

231)半ドン

Nくんは愛する妻と可愛い息子のために今朝も、右手にごみ袋を持ち、左手に鞄を持って職場へと向かう。大先輩の下やんは、ごみ袋を持つのは左手と決めているらしいが、そのわけはよく知らない。まあ、いずれにしても二人とも出勤時にはごみ袋を持たされるのである。下やんはよくカップラーメンを食べるので、ごみ袋の中には、いろいろな種類のカップ麺の残骸がひしめき合っている。ときどきNくんは下やんに「そんなにカップ麺ばかり食べていると体を壊しますよ」と助言する。カチンとくる下やんである。「オレが何を食おうとおまえには関係ないだろうが」「心配して言っているんですよ」「ありがとな。おまえも半チャンラーメンなんて中途半端なものばかり食べていると、人間が中途半端になるぞ。オレみたいに一筋の人生を送ってこそ、(高倉)健さんのような男の中の男になれるってもんだ」下やんは同じ福岡出身の高倉健にあこがれているのだ。ただ、高倉健がカップ麺ばかりを食べていたという話は聞いたことはない。二人の会話を聞いていると、日本の国会の予算委員会の質疑応答を聞いているような、終末感を覚えてしまう。「ところで先輩、半ライスや半チャーハンというのはあるのに、かつ丼や牛丼の半ドンというのはあまり聞かないんですけど、どうしてですか」「なにーッ、半ドンだと、えーッ、半ドンと言わないか、ええと、そういえばあんまり聞かないなあ、Nもたまには、キャデラックなことを言うじゃないか」「アカデミックじゃないですか、それ」 *半ドン=(半ドンタクの略)午後が休みの日。また、土曜日。(広辞苑第7版)*ドンタク=(zondag(オランダ)から)日曜日。転じて、休日。(2019.11.25)

230)元号

まじめなNくん、「令和」と決まった元号を大きな紙に筆ペンで書いてみた。「うん、いい字だ」と一人うなずく。下やんが訊く、「おまえの書いた字がうまく書けたという意味か、この新しい元号がいい字なのか、どっちだよ?」「どっちもですよ、もちろん」と返事をしながらうなずくNくん。Nくんは達筆なのだ。本人がそう云っているのだから間違いない、だろう。「ところでNよ、元号って何か知っているのか、そもそも」「えッ、そりゃあ明治、えーと、大正、昭和と続いている、あのォ、そのォ、……」「このォ、知らないで、いいとか何とか云っているのか、おまえは」「教えてくださいよ」「バカ云っちゃあいけないよ、キミーィ。オレがおまえに訊いたんじゃないか、知ってるはず、ないじゃないか」二人はわきで静かに聞いている、人生のキャリアが自慢のHHさんに視線を移す。感じたのか、HHさん、急いで立ち上がる。「さッ、新元号記念セールの買い物に行かなくちゃ、タイヘン、タイヘン」HHさんは今日、お買い物に行くついでに出勤したという雰囲気であった。今日は、夜食べるというおでんの材料を買うのだそうだ。おでんと元号、ますますわからなくなるNくんであった。*元号:起源は中国のようだ。統治者は空間(土地や人民)を支配すると同時に、時間をも支配するという思想に基づいている。その制定は統治者の特権とされ、その元号に従って生活するということは、統治者の支配に従うことを意味した。この歴史を考えると、民主主義国家・日本にふさわしいのかどうかと思ってしまうが、現代の日本人の多くにとっていったいどのような意味を持っているのかとさらに考え込むのである。(2019.04.01)

229)菓子

「ああ、満腹になったわァ。もうだめ、小食の私はもう限界だわァ」 と順子姫。食事の途中、明ちゃんのお皿にも順子姫のお箸は確かに伸びていたのだったが。「いやあ、食った、食った。久しぶりにこんなに食ったよ」 と下やん。昨夜もすき焼きをたらふく食べた後に、ラーメン屋に足を向けたのだったが。しゃれたイタリアレストランというよりは居酒屋での会話のようになっている。「じゃあ、このあたりで終わりとしようか」 と明ちゃん。もう眠くなってきたのだ。朝4時に起きて愛犬の散歩に出かける明ちゃんにとってはもう就寝の時間をとっくに過ぎている。「えッ、デザートじゃないの?」 と順子姫が夫をとがめる。「だって、満腹なんだろッ」 と明ちゃん、ムッとする。「別腹、別腹」 と明るく、姫。「ま、そういうことだよな、ベ・ツ・バ・ラ」 と下やん。「わかったよ、じゃあ何にするだよ、お菓子か?」 と明ちゃん。「ええーーーッ。デザートにお菓子って、オカシくない?」「うまい、うまい、順子姫。座布団ものだよ」 まったく、居酒屋のノリである。 *「菓子」について考えてみよう。例えば、イチゴのショートケーキはお菓子だろうか。メロンはお菓子だろうか。プリンはお菓子だろうか。いずれも疑問に感じる人が多いだろう。お菓子というと、煎餅(せんべい)や饅頭(まんじゅう)、チョコレートなどを思い浮かべるのではないか。実はこの「菓子」、もともと「果物(くだもの)」を意味していた。「菓子」の「菓」は「果物」の「果」と同じ意味である。「昔は多く果実であったが、今は多く米・小麦の粉、餅などに砂糖・餡(あん)などを加え、種々の形に作ったものをいう」(広辞苑)。(2018.08.31)

228)グレル

ワインを飲み続ける下やん。気のいい明ちゃんもつられてかなり飲んで、次第にろれつが回らなくなってきた。呆れた顔で二人を見る順子姫。実はこの明ちゃんの奥さんである順子姫が一番、ワインを飲んでいるのであるが、強いのだ。「それにしても、いろいろあったなあ、俺たちの人生」と下やん。どうしても昔話になるのだ、年を取ると。「そうだよねえ、先輩の下川さんが同級生の下川君になったしねえ」と明ちゃん。「余計なこと言うんじゃねえ。でも、オレたちはグレルこともなく、清く正しく美しく生きてきたよなあ」と下やん。「少なくともぼくはね」と明ちゃん。「わたしこそ、純粋で、可憐で、清楚な乙女のままだものねえ」と60代半ばの順子姫。姫もやはり酔っているようだ。「ところでさあ、そのグレルっていうことば、懐かしいなあ。もう死語じゃないの」と明ちゃん。「誰が、その死語だとか、死語でないとか、決めるんだよッ」と下やん。「そういえば、ナウいっていうのも死語だってさ」と明ちゃん。「いいのよ、若者の顔色を伺う必要なんてないのよ。だいたい若者言葉って下品じゃない? だから、私そういうことばってさあ、使わないことにしているの。そういうことばを遣う人って、チョー、ムカつくのよね」と姫。「……」「……」

*グレル=「わきみちへそれる。堕落する。非行化する」(広辞苑) この言葉、平安時代の宮中の女性たちの遊び、「貝合わせ」から生まれた。蛤(はまぐり)の貝の左右を合わせて遊ぶのだが、うまく合わないことを「はまぐり」ということばをひっくり返して「ぐりはま」というようになり、それが「ぐれはま」となって、「ぐれ」と略されることになる。世の中に合わない、外れたり、食い違ったりしている人間の意味となる。*

ぐれ=(「ぐれはま」の略)物事のくいちがうこと。ぐりはま。(広辞苑) (2018.08.19)

