研究所所長・図師照幸が、日本語の世界を伸びやかに、楽しく歩きます。日本語の文法や語彙・意味に関する豊かな視点がちりばめられています。







図師照幸の日本語を歩く  (216)みみっちい

(216)みみっちい


Nくんはとても心優しい青年である。テレビでシリア難民の子どもたちの窮状に接してからは、少しでも寄付をしたいと自分の生活を切り詰め、浮いたお金を貯めているのである。しかも、である。心優しい上にシャイな彼は、何のために節約しているのかを誰にも話していない。まず、お風呂に入るのは週1回に減らした。今までは週2回だったという。靴下や下着の洗濯の洗剤代を節約するために、これも1週間は同じものを身につけることにした。スタッフの仲間と会食をしなければならないときは、支払いちょっと前に気付かれないように帰るか、支払い時にはトイレに行って隠れているかという作戦を取ることにした。誰よりも長い年月を生きてきたというキャリアを誇るHHさんはどうも最近オフィスが臭いと感じていたが、Nくんからその匂いが発していることに気付いた。Nくんに問いただすと、「新しい男性用香水の匂いですよ、ハ、ハ、ハ」と云うのだった。人が飲んだ紅茶のティーバッグでもう一度、お茶を入れるNくんを見て、「みみっちいわねえ」と眉をひそめるHHさんだったが、Nくんの尊い精神を知ることはなかった。 *みみっちい=けち臭い。しみったれている。(広辞苑) けちにも臭いがあるようだ。ところで、この<みみっちい>ということばである。柳田国男によれば「メメシイ」の転ということだが(日本国語大辞典)、わかりにくい。「メメシイ」を辞書で引くと、その近くに「目目雑魚(めめじゃこ)」なるものが目に留まった。「めだかなどの小さい魚」のことをいうようだ。とすると、この「めめ」から「みみ」が生まれたと考え、「小さい」という意味が導き出される。うん、これでいいだろう。

(2016.02.13)


図師照幸の日本語を歩く  (215)すぐおいしい、すごくおいしい

(215)すぐおいしい、すごくおいしい


Nくんは今日もインスタントラーメンだ。お湯をかけて3分待つ。その待つ間に彼は必ず口ずさむのだった。「すぐおいしー、すごいおいしー」 まるでおまじないのような響きである。がしかし、どうもおかしい。彼は確かに「すごい」と云っている。これは「おいしい」を修飾しているのだから、「すごく」が正しい。ちょうど日本事務局を訪ねていたスモ女(相撲を病的に愛する女性をこういうのだそうだ)のOM先生が注意する。注意されたNくん、「すごいおいし―、のほうがずっとおいしそうじゃありませんか」と口ごたえする。ついさっきOM先生との再会を喜び、四つに組んでいた、いや抱き合っていた同じくスモ女のHHさんが「OM先生に口ごたえするなどもってのほかよ。変なこと云っていないで、いただいたりんごでもむきなさいッ」と命令する。「ぼくはサイセンタン恐怖症なので,包丁は持てないんですゥ」とNくん。ん? どうやら「尖端恐怖症」(尖った物が怖いという症状)と云いたかったらしい。恐るべきスモ女二人と口論しているうちにラーメンは伸びに伸びたのだった。*最近よく、「すごく」と云うべきところを「すごい」と云っているのを耳にする。強調する意識から、一旦そこで文を終えるような表現となっているのだろう。つまり、「すごい」と「おいしい」の間のわずかな間(ポーズ)があると考えたらいいだろう。いずれにしても、幼く、稚拙な言葉遣いで、「超おいしい」などというものと同じ類いである。

(2016.02.05)