227)おいしい

明ちゃんと順子姫夫妻が招待してくれたイタリアレストランは神楽坂にあった。裏通りのひっそりとしたところに上品に佇(たたず)んでいた。そこにあの下やんが登場するのだから、何かが起こらないはずはない。下やんが着くと、やっぱり二人はもう来ていた。「ワリー、ワリー、いやあ、3分も遅れちゃったなあ」「20分遅れだけど」「えッ、あッ、またこの時計、止まってたんだ。ほんと困っちゃうんだよね」「今、何時? その時計で?」「720分」「ちゃんと合ってるじゃない」「あ、うん、この時計、止まっていた分をいつの間にか取り戻しちゃうんだよ、ほんと、どうなってるんだろうね、姫」「知りませんよ。持ち主と同じでちょっとおかしいんじゃないの」「いやあ、いきなり褒められると、照れちゃうなあ」「……」 下やんはメインに「Veal (仔牛)のカツレツ」を頼んだ。いわゆるミラネーゼである。明ちゃんと姫は「Osso buco (仔牛すね肉の煮込み)」を選んだ。ワイン通の明ちゃんがToscanaChianti Classico (フルボディ)を注文したのだが、下やんががぶ飲みして、一本がすぐ空になった。姫がOsso bucoの骨髄のところを小さなスプーンですくって食べる。恍惚の表情で一言、「おいしい」。明ちゃんの全身に鳥肌が立つ。「お前、骨までしゃぶられている気がしたんだろッ」と下やんが言う。「何言ってんだよッ、でも確かにこれはおいしいなあ」と明ちゃん。「おいしい、なんて女のことばを遣うとまずくなるじゃないかよ。うまいッ、というのがいいんだよ」と下やん。もうワインを6杯は飲んでいる。 * おいしい=「お+いし+い」から成っている。「いし」は漢字を当てれば「美」で、「よい。すばらしい。美味だ」の意味である。「い」は形容詞をつくる接尾辞、「お」は丁寧に言う美化語である。下やんの言うとおり、女房言葉として使われるようになったものである。 (2018.07.31)

226)あわよくば

あわよくば、ご馳走に与(あず)ろうとしたNくんとHHさんだったが、あっさりと断られた。下やんは新しいネクタイをしめて上機嫌で出かけていった。会計士の明ちゃんは奥さんの順子姫(よりこひめ)と約束の時間の10分前にレストランに入った。この二人は時間に厳しい。約束の時間に遅れたことはない。だから、遅れてくる人間が嫌いだ。下やんだって、そうだ。遅れた際の言訳アラカルトは手帳にびっしりと書いていて、いつでも使えるようになっている。この食事の風景は次号に回すとして、残されたあわよくばの二人である。「あのレストラン、行きたかったなあ」とNくんが云えば、「子牛のカツレツが食べたかったのよねえ、赤ワインで」とHHさん。「え、HHさん、行ったことがあるんですか、あのレストランに」「バカだねえ、あるはずないでしょ、ネットでいろいろと調べているのよ、いつチャンスが訪れるかしれないと」 二人はNくんが買ってきた缶ビールで乾杯して、成就しなかった「あわよくば」の苦さをかみしめるのであった。 *あわよくば=「うまくゆけば。間がよければ」(広辞苑) 「あわ」は古語の「あはひ」からで、「間」のこと。 (2018.07.20)

225)ご馳走

下やんは今日、親友の明ちゃん夫妻と会食である。明ちゃんは老舗の会計事務所の経営者である。下やんと明ちゃんは大学の先輩後輩の中であったが、思いやりのある下やんが足踏みをして、卒業は一緒にしたほど仲がいい。今夜は明ちゃんが高級なイタリアンのレストランを予約しているそうだ。「どうもオレは、あの西洋皿うどんが好きになれないんだよ、Nよ、おまえ好きか?」「いいんですかあ、ぼくもご一緒して? 一度行ってみたかったんですよねえ、あのレストラン。なに頼もうかなあ、ぼくは……」「おい、キミ、キミ、なに勘違いしてるんだよッ。誰が連れて行くっていったんだよッ」「えッ、違うんですか? 大丈夫ですよ、ぼく今夜は空けられますから、心配されなくても」「あの、あのねえ。今夜はオレが招待されてるんだよ。そのオレが招待されていない、それも大喰らいのお前なんかを連れて行けるはずがないだろッ」「そうですかあ、遠慮されなくてもいいのになあ」「遠慮、ということばの遣い方、変じゃないか?」「わかりました」「わかればいいんだよ」「明先生に電話してみます」「まったくわかってない!」「わたしでよければ、お供しますけれど……」 HHさんが下やんにウインクする。食欲が全くなくなった下やん、今日のご馳走にすまないなあと思うのだった。 *ご馳走/馳走=「馳走」はもともと「かけはしること。奔走」や「あれこれ走りまわって世話をすること」の意味がある(広辞苑)。つまり、そういった努力をして用意された豪華な料理をいうようになる。(2018.07.05)

224)二枚目

「あのう、Nくーん、ちょっと訊いていいかしら」とHHさんが話題に加わる。人生経験豊かな、というか長い間人生を送っているHHさんのことばに粘り気がある。Nくん、身構える。下やん、遠ざかる。「その人さあ、N君のお友達の、二枚目の、その人は今、どうしてるの?」「えッ、彼のことが、何か?」「いや、その、さあ、Nくんの奥さんにフラれてさ、ちょっとかわいそうだなって思ってさあ……。私が慰めてあげようかなって、お食事でも……」「あ、そういうことですか。やっぱりHHさん、優しいなあ。彼、どちらかというと年上の人が好みで、よくあの、ほら、老人ホームに行くボランティアなんかやっているので、喜ぶんじゃないかなあ」「……」「そりゃあ、いいよ。ぜひHHさんに紹介してやりなよ。へへへ」 といつの間にか話に戻ってきた下やん。「ところで、HHさん。よく二枚目とか三枚目などといいますが、何ですか、このことばの元々の意味は?」 さすが、ことばに敏感なNくん、興味を持ったようである。 *二枚目=「①若い色男の役を勤める俳優。②転じて、色男。美男。やさおとこ」(広辞苑)。上方歌舞伎の、芝居小屋前の姿絵八枚看板の二枚目に掲げられる若手の美男役者。三枚目は道化役者。そして、一枚目が、その歌舞伎の一番の人気役者であった。(2018.06.28)


223)一か八か

「ところで、Nよ」と下やんが話しかける。昨日餃子か焼き肉を食べたようで、ニンニクの匂いがきつい。「お前、どうしてあんなにきれいな奥さんと結婚できたんだ? 脅したのか?」「えッ、冗談じゃないですよ。何というか、自然の成り行きというか、相思相愛というか、ハハハ」「ハハハ、冗談云うと、その短い脚をもっと短く折りたたんでやるぞ」「ええッ、やですよ、先輩みたいになりたくないですよ、お尻にそのまま踵(かかと)がくっついているような、そんな姿には」「……」「ま、正直言うと、ああいう人と結婚出来たらいいなあ、とワインバーで見かけたときにぼくが思って、毎日そのバーにぼくが行って、彼女が現れるのをぼくが待って、一か八か、交際を申し込んだんです、ぼくの友達が。ええ、ぼくを出し抜いて」「何、なに。お前が申し込んだんじゃないのか。そうか、その男がお前よりもさらにブサイクで、で、その男の隣りに立っていたお前の方がちょっとはマシに見えたってことだな?」「いや、その男はものすごくハンサムで、背も高くて、カッコイイ男なんです。でも、彼女、どうしたわけか、西田敏行や武田鉄矢といった感じが好みで、それで運良くぼくを選んでくれたという、そういった具合で、エヘヘ……」「そうか、じゃあ、お前の奥さんはとびきりの変わり者ってことだな」「そういう点では、好みが先輩の奥さんと似ているってことで……」 *一か八か=「運を天にまかせて冒険すること」と広辞苑では説明する。この「一・八」をサイコロの「丁・半(ちょうはん)」のそれぞれの文字の頭の部分からとったとみるのである。丁:偶数、半:奇数。(2018.06.21)

222)駄目

やや不安なNくんである。1歳になる介利くんはとても可愛い。友人や知人に会わせると「まあ、可愛い、ママそっくね」「可愛いなあ、奥さんそっくりだね」と云ってくれる。「お、奥さんに似たのか、賢そうだね」とも言われる。そうなのだ、みんな妻に似ているとほめてくれるのだが、Nくんに似ているとは云ってくれない。確かに自分の子なのだが(たぶん)、どこか自分に似たところがないと少し不安なのだ、Nくんとしては。(そうか、きっと)と確かめてみた脚はスラッと長く、O脚ではない。脚も自分に似ていなかった。ところでこの介利くん、どんどん知恵がついてきて(たぶん、妻に似て)、動きが激しくなってきたという。そのため、奥さんが介利くんに「ダメッ、あぶないわよ」などと注意することが多くなってきた。「ダメッ、熱いわよッ」「ダメッ、落ちるわよッ」といった具合である。一昨日は「ダメッ、汚いわよッ」という妻の声に振り返ると、介利くんが自分に抱きつこうとしているところだった。すぐにその直後、「あ、間違った」と奥さんは引きつりながら笑ったのだそうだが。この話を聞いた大先輩の下やん、お昼に食べた焼魚定食の小骨が歯の間に挟まったらしく爪楊枝でシー、シーと必死で取ろうとしながら云うのだ。「お前、そんなこと気にしているのか、まだ初心者だなあ」「あ、それを言うなら、新婚さん、と云ってほしいんですけど」「どっちでもいいんだよッ、そんなことは。とにかくだな、奥さんの一言一言を気にしていたらお前、生きていけないよ。オレのような繊細な人間でも我慢して何十年も生きているんだから」「先輩は、いつから繊細になったんですか?」「うるせー。とにかくオレなんか、毎日、毎日、ダメ、ダメ、ダメでいじめられてるんだから。この前なんか、(愛犬の)ウメがうまそうなものを食べていたから、オレにもなんか食べるものはないか、と訊いたら、ダメッ、ときつく云われてさ、つい反射的にウメを真似て、お手、をしちゃったよ、ハハハ、ハアーッ、……」人生は切ないんだなあと、仕事に戻るNくんだった。 *だめ・駄目=元々は囲碁の世界のことばのようだ。陣取りの囲碁の闘いで、双方の境にあって、どちらの役にも立たないものというような意味合いらしい。そこから、役に立たないことやむだ、といった意味になり、してはいけないことと使われ方が広がっていく(「広辞苑」参考)。「駄」は「馬の背に荷物を<のせる>の意味に用いる」(白川静「常用字解」)。つまり、この文字は荷役用の馬から生まれたもので、乗馬用の馬と比べて、速くは走れず、形もスマートさに欠ける、というところから、「劣る」「つまらない」といった意味が生まれたのだろう。 (2018.06.14)

221)三行半

「で、結局、どうなったの? この間のオナラの件?」 だれにも負けない長い人生経験を誇るHHさん、仕事が一段落ついた暇つぶしにNくんに話しかける。真面目で誠実で脚の短いNくん、ちょっとムッとしたが、性格が良いので明るく応える。「あ、あれは、どうやらぼくの可愛い息子・介利くんの仕業だったようです。最近いろいろなものを食べるようになったので、ウンチも結構な匂いがするようになって、オナラと一緒に出ちゃったようなんですね、アハハ。第一、あんなにかわいくて美しい、若くてスタイルのいい、元スチュワーデスのぼくの奥さんが、オナラなんかするはずないじゃないですか、HHさんじゃあるまいし。うちの奥さん、今まで一度もオナラなんかしたことないって言ってましたよ、さすがだなあ」 この二人の会話を聞いていた下やんが言う、「大したもんだなあ、ウチの奴と大違いだなあ。ウチの奴なんか、オレがお茶でも入れてくれ、と頼むとオナラで返事しやがるんだぜ、ブブッと」「えッ、どういう意味ですか?」「いやよ、自分で入れて、という意味だよ」「では、わかりました、っていうときは?」「バカだな、お前。そういうことはないんだよ、絶対に」「へえー、ま、先輩と結婚するくらいだから、変わってるんでしょうね、いろいろと」「だから今度、サンギョウハンを突き付けてやろうと思ってんだよ」「なんですか、そのサンギョウハン、って?」「お前、サンギョウハンも知らないのか」 HHさん、この二人の会話に我慢がならなくなったのか、参戦する。「相手と別れるときに突き付ける離縁状のことよ、サンギョウハンと読むんではなくて、三行半と書いて、ミクダリハンと読むのよ」 「まあ、そうとも読むな」と下やん。「どうしてそんな文字であらわすんですか」とNくん、食べ物とことばにはすぐに興味を持つ。子どものころ、他の教科の成績が全部1だったのに国語だけが2だったことに誇りを持っているのだ。国語ができると思い込んでいる。「あ、もう、お昼休み終わっちゃったわ。自分で調べときなさいね」とHHさん。下やんも「そだねー」とイチゴを頬張りながら自分の机に戻っていった。 *三行半(みくだりはん):「(江戸時代、簡略に離婚事由と再婚許可文書とを3行半で書いていたからいう)夫から妻に出す離縁状の俗称。」(広辞苑) 妻から夫に出すということははじめから想定されていない。この「行」という文字は元々「くだり」と読むことができるのである。日本語の文の一行が上から下へと下っているからである。(2018.06.07)

220)腹ふくるるわざ

どうしたわけか、Nくんの食欲がない。ついこの間結婚して、手際のいいことに、ついこの間から数週間の後には赤ちゃんまで授かって、親子3人で幸せの絶頂のNくんであったはずなのだが。人生経験と年数を誇るHHさんが昼食後の腹ごなしに訊く、「Nくん、暖かくなったから、今年もまた水虫でもやってきたの?」 ムッとして顔をあげたNくんだったが、すぐに悲しそうな表情に変わり、今にも泣きだしそうである。オッ、まさに腹ごなしにはよさそうな話題かもしれないとHHさんが畳みかける。「ほらあ、私に話してみなさいよオ、いつだって適切かつ有益なアドヴァイスをしてあげてるじゃないのオ、タダで」 HHさんの顔は獲物をしっかりと捕まえた勝者の顔と化している。「実は、息子の介利と三人で夕飯を楽しく食べていた時に、プウアという音がしたんです。しばらくすると、なんとも強烈な匂いが漂ったんです」「そりゃ、Nくん、あなたが悪いよ、食事中にオナラは」「ぼくじゃないんです」「あ、奥さん、結構、臭いの?」「いやあ、それが臭くて。でも、ぼくは黙って我慢していたんです」「おッ、なかなか優しいところ、あるじゃない」「それが……」「なに、なに?」「パパ、お食事中はやめてよね、せっかくみんなで楽しくお食事しているんだから、と言われちゃって」「なんだ、やっぱり、あなたがやっちゃったの?」「違いますよ、違うんですが、……。これ以上こだわると、カミさんに悪いかなあと思ってぼくがしたことに……」「へえ、なかなかいいところあるじゃないの」「いつもそうなんです。何か都合の悪いことがあると、何となくぼくのせいになっちゃって。些細な事でも我慢しているうちに、たまってきちゃって。すると、食欲まで、なくなってきたんです。まあ、HHさんたちと違って、可愛いからいいんですけどね、美人だし、若いし、スタイルいいし、元スチュワーデスですし、……」 消化が悪くなったのか、HHさん、トイレに慌てて駆け込んだ。 *「おぼしきこといわぬは、腹ふくるるわざなり」とは兼好法師のことばである。「心に思っていることを言わずにため込んでいくと、精神的に追い込まれていく。精神が緊張状態に陥るのである。発話は適度になされるのがいいということである。適度に発散されていないと、ひどい場合はノイローゼになったりもする。夢の中で発散する場合もあり、フロイトはそれについて研究した。**長い間「歩く」を休んだ。いろいろな人から、お叱りを受けた。ただただ、筆者の怠惰によるものである。復活一号はことばそのものではなかったが、徐々にまた、Nくんを中心とした楽しいことばの世界をお届けしたい。(2018.05.31)