図師照幸の日本語を歩く  (214)<牛歩>と<したり顔>

(214)<牛歩>と<したり顔>


戦後70年の節目に、ロンドンや中国等では日本に勝利したことを祝う式典が盛大に繰り広げられた。そしてこの年、日本もまた大きな転機を迎えた。いわゆる戦争法案が成立した。戦争をするための法案なのか、戦争をしなくてもよいための法案なのかといった論争はさておき、インターネットの国会中継をライブで視ていて、一人の青年の動きが目に留まった。かつて新聞配達の少年の歌を歌った歌手は山田太郎だったが、この青年の名は山本太郎。俳優としても結構活躍していたようだが、今は参議院議員。国会での彼の政府追求質問等を拾って視てみると実に面白い。人類史上初めて核爆弾を広島、長崎に投下した米国は戦争犯罪国であるとか、日本政府は米国の属国のように政策をコントロールされているとか、実に歯切れがいい。歯切れがいいとは、至極真っ当な論説で気持ちがよいということだ。テレビに映る周りの議員たちの表情がこれまた面白い。「タレント風情の素人議員になにが分かる。自分などは政治のプロだから、そんなイロハの質問なんかしないぞ」とあえて不思議な表情を、つまり馬鹿にしたような表情を作っている。しかしながら、つい引き込まれて笑ったり、肯いたりもするのだ、油断して。その太郎議員が採決の際、牛歩をやった。採決を遅らせるために、のろのろと歩く戦術で、実は広辞苑にだってちゃんと載っているし、かつて国会でも採られた方法なのだ。全ての野党議員がこの方法をとれば、大幅に採決は遅れただろうし、議長も太郎議員を苦々しく怒ったあの顔で叱責することはできなかっただろう。テレビ映りをいつも気にしているレンコンだったか、デンポウだったかそういった名前の野党の女性議員などは、あからさまに侮辱したような顔で太郎議員の横をすり抜けて投票を急いでいた。デモ隊の中に入って熱狂的に演説をしながら、実は醒めていたようで、彼女の本性を見たような気がした。品位を汚したと彼を侮辱する与野党の議員たちにぼくは、太郎議員を上回る品位といったものはまったく感じない。日常の発言、たとえば報道への圧力をかけろとか、女性蔑視の野次であるとか、あるいは国会議員だけでなく、自分の考えに沿わない者たちには中学生のワルたちが好んで使う汚いことばを使ってののしり続ける関西の市長など、太郎議員のそれと比べると気持ちの悪い後味が残る。インターネットに書き込みをしている者たちも滑稽だ。「品が無い」とか、「国会の品位を傷つける」とか、これらの批判のことばを読むと、まさに「天に向かって唾(つばき)す」である。彼らは滑稽というより病的で、哀れでさえある。ともあれ、いかにも自分はよく知っているとか、自分はプロだからといったような、いわゆる<したり顔>がぼくは嫌いだ。太郎議員の牛歩はそれがパフォーマンスであろうが、むしろ清々しかった。

(2015.10.08)


図師照幸の日本語を歩く  (213)アタラシイインダヨ! グリーンダヨ!

(213)アタラシイインダヨ! グリーンダヨ!


日本出張中に地下鉄に乗った。地下鉄の中にはさまざまな広告があふれている。こういう広告を交通広告というのだそうだが、その一つである吊り広告が目に留まった。「麒麟淡麗」という発泡酒の「グリーンラベル」の広告である。「アタラシイインダヨ! グリーンダヨ!」 ああ、新発売なんだな、きっと。そう思って視線を外しかかったが、外れない。あれッ、「イ」が一つ多いぞ。「アタラシイ(新しい)」+「ンダヨ(のだよ)」であるから、「アタラシインダヨ」が正しいはずだ。隣に腰掛けて鼻ちょうちんを膨らませているNくんをひじでつついて起こし、そう云うと、「えッ、これから飲むんですかッ」とよだれをたらし始める。ようやく目覚めたNくん、「それはね、センセー、イを重ねた方がずーッと新しい感じがするじゃないですか、そこのところ、ヨロシクッ」と云うやまた、いびきをかき始めた。なるほど、間違った言葉遣いでも、視覚的に効力を発揮するんだな、広告コピーなどの場合は。かつて、「抜け始めてわかる、髪は長い友だち」なる養毛剤の広告が盛んにテレビから流れていた。「髪」という漢字を分解しての広告だったのだが、それ以降、「かみがしら」の部分を「長」と書く者たちが増えたのだった。

(2015-06-17)


図師照幸の日本語を歩く (212)粛々と

(212)粛々と


「ことば尻ばかりを捉えて」とナベ首相は露骨にいやな顔をするが、ことほどさように、一国の首相としては言語運用能力が極端に劣るのである。おそろしいほどに。「わが軍」発言は失言というのではなく、そのように呼称することがどのような重大な問題を孕んでいるのかがこの人の能力では分からないのだ。ゆえに、「もし会議を進める上で差し障りがあるのなら、遣わないようにする」と薄ら笑いを浮かべながらのたまうのである。貧しい知力や判断力で国益を損なう危険性があり、その上、反省する謙虚さの無い下品さを感じさせる。周りの者たちに諌め諭す人材がいないようだが、野党の情けなさも際立っている。さらに、メディアの体たらくは亡国の過去を彷彿とさせる。ジャーナリズムもジャーナリストも消え失せたようで、これからは新聞記者やテレビキャスターなどと聞いたら蔑むしかないだろう。O県に新しく作ろうという某国軍の基地に反対する県民の声をまったく無視して、「粛々と」基地建設を進めようというスス官房長官の論理もまた、汚臭さえ感じさせる。「世界一危険な基地」はナベやススたちの政党が作ったものであり、「新しい基地を作らせないと、この危険な基地をそのままにするぞ」というのは、まさに悪代官が百姓の娘を人質にとって年貢米を搾り取ろうという構図そのものである。O県知事が「粛々と、ということばを聞くたびに、県民の感情が逆撫でされる」と言ったが、この知事にはことばの力を感じ取る知性があるようだ。スス官房長官はさすがに青ざめ、「もうこのことばは遣わない」と約束した。ところがその数日後、ナベ首相が配慮なく遣った。そしてまたもや、何が悪いんだといった顔で、「じゃあ、もう遣わねえよ、それでいいんだろッ」という感じの答弁をした。「粛々と」ということばは、「慎み深く、静かに物事を行なう」という意味であるが、周りの意見や思いを無視して、勝手気ままに腕力でことをなすという意味に、愚かな政治家たちがしてしまったのである。下やんも、HHさんも、あのNくんもまた、国会中継を視ながら深いため息をつき、一言もことばを発しないのだった。

(2015-04-10)

図師照幸の日本語を歩く (211)この期に及んで

(211)この期に及んで


いやはや、某国政府はとんでもない暴君と化しつつあるようだ。こうなるとあの太宰のメロスが登場してもおかしくないほどである。ナベ首相とブンブン文科大臣の、子どもが聞いてもわかる詭弁(きべん)にびっくり仰天していたが、今度は内閣の要のスス官房長官が、ある県民の総意に対して、「この期に及んで何を言うか」と言い放ったのである。年貢米を無理やり取り立てたり、怖ろしい強制労働に民を駆り立てたりする悪代官さながらの物言いである。もっとも、民の味方だったはずの瓦版(かわらばん)も暴君の脅しに震え上がって、メディアとは到底いえない体たらくなのである。この激しい変化はやはり危険だ。〈短い脚は長い胴でバランスをとっているという前向きな論理の持ち主である〉Nくんが言う、「あのう、真面目な問題について語り合っておられる、この期に及んで申し訳ないのですが、焼芋屋さんが来ているようなので、どうでしょうか、ひとつ、休憩ということで……」「まったく、Nくんたら……。仕方ないわねえ、早く行かないと焼芋屋さん、行ってしまうわよ、わたし2本ね」と<人生のキャリアを誇る>日本事務局のHHさん。「お前たちはホントにどうしようもねえなあ、俺も2本でいいよ」と<美しい奥さんと優しい娘に殿様扱いをされている幸せな>下やんが加わる。昨夜は晩く帰ったので夕食が残されておらず、愛犬のウメの残りで済ませたらしい。「ちょっと臭った」というのが今朝の第一声だった。しばらくするとオフィスに、Nくんがあわてて買い込んできた焼芋のいい香りが広がる。熱いほうじ茶もいい。いや、まてよ、芋の香りのほかに何か強烈な匂いが漂い始めたぞ、とNくんが犬のようにクンクンと鼻を鳴らすと、「ま、あれだよ、この期に及んで、ちょっと、自然の摂理というか、その、……」と下やん。「下やん、下品でしょう、ホントに……」とNくん。「まあまあ、仕方ないわよ、この期に及んでとはいっても、ホホホ……」とHHさん。ん? そういえば、と2種類の異臭をかぎ分けたNくん、冷たいまなざしでHHさんを見つめるのであった。*「この期に及んで」ということばを権力者が高圧的に使うと、民主主義というものが薄らいでいくのではないかとため息を一つ。

(2015-03-27)

図師照幸の日本語を歩く (210)お車代

(210)お車代


このコラムの読者も結構いるようで、前号を読んだたくさんの方々からメールをいただいた。NABE首相とはもしかしたらあの人のことで、ミンミン党とはあの政党のことではないかなどと。ついでに、こんなこともあったなどと、わざわざ材料を提供していただける方も何人かいた。その一つ。某国政府の文部科学省のブンブン大臣が今、国会でかなり追及されているのだという。政治団体ではない任意団体からのお金の流れに疑惑の目が注がれているらしい。大臣の名前を取ったブンブン会というらしいが、その会が主催する講演会で大臣は、「講演料やお車代は一切、もらってない」と答弁したが、「いや、私が直接渡した」と名乗り出る人がいたりして、なかなかのドラマが展開されているという。ミンミン党の議員が証拠を元に、「宿泊代や車代をもらっているのではないか」との追求に、「ホテル代は払ってもらっている。タクシー代も払ってもらっている。だが、私は一切もらっていない」との大臣の説明に、議場は一瞬固まった。どうやら自分は直接はお金をもらっていないという意味らしい。さらに、「いわゆるお車代はもらっていない」とも応えた。〈短い脚は長い胴でバランスをとっているという前向きな論理の持ち主である〉Nくんが頭を抱える。<人生のキャリアを誇る>日本事務局のHHさんに訊いた、「HHさん、タクシー代って、車代じゃないとこの大臣は言っているんだけれど、どういうこと?」「うーん、このブンブン大臣が云っている<いわゆるお車代>ってね、饅頭を入れた菓子折りのことよ」「えッ、車代って、饅頭代のことなの? 」「ほら、時代劇でさ、悪い代官なんかに、悪徳商人が菓子折りに入れた小判を持ってくる場面があるじゃない。あれよ」「ああ、そうか、車代といって賄賂を渡したりするということか。この大臣はそういうものはもらってないと言いたかったのか」「だから、車代とお車代は違うって話よ」「やっぱりHHさんは江戸時代から生きているだけあって、よく知っているなあ」「……」 *この話と同様に、「荷物」に「お」をつけた「お荷物」には、「(その組織・団体などで)役に立つことが無いため、やっかいな存在だと思われている者」(新明解国語辞典・第五版)という意味がある。この「お」には要注意というところか。それにしてもこのブンブン大臣、教育行政を、しかも道徳教育を推進しようというにはあまりにお粗末ではないか。これでは子どもたちは「ごめんなさい」とは絶対に言わなくなるぞ。