219)違(ちが)かった

Nくんがおよそ半年のアメリカ留学から戻ってきた。Nくんによれば、ニューヨークで心理言語学について学んできたそうだ。出かけて行ったときの服装とまったく同じ格好で現れたので(少し匂う)、HHさんなどはちょっと近くのコンビニに弁当を買いに行ってきたと錯覚をして、「またいつものから揚げ弁当なの?」と訊いたぐらいである。生きてきた歳月ではそんじょそこらの人間には負けないという自信のあるHHさんにしてそうだから、他のスタッフも「やあ、しばらく来てなかったっけ」という言葉をかけた程度なのだ。Nくんとしてはもっと歓迎してほしくてたまらないのだが、HHさんは顔の表面に神様が器用に何本も描いた線を隠そうと鏡とにらめっこしながら格闘している。Nくんがやや大きめの声で云う、「アメリカの英語というのはイギリスの英語とかなり違(ちが)かったので、最初麺を食べてしまって、いや面食らってしまって。イヤー、アハハ」 優しいHHさんが「ふーん、そう」と一言。そしてもう一言、「マクドナルドでハンバーガーを買うぐらいだったら、そんなに違わないんじゃないの?」 他のスタッフから一言、「えッ、すごーい、Nさん、ハンバーガーを買いに行ってたんですか、から揚げ弁当じゃなくて」 鼻毛を抜きながら下やんが、「可哀相じゃないか、なあNくん。どこにできたんだ? そのアメリカって、新しいハンバーガー屋は?」 今日は早退することに決めたNくんだった。 *最近、「違ってた」と云うべきところを「違(ちが)かった」と云う者たちが増えている。無論、間違いである。これはおそらく、形状や状態を表すイ形容詞の「おとなしい」とか「美しい」とかと同じように活用させているのだろうが、「違う」という語は動詞である。意味的に形容詞っぽいと感じてこのような云い方をするようになったのだろうが、美しくない。ところで「違う」と対立する「同じ」という語はもともと形容詞だったが、今は名詞や連体詞、副詞としての働きを持っている。(2016.09.29

218)さようなら

91」で「サヨナラ」について書いた。読み直してみて、間違っていたことに気付く。「サヨナラだけが人生だ」は太宰のことばではなく、井伏鱒二が、八世紀の詩人・干武陵の漢詩 「歓酒」を訳したものが出展だった。「勧君金屈巵(この盃を受けてくれ)/満酌不須辞(どうぞなみなみつがしておくれ)/花発多風雨(花に嵐のたとえもあるさ)/人生別離足(さよならだけが人生だ)」の結句である。別れに酒は似合う。しかしながら、一緒に飲み交わす者がいない場合の別れは、なんとも寂しい。また、別れがどのような種類の別れであるかも漂う情感が異なってこよう。ぼくの父が死ぬ前に、日本に帰国し見舞ったぼくに彼は、「これでお別れだ。さよならだ」と言った。病のため、もう自分は死ぬんだと悟っていた父は、静かにそれを迎え入れていたのだった。「さようならば(そうであるならば)」という「そうである」とはなんだったのだろう。深夜一人で酒を飲みながらぼくは、ふと思ったのだった。(2016.02.26)

217)ふて寝

今日、OM先生は機嫌が悪い。HHさん同様、人生のキャリアでは誰にも負けないOM先生、すこぶる今日は機嫌が悪いのである。昨日の夕食のときである。いつも通り、心優しい夫のウイリアムさんが腕によりをかけて食事を作ってくれた。ビーフシチューである。おいしかった。だが、よく見ると、ウイリアムさんのシチューには牛肉が多めに入っているではないか。カチンと来た。そういえば遊びに来ていた親戚の20代の女の子にもたくさんお肉が入っていた。20代が何だ、こちとら3倍は人生というものを生きているんだぞ、と言いたかったが、愛嬌のいいOM先生、彼女の前ではニコニコするだけだった。その分、彼女が帰った後に爆発するのだ。今朝になってもたくさん飼育している腹の虫が治まらない。ふて寝を決め込んだのである。ウイリアムさんはただただオロオロするばかりだった。この話を伝え聞いたNくん、「それは物好きな人がいるもんだなあ、議員の宮崎某とかというヤツじゃないの、相手は。ウイルアムさんがかわいそうだよねえ、不貞をはたらかれて」 どうやらNくん、「ふて寝」を「不貞寝」と思ったようである。 *ふて寝=「不貞寝」と当てる。「ふてくされて寝ること」(広辞苑)。よって、Nくんの勘違いも、とんでもない外れ方をしているわけではない。ところでこの「ふて」であるが、「棄(ふ)てる」からきていると思われる。やけくそ、自暴自棄ということだ。(2016.02.15)

(216)みみっちい

Nくんはとても心優しい青年である。テレビでシリア難民の子どもたちの窮状に接してからは、少しでも寄付をしたいと自分の生活を切り詰め、浮いたお金を貯めているのである。しかも、である。心優しい上にシャイな彼は、何のために節約しているのかを誰にも話していない。まず、お風呂に入るのは週1回に減らした。今までは週2回だったという。靴下や下着の洗濯の洗剤代を節約するために、これも1週間は同じものを身につけることにした。スタッフの仲間と会食をしなければならないときは、支払いちょっと前に気付かれないように帰るか、支払い時にはトイレに行って隠れているかという作戦を取ることにした。誰よりも長い年月を生きてきたというキャリアを誇るHHさんはどうも最近オフィスが臭いと感じていたが、Nくんからその匂いが発していることに気付いた。Nくんに問いただすと、「新しい男性用香水の匂いですよ、ハ、ハ、ハ」と云うのだった。人が飲んだ紅茶のティーバッグでもう一度、お茶を入れるNくんを見て、「みみっちいわねえ」と眉をひそめるHHさんだったが、Nくんの尊い精神を知ることはなかった。 *みみっちい=けち臭い。しみったれている。(広辞苑) けちにも臭いがあるようだ。ところで、この<みみっちい>ということばである。柳田国男によれば「メメシイ」の転ということだが(日本国語大辞典)、わかりにくい。「メメシイ」を辞書で引くと、その近くに「目目雑魚(めめじゃこ)」なるものが目に留まった。「めだかなどの小さい魚」のことをいうようだ。とすると、この「めめ」から「みみ」が生まれたと考え、「小さい」という意味が導き出される。うん、これでいいだろう。(2016.02.13)

(215)すぐおいしい、すごくおいしい

Nくんは今日もインスタントラーメンだ。お湯をかけて3分待つ。その待つ間に彼は必ず口ずさむのだった。「すぐおいしー、すごいおいしー」 まるでおまじないのような響きである。がしかし、どうもおかしい。彼は確かに「すごい」と云っている。これは「おいしい」を修飾しているのだから、「すごく」が正しい。ちょうど日本事務局を訪ねていたスモ女(相撲を病的に愛する女性をこういうのだそうだ)のOM先生が注意する。注意されたNくん、「すごいおいし―、のほうがずっとおいしそうじゃありませんか」と口ごたえする。ついさっきOM先生との再会を喜び、四つに組んでいた、いや抱き合っていた同じくスモ女のHHさんが「OM先生に口ごたえするなどもってのほかよ。変なこと云っていないで、いただいたりんごでもむきなさいッ」と命令する。「ぼくはサイセンタン恐怖症なので,包丁は持てないんですゥ」とNくん。ん? どうやら「尖端恐怖症」(尖った物が怖いという症状)と云いたかったらしい。恐るべきスモ女二人と口論しているうちにラーメンは伸びに伸びたのだった。*最近よく、「すごく」と云うべきところを「すごい」と云っているのを耳にする。強調する意識から、一旦そこで文を終えるような表現となっているのだろう。つまり、「すごい」と「おいしい」の間のわずかな間(ポーズ)があると考えたらいいだろう。いずれにしても、幼く、稚拙な言葉遣いで、「超おいしい」などというものと同じ類いである。(2016.02.05)