(2015-03-13)


図師照幸の日本語を歩く (209)イカン! 遺憾

(209)イカン! 遺憾


ランチを食べるときはインターネットで日本のTV各局のニュースを視ることにしている。先日はいきなり、聞きなれた声が流れてきたので驚いた。画面を見るとなんと、<美しい奥さんと優しい娘に殿様扱いをされている幸せな>下やんが大写しで映っている。とうとう捕まったか、と思いきや、街頭インタビューで、流行りそうな「ライスミルク」についての感想を滔々(とうとう)と述べていた。しかしもっと驚いたのが、先日の、某国の国会の予算委員会でのNABE首相のことばである。その日の審議に先立つ会議で、野党のミンミン党の質問時に、質問内容とは関係ないヤジを、あろうことか大臣席から飛ばしたのである。後日、そのことについて追及されると、まったくのでたらめを云って弁解し、さらにミンミン党を攻撃した。その後日、でたらめがでたらめであると判明するや、謝罪を要求するミンミン党に対し、長ったらしい前書きの後に、「まことに遺憾である」とNABE首相は云ったのである。ミンミン党の議員は、もっと心を込めて謝罪せよと迫ったが、「わたしが云ったことは誤りであった。まことに遺憾である」と繰り返すだけであった。どうやらこのNABE首相、この<遺憾>ということばの意味を知らずに使っていると、繰り返される答弁を聞いているうちに分かった。その瞬間、ぼくの頬は紅潮した。恥ずかしい! 某国の首相ともあろうものが、自らの下劣なヤジや、それをごまかそうとして云ったでたらめについて謝罪すべきときに、自分以外の過ちについて感想や思いを述べる<遺憾>ということばを使って、胸を張っているのだ。ミンミン党の議員に渡されたメモ(広辞苑の<遺憾>についての説明)を読み上げられてさすがに気付いたか、しばらくして「申し訳ない」ということばを、しぶしぶ使ったのだ。某国政府の文部科学省は道徳を教科にして、国民の道徳感を育てようという考えのようだが、そしてこのNABE首相が率先してその旗を振っているが、その教科書にはいったいどのようなことが収められるのだろうか。自分の過ちが明確なものとなっても、できるだけ認めず、どんなでたらめや嘘を用いても相手を攻撃し、ごまかしてこそ賢人である、とでも書かれるのだろうか。ことばを教える教師たちにぼくはまず、一番大切なのは、「ありがとう」と「ごめんなさい」ということばをきちんといえる力ですと話している。この話を聞いた〈短い脚は長い胴でバランスをとっているという前向きな論理の持ち主である〉Nくんはめずらしく、真剣な顔をして「イカン、イカン」と憤るのだった。

(2015-02-27)


図師照幸の日本語を歩く (208)子ひつじ

(208)子ひつじ


腰痛が再発したFJ先生だったが食欲は衰えない。「今年はひつじ年だから、今夜はひつじを食べることにした」とメールで人生のキャリアを誇る日本事務局のHHさんにメールを送った。HHさんがそのことを話すと、「へえ、FJ先生、強い歯をしているんだなあ。Nはcowですき焼きをしたりと、ここの連中はたくましいよなあ」と下やんが鼻の穴の掃除をしながら驚いた。丸められたものが飛んでくるのを携帯電話で打ち落としながら、〈短い脚は長い胴でバランスをとっているという前向きな論理の持ち主である〉Nくんが、「ひつじって、かたいんですか?」と訊いた。「いやあ、おれは子ひつじ、つまりラム (lamb) しか食ったことがないから、わかんないけどね」「あ、そうか。lambって、子ひつじですよね」「FJ先生だって、そのくらいのことは分かってるわよ」と〈小学3年生までの漢字には自信を持つ〉HSさんが話に加わる。「子ひつじっていえば、なんとなく私のイメージね」とHHさんとともに〈ダイエットを諦めた太りすぎの男たちの裸体の絡み合い(相撲)を楽しむ〉OM先生が口を挟む。「さあて、仕事に戻るかあ」としらけた雰囲気を打ち消すように、下やんがキーボードをたたき始める。Nくん、このしらーッとした空気がなぜ生まれたのかが分からない。「どうしてOM先生は子ひつじのイメージなんですか?」「だって、わたしって、なんとなく、迷える子ひつじって感じでしょ?」「あ、そうか、よく道に迷うって、云ってましたよね」「……」 いつまでもおとそ気分の抜けない日本事務局であったが、英国本部では「子ひつじの肉にはジャムを塗って食べるのが本当の食べ方だ」という<毎日毎日、食パンにジャムを塗っただけのランチを貫く>MN先生のジャム礼賛が延々と続いていた。 *迷える子ひつじ=もともとは<神>に対する<人間>という意味だろうが、恋に悩んで、どうしたらよいかわからなくなっている者を形容して使うことも多い。100匹のひつじのうち一匹でも迷っていなくなったら、そのひつじを見捨てることなく探し出そう、とかいう意味合いで、信仰心を持たない者への伝道の意味もあるようだ。



図師照幸の日本語を歩く (207)未・羊

(207)未・羊


「明けましておめでとうございます」と挨拶をしたとたん腰痛が再発したFJ先生は、正月を日本で迎えた。<毎日毎日、食パンにジャムを塗っただけのランチを貫く>MN先生もまた、神戸でお母さんの作ってくれたおせち料理に舌鼓を打った。「富士山はわが村の山だっぺ」と信じている山梨出身のMYさんは、お父さんの法事のために一足早く帰省した。〈短い脚は長い胴でバランスをとっているという前向きな論理の持ち主である〉Nくんは商店街のくじに当たり、ハワイ(アン)のCDをもらったので、それを聴きながら奈良の村で年を越した。人生の年輪を競うHHさんとOM先生はダイエットを諦めた太りすぎの男たちの裸体の絡み合い、いや相撲の力士の卵たちとちゃんこ鍋を楽しんだ。〈小学3年生までの漢字には自信を持つ〉HSさんは、「新年は4年生の漢字に挑戦する」といったresolution (決意)を日記に書いた。下やんは、正月そうそうテレビのインタビューに応えていた。新製品の「ライスミルク」についてのご高説を長々と、約7秒ほど述べていた。今年は未年である。ロンドンからスコットランドへ向かう快速電車に乗ると、車窓から数多くの羊の群れを見ることができる。羊はウシ科に属する哺乳類で、おとなしい性格であることから、オオカミと対照される。ぼくは、年末年始、全身をアルコールで殺菌することに務めた。今年もよろしくお願いします。

(2015-01-06)

図師照幸の日本語を歩く (206)男らしい・女らしい

(206)男らしい・女らしい


<腰痛をこよなく愛して半世紀>のFJ先生は先日亡くなった高倉健のファンだったようだ。FJ先生が唯一好きな男優とのことだが、鶴田浩二が死んだときも同じことばを聞いた覚えがある。そしてまた、菅原文太の訃報を聞くとFJ先生は云った、文太以外に役者といえる俳優はいない、と。周りの者が腰痛になりそうになるほどの変わり身の速さというか、節操のなさなのである。<毎日毎日、食パンにジャムを塗っただけのランチを貫く>MN先生もまた、健さんファンだったようで、二人して健さんの「男らしさ」について語り合っている。「富士山はわが村の山だっぺ」と信じている山梨出身のMYさんは石坂浩二がイイと、まだ生きている役者の名前を出して話が混乱する。石坂浩二もうかうかできない。確かに偉大なる俳優であった健さん、その死はこちら英国でも報じられた。日本事務局の〈短い脚は長い胴でバランスをとっているという前向きな論理の持ち主である〉Nくんがこのことを聞いて、自分も健さんのように男らしくなろうと決意した。〈人生のキャリアでは誰にも負けない〉HHさんたちに「今日からぼくは、男らしくなる」と宣言したNくんであるが、どういうのが男らしいのかがよくわからない。まずは寡黙な方がいいようだと、〈小学3年生までの漢字には自信を持つ〉HSさんが話しかけても、「ああ」とか、「うん」とかしか云わないようにした。健さんはコーヒーをよく飲んでいたらしいと聞いて、インスタントコーヒーを10分おきに飲んだ。20分おきにトイレにも行ったが。次はどうすればいいだろうと考えて、健さんがやっていたという元妻の墓参りを欠かさずやることにしようと決意した。HHさんが訊いた、「Nくん、結婚したこともないよね? いったい誰の墓参りをするの?」 繊細なぼくの気持ちを分かろうとしない人生のベテランめ、と頭にきたNくんだったが、考えてみたら確かに墓参りしようにも、元妻自体の存在がないのだ。「HSさん? 最近ちょっと変な咳をしているよね? ぼくと結婚しない?」 「あなた、いったいなに考えてるのよッ」 Nくんは英国本部の腰痛先生やジャムパン先生は、あるいはあの<コキ、コキ>のOM先生は何歳だったっけと考えたが、まだまだくたばりそうにはないなあ、と残念がった。そして、ふと気付いたのだ。自分の周りの女性たちは果たして、「女らしい」といえるのだろうかと。そのことをつい口にしたNくん、10分後には、額を押さえながら、軟膏と絆創膏を買いに薬局まで走ることとなった。