(214)<牛歩>と<したり顔>

戦後70年の節目に、ロンドンや中国等では日本に勝利したことを祝う式典が盛大に繰り広げられた。そしてこの年、日本もまた大きな転機を迎えた。いわゆる戦争法案が成立した。戦争をするための法案なのか、戦争をしなくてもよいための法案なのかといった論争はさておき、インターネットの国会中継をライブで視ていて、一人の青年の動きが目に留まった。かつて新聞配達の少年の歌を歌った歌手は山田太郎だったが、この青年の名は山本太郎。俳優としても結構活躍していたようだが、今は参議院議員。国会での彼の政府追求質問等を拾って視てみると実に面白い。人類史上初めて核爆弾を広島、長崎に投下した米国は戦争犯罪国であるとか、日本政府は米国の属国のように政策をコントロールされているとか、実に歯切れがいい。歯切れがいいとは、至極真っ当な論説で気持ちがよいということだ。テレビに映る周りの議員たちの表情がこれまた面白い。「タレント風情の素人議員になにが分かる。自分などは政治のプロだから、そんなイロハの質問なんかしないぞ」とあえて不思議な表情を、つまり馬鹿にしたような表情を作っている。しかしながら、つい引き込まれて笑ったり、肯いたりもするのだ、油断して。その太郎議員が採決の際、牛歩をやった。採決を遅らせるために、のろのろと歩く戦術で、実は広辞苑にだってちゃんと載っているし、かつて国会でも採られた方法なのだ。全ての野党議員がこの方法をとれば、大幅に採決は遅れただろうし、議長も太郎議員を苦々しく怒ったあの顔で叱責することはできなかっただろう。テレビ映りをいつも気にしているレンコンだったか、デンポウだったかそういった名前の野党の女性議員などは、あからさまに侮辱したような顔で太郎議員の横をすり抜けて投票を急いでいた。デモ隊の中に入って熱狂的に演説をしながら、実は醒めていたようで、彼女の本性を見たような気がした。品位を汚したと彼を侮辱する与野党の議員たちにぼくは、太郎議員を上回る品位といったものはまったく感じない。日常の発言、たとえば報道への圧力をかけろとか、女性蔑視の野次であるとか、あるいは国会議員だけでなく、自分の考えに沿わない者たちには中学生のワルたちが好んで使う汚いことばを使ってののしり続ける関西の市長など、太郎議員のそれと比べると気持ちの悪い後味が残る。インターネットに書き込みをしている者たちも滑稽だ。「品が無い」とか、「国会の品位を傷つける」とか、これらの批判のことばを読むと、まさに「天に向かって唾(つばき)す」である。彼らは滑稽というより病的で、哀れでさえある。ともあれ、いかにも自分はよく知っているとか、自分はプロだからといったような、いわゆる<したり顔>がぼくは嫌いだ。太郎議員の牛歩はそれがパフォーマンスであろうが、むしろ清々しかった。(2015.10.08)

(213)アタラシイインダヨ! グリーンダヨ!

日本出張中に地下鉄に乗った。地下鉄の中にはさまざまな広告があふれている。こういう広告を交通広告というのだそうだが、その一つである吊り広告が目に留まった。「麒麟淡麗」という発泡酒の「グリーンラベル」の広告である。「アタラシイインダヨ! グリーンダヨ!」 ああ、新発売なんだな、きっと。そう思って視線を外しかかったが、外れない。あれッ、「イ」が一つ多いぞ。「アタラシイ(新しい)」+「ンダヨ(のだよ)」であるから、「アタラシインダヨ」が正しいはずだ。隣に腰掛けて鼻ちょうちんを膨らませているNくんをひじでつついて起こし、そう云うと、「えッ、これから飲むんですかッ」とよだれをたらし始める。ようやく目覚めたNくん、「それはね、センセー、イを重ねた方がずーッと新しい感じがするじゃないですか、そこのところ、ヨロシクッ」と云うやまた、いびきをかき始めた。なるほど、間違った言葉遣いでも、視覚的に効力を発揮するんだな、広告コピーなどの場合は。かつて、「抜け始めてわかる、髪は長い友だち」なる養毛剤の広告が盛んにテレビから流れていた。「髪」という漢字を分解しての広告だったのだが、それ以降、「かみがしら」の部分を「長」と書く者たちが増えたのだった。(2015-06-17)

(212)粛々と

「ことば尻ばかりを捉えて」とナベ首相は露骨にいやな顔をするが、ことほどさように、一国の首相としては言語運用能力が極端に劣るのである。おそろしいほどに。「わが軍」発言は失言というのではなく、そのように呼称することがどのような重大な問題を孕んでいるのかがこの人の能力では分からないのだ。ゆえに、「もし会議を進める上で差し障りがあるのなら、遣わないようにする」と薄ら笑いを浮かべながらのたまうのである。貧しい知力や判断力で国益を損なう危険性があり、その上、反省する謙虚さの無い下品さを感じさせる。周りの者たちに諌め諭す人材がいないようだが、野党の情けなさも際立っている。さらに、メディアの体たらくは亡国の過去を彷彿とさせる。ジャーナリズムもジャーナリストも消え失せたようで、これからは新聞記者やテレビキャスターなどと聞いたら蔑むしかないだろう。O県に新しく作ろうという某国軍の基地に反対する県民の声をまったく無視して、「粛々と」基地建設を進めようというスス官房長官の論理もまた、汚臭さえ感じさせる。「世界一危険な基地」はナベやススたちの政党が作ったものであり、「新しい基地を作らせないと、この危険な基地をそのままにするぞ」というのは、まさに悪代官が百姓の娘を人質にとって年貢米を搾り取ろうという構図そのものである。O県知事が「粛々と、ということばを聞くたびに、県民の感情が逆撫でされる」と言ったが、この知事にはことばの力を感じ取る知性があるようだ。スス官房長官はさすがに青ざめ、「もうこのことばは遣わない」と約束した。ところがその数日後、ナベ首相が配慮なく遣った。そしてまたもや、何が悪いんだといった顔で、「じゃあ、もう遣わねえよ、それでいいんだろッ」という感じの答弁をした。「粛々と」ということばは、「慎み深く、静かに物事を行なう」という意味であるが、周りの意見や思いを無視して、勝手気ままに腕力でことをなすという意味に、愚かな政治家たちがしてしまったのである。下やんも、HHさんも、あのNくんもまた、国会中継を視ながら深いため息をつき、一言もことばを発しないのだった。(2015-04-10)

(211)この期に及んで

いやはや、某国政府はとんでもない暴君と化しつつあるようだ。こうなるとあの太宰のメロスが登場してもおかしくないほどである。ナベ首相とブンブン文科大臣の、子どもが聞いてもわかる詭弁(きべん)にびっくり仰天していたが、今度は内閣の要のスス官房長官が、ある県民の総意に対して、「この期に及んで何を言うか」と言い放ったのである。年貢米を無理やり取り立てたり、怖ろしい強制労働に民を駆り立てたりする悪代官さながらの物言いである。もっとも、民の味方だったはずの瓦版(かわらばん)も暴君の脅しに震え上がって、メディアとは到底いえない体たらくなのである。この激しい変化はやはり危険だ。〈短い脚は長い胴でバランスをとっているという前向きな論理の持ち主である〉Nくんが言う、「あのう、真面目な問題について語り合っておられる、この期に及んで申し訳ないのですが、焼芋屋さんが来ているようなので、どうでしょうか、ひとつ、休憩ということで……」「まったく、Nくんたら……。仕方ないわねえ、早く行かないと焼芋屋さん、行ってしまうわよ、わたし2本ね」と<人生のキャリアを誇る>日本事務局のHHさん。「お前たちはホントにどうしようもねえなあ、俺も2本でいいよ」と<美しい奥さんと優しい娘に殿様扱いをされている幸せな>下やんが加わる。昨夜は晩く帰ったので夕食が残されておらず、愛犬のウメの残りで済ませたらしい。「ちょっと臭った」というのが今朝の第一声だった。しばらくするとオフィスに、Nくんがあわてて買い込んできた焼芋のいい香りが広がる。熱いほうじ茶もいい。いや、まてよ、芋の香りのほかに何か強烈な匂いが漂い始めたぞ、とNくんが犬のようにクンクンと鼻を鳴らすと、「ま、あれだよ、この期に及んで、ちょっと、自然の摂理というか、その、……」と下やん。「下やん、下品でしょう、ホントに……」とNくん。「まあまあ、仕方ないわよ、この期に及んでとはいっても、ホホホ……」とHHさん。ん? そういえば、と2種類の異臭をかぎ分けたNくん、冷たいまなざしでHHさんを見つめるのであった。*「この期に及んで」ということばを権力者が高圧的に使うと、民主主義というものが薄らいでいくのではないかとため息を一つ。(2015-03-27)