(2014-12-09)

図師照幸の日本語を歩く (205)うざい

(205)うざい


〈人生のキャリアでは誰にも負けない〉HHさんが風邪を引いた。〈短い脚は長い胴でバランスをとっているという前向きな論理の持ち主である〉Nくんがこっそり、「おにのはんらん」と囁いた。それを聞いた〈小学3年生までの漢字には自信を持つ〉HSさんが、「それをいうなら、おにのかくめい、でしょ」とNくんを馬鹿にした。「あッ、そうか、そうか」と納得するNくん。正しくは「鬼の霍乱(おにのかくらん)」である。その鬼が、いやHHさんが博多で相撲の観戦をしているときの話である。<毎晩、電子レンジで温めたデパ地下の弁当を食べながら、学生の手抜きの答案を採点して嘆くベテラン日本語教師>OM先生と二人で、「やっぱり、初代の若乃花や栃錦、若秩父の頃の相撲が面白かったわねえ」「その後出てきた大鵬や柏戸もよかったよねえ」と1960年から70年代にかけての話をしていると、隣にいた20代のカップルが顔を見合わせて、奇妙な笑いを浮かべた。それが気に障ったOM先生、「なによッ、なにがおかしいのよッ」とそのカップルに噛み付いた。その場にいたら、偉いッ、とほめてやりたい気風(きっぷ)のよさである。ところが、「うぜーんだよッ」とにらみつけた若い男のことばに二人は、黙り込んでしまったのだった。小さな声で、「うぜー、ってなに?」「いやあ、よくわからないわ、わたしも」「うざくって、うなぎの蒲焼の細切りと胡瓜のあえたものでしょ? あれ?」「いやあ、そうじゃないと思うけど。でも、うざく、おいしいよね」「うん、わたしも大好き」 いつの間にかカップルが消えてしまったのに、二人のベテランは気付かなかった。*うざい=「うざったい」「うざっかしい」「うざっこい」などから生み出された若者ことば。煩わしい、気味が悪い、いとわしい、じゃま、などの意に用いられているようだ。面と向かっていわれたことはないが、こういうことばを使う人間には近づきたくないし、絶対に友達などにはなりたくない。

(2014-12-02)


図師照幸の日本語を歩く (204)もの悲しい

(204)もの悲しい


博多で暮らすOM先生は、日本語教師歴50年には達するのではないかというベテランである。研究所講師陣の一人である。小柄だがいつもすこぶる元気で、両の腕をぐるぐる回しながら常に健康管理に余念がない。もっとも、そのたびに、つまりOM先生が腕を回すたびに、肩の辺りから不思議な音が聞こえるのだった。コキ、コキ、コキ、古稀、古稀、……と。〈人生のキャリアでは誰にも負けない〉HHさんが男どもの裸体を見に、いや相撲の九州場所を楽しむために博多にやって来るときは、二人で世にも不思議な肩の音による合奏をして楽しんでいたりもする。HHさんに東京から同行し、二人のその姿を見た〈小学3年生までの漢字には自信を持つ〉HSさんはその夜、高熱が出てうなされたという。旦那さんの英国人紳士のウイリアムさんはとても優しい人で、それが災いしてOM先生と結婚する羽目になったらしい、と〈短い脚は長い胴でバランスをとっているという前向きな論理の持ち主である〉Nくんがこっそり、大きな声で多くの人に触れ回っている。OM先生は教育一筋に打ち込んできたので料理はしない。できないのではなく、しないのだそうだ。食べ物がなくて、やむをえないときは食パンにジャムを塗るだけの食事でごまかすが、その度に英国本部のMN先生のことが思い出されて、わたしも堕ちたものだともの悲しくなるのだった。ウイリアムさんはその代わり、大変な料理の達人で、ちょっとしたレストランの料理など足下にも及ばない。とはいえ、ウイリアムさんには数多くの姪や孫娘がロンドンにおり、彼女たちの世話をしなければならないからと、ロンドンと日本を行ったり来たりしている。ロンドンの若い女性たちにまで優しくお食事を作ってあげたり、贈り物をしたりするのは大変ですねえ、いっそのこと博多でOM先生と一緒に住まわれたらいいのにとNくんが提案すると、「とんでもなーーい」とOM先生に聞こえないように、ウイリアムさんはNくんの耳元で囁いた。*もの悲しい=なんとなく悲しい、という意味。はっきりとした悲しさではなく、少しずつ滲んでは消えるということが繰り返されるような悲しさである。この「もの」は接頭語で、名詞のモノということばが具体的なものを指さないように、たとえば食べモノといえば具体的なバナナやチョコレートといったものを指してはいないように、漠然とした意味を持つことから、「なんとなく」といった意味で「悲しい」気持ちをあやふやなものにしている。