(210)お車代

このコラムの読者も結構いるようで、前号を読んだたくさんの方々からメールをいただいた。NABE首相とはもしかしたらあの人のことで、ミンミン党とはあの政党のことではないかなどと。ついでに、こんなこともあったなどと、わざわざ材料を提供していただける方も何人かいた。その一つ。某国政府の文部科学省のブンブン大臣が今、国会でかなり追及されているのだという。政治団体ではない任意団体からのお金の流れに疑惑の目が注がれているらしい。大臣の名前を取ったブンブン会というらしいが、その会が主催する講演会で大臣は、「講演料やお車代は一切、もらってない」と答弁したが、「いや、私が直接渡した」と名乗り出る人がいたりして、なかなかのドラマが展開されているという。ミンミン党の議員が証拠を元に、「宿泊代や車代をもらっているのではないか」との追求に、「ホテル代は払ってもらっている。タクシー代も払ってもらっている。だが、私は一切もらっていない」との大臣の説明に、議場は一瞬固まった。どうやら自分は直接はお金をもらっていないという意味らしい。さらに、「いわゆるお車代はもらっていない」とも応えた。〈短い脚は長い胴でバランスをとっているという前向きな論理の持ち主である〉Nくんが頭を抱える。<人生のキャリアを誇る>日本事務局のHHさんに訊いた、「HHさん、タクシー代って、車代じゃないとこの大臣は言っているんだけれど、どういうこと?」「うーん、このブンブン大臣が云っている<いわゆるお車代>ってね、饅頭を入れた菓子折りのことよ」「えッ、車代って、饅頭代のことなの? 」「ほら、時代劇でさ、悪い代官なんかに、悪徳商人が菓子折りに入れた小判を持ってくる場面があるじゃない。あれよ」「ああ、そうか、車代といって賄賂を渡したりするということか。この大臣はそういうものはもらってないと言いたかったのか」「だから、車代とお車代は違うって話よ」「やっぱりHHさんは江戸時代から生きているだけあって、よく知っているなあ」「……」 *この話と同様に、「荷物」に「お」をつけた「お荷物」には、「(その組織・団体などで)役に立つことが無いため、やっかいな存在だと思われている者」(新明解国語辞典・第五版)という意味がある。この「お」には要注意というところか。それにしてもこのブンブン大臣、教育行政を、しかも道徳教育を推進しようというにはあまりにお粗末ではないか。これでは子どもたちは「ごめんなさい」とは絶対に言わなくなるぞ。(2015-03-13)

(209)イカン! 遺憾

ランチを食べるときはインターネットで日本のTV各局のニュースを視ることにしている。先日はいきなり、聞きなれた声が流れてきたので驚いた。画面を見るとなんと、<美しい奥さんと優しい娘に殿様扱いをされている幸せな>下やんが大写しで映っている。とうとう捕まったか、と思いきや、街頭インタビューで、流行りそうな「ライスミルク」についての感想を滔々(とうとう)と述べていた。しかしもっと驚いたのが、先日の、某国の国会の予算委員会でのNABE首相のことばである。その日の審議に先立つ会議で、野党のミンミン党の質問時に、質問内容とは関係ないヤジを、あろうことか大臣席から飛ばしたのである。後日、そのことについて追及されると、まったくのでたらめを云って弁解し、さらにミンミン党を攻撃した。その後日、でたらめがでたらめであると判明するや、謝罪を要求するミンミン党に対し、長ったらしい前書きの後に、「まことに遺憾である」とNABE首相は云ったのである。ミンミン党の議員は、もっと心を込めて謝罪せよと迫ったが、「わたしが云ったことは誤りであった。まことに遺憾である」と繰り返すだけであった。どうやらこのNABE首相、この<遺憾>ということばの意味を知らずに使っていると、繰り返される答弁を聞いているうちに分かった。その瞬間、ぼくの頬は紅潮した。恥ずかしい! 某国の首相ともあろうものが、自らの下劣なヤジや、それをごまかそうとして云ったでたらめについて謝罪すべきときに、自分以外の過ちについて感想や思いを述べる<遺憾>ということばを使って、胸を張っているのだ。ミンミン党の議員に渡されたメモ(広辞苑の<遺憾>についての説明)を読み上げられてさすがに気付いたか、しばらくして「申し訳ない」ということばを、しぶしぶ使ったのだ。某国政府の文部科学省は道徳を教科にして、国民の道徳感を育てようという考えのようだが、そしてこのNABE首相が率先してその旗を振っているが、その教科書にはいったいどのようなことが収められるのだろうか。自分の過ちが明確なものとなっても、できるだけ認めず、どんなでたらめや嘘を用いても相手を攻撃し、ごまかしてこそ賢人である、とでも書かれるのだろうか。ことばを教える教師たちにぼくはまず、一番大切なのは、「ありがとう」と「ごめんなさい」ということばをきちんといえる力ですと話している。この話を聞いた〈短い脚は長い胴でバランスをとっているという前向きな論理の持ち主である〉Nくんはめずらしく、真剣な顔をして「イカン、イカン」と憤るのだった。(2015-02-27)

(208)子ひつじ

腰痛が再発したFJ先生だったが食欲は衰えない。「今年はひつじ年だから、今夜はひつじを食べることにした」とメールで人生のキャリアを誇る日本事務局のHHさんにメールを送った。HHさんがそのことを話すと、「へえ、FJ先生、強い歯をしているんだなあ。Nはcowですき焼きをしたりと、ここの連中はたくましいよなあ」と下やんが鼻の穴の掃除をしながら驚いた。丸められたものが飛んでくるのを携帯電話で打ち落としながら、〈短い脚は長い胴でバランスをとっているという前向きな論理の持ち主である〉Nくんが、「ひつじって、かたいんですか?」と訊いた。「いやあ、おれは子ひつじ、つまりラム (lamb) しか食ったことがないから、わかんないけどね」「あ、そうか。lambって、子ひつじですよね」「FJ先生だって、そのくらいのことは分かってるわよ」と〈小学3年生までの漢字には自信を持つ〉HSさんが話に加わる。「子ひつじっていえば、なんとなく私のイメージね」とHHさんとともに〈ダイエットを諦めた太りすぎの男たちの裸体の絡み合い(相撲)を楽しむ〉OM先生が口を挟む。「さあて、仕事に戻るかあ」としらけた雰囲気を打ち消すように、下やんがキーボードをたたき始める。Nくん、このしらーッとした空気がなぜ生まれたのかが分からない。「どうしてOM先生は子ひつじのイメージなんですか?」「だって、わたしって、なんとなく、迷える子ひつじって感じでしょ?」「あ、そうか、よく道に迷うって、云ってましたよね」「……」 いつまでもおとそ気分の抜けない日本事務局であったが、英国本部では「子ひつじの肉にはジャムを塗って食べるのが本当の食べ方だ」という<毎日毎日、食パンにジャムを塗っただけのランチを貫く>MN先生のジャム礼賛が延々と続いていた。 *迷える子ひつじ=もともとは<神>に対する<人間>という意味だろうが、恋に悩んで、どうしたらよいかわからなくなっている者を形容して使うことも多い。100匹のひつじのうち一匹でも迷っていなくなったら、そのひつじを見捨てることなく探し出そう、とかいう意味合いで、信仰心を持たない者への伝道の意味もあるようだ。