(2014-11-18)


図師照幸の日本語を歩く (203)お寿司の味

(203)お寿司の味


日本出張から帰英する際の成田空港では、見送ってくれる下やんやNくんといつも、寿司屋のカウンターに並ぶ。いや、二人にとっては本当のところ、お寿司を食べに行くついでにぼくを見送ってくれるというべきか。帰英前夜も晩くまで最後のアポイントが入るため、その後の荷造りは大変で、一睡もしないで朝を迎えるということもまれではない。とにかく大量の荷物なのだ。早朝のリムジンで成田に向かう。荷物を預けた後は、少しだけ買い物を済ませると、二人に引きずられるように寿司屋に向かう。寿司屋の大将ももう顔なじみで、ぼくのことを「先生」と呼ぶ。大きな生ビールのジョッキが並ぶ。まだ朝なのだが。「HHさんやHSさんに申し訳ないなあ。ぼくたちだけこんな……」「いやあ、まったく気にしないでいいですよ。彼女たち確か、お寿司、あんまり好きじゃなかったと思いますよー、アハハ」 Nくんは朝から元気である。ジョッキが空になると、日本酒である。「センセー、体にはくれぐれも気をつけてくださいよー」というNくんのことばが白々しい。「そうだよ、センセー、飲み過ぎ、働き過ぎには注意しないと」という下やんの舌はすでにもつれ始めている。とはいえ、睡眠不足でくたくたの体になぜか、朝のお酒もお寿司も、実にうまいのである。Nくんはぼくが注文するモノと同じモノを食べることにしているようだ。ぼくが勧めるのをじっと待っている。「ちょっとは遠慮して、イカやタコ、あるいはネタなしの握りなんかにしなさいよッ」という英国本部のMN先生の厳しい忠告があり、自分からは決して注文しないことに決めている。下やんはコハダやシメサバ、アジといった光りモノを次から次へと注文する。ぼくの大好物なのだが、突然体質が変わり、ジンマシンが出るようになったため食べたくても食べられないといったことを知っての、髪の薄くなった老人特有のいじめなのだ。「やっぱり、寿司は光りモノだねえ」という独り言のようなことばをぼくに聞かせるために見送りに来ていると云ってもいい。屈折した優しさの持ち主である。ぼくは生の、つまりお湯を通して赤くなっていない活ホッキ貝が好きだ。Nくんもぼくに合わせて初めて食べたとき、そのおいしさをどのように表現したらよいのか、つまりは絶句した。「どうだ?」「いや、あの、これは、その、……」「コソア、指示詞しか云えないようだね。海の香りがするだろ?」「そ、そうです、海の香り、です」 おいしさをどう表現するかは結構難しい。いや、おいしさだけではない。喜びも、悲しみも、寂しさも、今の自分の気持ちを表そうとしたとき、ことばを失い、もどかしい思いを抱くことがある。中学生や高校生といった多感な子どもたちは特に、自分の気持ちをうまく表せなくて苛立ちを覚えているのではないか。にもかかわらず、仲間内で通用しやすい「うざい」とか、えーとなんというんだっけ、思い浮かばないが、とにかく若者ことばの既製品で間に合わせているのではないだろうか。かわいそうだな、と思う。かわいそうだよね。自分の思いや気持ちともっとじっくり向き合えよ、と云ってやりたい。自分だけのことばを見つけようともがいてみろよ。うまく表現できないからって、周りに八つ当たりするなんてできの悪い人間のやることなんだから。「センセー、どうしたんですか。考え込んじゃって」「いやいや、下やんやNくんはいいなあ、と思っていたんだよ」「いやあ。あのー、そろそろ、トロなんか召し上がってロンドンに戻られたらどうですか? 大トロなんかを? ぼくも同じで結構なんですが……」

(2014-11-11)


図師照幸の日本語を歩く (202)オッカムの消しゴム

(202)オッカムの消しゴム


Nくんは車の運転が好きだ。いつかは英国車であるジャガー(英語ではジャギュアーと発音するが)を買いたいと思っている。短い脚は長い胴でバランスをとっているという前向きな論理の持ち主であるNくんだからこそ持てる夢である。小学3年生までの漢字には自信を持ち、誤字は一日10個までといったつつましい決意を持っているHSさんがあこがれている青年がベンツ(英国ではむしろメルセデスというが)のスポーツカーを持っていると聞いて面白くない。ある日、その青年がオフィスを訪ねてきた。無論そのベンツに乗ってきたのだ、真っ赤な。たまたまHSさんは留守にしていた。近所のスーパーでひき割り納豆の安売りをやっていると聞いてあわててとんでいったのだった。しばらく待たせてくれとその青年は腰を下ろした。豊富な人生経験を誇るHHさんは重量感のある相撲取りが好きだが、この青年のようなスマートな男も好みのようだ。昨日訪ねてきた出版社の人にもらった「とらやの羊羹」を切って宇治の玉露とともに勧める。ついでにNくんにも切ってくれたが、どう見ても半分以下の薄さである。青年が突然、Nくんに訊いた、「君も、車、好きなの?」 なんと失礼な男だと思いながら、しかしイイ男には弱いNくん、「ええ、まあ」と応える。「なにを持っているの?」「えッ、……、まあ、……、ジャガー(のカタログ)を」「えッ、すごいね」「いや、まあ、大したことはないけど、ほんの(カタログだし)、……」 そこでHHさんが優しくフォローする、「何しろNくんのジャガーは折り畳みができるんだからねー」「えッ、じゃー、オープンカーなんだ。すごいね」 NくんがHHさんをにらむ。ベンツの自慢をしようと思っていたらしい青年は用事を思い出したと云って帰っていった。HSさんは戻ってくると留守にしていたことを悔しがった。NくんはあらためてHHさんが切ってくれた分厚い羊羹をおいしそうに頬張った。*この会話における〈車〉は明らかに本物の自動車であるから、心の中で断っていたとしてもカタログの自動車で対抗するのは、爽快だが反則。文法的に文としては成立しているが、あえて他の解釈をするこのような方法を「オッカムの消しゴム」に抵触しているといういいかたをする。オッカムは14世紀イギリスの哲学者。必要でない意味や機能を付け加えて解釈してはいけないとする考え方である。

(2014-09-30)

図師照幸の日本語を歩く (201)ダイグロシア

(201)ダイグロシア


短い脚は長い胴でバランスをとっているという前向きな論理の持ち主であるNくんの出身地は奈良である。といっても、あの奈良公園のある奈良市ではない。ずーと離れた田舎である。だから東大寺や興福寺と聞いても、すぐには分からない。小学3年生までの漢字には自信を持つHSさんが「幸福寺」と書いても、間違っているとすぐに気付いたりはしない。とにかく、おおらかな大人物なのである。地元にいるときのNくんの自慢は東京のことばが話せることだったが、東京で暮らし始めてからは無性にふるさとのことばが懐かしい。どこで聞きかじったかNくん、上野駅に出かけてふるさとのことばを聞こうと一日過ごした。が、ふるさとのことばに出会うことはできなかった。それを聞いた人生のキャリアでは誰にも負けないHHさんが云う、「いつからさあ、奈良って北のほうに移っちゃったの?」 なにしろHHさんはちゃきちゃきの江戸っ子である。江戸時代からずっと生きていたのではないかとNくんが思うほど、HHさんは東京のことは何でも知っているのだ。子どもの頃は手毬や姉様ごっこなんかをして遊んだに違いない。涙を浮かべながらNくん、ふるさとの友だちに電話した、「あいさにわしとこへも遊びにきとくんなはれ(時々、私のところにも遊びに来てください)」 「いやさあ、ぼくも忙しくってね、なかなか時間がないんだよ。どうかしちゃったの?」 友だちの「ちゃった」が頭の中で反響し、Nくんは激しく電話を切った。とてもとても繊細なNくんなのである。突然、目の前にたい焼きが突き出された。「ほら、これでも食べて、元気を出してくんなはれ」 HHさんの差し入れである。幸せなNくんなのである。*日本の田舎では、東京方言などを上位言語、地域の方言を下位言語と位置づけていたりする。こういった状況を〈ダイグロシア (diglossia)〉というが、上下の意識など持つ必要はない。


(2014-09-24)

所長室からのメッセージ集

図師照幸の日本語を歩く

j0430553.jpg研究所所長・図師照幸が、日本語の世界を伸びやかに、楽しく歩きます。日本語の文法や語彙・意味に関する豊かな視点がちりばめられています。

濫觴

j0401237[1].jpg英国国際教育研究所で学ぶ皆さんへのささやかな、けれども真摯なメッセージとなって、教育や学問の世界での新しい宇宙を創造しようとする皆さんの磁場となるように創刊されたものです。

検証 教育問題への提言

kensho.gif教育に関わるさまざまな問題について、研究所所長・図師照幸が徹底的に分析し、斬新かつグローバルな視点から提言します。

大きな地球 フロントポエム

uta1.gif読者から送られてきた写真の世界を、詩人・図師照幸がまったく独自の想像力と創造力によってあたたかい言葉の世界に置き換えていきます。