(207)未・羊

「明けましておめでとうございます」と挨拶をしたとたん腰痛が再発したFJ先生は、正月を日本で迎えた。<毎日毎日、食パンにジャムを塗っただけのランチを貫く>MN先生もまた、神戸でお母さんの作ってくれたおせち料理に舌鼓を打った。「富士山はわが村の山だっぺ」と信じている山梨出身のMYさんは、お父さんの法事のために一足早く帰省した。〈短い脚は長い胴でバランスをとっているという前向きな論理の持ち主である〉Nくんは商店街のくじに当たり、ハワイ(アン)のCDをもらったので、それを聴きながら奈良の村で年を越した。人生の年輪を競うHHさんとOM先生はダイエットを諦めた太りすぎの男たちの裸体の絡み合い、いや相撲の力士の卵たちとちゃんこ鍋を楽しんだ。〈小学3年生までの漢字には自信を持つ〉HSさんは、「新年は4年生の漢字に挑戦する」といったresolution (決意)を日記に書いた。下やんは、正月そうそうテレビのインタビューに応えていた。新製品の「ライスミルク」についてのご高説を長々と、約7秒ほど述べていた。今年は未年である。ロンドンからスコットランドへ向かう快速電車に乗ると、車窓から数多くの羊の群れを見ることができる。羊はウシ科に属する哺乳類で、おとなしい性格であることから、オオカミと対照される。ぼくは、年末年始、全身をアルコールで殺菌することに務めた。今年もよろしくお願いします。(2015-01-06)

(206)男らしい・女らしい

<腰痛をこよなく愛して半世紀>のFJ先生は先日亡くなった高倉健のファンだったようだ。FJ先生が唯一好きな男優とのことだが、鶴田浩二が死んだときも同じことばを聞いた覚えがある。そしてまた、菅原文太の訃報を聞くとFJ先生は云った、文太以外に役者といえる俳優はいない、と。周りの者が腰痛になりそうになるほどの変わり身の速さというか、節操のなさなのである。<毎日毎日、食パンにジャムを塗っただけのランチを貫く>MN先生もまた、健さんファンだったようで、二人して健さんの「男らしさ」について語り合っている。「富士山はわが村の山だっぺ」と信じている山梨出身のMYさんは石坂浩二がイイと、まだ生きている役者の名前を出して話が混乱する。石坂浩二もうかうかできない。確かに偉大なる俳優であった健さん、その死はこちら英国でも報じられた。日本事務局の〈短い脚は長い胴でバランスをとっているという前向きな論理の持ち主である〉Nくんがこのことを聞いて、自分も健さんのように男らしくなろうと決意した。〈人生のキャリアでは誰にも負けない〉HHさんたちに「今日からぼくは、男らしくなる」と宣言したNくんであるが、どういうのが男らしいのかがよくわからない。まずは寡黙な方がいいようだと、〈小学3年生までの漢字には自信を持つ〉HSさんが話しかけても、「ああ」とか、「うん」とかしか云わないようにした。健さんはコーヒーをよく飲んでいたらしいと聞いて、インスタントコーヒーを10分おきに飲んだ。20分おきにトイレにも行ったが。次はどうすればいいだろうと考えて、健さんがやっていたという元妻の墓参りを欠かさずやることにしようと決意した。HHさんが訊いた、「Nくん、結婚したこともないよね? いったい誰の墓参りをするの?」 繊細なぼくの気持ちを分かろうとしない人生のベテランめ、と頭にきたNくんだったが、考えてみたら確かに墓参りしようにも、元妻自体の存在がないのだ。「HSさん? 最近ちょっと変な咳をしているよね? ぼくと結婚しない?」 「あなた、いったいなに考えてるのよッ」 Nくんは英国本部の腰痛先生やジャムパン先生は、あるいはあの<コキ、コキ>のOM先生は何歳だったっけと考えたが、まだまだくたばりそうにはないなあ、と残念がった。そして、ふと気付いたのだ。自分の周りの女性たちは果たして、「女らしい」といえるのだろうかと。そのことをつい口にしたNくん、10分後には、額を押さえながら、軟膏と絆創膏を買いに薬局まで走ることとなった。(2014-12-09)

(205)うざい

〈人生のキャリアでは誰にも負けない〉HHさんが風邪を引いた。〈短い脚は長い胴でバランスをとっているという前向きな論理の持ち主である〉Nくんがこっそり、「おにのはんらん」と囁いた。それを聞いた〈小学3年生までの漢字には自信を持つ〉HSさんが、「それをいうなら、おにのかくめい、でしょ」とNくんを馬鹿にした。「あッ、そうか、そうか」と納得するNくん。正しくは「鬼の霍乱(おにのかくらん)」である。その鬼が、いやHHさんが博多で相撲の観戦をしているときの話である。<毎晩、電子レンジで温めたデパ地下の弁当を食べながら、学生の手抜きの答案を採点して嘆くベテラン日本語教師>OM先生と二人で、「やっぱり、初代の若乃花や栃錦、若秩父の頃の相撲が面白かったわねえ」「その後出てきた大鵬や柏戸もよかったよねえ」と1960年から70年代にかけての話をしていると、隣にいた20代のカップルが顔を見合わせて、奇妙な笑いを浮かべた。それが気に障ったOM先生、「なによッ、なにがおかしいのよッ」とそのカップルに噛み付いた。その場にいたら、偉いッ、とほめてやりたい気風(きっぷ)のよさである。ところが、「うぜーんだよッ」とにらみつけた若い男のことばに二人は、黙り込んでしまったのだった。小さな声で、「うぜー、ってなに?」「いやあ、よくわからないわ、わたしも」「うざくって、うなぎの蒲焼の細切りと胡瓜のあえたものでしょ? あれ?」「いやあ、そうじゃないと思うけど。でも、うざく、おいしいよね」「うん、わたしも大好き」 いつの間にかカップルが消えてしまったのに、二人のベテランは気付かなかった。*うざい=「うざったい」「うざっかしい」「うざっこい」などから生み出された若者ことば。煩わしい、気味が悪い、いとわしい、じゃま、などの意に用いられているようだ。面と向かっていわれたことはないが、こういうことばを使う人間には近づきたくないし、絶対に友達などにはなりたくない。(2014-12-02)


(204)もの悲しい

博多で暮らすOM先生は、日本語教師歴50年には達するのではないかというベテランである。研究所講師陣の一人である。小柄だがいつもすこぶる元気で、両の腕をぐるぐる回しながら常に健康管理に余念がない。もっとも、そのたびに、つまりOM先生が腕を回すたびに、肩の辺りから不思議な音が聞こえるのだった。コキ、コキ、コキ、古稀、古稀、……と。〈人生のキャリアでは誰にも負けない〉HHさんが男どもの裸体を見に、いや相撲の九州場所を楽しむために博多にやって来るときは、二人で世にも不思議な肩の音による合奏をして楽しんでいたりもする。HHさんに東京から同行し、二人のその姿を見た〈小学3年生までの漢字には自信を持つ〉HSさんはその夜、高熱が出てうなされたという。旦那さんの英国人紳士のウイリアムさんはとても優しい人で、それが災いしてOM先生と結婚する羽目になったらしい、と〈短い脚は長い胴でバランスをとっているという前向きな論理の持ち主である〉Nくんがこっそり、大きな声で多くの人に触れ回っている。OM先生は教育一筋に打ち込んできたので料理はしない。できないのではなく、しないのだそうだ。食べ物がなくて、やむをえないときは食パンにジャムを塗るだけの食事でごまかすが、その度に英国本部のMN先生のことが思い出されて、わたしも堕ちたものだともの悲しくなるのだった。ウイリアムさんはその代わり、大変な料理の達人で、ちょっとしたレストランの料理など足下にも及ばない。とはいえ、ウイリアムさんには数多くの姪や孫娘がロンドンにおり、彼女たちの世話をしなければならないからと、ロンドンと日本を行ったり来たりしている。ロンドンの若い女性たちにまで優しくお食事を作ってあげたり、贈り物をしたりするのは大変ですねえ、いっそのこと博多でOM先生と一緒に住まわれたらいいのにとNくんが提案すると、「とんでもなーーい」とOM先生に聞こえないように、ウイリアムさんはNくんの耳元で囁いた。*もの悲しい=なんとなく悲しい、という意味。はっきりとした悲しさではなく、少しずつ滲んでは消えるということが繰り返されるような悲しさである。この「もの」は接頭語で、名詞のモノということばが具体的なものを指さないように、たとえば食べモノといえば具体的なバナナやチョコレートといったものを指してはいないように、漠然とした意味を持つことから、「なんとなく」といった意味で「悲しい」気持ちをあやふやなものにしている。(2014-11-18)

(203)お寿司の味

日本出張から帰英する際の成田空港では、見送ってくれる下やんやNくんといつも、寿司屋のカウンターに並ぶ。いや、二人にとっては本当のところ、お寿司を食べに行くついでにぼくを見送ってくれるというべきか。帰英前夜も晩くまで最後のアポイントが入るため、その後の荷造りは大変で、一睡もしないで朝を迎えるということもまれではない。とにかく大量の荷物なのだ。早朝のリムジンで成田に向かう。荷物を預けた後は、少しだけ買い物を済ませると、二人に引きずられるように寿司屋に向かう。寿司屋の大将ももう顔なじみで、ぼくのことを「先生」と呼ぶ。大きな生ビールのジョッキが並ぶ。まだ朝なのだが。「HHさんやHSさんに申し訳ないなあ。ぼくたちだけこんな……」「いやあ、まったく気にしないでいいですよ。彼女たち確か、お寿司、あんまり好きじゃなかったと思いますよー、アハハ」 Nくんは朝から元気である。ジョッキが空になると、日本酒である。「センセー、体にはくれぐれも気をつけてくださいよー」というNくんのことばが白々しい。「そうだよ、センセー、飲み過ぎ、働き過ぎには注意しないと」という下やんの舌はすでにもつれ始めている。とはいえ、睡眠不足でくたくたの体になぜか、朝のお酒もお寿司も、実にうまいのである。Nくんはぼくが注文するモノと同じモノを食べることにしているようだ。ぼくが勧めるのをじっと待っている。「ちょっとは遠慮して、イカやタコ、あるいはネタなしの握りなんかにしなさいよッ」という英国本部のMN先生の厳しい忠告があり、自分からは決して注文しないことに決めている。下やんはコハダやシメサバ、アジといった光りモノを次から次へと注文する。ぼくの大好物なのだが、突然体質が変わり、ジンマシンが出るようになったため食べたくても食べられないといったことを知っての、髪の薄くなった老人特有のいじめなのだ。「やっぱり、寿司は光りモノだねえ」という独り言のようなことばをぼくに聞かせるために見送りに来ていると云ってもいい。屈折した優しさの持ち主である。ぼくは生の、つまりお湯を通して赤くなっていない活ホッキ貝が好きだ。Nくんもぼくに合わせて初めて食べたとき、そのおいしさをどのように表現したらよいのか、つまりは絶句した。「どうだ?」「いや、あの、これは、その、……」「コソア、指示詞しか云えないようだね。海の香りがするだろ?」「そ、そうです、海の香り、です」 おいしさをどう表現するかは結構難しい。いや、おいしさだけではない。喜びも、悲しみも、寂しさも、今の自分の気持ちを表そうとしたとき、ことばを失い、もどかしい思いを抱くことがある。中学生や高校生といった多感な子どもたちは特に、自分の気持ちをうまく表せなくて苛立ちを覚えているのではないか。にもかかわらず、仲間内で通用しやすい「うざい」とか、えーとなんというんだっけ、思い浮かばないが、とにかく若者ことばの既製品で間に合わせているのではないだろうか。かわいそうだな、と思う。かわいそうだよね。自分の思いや気持ちともっとじっくり向き合えよ、と云ってやりたい。自分だけのことばを見つけようともがいてみろよ。うまく表現できないからって、周りに八つ当たりするなんてできの悪い人間のやることなんだから。「センセー、どうしたんですか。考え込んじゃって」「いやいや、下やんやNくんはいいなあ、と思っていたんだよ」「いやあ。あのー、そろそろ、トロなんか召し上がってロンドンに戻られたらどうですか? 大トロなんかを? ぼくも同じで結構なんですが……」(2014-11-11)

(202)オッカムの消しゴム

Nくんは車の運転が好きだ。いつかは英国車であるジャガー(英語ではジャギュアーと発音するが)を買いたいと思っている。短い脚は長い胴でバランスをとっているという前向きな論理の持ち主であるNくんだからこそ持てる夢である。小学3年生までの漢字には自信を持ち、誤字は一日10個までといったつつましい決意を持っているHSさんがあこがれている青年がベンツ(英国ではむしろメルセデスというが)のスポーツカーを持っていると聞いて面白くない。ある日、その青年がオフィスを訪ねてきた。無論そのベンツに乗ってきたのだ、真っ赤な。たまたまHSさんは留守にしていた。近所のスーパーでひき割り納豆の安売りをやっていると聞いてあわててとんでいったのだった。しばらく待たせてくれとその青年は腰を下ろした。豊富な人生経験を誇るHHさんは重量感のある相撲取りが好きだが、この青年のようなスマートな男も好みのようだ。昨日訪ねてきた出版社の人にもらった「とらやの羊羹」を切って宇治の玉露とともに勧める。ついでにNくんにも切ってくれたが、どう見ても半分以下の薄さである。青年が突然、Nくんに訊いた、「君も、車、好きなの?」 なんと失礼な男だと思いながら、しかしイイ男には弱いNくん、「ええ、まあ」と応える。「なにを持っているの?」「えッ、……、まあ、……、ジャガー(のカタログ)を」「えッ、すごいね」「いや、まあ、大したことはないけど、ほんの(カタログだし)、……」 そこでHHさんが優しくフォローする、「何しろNくんのジャガーは折り畳みができるんだからねー」「えッ、じゃー、オープンカーなんだ。すごいね」 NくんがHHさんをにらむ。ベンツの自慢をしようと思っていたらしい青年は用事を思い出したと云って帰っていった。HSさんは戻ってくると留守にしていたことを悔しがった。NくんはあらためてHHさんが切ってくれた分厚い羊羹をおいしそうに頬張った。*この会話における〈車〉は明らかに本物の自動車であるから、心の中で断っていたとしてもカタログの自動車で対抗するのは、爽快だが反則。文法的に文としては成立しているが、あえて他の解釈をするこのような方法を「オッカムの消しゴム」に抵触しているといういいかたをする。オッカムは14世紀イギリスの哲学者。必要でない意味や機能を付け加えて解釈してはいけないとする考え方である。(2014-09-30)

(201)ダイグロシア

短い脚は長い胴でバランスをとっているという前向きな論理の持ち主であるNくんの出身地は奈良である。といっても、あの奈良公園のある奈良市ではない。ずーと離れた田舎である。だから東大寺や興福寺と聞いても、すぐには分からない。小学3年生までの漢字には自信を持つHSさんが「幸福寺」と書いても、間違っているとすぐに気付いたりはしない。とにかく、おおらかな大人物なのである。地元にいるときのNくんの自慢は東京のことばが話せることだったが、東京で暮らし始めてからは無性にふるさとのことばが懐かしい。どこで聞きかじったかNくん、上野駅に出かけてふるさとのことばを聞こうと一日過ごした。が、ふるさとのことばに出会うことはできなかった。それを聞いた人生のキャリアでは誰にも負けないHHさんが云う、「いつからさあ、奈良って北のほうに移っちゃったの?」 なにしろHHさんはちゃきちゃきの江戸っ子である。江戸時代からずっと生きていたのではないかとNくんが思うほど、HHさんは東京のことは何でも知っているのだ。子どもの頃は手毬や姉様ごっこなんかをして遊んだに違いない。涙を浮かべながらNくん、ふるさとの友だちに電話した、「あいさにわしとこへも遊びにきとくんなはれ(時々、私のところにも遊びに来てください)」 「いやさあ、ぼくも忙しくってね、なかなか時間がないんだよ。どうかしちゃったの?」 友だちの「ちゃった」が頭の中で反響し、Nくんは激しく電話を切った。とてもとても繊細なNくんなのである。突然、目の前にたい焼きが突き出された。「ほら、これでも食べて、元気を出してくんなはれ」 HHさんの差し入れである。幸せなNくんなのである。*日本の田舎では、東京方言などを上位言語、地域の方言を下位言語と位置づけていたりする。こういった状況を〈ダイグロシア (diglossia)〉というが、上下の意識など持つ必要はない。(2014-09-24)